京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

右京区

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

今回は京都市右京区太秦(太秦安井池田町)にある皇室史跡として、JR嵯峨野線の花園駅の南約五百メートルにある後宇多天皇髪塔(ごうだてんのうはつとう)を採り上げます。
(付近の目印としてはすぐ東に大型スーパー「ライフ」、北には「ライフ」の駐車場を経て「右京ふれあい文化会館」があるので、比較的見つけやすい皇室史跡でもあります)


鎌倉時代末期の第九十一代・後宇多天皇に関しては、これまでも「後宇多天皇皇后姈子内親王(遊義門院)今林陵(嵯峨大覚寺門前六道町)」等の大覚寺統に関する諸史跡で何度か書いてきましたので、今回は少しだけ書いてみます。(いずれ、後宇多帝の御陵=蓮華峯寺陵(京都市右京区北嵯峨朝原山町)を採り上げる際に詳しく書きたいと思います)


さて、後宇多天皇は、一般に第九十六代・後醍醐天皇の父として知られますが、歴代天皇中でも傑出した才能の持ち主でした。
北畠親房は『神皇正統記』で「後宇多の御門こそゆゆしき稽古の君にましまし」と後宇多がたいへん学問熱心で、「大方この君は中古よりこなたにはありがたき御こととぞ申侍べき。文学の方も後三条の後にはかほどの御才聞えさせ給はざりしにや」と、歴代天皇でも平安時代の後三条帝以来の学才があり、例えば、醍醐、村上、後三条等の優れた天皇の治世に比べられる善政を行ったと絶賛しました。

さらに、ライバルだった持明院統の第九十五代花園天皇も、その日記(『花園天皇宸記』)で「天性聡敏にして経史を博覧す。詩句を巧みにし、また隷書を善くす」として、後宇多帝の在位期間「乾元・嘉元の間政理乱れず」とし、(晩年、後宇多上皇が期待をかけていた嫡子・後二条天皇が早世したことにより、一代限りのピンチヒッターとして即位させた第二子・後醍醐天皇が自身の子孫に皇位を継がせたいという野心を持ったことから、後宇多が寵愛し即位を期待していた皇太子邦良親王(後二条天皇皇子)と後醍醐との関係が悪化するという問題を引き起こしたものの)、その素質を認め「末代の英主なり。愛惜せざるべからず」と賞賛しています。

また、後宇多帝は、晩年、真言密教に深く傾倒し大覚寺を再興したことでも知られます・・徳治二年(1307)七月二十四日、寵愛する皇后遊義門院(姈子内親王)が赤斑瘡で崩御したに衝撃を受けた後宇多上皇は、二日後に嵯峨亀山殿の寿量院で、仁和寺真光院の禅助大僧正を導師として剃髪出家して法皇となりました(僧名は金剛性)そして、同年十一月二日に東大寺で受戒し、翌延慶元年(1308)正月二十六日に、東寺で灌頂を受け阿闍梨位を得ています。



さて、前回、嘉陽門院(禮子(礼子)内親王)の墓について書いた時に触れましたが、太秦安井の御室川沿いの地域には、鎌倉時代末期から室町時代中期にかけて、龍翔寺(りゅうしょうじ)という寺院がありました。
龍翔寺は、正式には「瑞鳳山萬歳龍翔禅寺」といい、現在は紫野大徳寺山内の一塔頭ですが、元々は、延慶二年(1309)三月、後宇多法王が、深く帰依していた南浦紹明(なんぽしょうみょう 円通大応国師 1235〜1309)禅師が入寂したために、その塔所(墓所)として安井の地に創建した寺院でした。

南浦紹明禅師は、嘉禎元年(1235)、駿河国安倍郡(静岡県静岡市)に誕生しました。
幼少時より仏教を志し、十五歳の時、鎌倉建長寺の蘭渓道隆(1213〜78)の弟子となって受戒し、正元元年(1259)に中国宋に渡って修行しました。その後、文永四年(1267)に帰国した後は、九州博多の崇福寺等の住持を務め、 嘉元三年(1305)には、後宇多上皇の招きによって入京して上皇の帰依を得ます。しかし、延慶元年(1308)十二月、住持を務めていた鎌倉建長寺で七十五歳で入寂しました。(尚、南浦紹明には大徳寺の開山となった宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう 大燈国師)等多くの弟子があり、日本の臨済宗は、すべて南浦紹明〜宗峰妙超〜関山慧玄(かんざんえげん 妙心寺開山)へと続く法系に属します。)


