京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は、以前にブログパート1に採り上げた京都市左京区岡崎法勝寺町の満願寺(まんがんじ)の写真を増やして再掲載します。この岡崎法勝寺町は、京都市動物園を含むかなり広い区域で、法勝寺町という名前は、かつて、この地に法勝寺という大寺院があったことに由来しています。


法勝寺は、平安時代の承保三年(1076)に白河上皇が、関白藤原師実(頼道の子)から別荘地を譲られて建立した寺院でした。
約六万平方メートル以上の広大な敷地に、毘廬舎那仏を本尊とする金堂をはじめ講堂、阿弥陀堂、五大堂、法華堂、薬師堂、そして高さ約八十メートル八角九重塔等がそびえていたと伝わります。その後、承元二年(1208)に落雷で八角九重塔が焼失した際は、栄西禅師が大勧進として寄付を集め再建しますが、康永元年(1342)に火災により廃滅し、僅かに、寺跡を示す石碑や金堂の基檀、九重塔跡などが残るのみとなってしまいました・・こうして、現在は、動物園や表通りから一筋入ると立ち並ぶファッションホテル等が目立つ法勝寺町ですが、今回の満願寺はこの地区唯一の由緒ある寺院になります。


さて、満願寺は、山号を示現(じげん)山という日蓮宗寺院です。
当所は真言宗寺院だったようで、満願寺縁起によると、平安時代初期の天慶三年(940)、右京七条坊に住んでいた菅原道真の乳母・多治比文子(たじひのあやこ)が菅原道真の霊夢を感じて、西ノ京片原の北野朝日寺の僧最珍を開基に請じて、西ノ京に一堂を建立し、道真自作の天満大自在天像を安置したのが創建と伝わり、道真の霊が示現して願いが成就したことから、山号を「菅原道真公の霊の示現」から示現山としたと伝えられます・・つまり神仏習合の神宮寺だったようで、現在も境内左側に、文子天満大自在天を祀る文子天満宮があります。


尚、この道真伝説は、北野天満宮や文子天満宮(下京区 ブログパート1参照)の創建にまつわる話と同じです。多治比文子は、道真の乳母の他に少女だったという説もありますが、道真の霊の託宣を受けて西京七条二坊(京都駅付近)の自邸付近に道真を祀るために祠を建てました。これが菅原道真を祀った最初と言われ、多治比文子の自邸の社は、「天神信仰発祥の社」として、やがて文子天満宮となります。さらに、文子の他にも、近江の比良宮の神職神良種(みわのよしたね)という人物の七歳の息子太郎丸にも、自分を北野の地に祀るようにとの道真の託宣があり、多治比文子、神良種、朝日寺の僧最珍ら相談し北野に小さな社を建てたのが北野神社(北野天満宮)の創建と伝えられます・・・満願寺も、これら天神信仰との関係で創建されたようで、かつて、北野神社の神域には、七つの「保」と呼ばれる地域があり、北野神人という神事に奉仕する人々が住む御供所となっていましたが、西ノ京にあった満願寺は、この御供所の一つで、五ノ保社となっていたと伝えられます。
(尚、北野天満宮と西ノ京との関係は現在も深く、北野天満宮のずいき祭では、毎年十月一日に西ノ京御輿岡(中京区西大路上ノ下立売通西入ル御輿岡町)の御旅所へ渡御し、駐輦の後本社に還幸します)



さて、当初、真言宗寺院だった満願寺は、室町時代の永和年間(1375〜79)には勅願所となりますが、その後、江戸時代の元禄十年(1697)に住持の宗遍(そうへん)僧正が、妙伝寺の遠沾院日享(おんでんいんにっこう)上人に帰依して日蓮宗に改宗し、元禄十三年(1700)に、東山天皇の勅願寺となり、元禄十四年(1701 元禄十五年(1702)とも)に現在の地に移りました。そして、江戸時代以来の独立本山を改め明治五年(1872)に身延末寺となっています。

