京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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一条戻橋その2

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前回の続きです・・

屋代本『平家物語』(剣巻)から、渡辺綱と鬼の対決シーンです・・
まず、原文を掲載します。

「その頃摂津守頼光の内に、綱・公時・貞道・末武とて四天王を仕はれけり。中にも綱は四天王の随一なり。武蔵国の美田といふ所にて生れたりければ、美田源次とぞ申しける。
一条大宮なる所に、頼光聊か用事ありければ、綱を使者に遣はさる。夜陰に及びければ鬚切を帯かせ、馬に乗せてぞ遣はしける。彼処に行きて尋ね、問答して帰りけるに、一条堀川の戻橋を渡りける時、東の爪に齢二十余りと見えたる女の、膚は雪の如くにて、誠に姿幽なりけるが、紅梅の打着に守懸け、佩帯(はいたい)の袖に経持ちて、人も具せず、只独り南へ向いてぞ行きける。綱は橋の西の爪を過ぎけるを、はたはたと叩きつつ、「やや、何地へおはする人ぞ。我らは五条わたりに侍り、頻りに夜深けて怖し。送りて給ひなんや」と馴々しげに申しければ、綱は急ぎ馬より飛び下り、「御馬に召され侯へ」と言ひければ、「悦しくこそ」と言ふ間に、綱は近く寄つて女房をかき抱きて馬に打乗らせて堀川の東の爪を南の方へ行きけるに、正親町へ今一二段が程打ちも出でぬ所にて、この女房後へ見向きて申しけるは、「誠には五条わたりにはさしたる用も侯はず。我が住所(すみか)は都の外にて侯ふなり。それ迄送りて給ひなんや」と申しければ、「承り侯ひぬ。何く迄も御座所へ送り進らせ侯ふべし」と言ふを聞きて、やがて厳しかりし姿を変へて、怖しげなる鬼になりて、「いざ、我が行く処は愛宕山ぞ」と言ふままに、綱がもとどりを掴みて提げて、乾の方へぞ飛び行きける。

綱は少しも騒がず件の鬚切をさつと抜き、空様に鬼が手をふつと切る。綱は北野の社の廻廊の星の上にどうと落つ。鬼は手を切られながら愛宕へぞ飛び行く。さて綱は廻廊より跳り下りて、もとどりに付きたる鬼が手を取りて見れば、雪の貌に引替へて、黒き事限りなし。白毛隙なく生ひ繁り銀の針を立てたるが如くなり。これを持ちて参りたりければ、頼光大きに驚き給ひ、不思議の事なりと思ひ給ひ、「晴明を召せ」とて、播磨守安倍晴明を召して、「如何あるべき」と問ひければ、「綱は七日の暇を賜りて慎むべし。鬼が手をば能く能く封じ置き給ふべし。祈祷には仁王経を講読せらるべし」と申しければ、そのままにぞ行なはれける。

既に六日と申しけるたそがれ時に、綱が宿所の門を敲く。「何くより」と尋ぬれば、「綱が養母、渡辺にありけるが上りたり」とぞ答へける。彼の養母と申すは、綱が為には伯母なり。人して言ふは、悪しき様に心得給ふ事もやとて、門の際まで立出でて、「適々の御上りにて侯へども、七日の物忌にて候ふが、今日は六日になりぬ。明日ばかりは如何なる事候ふとも叶ふまじ。宿を召され候ふべし。明後日になりなば、入れ参らせ候ふべし」と申しければ、母はこれを聞きてさめざめと打泣きて、「力及ばぬ事どもなり。さりながら、和殿を母が生み落ししより請取りて、養ひそだてし志いかばかりと思ふらん。夜とて安く寝ねもせず。濡れたる所に我は臥し、乾ける所に和殿を置き、四つや五つになるまでは、荒き風にも当てじとして、いつか我が子の成長して、人に勝れて好からん事を見ばや、聞かばやと思ひつつ、夜昼願ひし甲斐ありて、摂津守殿御内には、美田源次といひつれば、肩を並ぶる者もなし。上にも下にも誉められぬれば、悦(よろこび)とのみこそ思ひつれ都鄙遼遠の路なれば、常に上る事もなし。見ばや見えばやと、恋しと思ふこそ親子の中の欺きなれ。この程打ち続き夢見も悪しく侍れば、覚束なく思はれて、渡辺より上りたれども、門の内へも入れられず。親とも思はれぬ我が身の、子と恋しきこそはかなけれ」綱は道理に責められて門を開きて入れにけり。

