京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

左京区

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今回は、私の家から歩いて百メートル未満の近所にある北白川疎水です。
(尚、この疎水の側には、日本ナショナルトラストが公開している洋風建築・駒井家住宅があり(ブログの一番最初の頃に少し書きました)、今回久しぶりに訪問したので、順次ブログに書いていきたいと思っています。)

さて、これまで、ブログに「山科疎水」「哲学の道」「鴨東運河(岡崎疎水)」「第二疎水分線」と琵琶湖疎水沿いの桜のある風景を採り上げました。北白川疎水はこれらに比べると、桜の名所としてはマイナーですが、それでもまずまず楽しめる場所かと思います。尚、この北白川疎水という名称ですが、琵琶湖疎水の一部で、主に哲学の道から北白川、高野と北上する辺りの流域名として用いられている通称になります。


少しだけ、琵琶湖疎水についてです・・
京都を流れる琵琶湖疎水は、明治時代に滋賀県琵琶湖から京都市内に引かれた水路です。
明治初期、日本の国家的な公共事業は全て外国人技師が設計・監督していましたが、琵琶湖疎水の開通は日本人のみで行った日本最初の大土木事業となりました。開通には多くの難問題がありましたが、明治十八年(1885)六月に着工し、明治二十三年(1890)三月に大津から鴨川合流点までが完成、さらに明治二十五年(1892)十一月に伏見までの延長が着工し、明治二十七年(1894)九月に完成しました(第一疎水)

さらに、明治二十年(1887)九月、蹴上から分岐する水路として、大文字山(如意ヶ岳)山麓に沿って、南禅寺から吉田山の東北を通って高野、下鴨から堀川へと流れる「疎水分線」が着工し、明治二十三年(1890)三月月に竣工しました。今や京都を代表する観光名所となった「南禅寺水路閣」や「哲学の道」はこの分線開通によって生まれました。
その後、明治三十年代に入って、第一疏水だけでは電力等の需要増大に対応できなくなり、第一疏水の北側に平行して第二疏水が明治四十一年(1908)十月に着工して、明治四十五年(1912)三月に完成しました。第二疏水は、水道水源として汚染を防ぐため全線を掘抜きトンネルか鉄筋コンクリートの埋立てトンネルになっていて、蹴上で第一疏水と合流しています。そして現在まで様々な改修工事等が行われてきました。

琵琶湖疎水は、当初は水力発電や上水道、舟運、灌漑、防火等を目的としていましたが、現在は京都市内に水道水を供給することが最も重要な目的となり、京都市民の貴重な水道水源となっています。
また、明治時代には当時最新の技術を取り入れてモダンなイメージだった琵琶湖疏水も、今では京都の風土に溶け込んで趣のある景観を形づくっていて、「南禅寺水路閣」や「哲学の道」、「山科疏水」、「鴨東運河(岡崎疎水とも)」等の疎水沿いの散策路は桜の名所としても知られます。


さて、最後の数枚は、この北白川の住宅街(北白川伊織町)にある、昭和初期に建造された白壁の木造洋風建築のアパート「銀月アパート」です。この地域では有名な年代物のアパートですが、家の前の枝垂桜の見事さもあって北白川疎水沿いの桜の名所でもあります。また、最近の邦画「鴨川ホルモー」でも登場するように、映画やドラマのロケでもしばしば使われています。

この、いかにも年代を感じさせるアパートは、バブル時などは住人も少なかったようですが、今では、昭和を感じさせるレトロな建物として人気を集め、町家ブーム等と同様に、主に芸術系の学生達で満室状態ということです。確かに、美しい枝垂桜のある京都の年代もののアパートに住むというのは、便利さ優先の今の時代には、精神的に贅沢な環境といえるかもしれませんね。

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今回は、左京区上高野東山町にある御蔭神社(みかげじんじゃ)を採り上げました。
この神社は深い森の中にあって、真っ赤な玉垣が周囲の緑に映えて印象的で好きな神社の一つです。「御蔭祭」の時は見物人が集まって明るい雰囲気になる御蔭神社ですが、普段は深い森に囲まれて、人の気配はほとんどありません。(以下、神社の由緒書に拠って書いてみます。)