本堂は、移転後間もない元禄十五年(1702)から宝永元年(1704)にかけて建造されたもので、京都に残る日蓮宗寺院の中でも古いものの一つになります。建築的には、桁行三間、梁行一間の身舎の周りに、幅一間の裳階をまわして背面に内陣部を突き出し、さらにその後方に土蔵造の奥陣を付設した複合建築ということです。また、本堂の変化に富んだ外観と内部の力強い空間構成には、近世的な特色がみられ、日蓮宗本堂の近世遺構の一例として貴重なものになっています。
その他、境内には、江戸時代に現在地に移転した時から残る鐘楼、手水舎、表門、文子天満宮本殿・同拝殿がよく保存されていて、位置が一部変化しているとはいえ、江戸中期の日蓮宗寺院の一般寺観をよく伝えていることから、これら(本堂、鐘楼、手水舎、表門、文子天満宮本殿・同拝殿)は京都市の有形文化財に指定されています。
また、この地は日蓮上人が吉田の神道伝授のとき寄宿した場所と伝えられ、本堂には法華首題牌と釈迦・多宝両如来像を祀り、祖師堂には本妙寺分身の日蓮像を安置しています。


境内には、幾つかの石碑があります。
最も目立つのが「俊寛僧都故居碑」という、法勝寺執行だった俊寛僧都にまつわる大きな石碑です・・後白河上皇の側近だった僧俊寛は、治承元年(1177)、自らの鹿ケ谷にあった山荘で平氏打倒の密議を行い、発覚し鬼界島に流されました(鹿ケ谷の変)この石碑は、俊寛の居所である法勝寺の跡を示すものです。また、本堂右には、日蓮上人が一万部の法華経読誦の大誓願成就を記念する「妙経万部之塔」、本堂南側には黒澤明、小津安二郎と共に世界的に知られる映画監督、溝口健二に関する石碑「溝口健二之碑」があります・・これは、当時の大映社長の永田雅一が満願寺を菩提寺としていた縁から、境内に建てられたもので、墓地には溝口健二の分骨墓があります。
また同じく墓地には、京都出身の勤王志士・山崎久三郎の墓もあり、その他、境内南にある閼伽井(あかい)は法勝寺(ほうしょうじ)の井戸といわれています。


最後に、満願寺は、「洛陽十二支妙見」の「辰」の寺でもあります。この妙見菩薩像は、当初は、法勝寺旧跡にあった本光寺に祀られていたものが、安永三年(1774)の大火により本光寺が焼失したために、満願寺に移されたと伝わります。

尚、「洛陽十二支妙見めぐり」についてはこれまでも何度か書いていますが、以下再掲載します。
妙見菩薩とは、北極星・北斗七星を神格化した、宇宙万物の運気を司り支配する菩薩になります。
奈良時代にはすでに民間の信仰を集めていたようで、天台宗、真言宗、日蓮宗等にも取り入れられて広まりました。最初は「方角の神様」でしたが、徐々に商売繁盛、厄除け、安産などあらゆる方面にご利益のある神として朝廷から民衆まで広い信仰を集めたようです。

「十二支妙見めぐり」というのは、江戸時代中期に、京都の御所の紫宸殿を中心に十二支の方角に、各々妙見菩薩を祀ったことに始まり、江戸時代を通してこの十二のお寺を順番に訪問して、開運や厄除けを祈願することが大いに流行りました。明治時代の廃仏毀釈の影響で妙見信仰は一時衰退しますが、その後、昭和になって再び妙見講として信仰は受け継がれることになりました。
そして、昭和六十一年(1986)、京都の日蓮宗のお寺を中心として「洛陽十二支妙見会」が発足し、再び「十二支妙見めぐり(洛陽十二支妙見めぐり)」が復活しました。現在の十二の寺院は、江戸時代とは大半が入れ替わっているようですが、当時の歴史と伝統を今に伝えようとする試みのようです。
「洛陽十二支妙見めぐり」の十二ヶ寺・・・いくつかはこれまでにブログパート1に登場しています。

●子(北)西陣の妙見宮(善行院)

●丑(北北東)出町の妙見宮(本満寺)

●寅(東北東)修学院の妙見さん(道入寺)

●卯(東)鹿ケ谷の妙見さん(霊鑑寺)

●辰(東南東)岡崎の妙見さん(満願寺)

●巳(南南東)清水の妙見宮(日体寺)

●午(南)伏見大手筋の妙見さん(本教寺)

●未(南南西)未の方の妙見さん(法華寺)

●申(西南西)島原の妙見さん(慈雲寺)

●酉(西)小倉山の妙見宮(常寂光寺)

●戌(西北西)鳴滝の妙見宮(三宝寺)

●亥(北北西)鷹峯の岩戸妙見宮(円成寺)

