京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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護王神社その2

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護王神社の続きです・・・


和気清麻呂と姉の法均(和気広虫)を流刑に処した称徳天皇ですが、「続日本紀」は、この事件に関して神護景雲三年(769)九月二十五日の称徳天皇の言葉(宣命)を記します・・・

「いったい臣下というものは、君主に従って、清く正しく明るい心を持って君主を助け守り、君主に対しては無礼な面持ちをせず、陰で誹らず、邪で偽ったり、諂い曲がった心を持つことなく仕えるべきものである。それなのに、従五位下因幡国員外介の輔治能真人清麻呂は、その姉法均と悪く邪な偽りの話しを作り、法均は、朕にその偽りを奏上した。その様子を見ると、顔の表情や口にした言葉から、明らかに自分達の作り話を八幡大神の託宣だと偽って言ったのだと知った。問い詰めたところ、朕が思った通り、八幡大神の託宣でないことが明らかとなった。そこで国法に従って両人を退ける。」

「また、このことは、他人から偽りだと教えられたからではなく、その言葉(法均の奏上)が道理に合わず矛盾していたからである。その面持ちも無礼で、自分の言うことを朕が聞き入れて用いるようにと思っていたのである。天地が逆になるというが、これよりひどいものはない。だからこそ、諸聖(仏菩薩や諸天)や天神地祇が偽りであると現され悟らされたのである。他に誰かがあえて朕に偽りだと奏上するだろうか。人が奏上などしないでも、心の中が悪く汚れ濁っている人は、必ず天地がそのことを現し給うものである。」

「それゆえ、人々は自分の心を明らかに清く正しくして、謹んで仕えるようにせよ。また、このこと(清麻呂・法均のこと)を知っていて、彼らと謀った人間がいることは知っているが、君主は慈悲をもって天下の政治を行うものであるから、この度は慈しみ哀れんで免罪とする。しかし、このような行為の重なった人は、国法に従って処罰するので、先に清麻呂らと共謀した人たちは、心を改めて明るく正しい心を持って仕えるようにせよ。
また、清麻呂らを忠実に仕える臣下だと思ったからこそ姓を授けて遇してきたが、今は穢い臣下として退けるのであるから、前に与えた姓を取り上げ、代わりに別部(わけべ)とし、その名前も穢麻呂(きたなまろ)とし、法均の名ももとの広虫売(ひろむしめ)にかえす。また、明基(法均と同心の尼)は、広虫と身体は別だが心は一つと知ったので、その名を取り上げ還俗させて、同じく退ける。」と詔しました。



また、「日本後紀」は、道鏡が追っ手を差し向け、大隈国宇佐への配流途上の清麻呂を殺害しようとしたとし記し、この時、雷雨で辺りが暗くなり、殺害する前に勅使が遣わされたので難を免れたということです(この時に足の筋を切られたといわれます。)さらに、参議右大弁藤原朝臣百川(ふじわらのももかわ)が、清麻呂の熱烈な忠義を憐れんで、備後国の封二十戸の収益を配所に送り届けたと記しています。

「日本後紀」はさらに続けて、清麻呂と猪の有名なエピソードを記します・・この配流の際、清麻呂は足を傷つけられて不自由となり立つことが出来なくなりましたが、八幡神を拝礼しようと考え、輿に乗って出発しました。そして、豊前国宇佐郡楉田村(大分県宇佐郡和気付近)に至った時、三百頭ほどの野猪が現れて、道を挟んで列を作り、十里ほどゆっくり先導して山中に去りました。これを見た人は皆不思議なことだと思いました。そして、神社に参拝すると、不思議にも清麻呂は歩けるようになったのでした。また、宇佐八幡神の神封から綿八万余屯を賜るという神託を受けたので、宮司以下、豊後国中の百姓にこれを頒ち与えることにしました。参拝に向かう際は輿の乗っていたのに、馬に乗って帰還したので、帰途の清麻呂の様子を見た人は驚嘆したということです。


その後、宝亀元年(770)光仁天皇が践祚すると、勅が出て清麻呂と法均(広虫)は帰京しました。そして、和気朝臣の姓を賜って元の位階と名前に復しました。
清麻呂は、天応元年(781)に従四位下を授けられて民部大輔に任じられ、摂津大夫、ついで中宮大夫、民部卿に遷り、従三位を授かりました。清麻呂は、庶務に練達し過去事例に通暁したことから民部卿として「民部省令」二十巻を撰集し、また、桓武天皇の母、高野新笠(たかののにいがさ)の命を受け、出身氏族和氏の系譜を編纂し、「和氏譜」として天皇に提出し、称賛されました。(他に子弟教育のために和気氏の学問所創設を意図し、子の広世が遺志を継いで「弘文院」を創立)晩年の延暦十七年(798)、上表して辞職を提出しましたが、詔によって許されず、天皇は、功田二十町を賜い、子孫に伝えさせることにしたということです。

