京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

左京区

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今回は、左京区大原で最も知られている神社、江文神社(えふみじんじゃ)を採り上げます。

左京区の静市と大原の境界には、標高五百七十三メートルの金毘羅山(かつては江文山と呼ばれていました)が聳え立っています。クライミングの練習場としても知られるこの山の南東の山裾にひっそりと佇んでいる神社が江文神社(京都市左京区大原野村町)です。
山裾の神社らしく境内は自然林に溶け込んで広がりますが、本殿は山間の郷社にしては立派で、江文のスギといわれる杉の大木等に囲まれ、周囲に厳かな雰囲気をもたらしています。


さて、江分神社は、中央の正殿に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)、右殿に級長津彦神(しなつひこのかみ)、左殿に軻過突智神(かぐつちのかみ)を祀っています。倉稲魂神は、稲荷神として知られる穀霊神、級長津彦神は風・水の神、軻遇突智神は火の神で、合わせて豊饒・衣服・生産の神として広く崇敬されてきたということです。(また、末社が三社ありますが祭神は不明です。)

江文神社の創建年代は不詳ですが、大原八ヶ町の産土神として古くから崇敬されてきた神社で、元々は、背後に聳えている江文山(現在の金毘羅山) の頂上の朝日の一番早く登る場所に祀られていた神々を、平安時代の後期に、住人達が山裾の現在地に社殿を創建して鎮座させたと伝えられています・・元々は、江文山(現金毘羅山)を御神体としていたことを伺わせます。

また、この江文山(現金毘羅山)を御神体とする伝承に関連しているのが、「山州名跡志」や「都名所図会」に記される江文山(現在の金毘羅山)についての記述です。
「山州名跡志」は、古くから江文山(現金毘羅山)山頂に火壺、風壺、雨壺という自然に出来た三穴で石の蓋がある石壷があって、鎮風祈雨の信仰からこの三壷の前で読経修業したとし、地元住民には魔所として怖れられていたと記しています。また、 「都名所図会」にも江文神社の図会中に、山上に塔形の風壺を中央に、左右に火壷、雨壺の絵を画いていて、山上の三壷が神社の奥の院的な意味を持っていたことを示しています。
江文神社の風・水・火を司る祭神や創建伝承との関連が興味深く、一説では、これら神社の創建当初の祭神にして三壷神は、自然崇拝の太陽信仰から天之御中主神(あめにみなかぬしのかみ)・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かみむすびのかみ)の造化三神とも考えられています。ただ、現在の神社が倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を主祭神としていることとの関連は不明で、他の全国の神社と同様、時代を経て農耕神を主祭神としていったのかもしれません。

また、「山州名跡志」は、神社名を「江文明神社」とし、大原井出村の西南の山下平林中に倉稲魂神(うかのみたまのかみ)を祀っていて、大原郷人の産土神であり、例祭は三月三日で、二基の神輿がありと記します。また、「都名所図会」には、小川に架かる石橋や鳥居、石段と拝殿・本殿等、現在とほとんど変わらない境内の様子が画かれていますが、当時は、三体の本殿に江文大明神を祀り、その右に本蔵、左に宝形造の本地堂があったようで、神仏混交だったことが伺えます。


そして、江文神社は「大原雑魚寝」でも知られています。
「大原雑魚寝」は、節分の夜に、大原の里の老若男女が江文神社の拝殿に参籠した風習です。
井原西鶴の「好色一代男」にも滑稽に面白く描かれているように、かつては、節分の夜通しの参籠は男女の雑魚寝の場でもあり、暗闇の中での男女の行為が公然化していて、これを縁に結ばれる者もいたということです。しかし、男女が灯りを消した一ヶ所に集まるのは風紀上良くないとして、明治には廃止されたと伝えられています。現在の静かな境内の雰囲気からは想像出来ませんが、神社の拝殿(現在のものは老朽化して立ち入り禁止中)は、里人の年に一度の愛欲の場でもあったのでしょう。
また、元々「大原雑魚寝」は、近くの村の大淵という池に大蛇が棲んでいて、度々里に出て村人を襲ったので、一ヶ所に集まって難を逃れたのが始まりとも伝えられています。


また、毎年九月一日には「八朔祭」が行われ、午後の神事の後、夜は境内で、「大原八朔踊(おおはらはっさくおどり)」が行われます。
 京都市登録無形民俗文化財に登録されているこの踊りは、江文神社に伝わる宮座行事として行われるもので、神社に豊作を感謝し踊りを奉納するものです。夜七時ごろ、大原八ヶ町の青年団を中心に町名を記した提灯を掲げて神社境内に集合し、宮座に加入間もない青年(長男は十五歳、次男以下は十七歳)達を中心に、絣の着物、菅笠姿で(女性は大原女衣装)、楽器を一切用いない独特の「道念(どうねん)」と呼ばれる音頭に合わせ、輪になって踊ります。また、江戸時代は三月三日だったという例祭(江文祭)は、現在は五月四日に行われます。

