京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

上京区

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

今回は、以前にブログパート1に掲載した「鵺池」周辺の史跡を、写真を増やして再掲載します。

さて、前回に書いたように、二条公園(上京区智恵光院通丸太町下る主税町)は、平成十七年(2005)に新しく整備され、地元の人々の憩いの場所、子供たちの遊び場になっています。
公園の北側には、小さな池(普通の小池だったのものを、公園整備の際に子供に危険なため埋めて改修)があり、その中に少し磨耗して読み難いですが、「鵺池碑」と刻まれている石標があります。また、すぐ北側にも新しく石標が建てられていて、小さな社殿「鵺大明神」が立っています。

さて、この二条公園を含む一帯は、平安時代には平安京の中心部・平安宮として、内裏や大極殿、朝堂院、太政官等が立ち並んだ国家政治の中心部となる官庁街でした。そして、この小さな池は、「源三位頼政の乱」でも知られる源氏の武将・源頼政が怪鳥「鵺(ぬえ)」を退治したという伝説の場所と伝えられています。

「平家物語」等によると、平安時代末の仁平年間(1151〜54)、御所の内裏を毎夜丑の刻になると、内裏の西北、東三条の森の方から黒雲が湧き起って御所を覆い、不気味な怪鳥の声が聞こえて、幼い近衛天皇を悩ませていました。天皇は病となり祈祷を行うも効果なく、そこで、当代一流の武勇の使い手、兵庫頭源頼政が勅命を受けて御所を警護することになりました。頼政は、山鳥の尾で矧いだ矢二本を携へ、郎党の猪早太(井早太)と共に怪物退治に向かいました。

深夜になると、黒雲が御所を覆い始めたので、頼政は「南無八幡大菩薩」と祈りながら、弓を引き絞って矢を放ったところ怪物に命中、猪早太(井早太)が落ちてきた怪物を取り押さえて止めを刺しました。人々が集まって死んだ怪物を確かめると、頭は猿、胴体は狸、手足は虎、尻尾は蛇の姿をした「鵺」だったといことです。その後、二条天皇の応保(1161〜62)の頃にも、御所に鵺が現れたので、再び頼政が召されて射殺したとも伝わります。鵺伝説には様々な伝承がありますが、二条公園にある鵺池は、鵺を射殺した後、頼政が血のついた鏃(やじり)を洗った池だと伝えられています。


この池は、古来、「鵺池」と呼ばれてきたようですが、江戸時代になると、鵺池は京都所司代の邸内に組み込まれために、江戸時代に出版された京都の観光ガイドの名所図会の類には記載されなかったようです。その後、明治時代には京都刑務所の敷地内となり、前回に書いたように、昭和九年(1934)に児童公園となりました。
現在ある磨耗した古い石碑の方は、元禄十三年(1700)に建てられたものでしたが、磨耗して読めない状態では後世に伝わらないと、公園化の際の昭和十一年(1936)三月に石碑が復元されています。鵺大明神を祀る祠も同時に建てられ、玉姫大明神、朝日大明神を合祀しています。
妖怪伝説の多い京都らしい史跡だと思います。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

今回は、二条公園という極普通の公園について書いてみます・・次回に採り上げる「鵺池(ぬえいけ)」の前書き、プロローグのようなものになるかと思います。


観光名所として有名な二条城の北西側に位置する二条公園(京都市上京区上京区智恵光院通丸太町下る主税町)は、北のNHK京都放送局、南の二条城に挟まれて位置する南北約百三十メートル、東西七十メートル程の公園です。
空き地の少ない市内中心部に位置するということもあって、周辺住民の憩いの場として親しまれ、子供達や親子連れを中心に平日でも賑わっている印象があります。


二条公園は、元々、昭和三年(1928)に昭和天皇御即位を祝して開かれた「大礼記念京都大博覧会」の会場(江戸時代の京都所司代跡地で、明治には京都刑務所がありました)内に設けられた児童遊園地で、その後、同九年(1934)に公園として整備されたものです。(尚、大礼記念京都大博覧会は、岡崎公園、二条城北の京都刑務所跡地(京都刑務所は、昭和二年に現在の山科区東野に移転)、恩賜京都博物館(現京都国立博物館)の三か所を会場として、入場者数は約三百十八万人を数えたということです。)

