京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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嵯峨嵐山の清涼寺(嵯峨釈迦堂)の東、直線で約百五十メートル程の住宅地にあるのが、後宇多天皇皇后姈子内親王(遊義門院)今林陵(れいこないしんのう(ゆうぎもんいん)いまばやしのみささぎ 嵯峨大覚寺門前六道町)で、鎌倉時代末期の後宇多天皇の皇后、遊義門院(姈子内親王)の陵墓になります。


姈子内親王(れいこないしんのう 後の遊義門院 ゆうぎもんいん)は、文永七年(1270)九月九日に、第八十九代・後深草上皇の第三皇女として誕生しました。また、母は中宮・西園寺(藤原)公子(東二条院 さいおんじこうし)です。母の東二条院は、後嵯峨天皇の中宮で後深草・亀山天皇両帝の母となる大宮院(西園寺姞子 さいおんじきつし)の七歳年下の妹になります。つまり東二条院は、後深草上皇の叔母に当たり、十一歳年上でした。


鎌倉時代末期の女流文学「とはずがたり」は、後深草上皇から寵愛を受け、さらに弟の亀山上皇との関わり等の赤裸々な愛欲の世界を描いた後深草院二条(久我雅忠女)の自伝的な物語ですが、物語の前半に、姈子内親王(遊義門院)の誕生シーンが登場します・・
それによると、母の東二条院はこの時四十歳で、後深草上皇を始め周囲の者は高齢出産を心配しました。実際、東二条院はこれまでの出産でも難産で苦しみ、第一皇女は早産しています(後に、第二皇女も十歳で亡くなります。)そこで、薬師如来、五大明王、普賢菩薩、愛染明王等々の加持祈祷が行われ伊勢・石清水・加茂等二十一社に祈願するなど盛大な安産祈願が行われ、その効果もあったのか無事に姈子内親王(遊義門院)は誕生しました。姈子は、翌文永八年(1271)に内親王宣下され、後深草の最愛の娘として大事に育てられることになります。



さて、当時の政治状況として、持明院統(後深草天皇の血統=後深草・伏見・後伏見・花園・・)と大覚寺統(亀山天皇の血統=亀山・後宇多・後二条・後醍醐・・)について少し書いてみます。

文永九年(1272)、院政を布いて実権を握っていた後嵯峨上皇が崩御します。この時、後嵯峨上皇は、二人の息子(後深草上皇と亀山天皇)のどちらを、皇室の実権を握りまた子孫に皇位を継承させることのできる「治天の君」するかという点については明確な意思を示さず、鎌倉幕府の決定に委ねると遺言しました。そのため、共に実権を握りたい後深草と亀山の周囲にはその支持者が集まって、宮中は両派に分かれ対立しました。鎌倉幕府はこの問題を解決するために、後嵯峨の中宮で、後深草・亀山両帝の生母である大宮院に後嵯峨の真意を確認します。そして、大宮院が先帝は亀山を望んでいたと表明したことから亀山天皇が治天の君に選ばれることになりました。

こうして、実権を握った亀山天皇は、文永十一年(1274)に八歳の世仁親王(後宇多天皇)に譲位して上皇となり、自由な立場で宮中の改革にも取り組みました。一方、日陰の身となった後深草上皇は、建治元年(1275)に上皇を辞退して出家しようとします。自身の立場の不満を表明した抗議行動だったのですが、これには宮中も驚き、伝え聞いた鎌倉幕府も後深草の不満を解消して出家を止めさせようと、亀山上皇に奏上して後深草の皇子・熈仁親王(後の伏見天皇)を立太子させました。こうして、将来、子の熈仁親王(後の伏見天皇)が即位することによって、自身も治天の君となることが保証された後深草は出家を見合わせ、一方の亀山は納得していませんでしたが、幕府の意見に従わざるを得ず、ともかく「増鏡」は、後深草・亀山兄弟は一緒に遊宴を楽しむなど、交流も深まったと記しています。



さて、この和解ムードの中で、弘安八年(1285)二月から、後深草・亀山両帝の生母である大宮院の母、北山准后(四条貞子)が九十歳となった祝賀行事が行われました。「増鏡」は、この時、十八歳の後宇多天皇が、紅の衣装で現れた十五歳の美しい姈子内親王(遊義門院)の姿を求めて、内親王のいる方向を普段と違った目付きで注意して見守っていたと記しています。
そして、同年八月、姈子内親王(遊義門院)は、誕生したばかりの後宇多天皇の皇子・邦治親王(くにはるしんのう 後二条天皇 生母は堀川基子(ほりかわきし))の准母として皇后宮に冊立されました。しかし、持明院・大覚寺両統の思惑の違いからか、また後深草上皇が最愛の娘を手放そうとしなかったのか、その後も姈子内親王(遊義門院)は入内しないまま、父後深草や母公子(東二条院)、異母兄の伏見天皇と伏見御所で長く同居したのでした。