また、長岡京の造営は、着工から十年を経ても未だ完成しないで経費は嵩むばかりでしたが、清麻呂が密かに葛野(京都)への遷都を上奏し、桓武天皇が遊猟に託して葛野(京都)の地を視察できるように計画したことから、平安京遷都が実現しました。(清麻呂自ら造営大夫として活躍)
他に、清麻呂は摂津大夫として、河内川を開削して大阪湾に直接流水させ水害を除こうとしますが、費用が膨大となり成功しませんでした。また、備前国にある私墾田百町を長く賑給田(民に物を恵み与えるための財源とする田)としたため郷里の人々はこれに感謝したということです。

一方、法均(広虫)は、天皇への伝宣、奏請を担当し従四位下に叙せられ、典蔵に任じられ、正四位下へと昇進しました。桓武天皇が寛いだ時、「全ての近臣は、何かにつけ他人を非難したり褒めたりする中で、法均が他人の過ちを口にするのを聞いたことがない」と語ったと伝えられます。生来、清麻呂と法均は仲が良く、姉弟で財産を共有し、当時の人々は姉弟の思い合う気持ちを称賛しました。


さて、姉の法均(広虫)は、延暦十八年(799)正月十九日に七十歳で死去しました。
古代において、孤児の養育にあたった人物は他にもいますが、法均(広虫)のように、長期にわたって何度も孤児等の救済を行った例は極めて少なく、社会福祉や保育の先駆者と言って良い慈悲の精神を持っていた人物として高く評価されています。
法均は、生前、弟清麻呂と、初七から七七日に至る七日毎の仏事や年々の忌日に追善供養をする必要はない、二、三人の僧侶と遺族が静かな部屋で礼仏と懺悔の仏事を行えば十分である。後世の子孫は自分たち二人を手本とすることになるだろう、と約束しあっていました。
そして、姉の跡を追うかのように、清麻呂も、一ヵ月後の二月二十一日に、六十七歳で死去し、正三位を追贈されました。(その後、天長二年(825)、淳和天皇は、法均の生前の勤務や功績を思い正三位を追贈しています。)
尚、清麻呂には六男三女があり、長男広世は出世して文章生になって、従五位下を授けられて式部少補となり大学別当を兼任、大学寮の学者達を集め、陰陽書や「新撰薬経」「大素」等を講論させるなど活躍しました。



さて、護王神社は、家内安全や商売繁盛、交通安全等の諸祈願の御利益がありますが、特に、祭神の清麻呂公が国難を一身を賭けて除いたことに因んで、厄除け・災難除けの御利益で知られます。
また、同じく祭神の和気広虫姫が戦乱で身寄りを失った多くの子供達を養子として育てたという故事から、子育てや子供の成長を守護する子育明神としても信仰を集めています。さらに、祭神と猪との深い縁により、亥年生まれの人には特に御利益がある、亥年生まれの守護神でもあります。

そして、護王神社といえば猪ですが、拝殿の前には、清麻呂が災難に遭った際、猪の大群が現れて守護したという「日本後紀」のエピソードに因んで、明治二十三年(1890)に建てられた雌雄一対の霊猪(狛イノシシ)が置かれています。また、本殿前にある招魂木(おがたまのき)の根本にあるのが、願かけ猪の石像です。この石像の周りには、座立亥串(くらたていぐし)という、願かけの串が刺し立てられていますが、亥串とは、四手といのししの折り紙のついた竹串で、名前と願い事を書いた紙札を挟んで願かけ猪の前に刺し立てて願かけをするものです。また、この亥串は二本組で、一つは本殿前に刺し立て、残り一本は家で神棚や玄関に祀ります。
さらに、本殿の左には、全国から奉納された様々な猪に関するグッズが展示されていて、鳥居前や「霊猪手水舎(手水場)」等にも猪像があります。

また、護王神社は、清麻呂が道鏡事件で大隅国へ配流された時、猪の守護によって足萎えが回復し立って歩けるようになったという故事に因んで、足腰の健康・病気怪我回復の御利益でも知られていて、本殿の右に植えられた招魂木(おがたまのき)の根本には、足萎難儀回復の碑があり、参拝者が足腰の病気・けがの回復や健康を祈願して立てた「足萎難儀回復御守護」と書かれた小さなのぼりが数多く立てられています。
さらに、表門の北にある樹齢百年を超える御神木のカリンの木は、上京区の区民誇りの木・京都の巨樹名木百選にも選ばれた名木(高さ十五.五メートル、枝張十.七メートル、幹周一.五七メートル)で、秋には黄色の大きな実をつけます。そして、この実を用いて造ったカリン酒は、ぜんそくによく効くといわれていて、護王神社はぜん息封じの御利益もあるということです。