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京都市左京区岩倉下在地町にある心光院(しんこういん)が、京都古文化保存協会主催の「京都春季非公開文化財特別公開(5月1日〜10日)」で特別に公開されました。心光院が一般に公開されるのは、今回が初めてということで、今期の「京都春季非公開文化財特別公開」で最も注目されている寺院といえます。

(ただ、この古文化保存協会の特別公開は、毎回一〜数箇所のかなりマイナーな非公開の寺社が登場するので、京都を知り尽くしたような文化財ファンにはコアな人気がありますが、一般観光客受けするかという点(期間の長さ、価格面、バイトの接客&ガイダンス能力、写真撮影許可の範囲)では、観光業に不慣れな(拝観者重視ではなく、文化財保護・所有者重視のスタンスにある)協会主催らしい、一般拝観者をやや見下したような対応のお粗末さを感じるので(実際、今回もかなり怒って帰る拝観者を目撃しました。)、他府県からの一般観光客には、まずは、観光ビジネスとして明らかに手馴れている京都市観光協会主催「京の冬の旅」の特別公開の方をお勧めします。(販売されている「拝観の手引・・このパンフは今回カラーとなり、価格的にリーズブルだと思います・・」を引用して書いてみます。)



さて、心光院は、正式には紫雲山専寿寺心光院という浄土宗鎮西派寺院です。
江戸時代初期の正保二年(1645)に、唯称房知空大徳(ゆいしょうぼうちくうだいとく 1616〜80)上人が創建しました。上人は諱(いみな)を知空、字(あざな)を唯称、覚雲といい、元和二年(1616)に京都に生まれました。唯称上人は幼少時より聡明で出家を望んで十四歳で剃髪得度し、以来、仏教の経蔵と論蔵を研究しました。その後、東坂本の西教寺の良澄上人に師事して、三年で倶舎論や天台三大部(法華玄義・法華文句・摩訶止観)を学び、さらに、南都の法隆寺の了性律師や法隆寺観音院の高栄法印について学び、その俊才ぶりは広く称えられました。その後、唯称上人は、高野山で戒律を学びましたが、ある時、兄の訃報を聞いて、京都に戻ったところ、悲嘆にくれる老母の姿があったということです。

これまで長く各地で修行してきた上人は、これからは母の傍で親孝行をしようと決意して孝養に努めました。そして、幽棲の地を求めて洛北の木野村(現・岩倉木野町)に来たところ、十助という農夫の供養を受けて塞耳庵(そくにあん)という一庵に案内されたと伝えられます。
塞耳庵の創建年代は不明ですが、その本尊は立派な阿弥陀如来像で、これが現在の心光院の本尊になります。また、知空上人は、塞耳庵から老母に念仏を勧める法語を送りましたが、これが「諌母草」という書物として現在まで伝わっているということです。

さて、正保二年(1645)に唯称上人は三十歳の時、新たに土地を求めて、塞耳庵を現在の心光院の地に移しました。そして、慶安三年(1650)に、本尊の脇侍として観音菩薩像と勢至菩薩像を新たに造立しました(この二像は、運慶第十九代の洛陽七条左京法橋・康知の作ということです)。承応二年(1653)十月に、老母は来迎仏を拝みながら念仏の七十二歳で大往生を遂げましたが、上人は老母が拝んだ仏来迎の様子を絵に描いて三枚折の屏風にしています(迎接曼荼羅)
その後、上人は、塞耳庵を心光院と改めましたが、これは善導大師の言葉「・・彼の仏の心光常に是の人を照して摂護して捨てず・・」に由来しています。こうして、唯称上人は延宝八年(1680)に、六十五歳で入寂しました。その後、心光院は、江戸時代後期に尼寺となり現在に至ります。



さて、心光院の見所は、ひとえに阿弥陀三尊像(木造阿弥陀如来及び両脇侍像)にあります。
心光院の山門や外観からは、このような大きな仏像が安置されているとは感じられませんが、本堂に安置する本尊・阿弥陀如来座像及び脇侍の観音菩薩像と勢至菩薩像は、重要文化財に指定されていて一見に値します。
本尊・阿弥陀如来座像は、平安時代後期、藤原時代の寄木造りで、高さ百五十三センチあり、保存状態もたいへん良いものです。作者は不明ですが、前述したように、木野村(現・岩倉木野町)にあったという塞耳庵の遺仏と伝えられます。また、両脇にある観音菩薩と勢至菩薩像は、江戸時代初期の作で像高約百十センチ、運慶第十九代の洛陽七条左京法橋・康知の作と伝えられ、正座から立ち上がろうとする跪座 ( きざ )像、大和座りの体勢で造られています。
また、他に、来迎図屏風「迎接曼荼羅(こうしょうまんだら)」、仏教修行に用いられた女性が骨と化すまでを描いた「白骨観」の掛軸、涅槃図が展示されています。 