さて、南浦紹明禅師の死を惜しんだ後宇多法王は、「円通大応国師」と諡号を贈り、南浦紹明の弟子だった絶崖宗卓(?〜1334)禅師に、太秦安井にあった離宮柳殿御所を寄進して、南浦紹明(大応国師)を勧請開山として龍翔寺を建立しました。(実際の開山は二世絶崖宗卓)

また、龍翔寺境内の北側には、南浦紹明の遺骨を埋葬する塔所として普光塔(大応国師塔)という仏堂が建てられました。その後、元亨四年(1324)六月に後宇多法王が崩御すると、普光塔(大応国師塔)の左隣に、帝の遺髪(帝が出家した際に剃髪した髪が、龍翔寺に下賜されたものとも思われます)、納められた後宇多院塔(後宇多天皇髪塔)が造営されました。また、前回に採り上げた、龍翔寺創建以前からこの地にあった嘉陽門院(禮子(礼子)内親王)の墓も境内の南側に取り込まれていたようです。


こうして創建された龍翔寺は、三町四方に及ぶ広大な寺地を有し、至徳三年(1386)七月、五山十刹で京都十刹の第十位に列せられるなど栄えましたが、室町中期以降、特に応仁の乱後の戦乱に遭って衰退しました。そこで、大徳寺の末寺となってその支援を受け、天文八年(1539)、紫野大徳寺の西に移建再興されました。その後、江戸時代の文化十三年(1816)に焼失し翌年再建されました。明治の廃仏毀釈後は、大徳寺山内の塔頭の廃絶統合の影響を受けますが、大正時代に再興されています。


さて、江戸時代の『都林泉名勝図会』等は、龍翔寺の移転後も、旧地太秦安井には、普光塔(大応国師塔)や後宇多院塔が竹林の中に残されていたことを記します。またこの頃には、後宇多院塔は石塔だったということです。そして、明治十八年(1885)まで、龍翔寺の僧が、毎年七月にこれらの旧跡を廟参読経していたということです。その後、各地の皇室陵墓の整備が進められた結果、後宇多院塔のみが、宮内省(現宮内庁)管轄下で「後宇多天皇髪塔」として法華堂形式で整備され現在に至ります。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

今回は京都市右京区太秦にある皇室史跡として、JR嵯峨野線の花園駅の南約六百メートルにある後鳥羽天皇皇女・禮子(礼子)内親王墓(右京区太秦安井池田町)を採り上げます。


禮子(礼子)内親王(れいし ないしんのう 1200〜1273)は、鎌倉時代の正治二年(1200)に、第八十二代・後鳥羽天皇の第三皇女として誕生しました。母は後に内大臣となった坊門信清(後鳥羽帝の叔父)の娘、坊門局(西御方)です。元久元年(1204)六月二十三日、五歳の時に内親王宣下、賀茂斎院に卜定され、合わせて准三宮に准じました。
同二年(1205)四月二十八日、諸司(左近衛府)へ初斎院、建永元年(1206)四月十九日、紫野院(尚、現京都市上京区にある櫟谷七野神社の境内には、この斎院跡の石碑があります・・ブログパート1に掲載))へ入御。

しかし、建暦二年(1212)九月四日、十三歳で病気により退下します・・病気による斎院退下は前例の無い事態だったため、賀茂社に奉幣使を発遣して其由を告げ、同月十九日には斎院禮子内親王御祓が行われる等、当時の諸記録からは朝廷の狼狽した様子が伺われます。

その後、建保二年(1214)六月十日、院号宣下によって嘉陽門院(かようもんいん)と称しました。尚、当時の女院御所は四条殿と呼ばれ四条壬生にありました(寛喜2年(1230)五月二十三日には、この四条壬生嘉陽門院御所は焼失したという記録があります)また、承久二年(1220)五月二十一日には出家して、法名を真如性と称しました。