その後、六十年以上の歳月を経て公園も老朽化したことから、京都市はワークショップ及びアンケート調査を基に検討し、街中に自然を取り入れる形式の子供から老人までが触れ合える空間として公園を整備することを決定しました。そして、平成十五年(2003)〜同十七年(2005)にかけて、大規模な改修工事が行われ、その結果、現在のような木々の多い明るい印象の多目的公園として甦りました。
また、かつてこの公園の北側にあったとされる平家物語にも登場する「鵺池(ぬえいけ)」も復元されました(次回に写真を掲載)

改修された二条公園は、北西に鵺池と神社があり、公園西側には桜の木が植えられ、池と小川が流れています。その南には「あずまや」があります。また、公園内中央北側には岩山、中央に二ヶ所の区民の誇りの木(シダレヤナギ(高さ十七メートル、幹張十三メートル、幹周二メートル)等)が植えられたゾーン、公園北東にパーゴラ、東側一帯に沿って「憩いのテラス」があり、公園南側は複合施設(遊具)が置かれ、他は多目的広場になっています。


また、公園にある掲示板によると、この二条公園のある場所は、平安時代の国家政治の中心だった平安宮(大内裏)内の、宮内大路(きゅうないおおじ 大炊御門大路(おおいのごもんおおじ)と壬生大路(みぶおおじ)の交差点の北域)に当たり、重要な役所の太政官と宮内省、園韓神社(そのからかみしゃ 園神、韓神を祀る)があった地域になります。

そして、公園整備前の平成十五年(2003)二月に遺跡確認調査を行ったところ、公園中心部付近からは、天皇や皇族の衣食住を担当する宮内省の西面築地塀の南北築地基底部(地業跡 じぎょうあと)の基礎工事跡と、宮内省西面の内溝(うちみぞ)と思われる遺構の他、平安時代前期の遺物包含層が見つかり、その中からは、当時使用されていた瓦や土器が出土しました。あずまやのある公園西側付近からは、江戸時代に整地された地層が発見されたということです。

妙顕寺その3

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

前回の続きです・・


これまで妙顕寺の歴史を中心に書いてきましたが、かなり長くなりましたので、今回は境内の様子を簡単に書いておきます(妙顕寺のホームページから引用させていただきます)

さて、「門下唯一勅願寺」の札が掲げられた山門を潜ると、参堂の先、正面に本堂があります。
本堂右手には、三菩薩堂(祖師堂)と尊神堂(鬼子母神堂)、そして、三菩薩堂(祖師堂)と尊神堂(鬼子母神堂)の間には、慶中大菩薩が祀られています。また、三菩薩堂(祖師堂)の裏には御真骨堂(鐘眞窟)、納骨堂があります。
(尚、天明期の図会によると、天明の大火以前は、本堂から、鬼子母神堂、祖師堂へと回廊で繋がっていたようです。また、現在は有りませんが、正面には楼門(仁王門)、境内東側には七面大明神、境内西側には五重塔が点在していました。)


現在の本堂は、妙顕寺の寺史「龍華年表」によると天明の大火後、天保元年(1830)九月の上棟ということで、瓦銘から同十年頃に完成したと考えられています。典型的な平面形式の日蓮宗本堂ですが、内部空間が平明で近世的な様式が取り入れられています。(尚、平成二十一年四月から屋根瓦葺き替え工事を行っています)
本堂の東にあるのが祖師堂で、日蓮、日朗、日像の三祖を合祀していることから「三菩薩堂(二世大覚上人の雨乞い功により、日蓮に大菩薩、開山日像とその師日朗に菩薩号の勅賜を賜ったことから)」と言われ、天明の大火後には、一時仮本堂として再建されました。


三菩薩堂の裏手にあるのが御真骨堂です。元々は鐘眞窟と言い、日蓮、日朗、日像各聖人の眞舎利を奉安する御堂で、明治初期、第五十二世福田日耀上人の代に再建されたものということです。また、その裏には納骨堂もあります。
本堂の直ぐ右にある尊神堂には、安産や子供の守護神、悪を除き福をもたらす鬼子母神が祀られていて、過去には天皇が参拝したことから天拝鬼子母神堂とも言われています。
その脇にある慶中大菩薩は、元々、京都御所鎮護の守護神として宮中の女官から尊崇された神で、当山が後醍醐天皇の勅願寺として建立された際に境内に祀られるようになったと伝えられます。


境内の西側には、鐘楼や妙見大菩薩、四海唱導跡地の碑等があります。
天明の大火後に再建された鐘楼は、元々は、境内の大門の東にありましたが、昭和四十年(1965)に、かつて五重塔があった現在地に移築されました。また、鐘は正徳3年(1713)の鋳造です。