駒井家住宅その3

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駒井家住宅の最後です。
(今回の写真は二階部分と、二階から眺めた庭園の様子。そして庭園と温室等です。)


さて、駒井家住宅(駒井卓・静江記念館)ですが、外観は当時アメリカで流行していたアメリカン・スパニッシュ様式を基調にした木造二階建てで、建坪は約三十坪です。三十メートル四方の敷地の西よりに建てられ、比叡山や大文字山が一望できる東に庭を設けています。その北側には五坪程の付属屋と書生部屋として使われていた約十坪、二階建ての離れ、そして故駒井博士が研究のために造らせた小さな温室があります。

アメリカン・スパニッシュ様式とは、元々スペインから北南米のスペインの植民地に伝わり、二十世紀初頭のアメリカでリバイバルしていたもので、ヴォーリズによって日本に伝えられたものです。日本でも昭和初期にこの様式は流行し、ヴォーリズもこの様式の数多くの住宅を設計しています。
スパニッシュ様式は本来、スペイン瓦と呼ばれる丸瓦を用いますが、駒井家では日本の伝統的な形式の桟瓦を使用しています。尚、当初の設計図面ではスペイン瓦を用いた外観が描かれていることから、施工段階で何かの理由で変更されたものと考えられています。


屋根は切妻屋根の赤色桟瓦葺、外壁はモルタルのスタッコ仕上げにで、洋風住宅の一角に和室を設けた折衷的な間取りになっています。
内部は、玄関を入った一階の玄関ホール、その右に六畳和室(建物中で唯一)があります。正面が居間で、その左部分が食堂、右は当時日本では珍しかったサンルームです。
そして、庭に突き出して東にテラスが設けられ、階段下にトイレ、食堂の北に台所、ホールの北に浴室と洗面があります。また、離れの西に、洗濯室が設けられ、離れの南は日本ナショナルトラストの事務室になっています。
二階には主寝室、寝室、書斎、サンルーム、二階用トイレ(当時はまだ珍しい)があります。全体として和洋折衷で、それ程広くは感じませんが、現代のマンション等のように家屋の全ての収納スペースを埋め込み式にして空間の有効利用を工夫しています。(温室、離れ、事務室以外は文化財登録部分です)


玄関の扉の上には、ヴォーリズが良く用いた半円型(孔雀形)アーチの飾り窓があり、アクセントになっています。室内の意匠にも色々な特徴があります・・ホールの階段の曲線は造形的にも優れていて、階段上の大きなホールのガラスは、その一部が割れて新しいものに変えていますが(建築当初と、同じガラスは今では入手不可能のようです)、西日で黄金色に輝きます。
ピアノや蓄音機のある居間には、腰掛付きの出窓があって、実用と同時に居間全体のアクセントになっています。また、広く外光を取り入れられるサンルームからは、西洋松をはじめとした庭木が眺められて、素晴らしい寛ぎのスペースだと感じます。


掘りごたつのある和室の出窓は、外部からは上下式の洋風窓の外観ですが、内部には障子や欄間障子を入れて、洋風の外観と和室の意匠を融合させています。さらに和室とサンルームは襖で仕切られているだけで自由に出入りできますが、襖の両面の意匠を和洋で変えているので、一見部屋が通じていることに気づかない工夫がなされています。
ドアノブは、社交的な空間とプライベートな空間の違いがわかるように紫と透明クリスタルの色で分けていて、これも静江夫人のアイデアということです。台所では、大型の上下式のガラス窓の下に流し台を置き、収納にも考慮した合理的な造りになっています。

二階の階段を登ってすぐの客用寝室は、現在は博士のコレクション等の展示室となってます。また、博士の書斎は、本の日焼け防止のために、ピンクのカーテンが閉じられています。また、主寝室の作り付けのワードローブの床は、隠し金庫になっていたり、ギアを回すと屋根裏の収納スペースの梯子が現れるなど、当時としては斬新なアイデアが用いられています。そして、明るいサンルムールからは、正面に西洋松が眺められ、二つの寝室からは比叡山や大文字山も眺められます。