また、境内北側の護王会館の前には、造形作家・松本繁来氏の作による清麻呂公銅像があります。これは、平成10年(1998)の和気清麻呂公千二百年祭を記念して建てられたもので、台座の「和気清麻呂公」の文字は茶道裏千家家元千宗室氏の揮毫ということです。さらに、この清麻呂公像のすぐ後ろには、国歌「君が代」に詠まれる幅三メートル、高さ二メートルの岐阜県揖斐郡春日村産の「さざれ石」が置かれています。

その他、末社として、境内北側に警察消防招魂社、久邇宮家御霊殿、祖霊社(近衛社)が並び、境内東側には、伊勢神宮遥拝所や全国の和裁士会や和裁共同組合が建立した「針の碑(毎年二月八日には一年の仕事を感謝して針供養が行われます。)」、さらに御神木のカリンの木の横に「風なきに榠櫨(かりん)の實またほろと落つ かくて極まる庭のしづけさ」という吉井勇の歌碑が建てられています。また、境内で最も高いイチョウの大木(高さ二十五メートル、枝張十六.三メートル、幹周三.十八メートルも上京区の区民誇りの木に選ばれています。

最後に、年間行事としては、和気清麻呂公の命日に行われる例祭、護王祭(四月四日)や、節分祭(二月節分日)、平安時代の宮中の行事「亥子餅」の儀式を再現した特殊神事の亥子祭(いのこさい 十一月一日)が知られています。

護王神社その1

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今回は、数年前のブログパート1では写真1、2枚程度しか掲載出来なかった護王神社です。この数年の間に、境内の一部が新たに整備されたので、写真を増やして再掲載します。

京都市上京区烏丸通下長者町下ル桜鶴円町・・京都御所の西、烏丸通を挟んで蛤御門の向かいに鎮座する護王神社(ごおうじんじゃ)は、祭神の和気清麻呂公が猪によって難から逃れたという故事に因んで、「いのしし神社」とも呼ばれ、立地の良さからも京都の面積中規模クラスの神社としては広く知られている神社です・・特に、戦前は、忠臣・和気清麻呂や清麻呂を守護した猪の姿と共に十円紙幣にも描かれる程有名な神社でした。
そして、現在でも境内には、狛犬の代わりの霊猪像(駒猪)をはじめ様々な猪のコレクションが展示されていることでも知られ、特に亥年には多くの人が参拝に訪れます。



さて、護王神社は、主祭神として、道鏡事件の際に流刑に処せられながらも皇統を守り、平安京遷都に尽力した和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)と、その姉で、慈悲深く、戦乱で身寄りを失った多くの孤児たちを養育した和気広虫姫命(わけのひろむしひめのみこと)を祀り、清麻呂の協力者でもあった藤原百川公命(ふじわらのももかわこうのみこと)と路豊永卿命(みちのとよながきょうのみこと)を配祀します。

神社の正確な創建年代は不明ですが、元々、和気清麻呂が開基となった洛西の高雄山神護寺の境内に祀られていた和気清麻呂を祀る霊社(護王善神堂)に始まるとされ、一説には、文覚(もんがく)上人が、寿永三年(1184)に神護寺を再興した際に、寺の鎮守社として「護法善神」を祀ったものともいわれます。以来、古くから「護法善神」と称してきましたが、江戸時代末期の嘉永四年(1851)三月、孝明天皇からは和気清麻呂の歴史的功績を讃えて正一位護王大明神の神階神号を授けられ、明治七年(1874)に、「護王神社」と改称して別格官幣社に列せられました。その後、明治十九年(1886)に、明治天皇の勅命によって、神護寺境内から華族・中院家(なかのいんけ)の邸宅跡地になる現在地に社殿を造営して遷座し、大正四年(1915)に、姉の和気広虫が合祀され、広虫が孤児救済で知られることから、神社は子育明神とも呼ばれるようになったということです。



さて、明治以降、第二次大戦前まで、和気清麻呂は道鏡の野望を退けて皇統を守った忠臣、平安京遷都の立役者として称えられ、聖徳太子、藤原鎌足、菅原道真、楠木正成等と並んで紙幣に肖像が画かれた数少ない歴史上の英雄の一人となりました。
しかし、戦後の歴史研究によって、いわゆる道鏡事件は政治的に捏造されたもので、道鏡は政争に利用された犠牲者に過ぎないという説も出され、一方の和気清麻呂も、実際は単なる実務官僚の域を出ず、称徳女帝の崩御後に天智系の弘仁天皇を擁立した藤原北家の藤原永手等や藤原式家の藤原良継、藤原百川兄弟・・特に百川の手先、使い走りに過ぎなかったという説も出てきました。