他に本堂の裏には、庫裏、大玄関、客殿等があります。
客殿の正面右手奥には、戦前までは天皇専用の玉座の間があり、現在も客殿の正面には、勅願寺らしい勅使門が残されています。勅使門の傍の壽福院塔は十一重の石塔で、熱心な法華宗徒だった加賀藩主・前田利家の室、壽福院日栄の寿塔で、寛永五年(1628)の建立ということです。
傍には、他に八房大龍神が祀られています・・正平十三年(延文三年 1358)、大覚妙実上人が勅命で桂川の傍で祈雨の行を行った際、八大龍王の使者で八つの金角、八つの金房のある八房龍神が師を守護しました。そして、今尚この地に在住して大本山を守護していることから、大正六年にこの地に八房大龍神を祀ったものということです。

庭園は、天明の大火の焼失後は原形を失って本来の姿は不明ですが、客殿の前庭は「龍華飛翔の庭(四海唱導の庭)」、書院の前庭は「光琳曲水の庭」と名付けられた枯山水庭園です。また、孟宗竹林が聳える美しい坪庭があります。これら庭園は、以前は公開されていましたが、現在は拝観中止のようです。他に、檀信徒や女性限定の宿坊も行っています。


また、江戸時代には境内に二十余の塔頭があったようですが、現在は九つの塔頭が残存しています。
特に、泉妙院には尾形光琳や乾山一族の墓があることで知られ、善行院は、「洛陽十二支妙見めぐり」の「子」に当たる「西陣の妙見宮」として親しまれています。(共に、ブログパート1に採り上げています)他にも、重森三玲作の御題目庭園(非公開)がある教法院、京の豪商、茶屋四郎次郎の霊像を祀る久本院、その他、實成院、法音院、本妙院、恵命院、十乗院があります。


寺宝としては、尾形光琳筆「松竹梅図」三幅、狩野永納筆「三幅對(天台大師、伝教大師、日蓮上人)、国の重文指定の妙顕寺文書(千六百五十六通 六十巻、七十四幅、千二百九十四通 重文)、神国王書(日蓮筆 重文)、強仁状御返事(日蓮筆 十二月廿六日 重文)、紙本墨書後小松天皇宸翰御消息(重文)、金字法華経(巻第五(巻首伏見天皇宸翰)重文)等多数を所有しています。


最後に、定例の年中行事としては、「新年祈祷祭(一月)」、妙顕寺鎮護の慶中大菩薩お火焚祭の「二の午 慶中様大祭(二月)」、後醍醐天皇より勅願論旨を賜った聖日を祝う法要「法華千部会(四月十四日)」、後醍醐天皇が妙顕寺に委嘱した宗門唯一の懺法法要「法華懺法会(後醍醐天皇聖忌会 六月十六日)」、開山日像聖人御生誕の聖日に行われる「盂蘭盆施餓鬼会法要(八月十日)」、開山日像菩薩の祥月忌の聖日の報恩法要「宗祖御会式(開山日像菩薩御会式)」(十一月十三日)、冬至の「除災祈祷会(12月冬至)」、「除夜の鐘撞(十二月三十一日)」があります。

妙顕寺その2

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

前回の続きです・・

さて、興国二年(暦応四年 1341)に妙顕寺第二世となった大覚妙実(1297〜1364)上人は、妙顕寺及び日蓮宗(法華宗)の発展に努めました。

大覚妙実は、関白近衛経忠の子、また一説には、後醍醐天皇の皇子とも伝えられ、幼少時に出家して南朝と関係の深い真言宗大覚寺に入り真言密教を学びました。十七才の時に、街中で出会った日像上人の説法に強い感銘を受けて、七日の間、その説法を熱心に聞き、大覚寺門跡の地位を捨て、智覚、正覚、祐存といった供の僧達と共に日像の門下となりました。

その後、日像上人からその才を認められた大覚妙実は、師の遣いとして鎌倉の日朗上人の元に十二回も派遣される等、師に代わって畿南、中国、関東への布教活動を行いましたが、特に備中、備後、備前を中心に(この地方に三十一ヶ寺を建立したとも伝えられます)中国、瀬戸内地方に日蓮宗(法華宗)に初めて広めた功績は大きく、正平十三年(延文三年 1358)に備後に法華堂(現法宣寺 広島県福山市鞆町後地)を建立する等、現在のこの地域の日蓮宗(法華宗)寺院の多くが大覚妙実を開基としています。
また、畿内南部でも妙泉寺(大阪府和泉市和気町)、妙光寺(大阪府泉佐野市市場西)等、三十程の寺院を建立したとも伝えられます。