母は悦びて来し方行く末の物語し、「さて七日の斎と言ひつるは何事にてありけるぞ」と問ひければ、隠すべき事ならねばありの儘にぞ語りける。母これを聞き、「扨は重き慎みにてありけるぞや。左程の事とも知らず恨みけるこそ悔しけれ。さりながら親は守りにてあるなれば別の事はよもあらじ。鬼の手といふなるは何なる物にてあるやらん、見ばや」とこそ申されけれ。綱、答へて曰く、「安き事にて侯へども、固く封じて侍れば、七日過ぎでは叶ふまじ、明日暮れて侯はば見参に入れ侯ふべし」母の曰く、「よしよし、さては見ずとても事の欠くべき事ならず。我は又この暁は夜をこめて下るべし」と恨み顔に見えければ、封じたりつる鬼の手を取り出だし、養母の前にぞ置きたりける。母、打返し打返しこれを見て、「あな怖しや。鬼の手といふ物はかかる物にてありけるや」と言ひてさし置く様にて、立ちざまに「これは我が手なれば取るぞよ」と言ふままに恐ろしげなる鬼になりて、空に上りて破風の下を蹴破りて虚に光りて失せにけり、それよりして渡辺党の屋造りには破風を立てず、東屋作りにするとかや。綱は鬼に手を取返されて、七日の斎破るといふとも、仁王経の力に依て別の子細なかりけり。この鬚切をば鬼の手切りて後、「鬼丸」と改名す。」



やや意訳ですが・・

その頃、摂津守源頼光には、渡辺綱(わたなべのつな)、坂田金時(さかたのきんとき)、碓井貞光(貞道 うすいのさだみつ)、ト部季武(うらべのすえたけ)という四天王がありましたが、中でも、随一といわれたのが渡辺綱です。武蔵国の美田に生まれたため、美田源次といいました。
主君頼光は、用事のために、渡辺綱を一条大宮に派遣しました。深夜のため名剣「髭切」を帯刀させ馬で向かわせます。要件を済ませた帰り、綱が一条堀川の戻橋を渡る際、橋の東の袂を、二十歳ほどの雪のように色白で美しい女が、紅梅の衣装で経を持ち、供も無く一人で南へ向かっていましたが、綱が橋の西の袂を過ぎるのを、手をたたいて、「どこへ行かれるのですか。私は五条付近のものですが、深夜で怖いので送っていただけないでしょうか。」とぶしつけに言うので、綱は直に馬から降りて「どうぞ馬にお乗りください」と馬を勧めます。嬉しいと喜んだ女を、綱は近寄って抱いて馬に乗らせ、堀川の東の袂を南へ向かいますが、正親町へ今少しという所で、女は後ろを振り向いて、「実は五条付近にはさしたる要も無いのです。私の家は都の外なので、そこまで送ってもらえないでしょうか。」と言います。 綱が「わかりました。何処にでも送りますよ。」と言うのを聞くと、女は形相を変え恐ろしい鬼となり、「さあ、わが行くところは愛宕山ぞ。」といって、綱の髻(もとどり)をつかんで、西北天へ飛びました。

綱は少しも騒がず、名刀「鬚切」をさっと抜いて仰向けに鬼の腕を切り落としました。綱は北野社(北野天満宮)の廻廊の上にどっと落ち、一方、鬼は腕を切られながらも愛宕山へと飛んで行きました。さて、綱は廻廊から跳り下りて、髻を摑んだままの鬼の腕を取って見れば、雪のような白い容貌と違って黒々としていて、白い毛がびっしりと隙間無く生えていて銀の針を立てたようでした。綱が、鬼の腕を持ち帰って頼光の元へ参上すると、頼光はたいへん驚き、不思議な事だと思って「晴明を召せ」と命じました。そして、参上した播磨守安倍晴明に、「どうすればよいか。」と尋ねると、晴明は、「綱は七日間の暇をいただいて慎み、鬼の腕は厳重に箱に封じて置かれ、祈祷に仁王経を講読すると良いでしょう。」と言うので、そのようにしました。