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京都市左京区静市静原町にある静原神社(しずはらじんじゃ)を採り上げます。

静市地域の観光名所といえば、小町寺(補陀洛寺)程度しか無いために、今回の静原神社も余り知られていませんが、例えば、貴船の貴船神社、鞍馬の由岐神社、大原の江文神社、八瀬の八瀬天満宮、上高野の三宅八幡宮、岩倉の石座神社等々と並んで左京区北部を代表する神社の一つと言えるでしょう。開放的な境内には、巨大な御神木の大杉が何本も聳え立っていて、山の神社らしい清々しさを感じます。また、社殿も素朴ながら厳かで味わいがあります。

さて、静原神社の祭神は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)です。
社伝によれば、静原神社は、古代の成務天皇十二年(142)三月午日に、山城国愛宕郡志津原(現在の左京区静原)に創建されたと伝えられ、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が高天原に坐し、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が日向の高千穂に天降り、初めは静原楢小川の上流「河合谷意美和良川」に鎮座したということです。そして、古来、本社に伊弉諾尊、奥御前に瓊瓊杵尊を祀っていたため、合わせて「二宮社」と呼ばれていました。

また、天武天皇が逆徒に襲われてこの地に臨幸し、心体を安らかにできたことから「志津原」を「静原」と称するようになったということです。そして、天武天皇は、刀や弓・矛等を奉納して江州浅井郡の地三三〇石を寄付し、和銅四年(711)三月三日より祭祀を始めたと伝えられます。そして、現社地を「真路山」、御旅所を「天皇社山」と称していたということです。(御旅所は、前回に掲載した天皇社を指すと思われます)
その後、応仁の乱以降の戦乱で、明応年間(1492〜1502)、静原城を拠点とした岩倉山本氏の対馬守資幹が管領細川政元と戦った際に、兵火によって社殿が焼失、古記録も失いました。また、豊臣秀吉の天正検地で三三〇石を没収されますが、秀吉より下鴨神社社領として三〇石が定められ明治に至るまで続いたということです。(江戸時代の「雍州府志」には、上賀茂神社の末社とありますが、実際には近年まで下鴨神社の末社だったということです)

この下鴨神社との関係から、静原沙汰人と称して、御蔭祭・葵祭に奉仕する活動が現在も氏子を中心に続いていて、古くから静原周辺に自生する葵を採取して下鴨神社に奉納し祭に備えていましたが、現在は数も少なくなったため、静原では葵を栽培して葵祭に備える活動を行っているということです。
尚、延喜式の愛宕郡二十一座(大八座 小十三座)の須波神社を想定する説もありますが、証拠に乏しく不明。末社として、本殿の右に天満宮社、比賣宮、豊受神社。 左に貴船神社、天照大神宮、八幡宮社、惣山神社、香取神社、猿田彦社を祀ります。

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京都市左京区の静市(しずいち)という地域は、北を鞍馬、東を大原、南を岩倉、そして西を北区の上賀茂に囲まれたたいへん広く細長い区域です。
元々、素朴な山里だったこの地域も、叡山電鉄沿線の南の市原町から野中町にかけては開発が進み新興住宅が建ち並んできています。しかし、北の静原町付近にはまだ鄙びた里の雰囲気が残っているので、秋の山里をゆっくり歩いてみるのもお勧めです。(東海自然歩道を数キロ歩けば、東の大原、西の鞍馬に抜けることも可能です)

さて、静市地域には神社が八社程ありますが(市原町に四社、野中町に一社、静原町に三社)、その多くは山間の小社といった印象です。ただ、静原神社のみは雰囲気的にも地域を代表する神社として、お勧め出来るかと思います。

まず、今回は、情報の少ない静原町の二社を採り上げます。
静原町を縦断する、地域の生命線ともいうべき京都府道40号下鴨静原大原線沿いに進むと、京都バス「静原御旅所町」停留所傍に小さな神社が有ります・・これが天皇社と呼ばれる神社です。
山間部によく見られる素朴な神社で、名前通り特定の天皇を祀るようですが詳細は不明です。ただ、静原神社境内の由緒書によると、静原神社の御旅所(天皇社山)とされるということです。
また、天皇社から北へ数百メートル程度なだらかな坂を上がると、山沿いの民家の間に若宮神社と呼ばれる小社がありますが、こちらも詳細は不明です。

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前回の元真如堂(もとしんにょどう 換骨堂)に隣接する日吉神社(ひよしじんじゃ)も写真を増やして再掲載します。