その後、室町幕府の初代将軍足利尊氏から荘園三ヶ所の寄進を受け、二代将軍義詮からも念珠等を賜るなど、尊氏や義詮の帰依を受けて、妙顕寺は足利将軍家の祈祷所として発展していきます。

妙顕寺と足利将軍家の関係を当時の諸記録(大日本資料より)から列挙してみると・・
正平五年(観応元年 1350)二月二十一日、足利義詮は、妙顕寺の他、実相寺、妙顕寺、桂宮院、恩徳院、備後浄土寺に天下の静謐を祈らせています。また、正平十年(文和四年 1355)八月二十九日、足利尊氏は妙顕寺に近江佐津河東方の地、備前宇垣郷内山条村及び備中河尻社を寺領として与えました。

正平十二年(延文二年 1357)一月二十二日、尊氏は京都祇園社と妙顕寺に天下静謐を祈らせ、義詮もまた妙顕寺に祈願させています。同年三月二十六日、義詮が、妙顕寺の他、東寺、実相寺、桂宮院に尊氏のために祈祷させ、同年八月二十五日にも、幕府は、妙顕寺に三千万部の法華経を読誦させ四海静謐を祈らせています。
そして、正平十三年(延文三年 1358)四月二十七日には、幕府は妙顕寺に、死期の迫った尊氏の為に祈祷を行わせています。(尊氏は三十日に死去)

正平十七年(貞治元年 1362)、京都に赤斑瘡が流行したため、六月十四日に、妙顕寺に法華経を転読させ、病魔退散を祈願させました。また、正平二十一年(貞治五年 1366)二月三十日、将軍義詮は、妙顕寺に天下静謐を祈祷させ、元中二年(至徳2年(1385)十月十一日にも、幕府は妙顕寺祈祷させています。

また、当時は南北朝の動乱期だったこともあり、妙顕寺も度々被害を受けたようで、正平七年(文和元年 1352)二月二十五日には、比叡山延暦寺衆徒が、当時延暦寺の別院だった祇園社(現八坂神社 当時は神仏混交でした)に妙顕寺法華堂を破却させる事件が起き、正平六年(観応二年 1351)九月二十二日には尊氏が、正平十年(文和四年 1355)五月二十日には義詮が、夫々、武士庶民に対し妙顕寺に乱入狼藉することを禁じています。



さて、妙顕寺の有名な逸話があります・・正平十三年(延文三年 1358)京都を大千魃が襲い、諸宗が請雨を祈祷しますが効果が有りませんでした。そこで、北朝の後光厳天皇は、大覚妙実上人に祈祷を命じます。六月二十五日、上人が桂川の傍で曼荼羅に祈り、法華経を読誦すると、たちまち黒雲が湧き起って雷鳴が轟いて雨が降り始めました。雨は数日間降り続き、朝廷以万民が喜びました。

そして、この功によって、朝廷は上人の願いを聞き入れ、宗祖日蓮上人に大菩薩号を、日朗、日像両上人に菩薩号を贈り、大覚上人自身も大僧正号を賜ったとされます。
また、現在まで妙顕寺の呼称となっている「四海唱導・・「四海(天下、国中)」に「唱導(教えを説き人を導く)」したという意味)」も、この功によって同年七月に許されたと伝えられます。(宜為四海唱導、被致一乗弘通云々・・)



尚、大覚妙実上人は、正平十九年(貞治三年 1364)四月三日に六十八歳で入滅したと伝えられ、妙顕寺は三世朗源僧都、四世日霽上人へと継承されますが、元中四年(嘉慶元年 1387)、比叡山延暦寺宗徒によって境内伽藍を破却され、日霽上人は若狭小浜へ逃れます。

その後、明徳四年(1393)七月八日、日霽が将軍義満から三条坊門堀川(押小路以南、姉小路以北、堀川以西、猪熊以東(現中京区堀川御池))の地を与えられ、寺号を妙本寺と改めて再建しました。
義満も妙本寺(妙顕寺)を祈願所とし、応永二年(1395)四月十六日に、義満が妙本寺日霽に祈祷を命じたこと、応永五年(1398)八月二十九日に義満が妙本寺に参詣したこと、翌応永六年(1399)十二月七日に、妙本寺日霽に四海安全を祈願させたことが記録されています。

