京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

左京区

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京都には多くの神社があり、観光地として知られる有名な大社から街中の知られざる小さな祠まで、かなりの数の神社をブログPart1に採り上げて来ましたが、私が特に惹かれるのは長閑な山里の風情が残る地域にある神社です。
京都市左京区の八瀬・上高野・岩倉の山裾には、八瀬天満宮、御蔭神社、三宅八幡宮、石座神社、崇道神社、幡枝八幡宮、長谷八幡宮といった私の好きな神社が多く、程よい規模で(山奥の祠のような神社のように廃墟感のある寂しげでもなくて)、自然が残る周囲の環境によく似合っているように感じます。
今回は、左京区岩倉長谷町にある長谷八幡宮を採り上げました。社殿も古風で中々風情のある好きな神社の一つです。


境内にある由緒書は、風化により読めない部分が多いのですが、それに拠ると、八幡宮・・通称、長谷八幡宮は、平安時代の天安元年(857)丑年、文徳天皇の時代に創建されたと伝わる古社ということです。祭神は八幡大神(仁徳天皇)と惟仁親王(これにとしんのう 文徳天皇の第四皇子で、後の清和天皇)ということです。そして、文徳天皇の第一皇子・惟喬親王(これたかしんのう)の御願に依って、八幡大神と共に惟仁親王を勧請して以来、皇居から艮(北東)に当ることから、国家鎮護の神社として祀られたということです。

ただ歴史的にいって、この由緒書の記述には疑問を感じます・・・祭神は、恐らく惟仁親王ではなく惟喬親王でしょう。惟喬親王の父の文徳天皇は、太政大臣・藤原良房の圧力もあって、幼い第四皇子の惟仁親王(後の清和天皇 母は藤原良房の娘明子)を立太子しますが、第一皇子の惟喬親王に期待して、その後も惟喬親王に皇位を継承させようと考えていたようです。結局、文徳天皇の希望は叶わず、惟喬親王は、その後、中央政界から追われるように地方長官を歴任した後に出家して、近江国滋賀郡小野、山崎、水無瀬等に移り住み、近江国神崎郡君ヶ畑をはじめ、木地師の祖という伝承を全国各地に残すことになりました。対立関係にあった惟喬親王が、惟仁親王(清和天皇)を祀るということ自体、時代的にも問題があるので、当初、八幡神を祀った神社に、後に全国の山間に祀られることの多い惟喬親王が合祀されたのではないかと感じます。かつて、この地域は山深い地域だったのでしょう。


現在の社殿は、江戸時代初期の元和年中(1615〜24)に、社殿が大破したのを憂いて、後水尾天皇の中宮・東福門院が再興したと伝えられ、約三百八十年程前のものと伝えられます。そして、八幡宮は、現在まで岩倉地域東部の長谷町、中町、花園町、三宅町等の広大な区域の氏神として崇敬されていて、かつての山里も、現在は新興住宅地が拡大し、氏子数も大きく増えているようです。そして、十月の秋の大祭では神輿を奉じて三宅町の御旅所まで渡御しているということです。

また、境内には、末社として、本社の南にある蛭子社をはじめ、東側に蔭山社・疫神社・蔵王社・稲荷社・春日社・山王社・梅宮社・神明社・鴨皇神社・貴船神社等が祀られています。

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左京区一乗寺にある、境内自由のお寺を採り上げててみました。


左京区一乗寺葉山町、詩仙堂や圓光寺からそれ程遠くない場所にある一燈寺は、「葉山観音」の通称名で知られる臨済宗の寺院です。
境内はそれ程広くないのですが、木々に覆われている敷地全体は広い感じです。秋にはイチョウの葉が色好き、十三重塔とマッチして中々「絵」になります。本尊の馬頭観音菩薩は、聖徳太子作という伝説があり、昔は、付近の農耕に使われた牛馬が病気になった際は、この馬頭観音にお参りしたと伝わります。


