京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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京都市左京区上高野(かみたかの)という地域は、高野川の上流を意味し、八瀬(やせ)の南に接する地域です。
この地域の観光寺院としては、名庭で知られる蓮華寺(上高野八幡町)が有名で、また、瑠璃光院(上高野東山町)も紅葉時期に特別公開されています。
神社では、崇導神社(上高野西明寺山町)や三宅八幡宮(左京区上高野三宅町)は地域を代表する神社で、他に御蔭神社(上高野東山町)、三明院(上高野西明寺山町)、栖賢寺(上高野水車町)等々もブログ(パート1&パート2)に採り上げてきました。

今回採り上げた宝幢寺(ほうどうじ ほうとうじ)は、観光寺院ではありませんが、上高野南部を代表する寺院で、京都市登録無形民俗文化財に登録されている「上高野念仏供養踊」が境内で行われることでも知られています。


さて、上高野の、高野川を挟んで北側は、鄙びた里の風情が残っていて散策が楽しめる地域ですが、川の南側一帯から修学院地域にかけては完全に新興住宅地化しています。宝幢寺(京都市左京区上高野釜土町)は、この一戸建てが建ち並ぶ迷路のような住宅地内にあるために、少し見つけ難い寺院ですが、境内の東側の竹林と南側にある京都市有地の山林が寺の目印になっています。

宝幢寺は、山号を霊芝山という、永観堂を本山とする浄土宗西山禅林寺派に属する寺院です。
江戸時代の寛永年間(1624〜44 寛永十一年(1634)とも)、旭移(きょくい)上人が創建したと伝えられます。本尊の阿弥陀如来像は、信濃の善光寺の本尊を模したものと伝えられ、「相好貴奇(そうごうきき)」な魅力ある仏像として知られ、多くの仏師達が寺を訪れて如来像の御顔を拝し、製作の際の手本としたということです。
境内には、山門脇の毘沙門天石像や阿弥陀如来石仏、仏足石、「夢想の滝」等がありますが、特に、「夢想の滝」は、開山の旭移上人が、滝の音に観音経読経の響きを感じて、この地に草庵を結んだといわれる古い滝で、かつては、滝上には観音菩薩像が祀られていたと伝えられます。


寺は、今も地域の人々の信仰の場として親しまれていますが、特に八月十九日の夜、境内で行われる「上高野念仏供養踊(かみたかのねんぶつくようおどり)」が有名で、この踊りは京都市登録無形民俗文化財に登録されていいます。
「上高野念仏供養踊」は、平安時代以来、この洛北上高野に伝承されてきたと伝えられる念仏踊りですが(かつて、称名寺(廃寺)という寺院の境内で行われていたといわれます)、大正末期に中断してしまいました。その後、昭和六十三年(1988)に復活され、上高野念仏供養踊保存会によって維持管理されています。八月十九日の夜の宝幢寺境内では、三幅前垂、赤の襷、白足袋、赤緒草履という揃いの浴衣姿の女性踊り手が、右手に団扇を持って念仏を唱えながら、鉦や太鼓の囃子で円となって踊る姿を見ることができます。

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かなり以前、ブログパート1で、豊臣秀次の墓のある瑞泉寺や善正寺について書きましたが、今回は、善正寺について再掲載してみます。

京都市左京区区岡崎東福ノ川町・・金戒光明寺(黒谷)の西、吉田山の南に位置する善正寺(ぜんしょうじ)は、吉田山の南山裾の丘上に位置し、神楽坂通という坂道から南へ回った見晴らし良い場所にあります。周囲を住宅街に囲まれているために、初めての方には少し見つけ難いお寺かもしれません。


さて、善正寺(ぜんしょうじ)は、山号を明慧山という日蓮宗寺院です。
石段脇の山門には「豊臣秀次公 村雲門跡瑞龍寺御墓所」と記されているように、非業の死を遂げた関白・豊臣秀次の菩提所として知られています。

善正寺は、安土桃山時代の慶長二年(1597)に、太閤豊臣秀吉の姉で、亡き関白秀次の母親の智(とも、瑞龍院日秀)が、子の秀次の菩提を弔うために嵯峨亀山に創建した一庵に始まります。
智(とも、瑞龍院日秀)は、兄の秀吉と違って子供に恵まれましたが、僅か数年でその子供達を相次いで失います・・次男・秀勝は、文禄元年(1692)に朝鮮出兵中に二十三歳で病死し、文禄四年(1595)に、三男の大和大納言秀保が十七歳で変死、続いて同年、長男・関白秀次が謀反の疑いから太閤秀吉に二十八歳で切腹を命じられ、その妻子も三条河原で処刑されます。また、智(とも)の夫の三好吉房も秀次事件に連座して讃岐に配流されてしまいました。こうして家族全てを失った智(とも)は、この世の儚さを実感して、残された人生で子や孫の菩提を弔うことを決意します。