四代将軍義持も、妙本寺(妙顕寺)を保護し、応永十八年(1411)四月七日に、妙本寺(妙顕寺五世)の具覚月明上人を権大僧都に任じ、同年七月二十八日には、義持は妙本寺を祈願寺としました。
さらに、応永二十年(1413)五月八日には具覚(月明)上人を僧正に任じましたが、この事が延暦寺の怒りを買い、同年六月二十五日、延暦寺衆徒等が憤って嗷訴し、犬神人(祇園社等の下級神官)等が、妙本寺(妙顕寺)の堂宇を破却し、具覚月明上人は丹波へ避難しました。

当時、南朝残存勢力の騒動が相次いで動揺していた幕府は、翌応永二十一年(1414)七月八日、延暦寺衆徒の要請を聞き入れ、妙本寺住持具覚(月明)に賜った僧正の任命を取り消し、同寺本堂を法勝寺五大堂に、住持の住坊を犬神人に、その他の堂舎及び寺地を十禅師社に寄進させています。
それでも、その後、応永三十年(1423)十月二十一日には、義持が月明上人に全国の諸末寺に命令し、朝家安全、武運長久を祈らせ、永享九年(1437)二月二十五日には、六代将軍義教が、妙本寺で祈祷を行わせるなど幕府との繋がりを深めていたようです。



この頃、宗門内部でも、法華経の内容に関する解釈論争が起りました・・・法華経の前半(第一から第十四の安楽行品まで)を「迹門」、後半(第十五の涌出品〜観発品第二十八まで)を「本門」と言いますが、この前半と後半の関係をどう見るか、本迹一致か本迹勝劣かという教義論争です。
元々、宗祖日蓮以来、「本迹勝劣」の立場を基本としてきましたが、宗派内部で「本迹一致」を採る異論が起こったことから対立と分派を生み、また、時の権力と関係を深める教団の姿勢でも内部批判が生まれました。

こうして、四世日霽上人の時代、天寿四年(永和四年 1378)、内部対立から妙顕寺から離脱した日実上人が、小野妙覚の外護を得て四条大宮に堂宇を構えました(妙覚寺の創建)
さらに、延暦寺宗徒によって妙顕寺が破却された後の明徳四年(1393)、日実上人は、三条坊門堀川に移った妙本寺(妙顕寺)に対し、四条櫛笥の旧地に妙顕寺を再建し本応寺(後の立本寺)と称しました。(尚、立本寺の創建に関しては諸説あり、上記したように、延暦寺の攻撃を受け、具覚月明が丹波へ避難している間、京都に留まった日実上人ら弟子達が、応永二十二年(1415)に四条櫛笥の妙顕寺旧地に本応寺を建立し、その後帰洛した月明と対立して分立したともいわれます)
妙覚寺や立本寺は妙本寺(妙顕寺)と同じ具足山と称して妙本寺(妙顕寺)と対立します。

さらに、具覚月明と対立し妙顕寺を去った中には、日慶、日隆等があり、応永年間(1420頃)、日慶上人は、かつての日像上人ゆかりの妙法蓮華寺(柳寺)を再興しました(妙蓮寺の再建)また、応永二十二年(1415)、日隆上人は、山本宗句の外護を得て、本応寺(後の本能寺)を創建しました。これらの寺院も妙本寺(妙顕寺)の弾圧を受けながらも発展していきます。



さて、その後、妙本寺(妙顕寺)は、日蓮宗(法華宗)洛中二十一本山の中心として栄え、室町時代後期には、法華宗徒は下京を中心に京都の人口の半分に達する程でした。
京都の上京を灰燼にした応仁文明の乱(1467〜1477)も、法華宗徒の多い町衆の集まる下京への被害は少なく、妙本寺(妙顕寺)は、応仁文明の乱の後に二条西洞院に移り、永正十一年(1514)十月十日には、流浪の将軍である十代義稙が、妙本寺に天下泰平を祈願させています。また、永正十六年(1519)、日芳上人の時代に元の妙顕寺に改名しています。
しかし、天文五年(1536)七月、六角氏等を味方にした比叡山大衆の攻撃を受け(「天文法華の乱(天文法難)」)、法華寺院の集まる下京は灰燼と化し、妙顕寺も他の本山とともに和泉堺の末寺へと逃れました。

そして、天文十七年(1542)に帰洛を許されて、旧地二条西洞院に再建されましたが、天正十一年(1583)九月、豊臣秀吉が、京都における政治拠点を築くために、妙顕寺を現在の寺之内通小川へ移転させました。
(尚、跡地には二条新第(妙顕寺城)が築かれ、天正十四年(1587)に聚楽第が築かれる前まで、豊臣政権の京都政庁の役割を果たしました。普段は秀吉の代理人として五奉行の一人、前田玄以が居住し秀吉の上洛時の宿舎となっていました。現在、二条城の東にある跡地には「豊臣秀吉妙顕寺城跡」の碑があります)