さて、駒井家住宅は、黒澤明監督の昭和二十一年(1946)の映画「わが青春に悔いなし」のロケ地にもなり、駒井卓博士と静江夫人の死後(昭和四十八年(1973)以降)は、遺族の関係する研修保養所として用いられました(この間に住宅は一部改築されています)

しかし、平成九年(1997)の閉鎖後は建物の将来を巡って模索が続きました・・一時は、当時の管理人らが建物を借りて、ミニコンサートや美術展などの会場にもなりました(近所の住民からの苦情も有り取りやめになったらしいです)そして、平成十年(1998)に京都市の有形文化財指定を受けて保存されることとなり、平成十四年(2002)に、所有者の駒井喜雄氏とその家族が、土地と建物を文化財保護に取り組んでいる財団法人日本ナショナルトラストに寄贈して現在に至ります。

尚、昨年暮から、東京に事務局のある日本ナショナルトラストが、距離的に管理困難となり公開を中断していましたが、ヴォーリズ設計の六甲山荘(神戸市)を保存公開している西宮のNPO法人「アメニティ2000協会」との共同運営により、この三月下旬から再公開されました。(公開は、毎週金・土曜日の10時から16時 大人500円)  

駒井家住宅その2

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駒井家住宅の続きです・・
(今回は、屋内の一階部分の写真です)

さて、アメリカ人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964)についてです・・
建築家ヴォーリズは、数年前にニュースに採り上げられた滋賀県の豊郷小学校(竣工当時、東洋一の小学校と賞賛された名建築)再建問題でも名前が出てきましたが、日本の各地に千六百もの建築を残しました。京都では駒井邸に他に、同志社大学アーモスト館、旧下村正太郎邸(大丸ヴィラ)、東華菜館(旧八尾政レストラン)、京都メソジスト教会(京都御幸町教会)、旧京都帝国大学YMCA会館(京都大学YMCA館)、京都大丸等が残っています。

ヴォーリズは1880年(日本では明治十三年)アメリカのカンサス州に生まれました。
当初は建築家を目指しますが、次第にキリスト教の伝道者として目覚め、外国伝道を志します。そんな彼のもとに、日米のYMCAを通じて、日本の滋賀県立商業学校が英語教師を求めているという知らせが届きました。
ヴォーリズは、日本との運命的な出会いを感じて、多額の借金をして明治三十八年(1905)英語教師として来日しました。時にヴォーリズ二十四歳。来日後、滋賀県の近江八幡の学校で英語を教えながら、週末に自宅を開放して聖書研究会を開いて伝道活動をしますが、二年後、英語だけでなくキリスト教を教えているとの非難の声があがって退職し、失意の中で地道な伝道活動の日々が続きます。


やがて、明治四十一年(1908)、ヴォーリズは、京都YMCA会館新築工事の監督を依頼されます。これをきっかとして、ヴォーリズは伝道活動資金を得るための経済基盤として、明治四十三年(1910)建築設計事務所として、ヴォーリズ合名会社を設立し、一時は諦めていた建築家の道をも歩み出すことになります。琵琶湖湖畔を中心とした伝道活動と共に、事業の幅を広げ、主にキリスト教に関する施設やミッション系の学校の校舎や礼拝堂を中心に多くの建物が日本各地に設計建設されるようになります。

大正七年(1918)「近江サナトリウム(現ヴォーリス記念病院)」という結核の療養所を創設し、翌八年(1919)、三十八歳で、一柳子爵家の娘満喜子と結婚します。大正九年(1920)ヴォーリズ建築事務所及び近江セールズ社(近江兄弟社の前身)を設立し事業を拡大し、特にメンソレータム(現在のメンターム)輸入販売を開始して大成功を収めます。またハモンドオルガン、ピアノの輸入販売などの貿易業も行いました。ついでに、「One purpose, Doshisha, thy name Doth Signify・・」同志社カレッジソングの作詞者でもあります。