慶長二年(1597)に嵯峨亀山に一庵(後の善正寺)を創建した後、智(とも)は出家して、明慧日秀(みょうえにっしゅう)と称し、慶長五年(1600)に、日蓮宗の日鋭上人を開山に迎えて、現在の岡崎の地に善正寺を移転し堂宇を整えました。「拾遺都名所図会」によると、「善正寺」という寺名は、秀次の法名「善正院殿高岸道意」から採られたもののようですが、この法名が秀次が高野山で剃髪蟄居した生前のものか追善されたものは不明とはいえ、「善正」の二文字には、謀反の疑いを受けた秀次の身の潔白の意味が込められていると思われます。そして、これもあくまで想像ですが・・日秀が、寺号を「善正寺」としたことは、秀次の首や妻子三十数名の死骸が埋められた塚が、その死後も菩提を弔うことなく捨て置かれ、「畜生塚」「秀次悪逆塚」と呼ばれたことへの無念と批判が込められている・・「悪逆」とは正反対の「善正」という言葉に、日秀が我が子秀次一族の恥辱をはらし、安らかな冥福を願う強い気持ちを感じます。

また、日秀自身は、同じく、秀次の菩提を弔うため、後陽成天皇から嵯峨野村雲に寺地を下賜されて瑞龍寺を建立しました。この瑞龍寺は、やがて、格式高い尼門跡寺院として「村雲御所」とも呼ばれることになります。その後、現在の堀川今出川付近(上京区堅門前町)に移転し、昭和三十七年(1962)に秀次ゆかりの近江八幡城本丸跡に移築されました。


善正寺の境内墓地にある立派な御廟善正殿は普段は閉められていますが、中には大きな五輪塔があり、これが秀次の墓(首塚供養塔)になります。また、御廟の左には、秀次の妻子ら一門の供養塔があり、そのすぐ左前には、初代住職・日秀の墓。さらに並んで歴代住職の墓があります。その他、墓地には後伏見天皇の十八世皇孫女・日尊女王墓、霊元天皇皇曽孫女・日照女王墓等があります。また善正寺の寺宝としては日秀が作らせた秀次の木像、日秀の肖像画があるということです。(近年、善正寺を訪れる歴史ファン等が増えたようで、寺では、供養の参拝目的以外の好奇心による秀次墓の見学は断っています。)

また、善正寺は、江戸時代に全国各地に起こった日蓮宗の壇林(僧侶の学問所、大学)のひとつ、広大な敷地を有する東山壇林として栄えました。京都では、東山壇林の他に、松ヶ崎檀林、求法院檀林、鷹峯檀林、山科檀林、鶏冠井檀林の山城国(京都)六檀林がありましたが、この東山壇林は、寛永元年(1624)に開かれたとされ、善正寺第四世・日演上人の時代に大いに栄えた後、明治初年の廃壇まで、多くの高僧を育てたといわれています。

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かなり以前にブログパート1に採り上げた岡崎別院ですが、その後、境内に新しく案内板が設置されたので、この機会に写真を増やして再掲載します。

京都市左京区岡崎天王町、岡崎神社の隣にあるのが、真宗大谷派(東本願寺)の岡崎別院です。
山門横には「親鸞聖人御草庵遺跡」という石碑があるように、浄土真宗の開祖・親鸞上人の旧跡として知られます。(以下、境内案内板を参照します)

江戸時代に流布した親鸞聖人の伝記、「親鸞聖人正統伝」によると、二十九歳で比叡山を降りて、吉水の法然上人の門に入った親鸞上人は、この岡崎の地に草庵を造り、ここから吉水の法然上人のもとに通ったと記しています。また、その後、念仏禁止の「承元の法難」に連座して越後に流刑となった後、赦免されて関東での生活を経て帰洛した時も、親鸞上人は、最初にこの岡崎の地の草庵に住んだと伝えています。(境内の案内板によると、二十九歳から三十五歳までと、六十歳を過ぎてからしばらく居住した草庵跡であるということです。)こうした由来により、江戸時代の「親鸞聖人正統伝」や「拾遺都名所図会」は、この地が古くから「親鸞屋敷」と呼ばれてきたことを記しています。