その後、世俗を離れたためか当時の諸記録にはあまり登場しませんが、承久三年(1221)の承久の乱で、父の後鳥羽、異母兄の土御門、順徳の三上皇が流刑となった際も、既に出家していた嘉陽門院はそのまま京に留まったようです。また、寛喜三年(1231)一月二十二日に八条堂で行われた鎌倉三代将軍・源実朝の十三年忌追善法要の際には、当時居住していた御室仁和寺の御所から御幸して供養を行っています。そして、文永十年(1273)八月二日、七十四歳で亡くなりました。
また、嘉陽門院(禮子(礼子)内親王)は、最後の賀茂斎院としても知られます・・承久の乱等の騒動によって、以後、賀茂斎院が廃絶したからです。


さて、太秦安井にある嘉陽門院(禮子(礼子)内親王)の墓についてですが、嘉陽門院の終焉及び埋葬地について当時の諸記録は明らかにしませんが、この地は、鎌倉時代末期に、後宇多天皇が崇敬していた南浦紹明(大応国師)禅師の入寂後、国師を開山として創建された龍翔寺(室町時代の五山十刹の十刹の一つ)の旧地になり、龍翔寺はかつての嘉陽門院の御所が荒廃した跡地に建てられたと伝えられています。

江戸時代の「雍州府志」や「都林泉名勝図会」等によると、この地には、古くから嘉陽門院の墓と伝承され、嘉陽門院塔と呼ばれた五輪石塔が竹藪中にあったようです。
現在の宮内庁によって整備された墓は、正面前は駐車場化し、民家に囲まれてはいますが、京都市内の皇子皇女の墓としては面積も広く開放感があります。杉の木立が遠くからでも目立ち、側面からはっきりと五輪石塔を見ることができます。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

右京区太秦安井北御所町、JR嵯峨野線の花園駅の南東約二百メートルにある竹林寺(ちくりんじ 正式には竹林禅寺)は、山号を宝珠山という臨済宗妙心寺派の寺院です。

(特徴の無い小さな寺院なので、地元でランドマーク的な存在の京都市右京ふれあい文化会館(京都市右京区太秦安井西裏町)の東、数分の距離で探した方が発見できるかもしれません。掲載した最後の写真は、安井のランドマーク京都市右京ふれあい文化会館です。)



寺伝によると、現在の洛西安井村(右京区太秦安井)の地は、平安時代初期の嵯峨天皇の弘仁年間(810〜23)に弘法大師空海の弟子、真済(柿本紀真済)僧正によって地福寺(現上京区七本松通出水下る七番地)が建立されるなど早くから霊場として栄えた地域で、その後、霊夢のお告げによって恵心僧都源信がこの地に居住し、一刀三礼して地蔵菩薩像を刻んで寺に安置したと伝えます。

また、平安時代末期には、この地域一帯は、第七十七代後白河天皇の第一皇女・亮子内親王(りょうし・あきこ ないしんのう 1147〜1216)の御所安井殿(安井御所)の敷地となり、現在の「安井(拾遺都名所図会は「安居」と記す)」という地名は、この安井殿に由来するとも言われます。
(現在も北御所町、西裏町、東裏町、車道、二条裏町、馬塚町といった安井殿との関係を伺わせる町名が一帯に残ります)


さて、亮子内親王は、十歳の時に卜定により伊勢斎宮となり、野々宮へ遷りますが、その後、後白河天皇の譲位により退下し、寿永元年(1182)八月十四日、安徳天皇の准母として皇后に冊立されました。その後、文治三年(1187)六月二十八日、院号宣下により、殷富門院と号しました。
正治2年(1200年)十月十七日、殷富門院は、安井殿内に御堂を建立し蓮華光院と号し、養子にしていた道尊(どうそん 1175〜1228)僧正を寺の開基としました。尚、この道尊は、平家に対して挙兵して戦死した以仁王(もちひとおう)の遺児で、以仁王は殷富門院(亮子内親王)の異母弟になります。