そして、既に六日が過ぎた夕暮れに、綱の宿所の門を叩く音がします。「何処からのものだ。」と尋ねると、「私は綱の養母で、渡辺から上洛したものです。」と答えます。彼の養母というのは、綱の伯母でした。使いが変な様子も無いというので、綱は門の傍まで出て、「うれしい御訪問ではありますが、七日の物忌を行っている最中で、今日は六日目になります。明日まではどうしても適いませんので、宿にお泊りください。明後日になれば入っていただけましょう。」と言えば、養母はこれを聞きてさめざめと泣いて、「仕方のないことです。しかし、生母が産んだあなた様を受けとって養い育てた気持ちをどのように思われるのでしょう。夜も安心して寝られず。私は濡れた所に寝て、乾いた所にはあなた様を置いて、四、五歳になるまでは、強い風にも当てないようにし、いつか我が子が成長して、優れた人になるのを見たい、聞きたいと思って昼夜願っていた甲斐があって、摂津守殿の御内で、美田源次(渡辺綱)といえば肩を並べる者もありません。上にも下にも誉められ喜びだけと思いながらも、遠路のためいつも上洛することなどありません。会いたい恋しいと思うことは親子の中の偽りです。最近、立て続けに悪い夢を見たので、心配して渡辺から上洛しましたが門の内へも入れられません。親と思われていいない我が身で子を恋しいと思うのは空しい気持ちです。」綱はこの道理に責められ、門を開いて中に入れました。

母は喜んでこれまでの事や将来のこと等を話し、「さて七日の物忌というのは何事ですか。」と問うので、綱は隠す事でもないので有りのままに話しました。母これを聞き、「それは重要な戒慎ですね。そのようなこととは知らないで恨んだりして後悔しています。ただ、親は子の守りでもあり他人事ではありません。鬼の腕というのはどんな物なのか見せてください。」と言います。綱が「それはお安いことですが、固く封じているので七日目が過ぎるまでは出来ません。明日暮れてからお目にかけましょう」と言うと、養母は、「わかりました。別に今見なくても不自由な事でもありません。私は次の朝は夜が明けないうちに来ましょう。」と恨めしい顔で言うので、綱は箱に厳重に封じていた鬼の腕を取り出して養母の前に置きました。母は、繰り返しこれを見て、「これは怖しい。鬼の腕というのは、このようなものですか。」と言っていましたが、そのまま立ち上がると、「これは我が腕なので、もらっていくぞ。」と言って、恐ろしい鬼の姿になって飛び上がり、屋根の破風を蹴破って空中に光りながら消えていきました。それ以来、綱の出身の渡辺党では家の屋根造りには破風を立てず、東屋作りにするようになったということです。綱は鬼に腕を取り返されて、七日の物忌を破ることになりましたが、仁王経の力によって特に何ともなかったのでした。そして、名刀「鬚切」は、鬼の腕を切って後は、「鬼丸」と改名したということです。



さて、媚びたり、泣いたり、喜んだりと鬼の巧みな演技に、さすがの綱も騙されて、鬼の腕を奪還されたわけですが、鬼の巧みな話術が面白く、長々と掲載してしまいました。

その後の一条戻橋についてです。

その後、桃山時代には、千利休が大徳寺山門上に自身の像を置いたことに怒った豊臣秀吉は、利休を切腹させると同時に、利休の木造を一条戻橋の上で磔にしました。そして、死んだ利休の首を木像の下に置いて、像が首を踏みつける姿で晒しものにしたと伝わります。
また、戦時中は、出征する兵士が無事に帰還できるようにと、戻橋を渡り、また、現在でも婚礼や葬儀の際はこの橋を避けて通るということです。

最後に、現在の戻橋は、平成七年(1995)に架け替えられたもので、先代の橋は大正十一年(1922)から平成七年(1995)まで架けられていました。その当時の親柱や欄干を再利用したミニチュア版が、晴明神社境内に再現されていることは、晴明ファンには良く知られていますね。(写真)

一条戻橋その1

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有名な割に、実際に見るとあまり印象に残らない史跡というのがありますが、一条戻橋(京都市上京区堀川下之町)もそういった史跡のように思います。

現在の戻橋は、普通のコンクリート造の特徴の無い橋なので、すぐ下流に架かる石組造りの堀川第一橋(中立売橋)と勘違いする人もある位です。しかし、戻り橋が、平安遷都の際に架橋されて以来、何度も石橋を架け替えながらも、現在までその位置をほとんど変えず存在してきた貴重な橋であることは確かなようで、古くから多くの伝説に彩られ、洛中の名橋として知られていました。