さて、岡崎別院は、江戸時代の享和元年(1801)、東本願寺第二十代・達如(たつにょ)上人により、親鸞ゆかりのこの地に創建され、「岡崎御坊」と呼ばれました。そして、明治九年(1876)に「岡崎別院」と改称され、明治二十二年(1889)には、新しく新門(新しい門主)の学問所である御学館が移築されました。「清池館(せいちかん)」と命名されたこの学問所では、俳句の名人だったことから「句仏上人」と呼ばれた東本願寺第二十三代法主・彰如(しょうにょ)上人が学び、明治二十四年(1891)には、東本願寺の教育制度や組織の発展を目指し、また仏教近代化に尽くした清沢満之(きよざわまんし 1863〜1903)が主任となっています。また、大正五年(1916)には、金子大栄(かねこだいえい 1881〜1976)を中心に学生の勉強会である「鏡池会(きょうちかい)」が、岡崎別院を会場に発足し、後には、曽我量深(そがりょうじん 1875〜1971)も参加して、共に近代思想界に影響を及ぼすことになります。

さて、二重屋根の本堂には本尊阿弥陀如来が祀られています。この草庵造りの本堂と庫裏、茶室は創建当時のものということです。また本堂の左方(西)には、八角の石柵で囲まれた池跡がありますが、この池は、承元元年(1207)に親鸞上人が、念仏弾圧により越後へ配流される際に、自身の姿を映して名残を惜しんだと言い伝えられ、「鏡池(かがみいけ)」、「姿見の池」と呼ばれています。
また、そのすぐ左には、上人お手植えと伝わる木の由緒を伝える「八房(やつふさ)の梅」という紅梅があります。

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京都市左京区黒谷町にある浄土宗大本山・金戒光明寺(ブログパート1に採り上げています)は、「黒谷(くろたに)」の通称で広く知られていますが、今回採り上げた西雲院(さいうんいん)は、この金戒光明寺の塔頭の一つです。
西雲院は、金戒光明寺の総墓地内の正面、石段上にある文殊塔から左へ少し歩いたところに位置していて、境内に法然ゆかりの霊石「紫雲石(しうんせき)」があることで知られる寺院です。
また、幕末に京都守護職会津藩の本陣が金戒光明寺に置かれた関係から、会津藩士の墓地を預かる寺院としても有名で、本堂脇には侠客・会津小鉄(本名・上坂仙吉)の墓もあります。さらに、本堂前には、鉢植えのハスが並び花の寺としても人気があります。



さて、平安時代末期の承安五年(1175)、後に浄土宗を開宗する法然上人は、比叡山を下って東山にある真如堂に参拝した後、念仏弘通の聖地を求めて真如堂傍「栗原の丘」に赴きました。この「栗原の丘」には、上人の弟子の信空上人の祖父、中納言・葉室顕時の別荘がありましたが、顕時は法然上人の師、叡空上人と親交があり、幼少の孫(信空上人)を叡空上人に預けると共に、この別荘を寄進していたのでした。 法然上人はこの別荘に一泊する予定でしたが、夕日の美しさに惹かれ丘上に登ると、そこにあった半畳程の大きさの白河石に腰をかけて、念仏を称えたといわれます。すると、たちまち紫雲が棚引き、光が四方に満ちました。この奇跡によって、法然上人は、大石を「紫雲石」と名付け、この地を念仏道場と定めて草庵(後に白河禅房・新黒谷と呼ばれます)を結んだのが、後に現在の金戒光明寺へと発展していきます。


さて、その後、江戸時代初期の元和二年(1616)、宗厳(そうごん)上人が、金戒光明寺から「紫雲石」を賜り、そこに一庵を結んだのが西雲院の始まりであるといわれます。

開山の宗厳上人は、元々、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に捕虜として連れ帰られた朝鮮人で、その後、北政所に献上されて、北政所の気に入りの羽柴下総守・滝川雄利の美しい息女の召使となりました。召使は息女にたいへん良く仕えましたが、慶長十年(1605)息女は十七歳の若さで亡くなってしまいます。父の滝川雄利は、娘の死を悼んで、金戒光明寺山内にその戒名「龍光院」から名を取った塔頭(龍光院)を建立して菩提を弔いました。