御蔭神社は、賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ=下鴨神社)の境外摂社で、祭神は、もちろん本宮と同じく玉依姫命(たまよりひめのみこと)と、その父神の賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)です。
そして、この神社は、賀茂御祖神社(下鴨神社)の祭神の荒御魂(あらみたま 御生したばかりの神霊)を祈祀する特別な摂社とされています。
御蔭神社のある御生山(みあれやま)は、比叡山の南山麓の八瀬にあって「東山三十六峰」の第二番目の山になります。(三十六峰の第一番は比叡山)「御生(みあれ)」というのは神の誕生や降臨の意味で、御生山の神社の社地は、太古に賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ=下鴨神社)の大神が降臨した神聖な場所と伝えられています。


神社の紀元は不明ですが、この地は、古代から山背北部豪族の祭祀の中心地だったと考えられていて、付近には今も数々の遺跡が存在しています。さらに、天武天皇六年(677)に山背國司が造営したと伝えられる賀茂神宮は、当神社ではないかという説があるということです。また、御生山は、太陽のただ射す所の意から「御蔭山(みかげやま)」とも呼ばれていました・・平安時代の右大臣・藤原実資の日記「小右記」の寛仁二年(1018)十一月二十五日の条にも、「鴨皇大御神、天降り給ふ。小野里、大原、御蔭山なり。」と記されていて、古くから御蔭山と呼ばれていたこの聖地に因んで、御蔭神社という社名になったようです。
また、現在の社殿は、元禄六年(1693)、本宮(賀茂御祖神社=下鴨神社)の式年遷宮の際に造替されたものですが、それ以前までは現在の本殿の北東の麓、高野川沿いに鎮座していて、地震や洪水に遭って社殿が埋没したため現在の地に動座したということです。


御蔭神社は、「京都の三大祭」の一つとして知られる賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の例祭「葵祭(賀茂祭)」でも重要な役割を持っていています。「葵祭(賀茂祭)」に先だって、五月十二日に、御影神社から神霊を本宮の賀茂御祖神社(下鴨神社)へ迎える神事が行われているのです・・これが「御蔭祭(みかげまつり)」で、かつては「御生神事(みあれしんじ)」と呼ばれていました。

「御蔭祭(御生神事)」の起源は、第二代・綏靖天皇(すいぜてんのう)の時代(紀元前581)まで遡るという所伝もあるように非常に古く、平安遷都以前からこの地に住んでいた鴨氏族の信仰形態を伝える祭祀、氏祖神祭として「葵祭の源流」、「鴨社創祀の神事」といわれます。
その後、葵祭(欽明天皇の時代(540〜572)に凶作で飢餓疫病が蔓延したために「鴨の神」の祭礼を行ったことを起源とされます)と一体化して、平安時代には葵祭の神事の一つとなっていったようで、朝廷からは、阿礼料や幣が奉献されていました。

鎌倉時代の公卿、勘解由小路兼仲の日記「勘仲記」の弘安七年(1286)四月十二日の条に「午の日の神事、御荒という。社司や氏人が斎(いみ)たすきをかけて神歌を唱へながら供奉す。」とある等、古代の御生神事に関する多くの記述が残っています。特に、神馬の御神前で行われる三台塩(三代詠)を中心とする神事芸能は、日本最古の祭儀式を伝え、その行粧もまた最古の神事列といわれ、葵祭と並ぶ優雅な行粧として名高く、室町時代に入ると数々の史料に登場するということです。

その後、応仁の乱で一時中断し、江戸時代に復興しますが、明治時代になると、明治政府は全国の神社を管理するため、地域の氏神祭を国家祭事の葵祭と分離するという国家政策を採ります。これにより「御生神事」は、社地のある御蔭山(御生山)の名前を取って「御蔭祭」と改称され、国家祭祀としての葵祭とは別扱いを受けることになったということです。