その後、天明八年(1788)の天明の大火により焼失しますが、天保五年(1834)前後に再建されていて、現在の建物はこの時に再建されたものです。また、江戸時代を通して、本圀寺(現山科区)と並び京都の日蓮宗の最大の拠点でもありました。
その後、明治時代に、分裂していた法華各宗派が大合同し、身延山を祖山と仰いで日蓮宗が結成されてからは、大本山として全国に三百余の末寺を統率しますが、昭和十六年(1941)の制度改革によって、全ての末寺を教団に解放しています。




後半は、かなり省略しましたが、それでも今回も書き過ぎて、字数オーバーとなりました。
次回は少しだけ、境内の建物等についでです・・

妙顕寺その1

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

イメージ 7

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

今回は京都の宗教史を語る上でも重要な寺院の一つ・・妙顕寺(みょうけんじ 京都市上京区寺之内通新町西入る妙顕寺前町)を採り上げます。

妙顕寺は、正式には四海唱導(しかいしょうどう)妙顕寺(南北朝時代に後醍醐天皇の勅願寺や足利氏の祈願所となって以来、「四海唱導」の呼称を有します)といい、山号を具足山、別名を龍華ともいう日蓮宗(一致派)の大本山です。鎌倉時代末期の元亨元年(1321)に、日蓮上人の孫弟子になる日像(にちぞう)上人(四海唱導師、洛陽開山、龍華院日像大菩薩)が創建した、京都における日蓮宗(法華宗)最初の寺院として知られます。


さて、鎌倉時代後期の弘安五年(1282)九月八日、日蓮宗宗祖日蓮上人は、年来の慢性の下痢の症状に加え、冬の寒波の到来で体調を崩し、約九年を過ごした身延山を降りて、同月十九日、武蔵国千束郷の門下、池上宗仲の館(現在の東京の池上本門寺)に入りました。
臨終を悟った上人は、十月八日、本弟子として日昭、日朗、日興、日向、日頂、日持の各上人を定めました(六老僧 その後、教団の中心となって各地で活躍し日蓮の法流を後世に伝える弟子達)。十日に形見分けが行われ、十一日、多くの弟子や信者の中で、日朗上人の弟子で十四歳の経一丸(きょういちまる 経一麿とも)を特に枕元に呼びました。この少年僧こそ、後の日像上人(1269〜1342)です。


日像上人は、文永六年(1269)八月十日、甲斐源氏の流を汲む豪族、平賀忠治の子と千葉氏の女との間に下総国平賀(現千葉県松戸市の本山本土寺の地)に誕生し、幼名を万壽麿といいました。
健治元年(1275)七歳で出家して弟(後の日輪上人)と共に異父兄に当たる日朗上人の弟子となりました。日朗上人(日蓮の高弟で、後の六老僧の一人)は、この子は将来教団を支える人物に成長するだろうとその才能を認め、身延山の宗祖日蓮上人に対面させました。日蓮上人も少年を、将来の京都での布教、天皇に法華経を伝えるという大任を担える逸材であると内心喜んで、以後、経一丸(経一麿)と名付け身近に仕えさせ教育を施しました。

さて、それから約五年の後、死期を悟った日蓮上人は、最後の遺命として、改めて帝都弘通(ていとぐずう 京都での布教活動)と宗義天奏(しゅうぎてんそう 天皇への布教)を経一丸(経一麿)に遺命しました。当時、まだ関東を中心にした地方教団だった日蓮の教団が全国的に発展するためには、何としても天皇のいる京都(帝都)での布教が必至でした。しかし、旧仏教有力寺院の多い京都での布教は大変な難事が予測されるものでもあり、十四歳の経一丸には教団の将来にかかわる非常に重い任務が託されたといえます。

こうして、弟子達に後を託した日蓮上人は、十二日の夕刻から大曼荼羅を奉じて随身仏の釈迦如来像を安置し、弟子や信者が読経する中で、十三日の辰の刻(午前八時)に六十一歳で入滅しました。
十四日から葬送が行われ、十五日に荼毘にふされた遺骨は、遺言によって身延山に運ばれます。十九日に池上を出発した遺骨は、二十五日に身延に到着し、その後、百日忌に当たる弘安六年(1283)一月二十三日、弟子達が集まり遺骨は廟所に納められました。