その後、後深草上皇派の政治的な巻き返しが始まり、鎌倉幕府が、亀山上皇の宮中改革を嫌ったこともあって、弘安十年(1287)、幕府の圧力を受けた亀山上皇は、やむなく二十歳の後宇多天皇を譲位させ、後深草天皇の皇子・熈仁親王(伏見天皇)が即位します。我が子の即位に成功した後深草上皇はさっそく院政を開始し、正応二年(1289)には、伏見天皇は皇子・胤仁親王(たねひとしんのう 後の後伏見天皇)を立太子させ、次代も持明院統が政権を握ることが確実になりました。
これまで大覚寺統に仕えていた貴族達も、一斉に持明院統に鞍替えし、亀山上皇は失意のうちに正応ニ年(1289)に四十一歳で出家しました。一方、権力を奪回した後深草上皇も、正応三年(1290)に、四十八歳で出家して引退し、治天の君は後継者の伏見帝に譲られました。


こうした中、正応四年(1291)八月十二日に、姈子内親王は、院号宣下により遊義門院となりました。そして、永仁二年(1294)六月三十日、後宇多上皇が突然、遊義門院を伏見御所から連れ去って、亀山上皇から譲られた自身の御所、冷泉万里小路殿へ連れ帰るという事件が起こりました。
事件の詳細は不明ですが、「増鏡」は、上皇がどういう機会にか、遊義門院に激しく恋して耐えられない気持ちとなり、色々連れ出す方法を考えた上で略奪したと記します。その後、遊義門院も逃げることなくそのまま冷泉万里小路殿に留まり、後宇多の遊義門院に対する寵愛振りはこの上ないものだったようです。

この事件は、その後和解となったようで、永仁六年(1298)七月三日に、後深草法皇と東二条院が、初めて後宇多上皇の万里小路殿を訪れて、深夜まで過ごした後還御しましたが、この時に遊義門院にも対面したようで、四年前の略奪騒動は解決したようです。また、亀山法皇も両院を見送った後宇多上皇の御所入っています。この和解の背景には、あくまで想像ですが、即位した持明院統の伏見天皇が、積極的に宮中改革を行って朝廷の権威を高めようとした結果、鎌倉幕府の警戒を呼び、再び大覚寺統の巻き返しによって、永仁四年(1296)に、後宇多上皇の皇子・邦治親王(後の後二条天皇)が立太子されたという政治的な要因も少なからずあったのかもしれません。

そして、この和解から間も無い永仁六年(1298)に七月二十二日には、大覚寺統の攻勢に危機感を感じた伏見帝が、十歳の胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して院政を敷いています。ただ、同年七月二十七日に、後宇多上皇と遊義門院が伏見殿の新御所に御幸し、後深草・亀山両法皇も臨幸するなど、両統の関係は表面的には修復し、後宇多も遊義門院に同行して後深草らと度々交遊した記録があり、遊義門院が持明院・大覚寺両統の橋渡し的な存在になったことは確かです。

ただ、一応の関係修復とはいえ、当然政治面では双方駆け引きがあり、後深草から中宮・東二条院を経て、娘の遊義門院が継承していた伏見御領(平安時代の後白河法皇から皇女・宣陽門院に受け継がれ、その後、後嵯峨、後深草、伏見・・と持明院統の経済基盤となった長講堂領の重要な一部)が、遊義門院を経て後宇多の領有となり大覚寺統の経済力を強化することになることを警戒した後深草法皇は、伏見上皇と相談して、遊義門院の伏見領領有は一代限りで、その後は必ず代々の持明院統が長講堂領を分割することなく伝領するようにと遺詔することになります。

また、その後、亀山法皇や後宇多上皇が積極的に幕府に働きかけた結果、正安三年(1301)に持明院統の後伏見天皇は十四歳で、大覚寺統の邦治親王(後二条天皇)に譲位せざるを得ない結果となりました。ただ、持明院統も後伏見天皇の異母弟・富仁親王(とみひとしんのう 後の花園天皇)を立太子させることには成功します。この時以後、鎌倉幕府は、持明院統と大覚寺統の子孫の間で、約十年ごとに交互に皇位を継承(両統迭立)することを公式に定めました。こうして、後二条天皇は七歳で即位し父の後宇多上皇が院政を行いました。