京都市左京区浄土寺真如町にある日吉神社は、同区域にある紅葉の名所として知られる真如堂(真正極楽寺 京都市左京区浄土寺真如町)の守護神で、真如堂地区の産土神になります。
祭神は、日吉山王(ひよしさんのう)、十禅師大明神(じゅうぜんしだいみょうじん)、国常立尊(くにのとこたちのみこと)です。祭神の十禅師が地蔵菩薩の垂迹(すいじゃく)とされるように、元々明治初期の神仏分離令までは、隣接する元真如堂(もとしんにょどう 換骨堂)境内で神仏一体化して祀られ、御神体で社宝の一木造木像地蔵菩薩立像(平安時代末期)はかつての神仏混交時代の名残といえます。


さて、平安時代中期の正暦五年(994)、東三條院(関白藤原兼家の次女で、円融天皇女御、一条天皇の母。藤原詮子(せんし))が、比叡山の戒算(かいさん)上人を開基として、自身の離宮を改めて寺院とし、真如堂(真正極楽寺)を創建しましたが、この際、同じく比叡山の守護神、日吉神を山王権現としてこの地に勧請したのが日吉神社の始まりと伝えられ、鎌倉時代には地域の鎮守神として崇敬されました。

その後、真如堂は応仁の乱で荒廃し 各地を転々としますが、この神社は永くこの地に祀られ吉田神社の吉田家とも協力しながら神事を維持していたようです。 元禄六年(1693)に、現在の真如堂が再興されると、日吉神社も産土神として広く信仰を集めたと伝わり、現在も、日吉(日々吉の暮らし)の神猿(まさる=魔が去る)として地域の氏神として信仰され、特に、家や土地、身体にふりかかるあらゆる厄魔を払い去る御神徳で知られているということです。
また、一見、境内に末社が見当たらないように思われますが、実は、石段上に鎮座する本殿の脇に小さな稲荷神社が祀られています。

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今回は、以前にブログパート1に少しだけ掲載した元真如堂(もとしんにょどう)の写真を増やして再掲載します。

紅葉の名所として知られる真如堂(真正極楽寺 京都市左京区浄土寺真如町)の東北にある小さなお寺が、真如堂の境外塔頭、元真如堂(もとしんにょどう 左京区浄土寺真如町)です。「元真如堂」という名前のように、この場所は真如堂の創建時の旧地になります。また、元真如堂は、正式には「東向山蓮華院換骨堂」といい、この「換骨堂(かんこつどう)」という正式名称の方が地元では有名です。また、尼寺三十六ヶ所霊場の第二十四番でもあります。


さて、平安時代中期、この神楽岡(吉田山)には、東三條院(関白藤原兼家の次女で、円融天皇女御、一条天皇の母。藤原詮子(せんし))の御所がありましたが、正暦三年(992)、女院が夢のお告げを受けて、院内に比叡山常行堂に安置されていた阿弥陀如来像を移し、比叡山の戒算(かいさん)上人を開基として、同五年(994)に真如堂を建立しました。(真如堂の歴史については、またの機会とします)
以後、真如堂は長くこの地にありましたが、応仁の乱の兵火で荒廃し、後幾度か移転をした末に、元禄六年(1693)に現在の真如堂のある地(元の位置から西南)に再建され今日に至ります。

一方、創建の地には、念仏堂と呼ばれた小堂宇が残されていましたが、その後、天保元年(1830)の地震により念仏堂は一時荒廃します。しかし、同十三年(1842)、尼僧黙旨(もくじ)が尼衆の願いに応じて尼僧寺院として再興し、以後永代尼僧の住職を許されたと伝えられます。
また、「換骨堂(かんこつどう)」という別称の由来としては、寺を再興した黙旨尼の遺稿「重興記」に、「法界の群生同じく当下に換骨の霊方を証得し、一超直人、弥陀の本願を達せしめんと欲して、換骨堂と号せしもの」と記されているということです。尚、現在の境内の様子を、元治元年(1864)刊行の「花洛名勝図会」の図会と比較してみると、それ程大きな変化は無いようです。


さて、刈り込みの間の小さな山門を入ると、正面に本堂(念仏堂)があり、その右手の小さな庭には花木が植えられていて尼寺らしい風情を感じます。
左手には「如柳庵」という茶室があり、その傍には、石仏や石塔等が置かれています。
そして、さらに左に進むと、隣接する日吉神社の境内に出ますが、その手前に、真如堂を建立した後、長保三年(1001)に亡くなった東三條院の供養塔と伝わる五輪塔があり、蓮華ヶ岡の不動尊と呼ばれる石不動を祀る祠があります。また、真如堂の開山、戒算上人が蓮華童子の教示を受けて掘ったと伝えられる閼伽井(あかい)があり、蓮華童子に因んで「蓮華水(れんげすい)」と呼ばれています。

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