さて、平安時代、戻り橋のある一条大路(現一条通)は、平安京の最北の通りで、戻り橋は、堀川小路の中央を流れる堀川(川幅約四丈(約十二メートル))に架けられていました。
堀川は、当時、平安宮内裏の東の外堀の役割を果たしていたとされ、戻り橋付近は、平安宮の鬼門(北東角)に当たりました。そして、一条大路((現一条通)が平安京の洛中と洛外を分ける北の境界線でもあったことから、後世、あの世と此の世の境界、死者が甦ったり、霊や鬼等の伝説を生んだと思われます。(南の境界に当る九条大路(九条通)の羅生門と共通する所がありそうです)



元々「土御門橋」と言われていたこの橋が、何時頃、「一条戻橋」と呼ばれるようになったのかは不明ですが、平安時代中期の和泉式部の歌に、「いづくにも帰るさまのみ渡ればやもどり橋とはひとのいふらん」(和泉式部)とあり、恐らく、平安中期以降には、この名前が定着していたと思われます。

そして、「戻橋」と言う名前の由来としては、西行に仮託された説話集『撰集抄』(鎌倉時代以降成立)の巻七第五に以下のような記載があることが知られます。

「仲算事浄蔵は、善宰相の正き八男そかし。其に八坂の塔のゆるめ<る>を、祈直し、父の宰相の此土の縁つきて去給ひしに、一条の橋のもとに行合て、且く観法して蘇生し奉られけり。伝へ聞も有かたくこそ侍れ。さて、其一条の橋をはもとり橋といへるとは、宰相のよみかへり給へる故に名付て侍り。源氏の宇治の卷に、行くはかへるはしなりと申たるは、是なりとこそ行信は申されしか。宇治の橋といふは、誤れる事にや侍らん」

平安時代中期の漢学者・文章博士の三善清行(みよしきよゆき・きよつら 847〜919)が亡くなって、その葬列がこの橋に差し掛かった時、修験道の修行をしていた子の浄蔵(じょうぞう)が駆けつけて、父の棺の前で一心に読経すると、父清行が生き返ったことから、以来、死者が蘇る橋として知られるようになったということです。
(尚、『撰集抄』は、源氏物語の宇治の帖に「行はかへるはしなり」とあるのは、この橋の事であるとも記していますが、現在の宇治十帖には、該当する記述は見当たらないようです。成立当初から多くの写本が存在した源氏物語は、本文を整理した校訂版が現在に伝わりますが、当時の諸本中には、そのような記載があったのかもしれません。)


また、戻橋では橋占(はしうら)も盛んに行われていたようです。
橋占は、辻占(つじうら かつて、道路は人と同じく神も通る場所である考え、道の交差点に立って、偶然通る人の言葉を聞いて、これを神のお告げと考えました)と同じく占いの一つで、橋は異界とつながりの有る場所と考え、橋の袂で橋を通る人々の言葉を聞いて、神のお告げと考えました。

『源平盛衰記』(巻十)には橋占に関する、以下のような記載があります・・

「中宮御産事 治承二年十一月十二日、寅時より中宮御産の氣御座すと訇けり。去月廿七日より、時々其御気御座けれ共、取立たる御事はなかりつるに、今は隙なく取頻らせ給へども、御産ならず。二位殿心苦く思給て、一條堀川戻橋にて、橋より東の爪に車を立させ給て橋占をぞ問給ふ。
十四五許の禿なる童部の十二人、西より東へ向て走けるが、手を扣へ同音に、摺は何摺、國王摺、八重の鹽路の波の寄摺と、四五返うたひて橋を渡、東を差て飛が如し失にけり。
二位殿帰給て、せうと平大納言時忠卿に角と被仰ければ、波のよせ榻こそ心に候はねども、国王榻と侍れば、王子にて御座候べし。目出き御占にこそ候へとぞ合たる。八歳にて壇浦の海に沈み給てこそ、八重の塩路の波の寄榻も思ひしられ給ひけれ。
一條戻橋と云は、昔安部晴明ガ天文の淵源を極て、十二神將を仕けるが、其妻職神の貌に畏ければ、彼十二神を橋の下に呪し置て、用事の時は召仕けり、是にて吉凶の橋占を尋問ば、必職神人の口に移りて、善惡を示すと申す、されば十二人の童部とは、十二神將の化現なるべし。」