さて、嘉元二年(1304)一月二一日に遊義門院の生母東二条院が七十三歳で、続いて、七月一六日に父後深草法皇が六十二歳で崩御し共に伏見御所で葬礼が行われました。また、翌嘉元三年(1305)九月十五日には亀山法皇が五十七歳で崩御します。

前述した「とはずがたり」の終章で、尼となった四十九歳の主人公(作者、後深草院二条)が、自分を憎んでいた東二条院、そしてかつて寵愛を受けた後深草、さらに亀山といった作者の若き日の思い出の人物達が次々と亡くなっていくことに寂しさを感じるシーンが登場します。
この時、彼女は、石清水八幡宮で偶然にも、後深草上皇の忘れ形見の女院、遊義門院の御幸に出会って女院の知遇を得ることになります。作者(後深草院二条)の出仕を停止するなど嫉妬深い女性として描かれる東二条院と違って、娘の遊義門院は、心根の素直な優しい女性として描かれます。
若き日の作者と父母の関係など、当時幼かった遊義門院としては知るはずも無いわけで、突然出会って、「幼くおられました頃にお仕えさせていただいたものです。お忘れでございましょうか」と感涙しながら尋ねる作者(後深草院二条)の様子を訝しがりながらも、作者を父母の思い出を共有する女性と感じた女院は、「これからはいつでも尋ねておいで」と作者を温かく迎え入れ、その後、作者は時々遊義門院と文通したと書いています。宮中生活を捨て諸国を行脚し、今や宮中には知人のいない作者は、遊義門院の優しさに救われる思いがしたのでした。


さて、「とはずがたり」は、主人公(後深草院二条)が遊義門院と再会し、後深草法皇の三回忌のシーンで静かに幕を降ろしますが、この翌年の徳治二年(1307)七月、俄かに病となった遊義門院は、後宇多上皇が宮中挙げて神仏への祈願を行うも効果なく、二十四日に万里小路殿で三十八歳で崩御しました。
女院の遺体は、かつて北山准后(四条貞子)が乾元元年(1302)に百七歳という長寿で亡くなるまで居住していた嵯峨の御所、今林殿に移されました。

後宇多上皇には、妃の遊義門院の他にも、永嘉門院(瑞子女王)等、帝の寵愛を競った女達がいましたが、「増鏡」は、それでも遊義門院への寵愛の深さには敵うものはいなかったと記し、実際、遊義門院崩御の二日後の二十六日、後宇多上皇は、妃の死を嘆いて、嵯峨寿量院で仁和寺真光院の禅助大僧正を導師として出家して、僧名を金剛性と号しました。
また、同日、遊義門院の葬礼が行われ、火葬の後、遺骨は今林殿に法華堂を建てて納められました。また、分骨の一部は高野山に納められ、さらに、後に後宇多天皇が崩御すると、天皇の御陵・蓮華峯寺陵(京都市右京区北嵯峨朝原山町)にも分骨が納められたとされます。
現在の御陵は、元々の法華堂形式ではありませんが、女院の御陵らしく小さいながら落ち着いた雰囲気があり、陵内には宝篋印塔が建てられています。

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観光名所で溢れる嵯峨野嵐山ですが、大覚寺の西側には空白地帯のように長閑な田園風景が広がり、観光客もほとんど見かけません。この広い地域一帯には、「嵯峨観空寺」という地域名(嵯峨観空寺明水町・岡崎町・久保殿町)が付けられていますが、これはかつてこの地に観空寺(かんくうじ)という大寺院があったことを表しています。

嵯峨嵐山周辺には、観空寺と同じく、大覚寺周辺を「嵯峨大覚寺門前」、天龍寺周辺を「天龍寺」、二尊院周辺を「嵯峨二尊院門前」、清涼寺(嵯峨釈迦堂)周辺を「嵯峨釈迦堂」というような大寺院の名前が取られた地域名が付けられていますが、これらの寺院が現在も観光名所として非常に有名なのに対し、今回の観空寺のみは、その地域名は残っていても実際の寺院はほとんど知られていません。