さて、その後、経一丸は、直ぐに名を日像と改め、日朗上人を師として修行に励みました。そして、永仁元年(1293)二十五歳の時、翌年の日蓮上人十三回忌を前にして、帝都弘通の大目標を決行することを決意し、この難事業に耐え抜くため、十月二十六日より、鎌倉比企ケ谷で寒中百日間の荒行を行って心身を鍛えました。残りの生涯を京都布教に捧げるため、翌永仁二年(1294)二月に鎌倉を出発、三月には佐渡の師(日蓮上人)の霊跡を巡拝しながら北陸道を京へ向かいました。
この旅の道中でも、日像上人は、能登や加賀、越前、若狭などで熱心に布教活動を行いました・・能登の妙成寺(石川県羽咋市滝谷町)、越前の妙泰寺(福井県南条郡南越前町)や妙勧寺(福井県越前市今宿町)、敦賀の妙顕寺(福井県敦賀市元町)、若狭の妙興寺(小浜市鹿島)といった諸寺院は、日像の北陸での布教活動の影響で創建(或いは改宗)されたと伝わります。


その後、いよいよ、四月に入洛を果たすと、まず、比叡山等の洛中洛外の寺院から南都の興福寺等までを巡り、いよいよ布教活動を開始します・・妙顕寺に伝わる「龍華歴代師承傳」によると、日像上人は、この年(永仁二年)の四月二十八日の早朝、御所の正門(東門)前で昇っていく朝日に向かって立つと、法華経の題目を高らかに唱え始め、一日中唱えて夕方になっても止めなかったと伝わります。

五月十三日、同二十一日にも街中の十字路で大声で題目を唱え続け、その後は洛中各所で毎日辻説法を続けて貴賎様々な人々を勧誘し、綾小路大宮に法華道場として法華堂(妙顕寺の前身)を建立し、布教活動を続けました。
また、この頃、五条西洞院の大商人、酒屋柳屋仲興(やなぎやなかおき)が上人に帰依して、自邸を提供し柳寺と称して支援します。そして、仲興の没後、未亡人妙蓮法尼が一宇を建立して妙法蓮華寺(妙蓮寺)と改めました・・これが後の妙蓮寺(本門法華宗本山 ブログパート1参照)です。


こうして、次第に上人に入門を求める者が増える一方で、既存宗教を邪宗と弾劾する日像の説法に対し、延暦寺等他宗派の迫害も起って布教活動の停止を朝廷に訴えました。
徳治二年(1307)五月二十日、日像上人は後宇多上皇の勅命で、京を追われ土佐国播多への流刑を命じられますが、洛西の乙訓付近に留まって布教活動を続けました・・流刑地の西国に向かう途中、向日神社付近で、祭神の明神が二羽の鳩や老人姿で現れて日像に教えを請いたいとして、上人をこの地に引き止めたという伝説が伝えられます。

この時、鶏冠井(かいで 京都府向日市鶏冠井町)の真言宗寺院・真言寺の住職、実賢が日像上人に帰依して改宗し、開山として日像を迎え、寺を真経寺(現向日市鶏冠井町大極殿)と改めましたが、真経寺は畿内最初の日蓮宗寺院(妙顕寺の前身法華堂を除いて)ともいわれます。(尚、真経寺は江戸時代に南真経寺と北真経寺に分かれました。)
また、この向日市鶏冠井地区の石塔寺に伝わる「鶏冠井題目踊り(京都府無形文化財指定)」は、日像がこの地を訪れた際、上辻三郎四郎という村人が上人に食事を提供しようと準備をしていると、炊煙が「南無妙法蓮華経」という題目の文字となったため、驚いた村人達が一斉に日像に深く帰依して、喜び踊ったことが始まりと伝えられます。


また、この頃、平安時代の関白藤原基経が発願し、「源氏物語」にも登場する真言宗の古刹、洛南深草の極楽寺の住職良桂とも出会います。良桂は、鶏冠井を偶然通りかかった際に日像と出会って宗論を行いました。その結果、感服して百人余りの門徒と共に帰依し、開山として日像を迎え、徳冶二年(1307)頃に極楽寺を日蓮宗(法華宗)に改めました。(延慶三年(1310)とも)
こうして極楽寺は、京都での日蓮宗(法華宗)の初期の拠点の一つとなりました・・現在の宝塔寺(伏見区深草宝塔山町)です(ブログパート1に掲載)
尚、以下に記すように、後に、日像の遺骸はこの極楽寺で荼毘にふされ、遺骨もこの地に埋葬され寺は廟所となりました。その後、一時鶴林寺とも号しますが応仁の乱で荒廃し、天正十八年(1590)に再興された際、現在の寺名・寶塔寺(宝塔寺)に改称しています)