少し省略した意訳を掲載します・・

高倉天皇の中宮建礼門院が出産する際、中々出産に至らない事を気にした母の二位殿(平時子)は、一条戻橋の東の袂に車を止め橋占を行いました。
この時、十二人の童子が、西から東へと手を打ち鳴らし「摺は何摺、國王摺、八重の鹽路の波の寄摺」と歌いながら橋を渡り、あっという間に消えていきました。この事を大納言平時忠に話すと、波云々・という件は思い当たらないが、国王と言うからには、これは皇子が生まれる目出度い占いだと一致したということですが、「八重の鹽路の波の寄摺」という童子達の歌は、八歳で壇ノ浦で海に沈む皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する内容だったようです。
また、一条戻橋は、かつて、安部晴明が天文を極め十二神将使役しましたが、彼の妻が識神(式神)の顔を怖がったので、晴明は十二神将を橋の下に呪し置いて、必要な時に召喚していたとし、吉凶の橋占いを尋ね問うと、識神が人の口に移って善悪を示したということから、十二人の童子達とは、十二神将の化身だったのだろうと伝えています。




以上のような伝説は古くから知られていたようで、一条戻橋に関しては、『都名所図会』、『山州名跡志』、『雍州府志』等の江戸時代の京都案内にも必ず掲載されています。

例えば、『都名所図会』は、「戻り橋は一条通の堀川の上にあり、安倍晴明十二神将を此橋下に鎮め、事を行ふ時は喚で是を使ふ。世の人吉兆を此橋にて占ふ時は神将かならず人に託して告るとなん。(源平盛衰記に中宮御産の時、二位殿一条堀川戻橋の東の爪に辻占を間給ふとなん)又三好清行死する時、子の浄蔵父に逢んため熊野葛城を出て入洛し、此橋を過るに及んで父の喪送に遭ふ、棺を止て橋上に置、肝胆を摧き念珠を揉、神祇を祷り、遂に呪力陀羅尼の徳によつて閻羅王界に徹し、 父清行忽蘇生す。浄蔵涙を揮て父を抱き家に帰る、これより名づけて世人戻橋といふ。是洛陽の名橋なり」と、これまで掲載したような内容を記し、また「婚礼の輿入、この橋を通るを嫌ふは、橋の名によりてなり。又旅立、人にものを貸時通るは、これに反すとやいふべき」と、婚礼の輿入の際は、出戻りを嫌って橋を渡らないこと、また逆に、旅行に行く時や、他人に物を貸した際は、戻ってくるように戻橋を通った方が良いとされていたことを記しています。


『山州名跡志』巻十七(洛陽)は、「戻橋 在一條通堀河上、渡二東西、此洛の名橋也、傳云、安陪晴明十二神を呪置處也、神社考曰く 晴明役二使す十二神将を 妻畏し職神の形を、因て呪し以て置く二十二神を干、一条の橋の下に一有る事時は喚て而使ふ之を、自是世の人占ふ吉凶を干橋の邉に則神必す託す人以告ると云ふ、又云ふ三善の清行死す、子浄蔵祈て之を干一条の橋の下に而清行蘇生す、故に世の人号の云ふ反橋云々、愚按、晴明使神を此所に呪し住すむるは、其居所に近き故ならん歟、其居一條堀河の西二町の所也、今猶晴明町と云ふなり、夜陰此橋の邊に立て、往反の詞を聞て占問こと古今の例にして感應嚴重也、治承二年十一月十二日寅の時より中宮御難産なり、此橋の東の爪に車を立て占を聞れん事載す源平盛衰記、又恵心の僧都西方往生の得否を、此橋に占とへる事載す念仏三心要集に、又法然上人の弟子西山上人出家の事を母此橋に占とふ事載す證空ノ伝記 古老の曰く、右此橋は晴明所なり二呪封する也、橋の邉の土中一丈許り下に如そ櫃畳石を為す蓋あり、先年就く洪水に一漸見はる、皆以為れ恐れを覆ふと土を云々」と記しています。