こうして、蓮華光院は、道尊僧正以降、第二代道円法親王、第三代道融大僧正、第四代道性法親王と続き「安井門跡」と称しました。
その後、戦乱で衰退し嵯峨大覚寺門跡の支配下に入るなどしますが、延宝初年(1674)頃に九世性演大僧正が再興し、元禄八年(1695)に、東山安井付近に移建再興されました。
尚、明治維新の後、蓮華光院は廃されて大覚寺に合併され、残った鎮守社の金毘羅宮は安井神社と改称しましたが、第二次大戦後は安井金比羅宮と改め現在に至っています。
また、地福寺も衰退した後、江戸時代の享保十二年(1727)に、中興道空和尚によって西陣の現在の地に移建しています。(安井金比羅宮、地福寺はブログパート1に掲載しています)



さて、今回の竹林寺ですが、地福寺や安井門跡といった寺院が去った太秦安井の地で、これら寺院の平安以来の仏教遺産を継承して守り続けてきた寺院といえるのかもしれません。

本尊は、前述した恵心僧都源信作と伝わる平安中期の地蔵菩薩立像で、別名「長者地蔵」と呼ばれます。
この菩薩像は、像高約一メートル弱の寄木造、玉眼入りの尊像で、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、長寿延命のご利益があるとされます。

また、他に「竹林長者」と伝える小像を安置しています。
この像は、竹林寺に伝わる「長者地蔵縁起」によると、江戸時代、ある貧乏な男が竹林寺の長者地蔵を熱心に信仰していると、夢のお告げによって境内で宝珠を拾いました。それ以来、男は成功して竹林長者と呼ばれるようになったということです。そして、その後、地蔵菩薩像は長者地蔵として知られるようになり、現在も崇敬されているということです。(拝観は要予約)


また、竹林寺では、毎年の八月二十四日の地蔵盆の際、水子供養の法要の後、中堂寺六斎念仏保存会によって、重要無形民俗文化財の中堂寺六斎念仏が本堂で奉納され、一般に公開されます。



過去にも何度か書きましたが、この六斎念仏というのは、鉦や太鼓を鳴らし念仏を唱えながら踊る民俗芸能です。
今も京都各地の寺院及び保存団体によって伝承され、国の重要無形民俗文化財に指定されています。六斎念仏がいつ頃から始まったのかは不明ですが、平安時代に空也上人が、仏教の忌日である六斎日(八、十四、十五、二十三、二十九、三十日の六日)に、京都の市中で、念仏を唱え鉦や太鼓を叩いて「踊躍念仏(ゆうやくねんぶつ)」を広めたことが起源ともいわれ、現在は六斎日とは関係なく、京都各地でお盆をはじめとする行事の際に行われています。

尚、六斎念仏は、江戸時代になると念仏踊を中心とする従来の「念仏六斎系」の他に、浄瑠璃や歌舞伎等の要素を取り入れより風流娯楽化した「芸能六斎系」が登場して、今日までこの二系統に分れて伝承されています。また、六斎念仏には、空也堂の傘下の「空也堂系」と、光福寺傘下の「干菜寺系(光福寺)」の二つがあり、各六斎念仏団体はどちらかの寺院から免許を与えられその傘下に入っていました。
また、明治以前は「干菜寺系(光福寺)」が盛んでしたが、現在は「干菜寺系(光福寺)」は西方寺の六斎念仏が残るのみで、今回の嵯峨野六斎念仏をはじめその他の六斎念仏は全て「空也堂系」で、嵯峨野六斎念仏は、能や長唄・歌舞伎の要素を採り入れて、独自に発展した芸能的六斎になります。


他の主な六斎念仏として

○中堂寺六斎念仏(8月9、16日壬生寺)
○千本六斎念仏(8月15日千本ゑんま堂(引接寺)
○西方寺六斎念仏(8月16日西方寺)
○円覚寺六歳念仏(8月16日円覚寺)
○小山郷六斎念仏(8月18日上御霊神社・8月22日上善寺)
○上鳥羽六斎念仏(8月22日鳥羽地蔵(浄禅寺))
○桂六斎念仏(8月22日、23日桂地蔵(地蔵寺))
○嵯峨野六斎念仏(8月23日阿弥陀寺・9月2日松尾大社)
○梅津六斎念仏(8月25日梅宮大社)
○吉祥院六斎念仏(8月25日吉祥院天満宮)
○久世六斎念仏(8月31日蔵王堂光福寺)
等があります。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