また、境内には、勤王の志士として知られる梅田雲濱(うんぴん)の寓居跡を示す石碑があります。(写真)
梅田雲浜(1815〜59)は若狭小浜藩の藩士の家に生まれ、儒学者として大津に湖南塾を開き、小浜藩の塾望楠軒の講主として迎えられますが、海防策の意見書を藩主に提出したのが藩政批判とみなされ版籍を剥奪されます。こうして浪人となった雲濱は、この一乗寺の葉山観音堂の堂守小屋に住むことになりました。妻を抱え、その日の暮らしも出来ないほど困窮していたようです。その後、ペリー来航時には,尊皇攘夷を唱えて志士たちの精神的な指導者として活躍しますが、安政の大獄で捕えられ獄死しました。

昨年訪問した際、ご住職の奥様だと思いますが、境内のイチョウから採れた銀杏をいただきました。特に観光的な見所があるのでは無いですが、落ち着いた雰囲気は良いです。

瑠璃光院その2

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瑠璃光院の続きです・・・

二階席からは、瑠璃の庭を見下ろしたり、周辺の八瀬の紅葉も楽しめます。
全体として、山荘の雰囲気が強いので伝統ある寺院のような精神的な深みは感じませんが、蓮華寺以外にあまり観光名所らしい史跡の少ないこの地域では貴重な存在といえるかもしれません。

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瑠璃光院その1

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京都市左京区の八瀬に、明治の太政大臣・三条実美ゆかりのお寺があります。平成十七年(2005)から新緑と紅葉の季節に季節限定で公開されている瑠璃光院(るりこういん)・・正式には「無量寿山光明寺 京都本坊」という寺院です。
左京区上高野東山町、高野川沿いにあるこの寺院は、近年、紅葉の名所として知られるケーブル八瀬駅周辺の観光スポットとして知られた存在になってきました。



八瀬という地域は、古くは「矢背」「癒背」とも記されたように、壬申の乱で背中に矢傷を負った大海人皇子(後の天武天皇)がこの地の「かま風呂」で傷を癒したという伝説で知られる場所です。
この「八瀬のかま風呂」は、丸い形をした日本式の蒸し風呂の原型とされ、江戸時代には十数基はあったそうですが、瑠璃光院に貴重な遺構が残されています。(現在も八瀬の幾つかの旅館にはかま風呂がありますが、瑠璃光院のものも含め、現代人向きに改良されたボイラー式のものです)
その後、八瀬の地は、平安時代には貴族の保養地になり、後には本願寺の歴代門跡も訪れたということです。また、明治の元勲三条実美は、明治にこの地にあった庵を「喜鶴亭」と名付けてしばしば訪れ、直筆の命名額が現在も瑠璃光院に保存されています。このように八瀬の地は、いつの時代にも風光明媚な景色が愛された地域だったようです。


さらに、八瀬といえば「八瀬童子(やせどうじ)」も有名です。
伝教大師最澄が使役した鬼の子孫という伝承など謎めいた話もありますが、南北朝時代に、後醍醐天皇が足利軍の攻撃を受けて比叡山に逃れる際に、八瀬の郷の住民がその警護に当ったことから、この功績で地租課役の永代免除の綸旨を受け、以来、天皇の行幸や葬送の際に輿を担ぐこと仕事としていた人々です。(昭和二十年頃までこの免税の特権があたえられていたということです。)明治天皇や大正天皇が崩御した際の大葬の儀でも、八瀬童子が天皇の棺を載せた葱華輦(そうかれん)を担ぎ、昭和天皇の時は、警備上の都合で皇宮護衛官が代行したものの、八瀬童子会の代表も葬送に参列しました。そして、現在も八瀬童子会が伝統保存に努めています。
また、ブログPart1にも採り上げた「八瀬赦免地踊り」は、比叡山延暦寺と八瀬郷の住民の境界争いに端を発した伝統的な夜祭で、私が最も好きな京都の祭の一つです。