こちらも、これまで記載した内容との重複が多いですが、晴明が十二神を戻橋の下に隠していたのは、屋敷から近いからだろうと記し、また、洪水によって、戻橋の下の土の中から蓋をした櫃が露出したことがあって、皆恐れて埋めたことを記載しているのが興味深いです。また、恵心僧都源信の西方往生の得否、西山上人證空(証空)の母が少年時代の上人が出家すべきか戻橋で橋占を行ったというのも注目されます。



さらに、一条戻橋といえば、渡辺綱(わたなべのつな)の鬼退治の話が有名で、屋代本『平家物語』(剣巻)は、初めに鬼の正体を説明し、その後、渡辺綱と鬼との対決を描いています。

尚、鬼の正体は、「丑の刻参り」の伝承例として知られ、謡曲「鉄輪」にも登場する「宇治の橋姫」で、他にも多くの伝説に登場する有名な鬼女です。原文も掲載しようとしたのですが、字数オーバーなので、「宇治の橋姫」の誕生シーンは訳のみとさせていただきます・・・


嵯峨天皇の時代に、ある公卿の娘がいました。非常に嫉妬深く、貴船神社に詣でて七日間籠って祈るには、「貴船大明神さま、七日間籠もったあかつきには、私を生きながら鬼神にしてください。妬ましい女を取り殺したいのです」と祈りました。貴船明神は哀れと思って、「そなたが言うことはまことに可哀想だ。本当に鬼になりたいのであれば、姿を変えて、宇治川に行って二十一日間漬るのだ。」とお告げがありました。
女房は喜んで都に帰り、人のいない場所に籠って、長い髪を五つに分けて五つの角にし、顔には朱を指し、身には丹を塗り、鉄輪を頭に戴せて三つの足には松の木を燃やし、松明を咥えて両端に火を付け、夜更けに人がいなくなった後、大和大路へ走り出で南へ向かいましたが、頭から五つの火が燃え上り、眉太く、歯を黒く染め、顔も体も赤く、まさに鬼の姿で、この姿を見た人は、皆衝撃を受けて倒れ死んでしまいました。このような姿で宇治川に行って二十一日漬ると、貴船神社の計らいで、生きながら鬼となりました。宇治の橋姫と言われるのはこの鬼のことです。
さて、妬しと思う女やその関係者、自分を嫌う男の親類等、さらに身分の上下をも問わず、男女に関係なく思うままに誰でも取り殺しました。男を取り殺すときは女に変身し、女を取り殺すときは男に変じて人を取るのでした。京の都中の身分の高い者から低い者まで、日没の午後四時頃以降は、人を家に入れず出る事も無く、門を閉じるようになりました。



(次回は渡辺綱と鬼(宇治の橋姫)の対決シーンからです)

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堀川の続きです・・・



前回に写真を掲載した中立売通の「堀川第一橋」の下流に向かうと、上長者町橋、下長者町橋、赤レンガの出水橋を経て、下立売通の「堀川第二橋」があります。

「堀川第二橋」は、「堀川第一橋」架橋の翌年、明治七年(1874)に架橋された同じく石造りのアーチ橋です。但し、南北に新しく拡幅されているために、その姿は橋の下からしか確認できません。
また、「堀川第一橋」が「鶴の橋」と呼ばれてきたのに対し、「堀川第二橋」は「亀の橋」と呼ばれ親しまれてきました。今回の堀川周辺整備によって、橋下から簡単にアーチ橋の様子が見られるようになりました。



「堀川第二橋」から、椹木町橋、スロープのある広い丸太町橋を南下すると、堀川は二条城に平行して流れます。
この辺りがもうひとつの見所のようです・・二条橋付近の掲示板によると、この付近の川沿い西側の石垣は、二条城築城に伴って、慶長八年(1603)頃に築かれたもので、昭和十四年(1939)十一月三十日に、二条城と共に国の史跡に指定されました。

東側の石組とは明らかに違った積み方になっていて、堀川に架かる二条橋の北側には、「是ヨリ北紀州」と読める銘文が石に刻まれていることから、慶長五年(1600)から元和五年(1619)まで紀伊国を治めた紀州浅野家が北の石垣普請を担当したと考えられています。その他二十一ケ所の刻印が発見されています。これらの刻印は、工事に関わった大名達が、受け持分の石材が集石場や輸送の途中で分散したり紛失したりするのを防ぐために目印として刻んだもので、現在の製品タグのようなものでした。