下鴨神社のホームページによると、旧祭式時代の御生神事は、旧暦四月の午の日に行われ、早朝より禮殿(らいでん)における解除(げじょう)の樹下神事(じゅげしんじ)から始まり、その後、本宮を進発するときの歓盃(かんぱい)の儀、神領内行粧を整える檜垣(ひがき)が行われました。
そして、御蔭山の山麓の禁足地へ行粧が到着すると、高野川に面した船繋ぎ岩(磐座(いわくら))で御生神事が行われました。御蔭山の麓を風俗歌を奏しながら巡る神おろしの神事があり、その後、神領内総社神前での路次祭(ろじさい)を行い、糺の森に達してからは。芝挿神事(しばさしのしんじ)、切芝神事(きりしばのしんじ)、御生ひきと称しする御綱を正官がひく神事等本宮の儀の全てを総称して「御生神事」と呼ばれてきたようです。

その後、この古代の鴨氏の思想信仰を基とする祭祀と氏祖神祭は、氏子の祭へと変貌し、明治時代の上知令後は、神領内の各総社が独立したため諸神事が略される等、大きな変革がもたらされました。
しかし、古代から森林を祭祀場とする切芝神事は、御生された御神霊を神馬の背に移御し、御神前で御祭神のご来歴、風俗歌三代詠(さんだいえ)を奏上するのと、忌子(童形)御杖を奉持、先導する本宮の儀は、今は葵祭にさきがけて五月十二日の「御蔭祭」で行われています。 


御蔭祭の当日は、神馬に錦蓋を飾って神鈴を付け、鉾や太刀、弓、槍等の神宝を捧げ持って社殿には阿礼(あれ)を掛けます。また、本宮の下鴨神社では、「樹下神事(じゅげしんじ)」を行い、行列を整えて進発前の「歓盃の儀」を終えた後、多くの供奉者が葵桂をかざしながら本宮を進発し(前述したように、この賀茂御祖神社(下鴨神社)と御蔭神社を往復する巡行は、日本最古の神幸列と伝えられます。かつては氏子による巡行があったようですが、現在は交通の不便さから神官が自動車で御影神社に来て境内で神事が行われます)行粧が御蔭神社に到着すると、社前において、午の刻(正午頃)に、神霊が神馬に移御するという御蔭山之儀を行い、神霊を神霊櫃(しんれいびつ)という小箱に中に移し山道を下ります。

その後、自動車で下鴨地域まで移動し、北大路の下鴨中通から本社下鴨神社までの約一キロを巡行し、途中で境外摂社「赤の宮神社(ブログに登場しています)」に立ち寄って路次祭を行います。その後、下鴨神社の参道を進んで、神前で切芝神事(きりしばのしんじ)等を行い(午後四時頃のこの本社で行われる切芝遷立の儀の時には「東游(あづまあそび)」という舞が行われます)、その後、神霊を本宮に遷御する本宮の儀が行われ、五月十五日の葵祭本祭を待つこととなります。

三宅八幡宮その2

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さて、三宅八幡宮といえば、境内に様々な鳩のデザインがあることで知られます。
鳥居の横には狛犬の代わりに「狛鳩」が置かれ、屋根の瓦や石灯篭、拝殿の幕、絵馬等々・・色々な場所に鳩の模様が描かれていて、「鳩」がどこにあるのか探してみるのが、この神社の楽しみ方の一つになっています。
(境内にいる本物の鳩や、拝殿の幕の模様(拝殿の幕は、前回に少し写っています)以外の「鳩」を撮影してみました)



境内に鳩が描かれているのは、鳩が八幡神の使いとされてきたためです・・これは、平安時代の初めに九州の宇佐八幡宮から石清水八幡宮(京都府八幡市)へ八幡神を勧請した際に、白い鳩が道案内をしたという伝承に由来しています。以来、八幡宮の鳩は、神の使いとして大切にされてきたということですが、この三宅八幡宮が、特にこれほど鳩と関係が深くなった理由や時代背景等は不明ということです。境内の鳩も、安心しているのか寛いでいるように感じます。


神社では、お守り等の他に、土製の可愛い鳩の人形「神鳩(しんばと)」も販売されています。神鳩は、お宮参りの際に授けてもらって、子供が無事成長した折にお礼にお返しにくるという慣わしがあるということです。
また、神社前のお茶屋さんでは名物「鳩餅(鳩もち)」が売られています。このお店では、鳩笛や鈴鳩等、鳩グッズがたくさん売られていますが、中でも有名なのが、鳩をかたどった素朴な味が楽しめる「鳩餅」です。