今回は、右京区嵯峨天龍寺角倉町にある安倍晴明の墓所と、東に接する角倉稲荷神社の写真を掲載します。(尚、平安時代の陰陽師として知られる安倍晴明については、昨今のブームで非常に有名なので、このブログではごく簡単に書きたいと思います。)

さて、歴史上の多くの伝説化された人物と同様、資料上から伺える安倍晴明の実像はかなり地味なものといえます・・安倍晴明(921?〜1005)は、出自に関しても諸説あるようですが、通説では、大膳大夫安倍益材(あべのますき)の子として摂津国阿倍野(大阪市阿倍野区阿倍野)に生まれたといわれます。また、生年は、没年から推定して、延喜二十一年(921)と考えられています。
資料上に登場するのは、四十歳以降になってからで、天文得業生(陰陽寮に所属し天文道を学ぶ学生職)として不遇な年月を過した後、ようやく康保四年(967)、四十七歳で陰陽師となっています。数年後には天文博士にも任じられ、その後は、村上帝から一条帝に至る歴代天皇や藤原道長等の上級貴族に仕えて、従四位下まで昇進し、寛弘二年(1005)九月に八十五歳で亡くなったと伝えられます。


晴明が後世に伝説化した理由としては、古代中国の陰陽五行説等を起源とする陰陽道が、平安時代を通して、吉兆の判断や天体の観測、暦の作成を司る日本独自の陰陽道として、まず宮中で発展し、その後民間に浸透していく過程で、その大成者として晴明の名が広く喧伝され、その後、明治時代まで陰陽寮を統括した安倍氏(土御門家)の祖として奉られていったことが考えられます。
また、晴明が当時としては大変長命で、長命が稀な当時においては、それ自体が一つの才能、能力と考えられ珍重されたことも、その後の伝説化の原因の一つという説もあります。当時の人々は、高齢な晴明を、吉兆を予言、災異を除去する霊力に、益々磨きがかかったものと考え、歴代天皇や藤原氏にとって必要不可欠な人材となっていったのかもしれません。


さて、安倍晴明の墓(塚)と伝えられる場所は、全国に数多くあるようですが、その多くは、後世、民間の陰陽師達が、自分達の祖として晴明を祭祀した場所と考えられます。

京都市内では、かつて、晴明が鴨川の氾濫を鎮めるために五条橋(現松原橋)付近に建立した法城寺という寺院があり、その境内に晴明の塚があったという伝承があります。その後、法城寺は衰退し、江戸時代に晴明の塚と共に三条橋の東に移転し心光寺と改めたとも伝えられますが、この移転されたという晴明塚は、現在は存在しません。また、江戸時代には、かつて法城寺があった松原橋傍(宮川町付近)に、塚を祀る晴明社が建造され、晴明と阿弥陀如来を祀る清円寺という寺院もあったようですが、明治の廃仏毀釈で廃絶しています。また、東山区の伏見大路の浄土宗寺院・遣迎院の裏手に晴明の塚があったとされますが、これも明治の廃仏毀釈等で失われました。

そして、多くの晴明塚の中で、最も確証が高いとされるのが、今回の嵯峨天龍寺角倉町にある晴明墓所です。
この墓所は、晴明神社の飛び地境内になり、前にブログに掲載した長慶天皇陵の直ぐ南に接していて、墓所の東側は角倉稲荷神社の境内になります。(角倉稲荷神社の来歴等は不明です)