また、同じく徳治二年(1307)頃、洛北松ヶ崎の地にあった平安時代から続く天台宗寺院・歓喜寺(創建時は松崎寺と称しました)の住職実眼も、日像の説法を聞いて感動して日蓮宗(法華宗)に改宗します。
そして、寺に招かれた日像が二夜三日説法をしたところ、五百人程の村人が感動して全員改宗しました。この時、実眼や村民が歓喜のあまり太鼓を打って「南無妙法蓮華経」と唱え踊ったことが、現在、湧泉寺に伝わる「松ヶ崎題目踊り(京都市無形文化財指定)」の始まりと言われています。
(徳治二年(1307)七月十六日のことだったと伝えられ、また、松ヶ崎にある「京都五山大文字送り火」の一つ「妙」の起こりとして、この歓喜寺が改宗した際、日像が歓喜寺のある西山に妙の字を書いたのが始まりとも伝えられ、歓喜寺もこの時、妙泉寺と改称しています。(尚、大正七年(1918)に、天正二年(1574)頃にこの地に創建された日蓮宗寺院本涌寺と、妙泉寺が合併して、現在の湧泉寺となりました。ブログパート1に少し掲載 )



さて、日像上人は、延慶二年(1309)八月二十八日に帰洛を許されますが、翌延慶三年(1310)三月八日、今度は、紀伊国獅子の背への流刑を命じられます。
これに対し、同月二十三日、上人は御所に天奏して熱心に法華経の法理を説いていますが、帝都弘通の達成のためには天皇の帰依がどうしても必要と考えたからでした。
翌応長元年(1311)三月七日、京都への帰還を許された上人は、綾小路の法華堂に戻って布教活動を開始します。正和二年(1313)法華宗旨問答、文保二年(1318)には曼荼羅相伝を著し、元応元年(1319)には本迹口決を注し、また、朝廷へも書をしたため熱心に教えを説く活動を続けたようです。

元亨元年(1321)十月二十五日、三度目の京都追放で備後尾張へ配流されますが、直ぐに十一月八日に赦免されて帰洛し(この三度の追放と赦免を「三黜三赦(さんちつさんしゃ)」といいます)、後醍醐天皇より洛内の御溝傍今小路(現上京区の「安居院(あぐい)」付近・・ブログパート1に掲載の、安居院(安居院法印房)=現西法寺(大宮通寺ノ内上る三丁目東入る新ン町)付近)に寺地を賜って、法華堂を移して妙顕寺を創立し、また尾張と備中に寺領を賜りました・・日像上人が入洛してから二十八年の月日が流れていました。

さらに、元弘の変から鎌倉幕府滅亡に至る騒乱の際、後醍醐天皇の京都帰還を祈願するなど天皇の信頼を得たことから、建武元年(1334)四月十四日、日像上人は、後醍醐天皇より、法華宗号と一宗弘通の綸旨を受けて、妙顕寺は日蓮宗(法華宗)初の勅願寺となり、洛中洛外の宗門の第一位と認められました。(「妙顕寺為勅願寺、殊弘一乗円頓之宗旨、宜凝四海泰平之精祈云々・・妙顕寺は勅願寺となす。殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜く四海泰平の精祈を凝すべし)」)
ここに、帝都弘通・宗義天奏という日蓮上人の遺命がついに達せられたのでした。


さて、その後、興国二年(暦応四年 1341)七月、日像上人は、遺誡六カ条を、弟子の大覚妙実(だいかくみょうじつ)上人に与え、妙実を妙顕寺第二世と定めています。また同年八月九日、妙顕寺(当時は、一般に法華堂の名で知られました)は四条櫛笥(現中京区四条大宮付近)に寺地を賜って移っています。
そして、翌興国三年(康永元年 1342)春、日像聖人は、故郷の東国へ向かい、身延、鎌倉、池上、平賀を訪問して帰洛した後、同年十一月十三日、七十四歳で妙顕寺で入滅しました。
遺骸は上人の遺言に従って極楽寺(現宝塔寺)で荼毘にふされ廟所が設けられました。



次回に続きます・・

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!
ふるさと納税サイト≪さとふる≫
実質2000円で好きなお礼品を選べる
毎日人気ランキング更新中!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事