最後に、境内の右側には、山水を引いた噴水のある池があって、水車小屋「村の水車」が置かれています。元々、上高野地区は高野川の流れと比叡山の谷川を利用した農業が盛んな地域で、かつては村全体で十五基の水車を利用していましたが、現在は三基のみが残っているということです。
この水車は、元々は別の場所にあったものを昭和六十二年(1987)修理移築したもので、水は八瀬・鵜が谷から引いて裏山に貯めて使用しているようです。また、この水車の側の小道は、前にブログに採り上げた三明院や伊多太神社の方へと続いていて、お勧めのちょっとした散歩道です。

三宅八幡宮その1

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京都市左京区上高野三宅町にある三宅八幡宮(みやけはちまんぐう)は、洛北を代表する神社の一つです。長閑な里の雰囲気が残る上高野は、私の好きな地域の一つですが、小さな噴水もある三宅八幡宮は、この地域の憩いのスポット的な存在といえるでしょう。観光客も少なくて開放的で、散歩のついでに訪ねてみたいといった雰囲気が良いです。また、桜や紅葉の隠れた名所でもあります。(Part1の初期に書いていますが、三宅八幡宮のHPを引用して、もう少しまとめてみます。)


さて、三宅八幡宮は、応神天皇(八幡大神)を祭神とする神社で、通称「虫八幡さん」「虫除け八幡さん」と呼ばれて子供の守り神として知られます。
地元の伝承によると、元々は「田の虫除け」神とされていたものが、後に「子供の虫除け信仰」に変っていったようで、子供の夜泣きや癇虫封じ、子供の病気回復や学業成就等の子供に関するあらゆるご利益があり、他にも、虫退治の神様として「害虫駆除」などのご利益があるとされます。

社伝によると、三宅八幡宮の創建は、飛鳥時代の推古天皇の時代(六〜七世紀)、に遡るとされます。聖徳太子の命によって小野妹子が遣隋使として隋に向かう途中、九州筑紫国の辺りで病気となったため、付近にあった宇佐八幡宮で病気平癒を祈願したところ、忽ち平癒したということです。その後、隋でも八幡神の加護によって数々の危難を免れ、無事帰国することが出来ました。聖徳太子の没後、この上高野の地に移り住んで晩年を過ごした小野妹子は、その時の報恩に報いるために、宇佐八幡をこの地に勧請して祀りました・・これが三宅八幡宮の始まりと伝わります。

実際、上高野地域は、飛鳥・奈良時代には山背国愛宕郡小野郷に属し、一帯は小野氏の居住する地域でした。以前にブログPart1に採り上げましたが、付近の祟道神社の裏山からは、小野妹子の子にあたる小野毛人(おののえみし)の墓も発見されています。(古墳の石室内から六百七十七年」と書かれた墓誌が見つかり、京都市指定史跡に指定されています)
また、同じくブログのPart1で、上高野大明神町にある「伊多太神社址」を採り上げましたが、この伊多太神社というのは、上高野地域の最古の神社といわれ、三宅八幡宮は、伊多太神社の境内末社だったともいわれ、その前身だったという説もあるということです。(尚、伊多太神社は、明治十六年(1883)に再興され、明治四十一年(1908)に崇導神社に合祀されています。)


さて、その後の三宅八幡宮ですが・・南北朝時代になって、南朝の忠臣であった、備後三郎三宅高徳が、この地に移り住んで邸内の鎮守社として八幡大神を祀って崇敬したことから、いつしか「三宅八幡宮」と称するようになったと伝えられています。その後、神社は栄え、当時は社殿も広く神田も豊かだったということですが、応仁の乱の兵火によって全焼し古記録や社宝も失いましたが、数十年後に里人達によって復旧されました。江戸時代末期には社殿も大破してしまっていたため、明治時代に入って明治二年に拝殿、明治二十年に本殿が再建されています。また、皇室との深い関わりもあるといわれ、明治天皇が幼少期に、重い病に罹った際は、三宅八幡宮に祈祷の命が出され、その祈祷の効果で天皇の病が治ったということです。