さて、大覚寺の西の田畑の中に、ぽつんと佇んでいるような小さな御堂のみが残る観空寺(京都市右京区嵯峨観空寺久保殿町)は、真言宗大覚寺派の寺院です。
平安時代の初期に第五十二代嵯峨天皇が創建し、貞観十二年(870)に官寺(定額寺)に指定されて以来、嵯峨天皇の後裔となる嵯峨源氏の菩提寺として信仰されてきたということですが、嵯峨源氏の衰退もあって、その後、中世になると荒廃しました。その後、慶長年間(1596〜1615)に後水尾天皇が一時再建しますが再び衰退して、現在は大覚寺の境外仏堂として、行基作と伝わる大寺院時代の本尊十一面観音像を祀っています。この十一面観音像は、江戸時代には洛西三十三観音巡礼の札所の一つに数えられたこともあったようです。また、江戸時代の住友家初代の住友政友(すみともまさとも)は、かつてこの地に住んで十一面観音を深く信仰していたところ、観音の夢のお告げによって、その後、住友家の財源となる伊予別子銅山を発見したという伝承があるということです。

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京都市右京区太秦椙ケ本町・・有名な広隆寺から南へ約三百メートル程度進むと、住宅地に挟まれて空き地のようながらんとした境内の神社があります・・これが市川神社です。
本来なら、コメントする程の神社でもないのですが、境内に由緒書きがあるので引用して書いてみます。

市川神社の祭神は、速秋津日子神 (はやあきつひこのかみ)と速秋津比売神(はやあきつひめのかみ)で、山王社を合殿として祀ります。
速秋津日子神と速秋津比売神は、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)伊邪那美神(いざなみのかみ)の御子神で、共に海の神、水戸の神で、夫婦神になります。水戸とは、水の出入りする門口、つまり港や河口等を意味していて、かつて、桂川・大堰川が何度も氾濫していたのを渡来系氏族の秦氏が太秦一帯の治水灌漑を行って農業地へと変えた際、水に縁のある二神を秦氏がこの地の守り神として祀ったといわれています。(神社は、その後、貞観十三年(871)四月従五位を授かったとします)そして、やや意味が不明な所がありますが、太秦小字大石中里の神(恐らく市川神社の意)は、山王大権現を祀り、木島神社(蚕の社)祭礼の五社の鉾の二番であるとしています。
ただ、水の神も力が及ばなかったのか、太秦村誌によると、この神社は常に泥沼の中にあって、洪水でいつも水の上に浮かんでいるような様子だったと伝えられます。また、かつては、境内の中央東南に御神木の大杉があって、注連縄が張ってあり大人五名が手を広げても及ばないほど太く、高さは三十メートルあったそうですが、大正時代後期に雷が落ちて枯れてしまったようです。また、現在の神社の形は昭和中期になってからのものということです。



また、市川神社から東南に、西高瀬川に沿って三百メートル程度歩くと、太秦藤ケ森町周辺の鎮守社、春日神社があります。
春日神社の周辺は新興住宅地で、現在も社域の右と後ろに接して住宅建設中なので、春日神社はその内、住宅に埋もれて、現在より見つけるのが難しくなりそうなりそうです。

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京都市右京区山之内御堂殿町にある角坊(すみのぼう)は、浄土真宗本願寺派(西本願寺)が、親鸞上人が往生した地とする旧跡で、近年まで角坊別院の名前で知られてきましたが、平成二十年(2008)十一月に本願寺が吸収合併して現在は飛地境内になりました。山門周辺から境内にかけて桜が植えられ、春は華やかな雰囲気になります。


さて、鎌倉時代の弘長二年(1262)十一月二十八日(太陽暦換算1263年1月16日 浄土真宗諸派により、生没年日時を新暦に換算、若しくは旧暦の日付をそのまま新暦の日付としているので注意)親鸞上人は九十歳で入滅しました。入滅の地は、押小路(おしこうじ)南・万里小路(までのこうじ)東にある善法院(善法坊)とされます。この善法院(善法坊)の位置については諸説があり、現在の本願寺派角坊別院(京都市右京区山ノ内御殿堂町)のある地とも、中京区御池通柳馬場上る虎石町付近ともいわれています。


浄土真宗本願寺派(西本願寺)は、江戸時代末期の安政四年(1857)の宗祖聖人六百回大遠忌法要にあたって、西の万里小路に当たる山ノ内の地を往生地と考証して善法院を再興しました・・これが現在の角坊(角坊別院)になります。
一方、真宗大谷派(東本願寺)は、かつて「親鸞ヶ原」と呼ばれ、江戸時代に建立された法泉寺の跡地に当たる、京都市立柳池(りゅうち)中学校付近を往生地として、柳池中学校内に「見真大師遷化之旧跡」の石標を建立しています。日本初の小学校として明治二年(1896)に創立した上京二十七番組小学校(現・柳池中学校)は、法泉寺とその墓地に建てられたものでした。また、上人ゆかりの光円寺(下京区西洞院松原右入る藪下町 花園御殿旧地)や大泉寺(下京区西洞院万寿寺上る月見町)が入滅地という説もあるようです。