さて、大正末から昭和の初めにかけて、明治に設立された電力会社・京都電灯の創業者が、この地に敷地面積約一万二千坪、約二百四十坪の数寄屋造りと中庭付きの別荘を造営しました。
建築は、京数寄屋造りの名人といわれた中村外二を棟梁として行い、築庭は、有名庭師の佐野藤右衛門一統の作と伝えられます。
この伝統的な日本美で飾られた別荘は、戦後は囲碁本因坊位の対戦場として使用されたり、有名俳優の保養所にもなったそうですが、近年、岐阜県岐阜市にある無量寿山光明寺が京都の活動拠点、京都本坊として「瑠璃光院」を開設し、別荘時代の様式をそのまま残しながら阿弥陀如来立像を祀る本堂を設置して寺院に改造しました。


高野川に面した瀟洒な山門を入ると、茶庵や十三重石塔のある山露地の庭があり、さらに池に掛かる石橋を渡ると玄関が見えます。まず、最初に八瀬名物の「かま風呂」の貴重な遺構を見学し、書院に進みます。書院前の庭は「瑠璃の庭」と呼ばれています。
庭全体は数十種の苔の絨毯で覆われ、その間を縫うように細い繊細な流れが優美な曲線を描いていて、瑠璃色に輝く浄土の世界を象徴的に現した主庭になります。
訪問した時は紅葉はまだこれからという感じでしたが、赤、橙、黄色等の色や種類の違うカエデが植えられてい、苔に映えると美しい光景になることでしょう。

さらに三条実美が命名した茶庵「喜鶴亭」に向います。
「喜鶴亭」は、千家第六代覚々斉原叟好みの茶室です。また茶室前庭は「臥龍の庭」と命名されていて、今まさに天に駆け上ろうとしている龍を水と石で躍動的に表しているという池泉庭園です。さらに、文化財として無量寿山光明寺に伝来する寺宝の幾つかが、毎年数点づつ公開されています。(今回は阿弥陀三尊図(室町時代)、南蛮図屏風等です。)



次回に庭の写真を掲載します。

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京都市左京区の上高野(かみたかの)という地域は、高野川の上流に位置し、八瀬・岩倉・修学院・松ヶ崎に囲まれた比較的小さな区域です。上高野には、昔懐かしい山里の雰囲気が残っていて、私の好きな地域の一つです。

上高野で一番有名な観光名所としては蓮華寺があり、神社では三宅八幡宮が有名です。
今回は、三宅八幡宮の境内にある池を横切って、山麓の細い小道を歩いていくと現れる三明院(さんみょういん)を採り上げました。この三明院というお寺、観光寺院ではないのですが、高台にあって眺望が良く、また多宝塔は地域のシンボルのような存在です。


さて、左京区上高野西明寺山にある三明院(さんみょういん)は、山号を延壽山(えんじゅざん)という真言宗醍醐派の寺院で、本堂には本尊の弘法大師像、脇仏として不動明王と歓喜天尊を祀っています。元は山形県にあったそうですが、明治三十九年(1906)にこの上高野の出身だった佐竹信光和尚が再建したということです。昭和十三年(1938)に本堂を再築し、昭和二十九年(1954)に鐘楼を建造しました。またお寺のシンボル的な存在である多宝塔は、昭和三十六年(1961)の建造ということです。
実は、この多宝塔、土台は鉄骨むき出しという荒い造りなのですが、遠くから見ると由緒ある建物のようにも感じられて、上高野を代表する風景になっています。
また三明院は石段を登った高台にあるため、境内からは上高野の田園風景を一望できます。境内には本堂、鐘楼、庫裏、香取大明神社等が点在しています。(初秋の田んぼの稲穂の様子と、少し後の時期の色付き始めた紅葉の写真を掲載します。)

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