一方、朝鮮人の召使は、主人の若き死に世の無情を感じて出家して、宗厳と名乗り、十一年間各地で修行した後、元和二年(1616)黒谷の地に戻って、かつての主人、龍光院の墓前で、念仏をひたすら熱心に唱え続けたといわれます。その様子を見た本山金戒光明寺第二十七世・了的上人は、法然上人ゆかりの霊石「紫雲石」を宗厳上人に授けました。こうして、元和二年(1616)、宗厳は紫雲石の傍に草庵を結びました・・これが現在の西雲院の創建になります。
その後も、宗厳上人は、千日の日を区切って別時念仏を修し、多くの僧侶が上人を慕ってその下に集まり、西雲院は念仏道場として大いに栄えました。尚、宗厳は寛永五年(1628)に亡くなりますが、その後も弟子達によって継承され、万日念仏惣回向、三万日念仏惣回向、四万日念仏惣回向と続けられ、西雲院は、通称「萬日寺」「萬日念仏道場」と呼ばれるようになりました。

西雲院の境内には、本堂の南に「紫雲石」の額が掛かかる一堂があり、中には紫雲石が安置されています。また、本堂の前には、御住職が丹精込めて育てられた鉢植えのハスが多数並んでいます。また境内には楓も植えられていて紅葉も楽しめます。



さて、幕末に京都守護職となった会津藩の本陣が、金戒光明寺に置かれた関係から、西雲院の墓地には、鳥羽伏見の戦い等で戦死した会津藩士の墓があることでも知られています。(以下、金戒光明寺で購入した資料(同じものは同寺のホームページでも見られます)を参照)

西雲院境内の東には、「會津藩殉難者墓地」の石碑が建ち、敷地面積約三百坪の墓地内には、多数の墓が並んでいます。文久二年から慶応三年までの五年間で亡くなった約二百三十七人と、鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五人の墓があり、彼らを祀る明治四十年(1907)三月建立の慰霊碑があります。また、ここには武士以外にも、使役で仕えたと思われる苗字の無い者、婦人も同様に祀られているということです。その内、禁門の変(蛤御門の変)の戦死者は、一段積み上げられた台上、三ヶ所に分けられて二十二人が祀られています。尚、会津松平家が神道であった関係で約七割程の人々が神霊として葬られているということです。

また、会津墓地の西、西雲院の庫裡前には、幕末から明治に活躍した侠客・会津小鉄の墓があります。
墓の横の掲示板を参照すると、会津小鉄は、本名を上阪仙吉(こうさかせんきち)といい、天保四年(1833)大阪で元水戸藩士の私生児として生れ、間もなく父は帰藩し母も亡くなったため、六歳で孤児となりました。幼くして堅気の生活を捨て、江戸を経て京都下京区三ノ宮通に住居を持ち、京の顔役・大垣屋清八に見込まれて頭角を表し、やがて多数の子分を抱えるようになりました。

文久二年(1862)、小鉄は、京都守護となった会津藩主松平容保の知遇を得て若くして元締めとなり、表の家業は縄張りを治める口入れ屋として、裏では会津藩や新選組の密偵として影の協力者として活躍したことから、「会津小鉄」と呼ばれるようになります。また、禁門の変(蛤御門の変)や鳥羽伏見の戦いでは、兵糧方及び戦死者の収容の任務に就いて参戦し、禁門の変(蛤御門の変)後に、松平容保から感謝状を授かっています。

さて、小鉄も子分五百人を動員して参加した鳥羽伏見の戦いで会津藩が敗れると、賊軍の汚名を着せられた会津藩戦死者の遺体は、世人も後難を恐れ、そのまま鳥羽伏見の路上に無残に放置されるままになりました。小鉄はこれを知ると、子分二百余名を動員して、死を決して遺体を探索、収容し近くの寺で荼毘に付し供養したといわれます。また、その後も、小鉄は容保の恩義に報いるために、黒谷会津墓地を西雲院住職とともに守って清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っているということです。この会津藩への忠義の功により、明治十八年(1885)三月十九日に、洛北北白川の自宅で小鉄が五十三歳で亡くなると、西雲院に墓が造られました。
尚、西雲院では、六月の第二日曜日に会津藩殉難者追悼法要が、会津松平家第十三代当主松平保定(もりさだ)氏列席のもと盛大に勤められているということです。