この晴明墓所は、相国寺第四十二世・瑞渓周鳳(ずいほうしゅうけい)の日記「臥雲日件録」に記載され、室町前期の「応永釣命絵図」にも描かれていることから、少なくとも室町時代には、この地に塚として祀られていたと考えられていて、資料上確認出来る最も古い伝承墓(塚)といえます。
元々は天龍寺塔頭・寿寧院境内(現在は天龍寺山内に移転)にありましたが、荒廃していたため、晴明神社がこの墓所を買収して昭和四十七年(1972)に、墓域を整備して新しい墓を建立しました。また、その後、晴明没後九百七十年(1975)の記念碑も建てられています。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11

イメージ 12

イメージ 13

イメージ 14

イメージ 15

イメージ 16

イメージ 17

イメージ 18

イメージ 19

イメージ 20

イメージ 21

イメージ 22

イメージ 23

イメージ 24

今回は、情報の少ない右京区の二つの神社をまとめて掲載します。
三宮神社は右京区嵯峨野地区、梅津大神宮はその南の梅津地区にありますが、共に掲載するほどの情報の無い小さな神社です。
ただ、嵯峨野の南、三宮神社周辺に至る道筋は、かつて「千代の古道」と呼ばれた古道跡として知られているので、今回はこの「千代の古道」を絡めて書いてみます。


さて、京福電鉄嵐山線の有栖川駅で下車し、三条通を渡って真直ぐ南へ進むと、嵯峨野千代ノ道町という地域があります。この「千代ノ道」という町名は、かつてこの地に「千代の古道」があったことに由来しています。

「千代の古道(ちよのふるみち)」は、平安時代初期に嵯峨上皇が嵯峨離宮(現在の大覚寺)を建立して以来、平安京から北嵯峨に通じる道として用いられた小径とされ、当時の公家達はこの道を通って広沢池で観月を楽しみ、多くの和歌を詠んだといわれます。
当時の道筋の詳細は不明ですが、現在、右京区の太秦・常盤から鳴滝音戸山を通って広沢池の東南を通る道や、丸太町通から北上して広沢池に至る道と想定されていて、さらに一条通に沿って大覚寺に至るとされます。これらの道筋には、現在、京都西ロータリークラブによって、「千代の古道」の石標が建てられています。

一方、これら広沢池周辺の道筋よりは知られていませんが、今回の嵯峨野地域の南側にも、嵯峨野千代ノ道町を中心に、京都西ロータリークラブによって、五ヶ所に「千代の古道」の石標が建てられています。(北から、有栖川駅付近(右京区嵯峨野神ノ本町)、スーパー大黒屋前(右京区嵯峨野宮ノ元町)、嵯峨野保育園前(嵯峨野千代の道町)、有栖川を渡った地点 (右京区嵯峨野内田町)、三宮神社の傍(右京区嵯峨野高田町)今回は南の三ヶ所写真を掲載します。)



さて、今回の三宮神社(右京区嵯峨野高田町)は、この「千代の古道」沿いにある福田寺(浄土宗西山禅林寺派寺院 同高田町)の南にある小さな神社です。
住宅地の奥にひっそりと佇んでいるといった印象の境内には、松尾大社の末社であることを示す石標がありますが、松尾大社のホームページには、別の三宮神社(右京区西京極北裏町 前にブログパート1に掲載)が掲載されているのみで、この神社については記載されていないため、関連は不明です。ただ、地域的にも松尾大社の影響下にあった神社であることは確かだと思われます。境内は地域の人達のよってきれいに整備されているようです。


この三宮神社からかなり距離がありますが、梅津大神宮(右京区梅津東溝口町)をついでに採り上げます。
梅津大神宮は、桂川に架かる上野橋の袂にある小さな神社で、直ぐ傍には、非公開寺院の長福寺(臨済宗寺院 平安時代末期の創建、光厳天皇勅願の大寺)があります。また、梅津地区の神社としてはブログパート1にも掲載していますが、少し西にある梅宮大社がたいへん有名です。梅津大神宮も、地域的に長福寺や梅宮大社との関連を伺わせますが、実際は一切不明のようです。
尚、梅津大神宮の祭神は、天照大神(あまてらすおおかみ)と豊受大神(とようけのおおかみ)で、左右に長い柵に囲まれた本殿に祀られています。また、その横には他にも幾つかの末社があるようです。

全7ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7]

[ 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事