明治天皇のエピソードでもわかりますが、幕末から明治末期にかけては、子どもの疳の虫封じの信仰が京都市内や南近江を中心に大阪や奈良も含んだ広い範囲で隆盛を極め、三宅八幡宮は「子どもの神様」として広く伝播されていった記録があるということです。そして、当時、三宅八幡宮が広く信仰を集めていたことを表すのが、三宅八幡神社奉納育児・成人儀礼関連絵馬百三十三枚(平成十三年(2001)四月に京都市有形民俗文化財指定)です。

これらの絵馬は、平成十二年(2000)年に八幡宮で、百年ぶりに絵馬堂の整理が行われた際に、大量に発見された幕末期から昭和初期までに奉納された大絵馬で、京都市の有形民俗文化財に指定されました。これらの大絵馬の内、百三十三枚の絵馬が「子供のかん虫封じ」を中心に「育児習俗」や「十三参り」などの成人儀礼に関連したものということです。特に幕末から明治三十年代にかけて奉納された、「かん虫封じのお礼参り」の参詣行列を描く絵馬群は、当時の服装や子供たちの遊び方などの風俗が克明に描き分けられていて、優れたものということです。これらの絵馬群は、時代性や地域性が窺える時代資料であり、育児や成人習俗といった一つのテーマに沿った絵馬群としては、質量共に他に無い規模の貴重なものとされ、平成二十年(2008)五月に完成した「絵馬展示資料館」で公開(料金志納)されています。また境内には、明治二十三年(1890)に九代目市川団十郎が奉納した北白川産の白川石に薬研彫りされた井戸があります。また、普段は静かな八幡宮ですが、九月十五日に行われる例祭「放生会」の際は、子供づれの参詣者でおおいに賑わうということです。






次回に続きます。

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京都市左京区岩倉花園町にある三縁寺(さんえんじ)は、幕末の元治元年(1864)六月五日の池田屋事変で殉難した志士達の墓があることで、特に幕末ファンには良く知られているお寺です。(以前にPart1で少しだけ書いたのですが、書き直して写真数を増やしてみます)


三縁寺は、山号を法輪山という浄土宗寺院で、元々は、京都市東山区縄手通三条下る大国町、現在の京阪電車の三条京阪駅の東のバスターミナル付近にありましたが、昭和五十四年(1979)に現在の岩倉花園町に移転しました。尚、三条京阪付近には三縁寺の他に、三縁寺の北に西願寺、南側に養福寺と高樹院がありましたが、全て京都市の都市整備計画に協力して岩倉や八瀬等に移転しています。


有名な池田屋事件については割愛しますが、池田屋付近にあった三縁寺には、事件後に現場に捨てられたままになっていた志士九人の遺体が運び込まれて供養されたと伝えられます。
埋葬の際に遺体を確認したのは、池田屋の女中頭の清水うの、または三縁寺の側にあった旅館「小川亭(跡地は東山区縄手通若松下る)」の女将ていとも伝えられています。(小川亭は、肥後藩御用達「魚卯」の未亡人のていと、姑のりせが開いた旅館で、幕末には肥後藩士等勤王の志士たちに利用されました。ていは勤皇家でもあり志士の面倒をよく見たということです。)
その後、昭和五十四年(1979)六月に三縁寺が岩倉に移転する際に、旧墓地内の志士の遺骨も発掘され、岩倉の新墓地に改葬されました。


さて、山門脇には「池田屋事変殉難烈士の墓」という石標があり、境内の奥にある墓地には、鳥居の奥には志士の墓が五基あります・・正面と、その右の背の低い自然石の墓が、肥後の宮部鼎蔵と松田重助の墓です。右が古い墓で、正面の墓は後に立てられたもののようです。
正面左にある背の高い墓は、播州林田藩の大高又次郎の墓で、また、長州藩の吉田稔麿、杉山松助、廣岡浪秀の三名、土佐藩の北添佶麿、望月亀弥太、石川潤次郎の三名、計六名の合同墓があります。
他に、池田屋事件とは直接関係はないのですが、肥後の上松源友胤の墓もあります・・上松は、宮部鼎蔵の弟子で、文久三年(1863)七月に幕府派の公卿を切った際に自身も斬られて死亡し、後に三縁寺に葬られたということです。

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