これらの刻印が見つかる範囲は、夷川橋の北から二条橋の南までの範囲で、刻印は切り出した石の表面をそれ程加工しないで彫り込まれているために、見過ごして通り過ぎてしまうものが多く、石の隙間を覗き込んでようやく発展できるものもあるということです。

こうして、二条城の南の押小路橋で地上開渠部は終了します。
写真のように、まだ京都らしい風情というより、街中の「普通の川」といった雰囲気ですが、二条城観光のついでにでも、堀川沿いを歩いてみるのも悪くないかもしれません。

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今回から二回に分けて、平成二十一年(2009)に清流が甦った堀川について書いてみます。


堀川(ほりかわ)は、京都市のほぼ中心部を南北に流れる淀川水系の河川です。
京都市内で最も広い幹線道路の堀川通に平行して流れ、大部分は暗渠化していますが、今出川通から御池通までの区間は地上に出ています。

かつては水流が豊かだった堀川ですが、昭和三十年代には水が枯渇し、川床がコンクリートで底打ちされた、雨天の際の放流先としてのみ使われる「水の無い川」「大きな溝」になってしまいました。
 堀川通沿いには、西本願寺や二条城、晴明神社、一条戻橋等の観光名所がありますが、堀川そのものが注目されることは久しく無かったといって良いかもしれません。しかし、近年、堀川水辺環境整備事業の結果、平成二十一年(2009)三月、約五十年ぶりに清流となって甦りました。


さて、堀川の起源は、平安京以前、京都盆地の中央付近の古烏丸谷(現在の烏丸通付近)や船岡山付近から南の古堀川谷(堀川通付近)を流れる自然河川と考えられています。
その後、平安京の造営の際に、これらの河川が運河として開削され、主に大内裏造営のために、京都北山連邦の豊富な木材資源の運搬にために利用されてきました。平安時代には、貴族達の邸内(堀川院や冷泉院、高陽院等)の庭園に清流を引き入れるために利用しました。やがて、堀川は物資運搬の他に、貯木場、農業用水、友禅染等、京都の人々の生活や産業を支えるものになりました。
しかし、戦後の下水道整備や、近年の急激な都市化による水質の悪化や豪雨時の浸水被害等の対策として何度も改修工事が行われ暗渠化してきた結果、千二百年もの歴史がある堀川の豊かな流れは絶えてしまいました。


堀川に清流を蘇らせようという地元市民の願いは大きく、堀川の水辺環境の整備は、魅力的な京都の街づくりの大きな課題となっていました。
昭和六十年(1985)には、沿線23学区と京都堀川ライオンズクラブ等で組織された「堀川と堀川通りを美しくする会」が発足し、その後も堀川の水辺再生への関心が高まる中で、「・・美しくする会」は、平成九年(1997)に「堀川の水辺空間の整備と堀川通りの再整備に係る要望書」を京都市に提出し、堀川水辺環境整備事業が本格的に展開される事となりました。
(事業年度は平成九年〜二十年度、事業区間は、左京区下鴨上川原町〜中京区堀川通御池上る押堀町、延長四.四キロ、事業費約十八億円)
翌十年(1998)、京都府・京都市共催で「京(みやこ)の川再生検討委員会」が開催され、翌十一年(1999)に「山紫水明の町づくり」をテーマとした提言が出され、堀川も再生するべきモデル河川として位置付けられました。

こうして、平成十四年(2002)から、京都市は、堀川の今出川通から二条城までの地上開渠部に水流を復活させ、市民が広く親しめる親水公園として整備する事業を進めました・・
基本方針は、琵琶湖疏水第二分線から賀茂川を下越しさせて、紫明通、堀川通の地下に導水路を設けて経由させ、今出川通から二条城までの地上開渠部に水を導いて、清流を復活させて水辺空間を整備し、二条城から下流では二条城の外堀を経て西高瀬川に放水するというものです。
また、都市防災上の観点からは、堀川河床に消防水利施設を整備して、災害時の消火用水や生活用水としての利用を図りました・・そして、平成二十一年(2009)三月にようやく整備事業が完成し、同月二十九日に通水式典が行われ、堀川に清流が復活しました。