その後、親鸞上人の遺体は、翌二十九日、本願寺第三世・覚如上人の「御伝鈔」よると「洛陽東山の西の麓、鳥部野の南の辺、延仁寺」において荼毘にされたと伝えられますが、この場所についても諸説があります。浄土真宗本願寺派(西本願寺)は、鳥辺山南辺に「延仁寺」があったとして、清水寺の南、現在の大谷本廟(西大谷)北東にある「御荼毘所」で荼毘に付されたとしています。
一方、真宗大谷派(東本願寺)は、前にブログに採り上げた延仁寺(京都市東山区今熊野総山町)で荼毘に付されたとしています。遺骨は鳥辺野北辺の「大谷」に簡素な石塔を建てて納められましたが、文永九年(1272)に上人の末娘の覚信尼や門弟達が、大谷の西に廟堂を建てて遺骨を移し御影像を安置しました・・これが大谷廟堂(おおたにびょうどう 大谷影堂)で、その後、本願寺へと発展します。(廟堂は、江戸初期の本願寺分立によって、清水寺の南に位置する本願寺派(西本願寺)の大谷本廟(西大谷)と、円山公園の南に位置する大谷派(東本願寺)の大谷祖廟(東大谷)に分立)



尚、今回、角坊の写真を掲載しましたが、真宗本願寺では、宗祖親鸞の七百五十回大遠忌を控えて、早ければ今年から角坊の旧建物を取り壊し、境内地を整備する予定ということです。そうなると旧建物はこの写真が見納めになると思われます。
予定では、僅かにに現在の山門、鐘楼を残して、老朽化した本堂、元本堂、寺務所、客殿、書院等七件の建造物の取り壊しを予定していて、その後、本瓦葺きの本堂、寺務所・集会所と渡廊下といった三棟の建物を新築し、また参道と境内地を整備するということです。

嵯峨の「油掛蔵地」

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今回は、嵯峨野散策の際に寄ってみたい小さなお地蔵様です。
JR山陰本線の嵯峨嵐山駅から北東、または京福電鉄(嵐電)の鹿王院駅から真っ直ぐ北へ、それぞれ約三百メートル進むと、有栖川沿いの道路脇に小さな地蔵堂があります。これが油掛地蔵尊です。(京都市右京区嵯峨天龍寺油掛町)

京都市内では、西岸寺 (さいがんじ 伏見区下油掛町 ブログパート1参照)境内の油掛地蔵、右京区梅津の油掛地蔵等もありますが、西岸寺の油掛地蔵が京都と大阪との中継地として発展した江戸期の伏見商人の熱心な信仰を感じさせるのに対し、この嵯峨の油掛地蔵は、現在の嵯峨野の風情にマッチしていて、どこか長閑な印象があります。


この地蔵尊は、地蔵菩薩ではなく実際は阿弥陀如来像で、光背の左右に梵字で観音・勢至の両菩薩を表している阿弥陀三尊像になります。また、調査によって、鎌倉後期の延慶三年(1310)、平重行の願主で建立されたという在銘があることが判明しています(正面右上に年号月、正面左上に願主名あり)
また、大きさは、石高は約百七十センチ、石横約八十四センチ(中心幅約五十センチ)石の厚さ約四十センチあり、その中心に像高約九十センチ(頭部約二十七センチ、台座三十一センチ)の像が刻まれています。

この石仏は、石の両肩を斜めに大きく切り落とした珍しい形をしていて、厚肉彫りで胸の張りも豊かで、両肩から両腕にかけての重厚さは、鎌倉石仏の風格が感じられるということです。京都で鎌倉時代の在銘のある石仏はこの他に二体しかなく、何れも重要文化財、重要美術品に指定されていて、この油掛地蔵も重要文化財級の貴重な石仏といえます。
また、この石仏に油を掛けると祈願成就するという言い伝えは、江戸時代初期の医者で、歴史家としても知られる黒川道祐が、その著「嵯峨行程」に中に、「油掛地蔵此辺にあり 凡そ油を売る人この所を過るときは必ず油をこの像に灌いで過ぐ云々」と記していることから、約三百以上前から当時は貴重な御油(当時は行灯等のために菜種油が必要不可欠でした)を掛けて祈願した風習があったようです。

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