日本を愛したヴォーリズは、第2次大戦中も日本に留まる決意で、昭和十六年(1941)に六十歳で日本国籍を取得し、一柳米来留(ひとつやなぎめれる)と改名しました。戦争中はスパイ容疑をかけられるなど苦労しながら、夫人と共に軽井沢でひっそり暮らします。
昭和二十年(1945)、終戦と共に近江八幡に戻り、マッカーサー元帥と近衛文麿元首相の会談の仲介を依頼されたとも言われます。昭和二十六年(1951)学校法人・近江兄弟社学園を創立。その後、七年間の病気療養生活の後、生涯愛したこの日本の地で昭和三十九年(1964)八十三歳で死去しました。そして現在も、ヴォーリズの様々な日本での活動は大きく賞賛されています。



さて、駒井博士が住宅の設計を考えた昭和二年(1927)当時、既にヴォーリズ設計の住宅は定評があり、駒井博士は、大正十二年(1923)のヴォーリズの著書「吾家の設計」を読んで設計依頼を決めたといわれます。ほぼ同時期に、駒井家の南隣には、駒井博士の京都帝国大学の同僚の喜多博士の住宅が、建築家で、当時京都帝国大学教授だった藤井厚二の設計により建てられています。そして、当時はこの一角にあったのは、この二軒だけだったということで、現在も並んで建っています。

尚、この喜多家住宅は、大正十五年(1926)に建てられた木造二階一部平屋建・瓦葺、建築面積七十五平方メートルの建物で、桟瓦葺の屋根を架けて和風の端正な外観に変化をもたせ、内部は和洋折衷の手法となっています。(国指定登録有形文化財に指定)



次回に続きます。

駒井家住宅その1

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今回は、私の自宅から歩いて二分程度の距離ですが、桜並木がある白川疎水沿いの洋館、駒井家住宅(駒井卓・静江記念館)です。駒井家住宅は、管理上の問題から、昨年十二月から一時公開中止となっていましたが、この三月末から再公開されています。(以前にブログに採り上げましたが、写真を倍増して再掲載します。)


さて、京都市左京区北白川伊織町にある駒井家住宅(駒井卓・静江記念館)は、京都帝国大学理学部教授として遺伝学を専門とした駒井卓(1886〜1972)博士の私邸です。
駒井家のある京都市左京区の北白川地区は、大正末期から昭和初期にかけて住宅地として開発され、京都大学に近いために京大教授の住宅が多く「学者村」と呼ばれた高級住宅地でした。(近代京都で最も初期に形成された郊外住宅地といわれます)

駒井家住宅は、駒井卓博士の欧米留学からの帰国後の昭和二年(1927)に建てられました。
構造形式は、木造二階建・瓦葺で、設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズ、施工は田林工務店です。(また、駒井邸の南隣の喜多家住宅も、元々京大教授の屋敷で、国の有形文化財に指定されています・・次回以降に少し触れています。)



ここで、駒井卓博士と静江夫人について、駒井家住宅のパンフレットから引用します・・
駒井卓(1886〜1972)は、兵庫県姫路市に生まれ、姫路中学から東京高等師範学校に進学し、明治四十一年(1908)の卒業後は、東京帝国大学理学部動物学選科に入学しました。大正六年(1917)に修了後、大正十年(1921)に京都帝国大学へ転じ、大正十二年(1923)から二年間、アメリカのコロンビア大学へ留学し、ショウジョウバエの研究を行いました。
帰国後は、日本で新しい遺伝学を発展させました。日本遺伝学会会長(1927〜28)、東京大学教授(1928〜32)、京都大学理学部長(1944〜46)、等を歴任し、動物分類学、動物遺伝学に大きな功績を残しました。また、昭和天皇に生物学を教授した学者としても知られます。

また、夫人の静江(1890〜1973)は、四国にある丸亀教会を設立した牧師、青野兵太郎の次女として誕生し、神戸女学院英語科を卒業し、駒井卓博士のアメリカ留学にも同行しています。
後年、ヴォーリズに嫁いだ一柳子爵家の娘満喜子とは神戸女学院時代の学友でした。静江夫人は、京都において積極的にクリスチャン活動をした先進的な女性だったようです。



さて、駒井家住宅の設計者は、近年再評価されているアメリカ人建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1880〜1964)です。そして、駒井家は、日本全国に多くの洋風建築を残したヴォーリズの、昭和初期の代表的な作品、その円熟期の作品のひとつといえます。
昭和初期の洋風住宅としては質が高く、また建築当初の状態が良く保存されていることから、歴史的・文化的な価値が高い建造物として、平成十年(1998)三月に京都市有形文化財に指定されています。



 
次回は、少しヴォーリズについて書いてみます。

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