再生された堀川は、まだ新しい人工河川の印象が強いでのすが、徐々に地元市民の憩いの場、散歩道、子供たちの水遊びの場として浸透してきました。
課題も多いかもしれませんが、今後は観光客も含めより多くの人々の集まる、自然や花々を楽しめる川沿いの都市公園を目指して「京都らしい空間」造りを目指して欲しいと思います。




さて、堀川の今出川通から二条城までの地上開渠部は、清流が復活し、市民が広く親しめる親水公園として整備されましたが、川沿いに堀川の見所を記した掲示板があり、戻橋や堀川第一橋等を解説しているので、引用して書いてみます。

今出川通から二条城までの地上開渠部の間には、合計十三の橋があります。
もちろん、一番有名なのは、「伝説の橋」一条通の戻橋です。(この有名な橋は観光名所として有名なので、別に単独で書いてみます)

実は、現在の新しい戻橋よりも、より魅力的で注目したい橋は、戻橋の直ぐ南側にある「堀川第一橋」です。
石造のアーチが一際目を引く中立売通の「堀川第一橋」は、二条城と御所とを結ぶ公儀橋として明治六年(1873)に架橋されたものですが、その美しく重厚なデザインは、堀川の歴史と文化を現在に伝えています。また、「堀川第一橋」は「鶴の橋」と呼ばれ古くから人々に親しまれてきました。

また、「堀川第一橋」の直ぐ下流に今も残るレンガ積みの橋台は、市電堀川線の歴史を現在に伝えるものです。
明治二十八年(1895)二月、日本初の電気鉄道(京都電気鉄道)が京都の町を走りました。同年九月、堀川線(通称北野線)が東堀川通に開通し、堀川中立売と堀川下立売を結びました。その後、路線距離を伸ばし乗降客数も増えて、京都市民に親しまれてきましたが、自動車の普及等から利用者が減少し、昭和三十六年(1961)七月に、ついに堀川線は廃線になりました。
レンガ積みの橋台は幅の狭い方(コンクリートのアーチ橋が架かっている部分が単線時のもので、幅の広い方(両岸が南北にずれている)が複線化していからのものということです。



次回により下流の写真を掲載します。

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二条城の北西にある児童福祉センターの前(上京区竹屋町千本東入主税町)に、石鳥居と小さな社があります・・これが、大宮姫稲荷神社(おおみやのめのみこといなりじんじゃ)です。

この地区の神社としては、出世稲荷神社(ブログパート1に掲載)が知られますが、こちらの神社は地元以外ではほとんど知られていないでしょう。巨木の根元に小さな祠があるのみで、鳥居の大きさに比較して、敷地が非常に狭いという印象です。


この神社が注目されるのは、現在は稲荷神社と称していますが、元々は、宮中神の大宮売神(大宮賣神 おおみやのめのかみ)を祀る由緒ある神社と考えられるからです・・大宮賣神は、平安時代の延喜式の宮中神の一つで、延喜式神名帳に「御巫祭神八座 並大。月次。新嘗。中宮。東宮御巫亦同」と記され、律令制時代には神祇官西院御巫の八神殿中、第六殿に祀られていた皇室守護の由緒ある神です。

さて、平安時代には、現在のNHK京都放送局敷地を中心にして、宮内省神祇官がありました。
その後、応仁の乱等で、この地にあった神祇官西院が衰退すると、以後、八神は宮中で祀られず、僅かに吉田神社境内等に八神殿が創建され細々と祀られていたということです。ようやく、明治時代に皇居に神祇官が再興されると、明治二年(1869)に八神も神祇官の神殿に祀られることになりました。その後、宮中へ遷座して、現在は皇居の宮中三殿の一つ、神殿に祀られています。


現在の神祇官西院の故地に八神のうち大宮売神のみが、どのように祀られたのか等は不明ですが、明治時代の初めには、付近には宮内省坐神三座(国神社、韓神社二座)等の遺跡等も芝生の中に僅かに残っていたとも伝えられ、その後、周辺が京都刑務所の敷地となったことで、これらの遺跡も失われてしまったようです。そして、由緒ある宮中神の名跡を持つこの神社も、いつしか稲荷大明神と呼ばれ、地元のごく一部の人が信仰するだけの神社になっていったようです。尚、現在の小さな社殿は、大正十二年(1923)に、東宮殿下の御渡欧を記念して地元の有志によって建てられたもので、末社として光春稲荷大明神を祀っています。

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