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京都市左京区新高倉通孫橋上ル法皇寺町、商店やビルの立ち並ぶ三条通から一筋北(京阪三条から約三百メートル東)にあるのが、要法寺(ようほうじ ようぼうじ)です。
要法寺は、京都のメインストリートでもある東大路通や三条通から僅か一筋離れている所に位置していますが、これらの大通からまったく遮断されているので、交通量の多い三条京阪付近の市街地にこのような大寺院(境内は一万三千五百平方メートル)があるということはあまり知られていません。通りを一筋入ってみれば、思わぬところに・・という史跡密度の高い京都らしい風景といるかもしれません。


さて、要法寺は、山号を多宝富士山というる日蓮本宗の本山で、本尊は十界曼荼羅です。
この寺院は、元々、鎌倉時代末期〜室町に創建された上行院(じょうぎょういん)と住本寺(じゅうほんじ)という二つの寺院が、室町時代末期に合併して誕生しました。
尚、日蓮本宗では、宗祖日蓮(にちれん)、二祖日興(にっこう)、三祖日目(にちもく)、そして、要法寺の開基となった日尊(にっそん・にちぞん)を第四代としています。

要法寺の開基である日尊上人は、奥州出身の元天台僧で、奥州に布教に来た日目(日蓮の高弟日興の弟子)上人に出会って法華宗に帰依し、さらに日目と共に身延山に伸登って日蓮上人の高弟、日興上人に師事しました。しかし、正安元年(1299)秋、日興上人の重要な講義中に、舞い落ちる梨の葉に一瞬気を取られて集中力を欠いたことを激しく咎められ、師より破門されることになりました。日尊上人は一念発起して、諸国を修行行脚し、延慶元年(1308)に、京都の山城に法華堂(後の要法寺の起源でもあります)を開きました。

その後、日尊は、日興から破門を解かれ、正慶二年(元弘三年 1333)には、師の日目(にちもく)上人に従って京に向かいますが、その途中で日目が入寂(死去)したことから、その意志を継いで入洛し、翌年(1334)後醍醐天皇に天奏を行いました。そして、その功によって六角油小路に寺地を寄進され、延元元年(建武三年 1336)に六角油小路に、法華堂(後の上行院)を開きました。

やがて、上行院は弟子の日印(にちいん)上人に継承され、興国六年(1346)に、日尊上人は八十一歳で入寂します。一方、日尊の別の弟子、日大(にちだい)上人は、 正平十七年(1362)に、二条堀川(冷泉西洞院)に後の住本寺となる法華堂を創建しています。その後、比叡山衆徒による天文五年(1536)の天文法華の乱(天文法乱)によって、他の法華宗二十一本山と共に、上行院と住本寺も焼失し、堺へ避難しました。

天文十七年(1548)に帰洛が許可されて寺を再建することになりますが、この際、住本寺の日辰上人が、上行院と住本寺を合併することとなり、天文十九年(1550)、新たに五条坊門(綾小路)堀川に要法寺を建立しました。
その後、天正十一年(1583)に、豊臣秀吉の命により、京極二条(寺町二条)に移転し、さらに、宝永五年(1708)の大火で焼失して、東山三条の現在の地に移転、再建されました。宝暦九年(1759)の大火で再び焼失し再建されています。
その後、要法寺は、明治九年(1876)に、日蓮宗興門派(明治三十三年(1899)に宗名を本門宗(日蓮本門宗)と改称)に属し、昭和十六年(1941)に日蓮宗、顕本法華宗と三派合同して日蓮宗を結成した後、昭和二十五年(1950)に要法寺(末寺五十ヶ寺共に)は、日蓮宗から独立して日蓮本宗を称して現在に至ります。

現在の主な建物は宝暦の大火後の再建で、大きな本堂(間口(桁行)5間、奥行(梁間)5間)瓦葺)は、安永三年(1774)に建造されたもので、他に、本堂の西に釈迦堂、東南に鐘楼、東に庫裏・本坊等がありますが、いずれの建物も規模の大きなものです。他に伏見城の遺構とも伝わる表門、西門があり、境内塔頭は九寺を数えます。
また、要法寺といえば、慶長年間(1596〜1615)に、要法寺十五世・日性上人(1554〜1614)を中心に「沙石集」等数種の銅活字版の書物を刊行したことでも知られ、それらは「要法寺版」といわれて、近世初期の版本として文化史的にたいへん貴重なものとされます。

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