それはともかく、藤原百川の嫡男・藤原緒嗣らが編纂した「日本後紀」には、清麻呂の薨伝(国家が編纂した正史で、上級貴族の死亡の際に、その人物の業績等を偲んで記された追悼文)が記載されていますが、他の人物の薨伝よりもかなり長く内容が詳しいものです。この薨伝から、平安初期当時、清麻呂の功績が高く評価されていたことが感じられます。


この「日本後紀」の薨伝をベースにして、清麻呂と姉の広虫について書いてみます・・
(一部「続日本紀」、神社境内の掲示版も引用)

和気清麻呂は、奈良時代の天平五年(733)、現在の備前国藤野郡(現岡山県和気町)で、和気乎麻呂の子として誕生しました。(和気氏は、備前東部や美作東南部を領する有力豪族でした)本姓は、磐梨別公(いわなしわけのきみ)といい、後に藤野和気真人(ふじのわけのまひと)に改称しました。
その後、清麻呂は、姉の和気広虫と共に第四十六代・孝謙天皇(四十八代・称徳天皇)に仕え、高直な性格で我が身を顧みず一身に忠節を尽くしたことから、帝の寵愛と信頼を得て、右兵衛少尉に任じられ、その後、天平神護(765〜767)初めに、従五位下を授けられ近衛将監に転任し、特別に五十戸の封を賜りました。


一方、姉の広虫は、成人すると、天平二十一年(749)か天平勝宝二年(750)に、従五位下葛木連戸主(かつらぎのすくねへぬし)に嫁ぎます。葛木連戸主と広虫は、平城京内の孤児を集めて養育するなど、今で言う社会福祉事業に努め、天平勝宝八年(756)には、成人となった孤児の男九人、女一人を養子としています。(また、天平宝字三年(759)三月十九日に、葛木連戸主が、東大寺正倉院の薬物を庶民救済施設である施薬院に分与することを請う文章が正倉院文章中に残されているということです。)
しかし、天平宝字四年(760)頃に葛木連戸主は死去して広虫は三十歳で未亡人となり、孝謙天皇に女官として仕えました。そして、天平宝字六年(762)、孝謙帝が出家すると、上皇に従って仏弟子として出家し、法名を「法均(ほうきん)」と号しましたが、その人柄は貞順で節操を欠くことは無かったと伝わります。そして、尼の位の進守大夫尼位を授けられ、女帝の腹心となって、四位相当の封戸と位田を賜りました。

天平宝字八年(764)、藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を起こして殺害されると、これに連座して斬刑に相当する者が三百七十五人いましたが、法均(和気広虫)が強く助命減刑を上申したことから、称徳天皇はこの願いを容れて、死刑を減じて、流刑や懲役刑にしたと伝えられます。また、この藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)が鎮圧された後、飢餓や疾病に苦しむ百姓が子供を草むらに遺棄することがあり、法均(和気広虫)は人を派遣して八十三人の孤児を収容して養育し、天皇から葛木首(かつらぎのおびと)の性を賜って孤児達の性とし、全員を養子としました。


さて、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱後、道鏡が称徳天皇の寵愛を得て、天皇と同様の警護等を受ける程の存在となり、法皇と称しました。神護景雲三年(769)、大宰府の主神(かんつかさ)の習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が、道鏡に媚び諂って宇佐八幡神の神託を詐称して、道鏡を皇位に就ければ天下は泰平となると称徳天皇へ奏上し、道鏡も内心これを喜んで皇位に就くことを考えたとされます。

称徳天皇は、和気清麻呂を傍に召して、「夢の中に八幡神の使者が現れ、天皇へ奏上することがあるので、尼法均を遣わしてほしいと告げたが、朕は、法均は体が弱く長旅に耐えられないので、代わりに弟の清麻呂に代行させると答えたので、そなたは早く八幡神の許へ参詣し神託を聞いてきてもらいたい。」と清麻呂に命じました。また、このことを知った道鏡も、清麻呂を呼んで、首尾よく八幡神のお告げをもたらせば大臣の位を与えると約束しました。(「大神が使者の派遣を請うのは、おそらくは私の即位のことを告げるためであろうと語り・・「続日本紀」)

これより以前、道鏡の師でもあった路真人豊永卿命(みちのまひととよなが)は、清麻呂に「もし道鏡が皇位につくようなことがあれば、何の面目があって臣下として帝にお仕えできようか。私は、二、三の仲間と共に今の世の伯夷になるのみだ(古代中国の殷の伯夷に倣って身を隠して、道鏡に仕えない)」と告げました。清麻呂はその言葉に深く得心し、天皇のために命を差し出す覚悟を決めます。

神宮に参詣して神の託宣(習宜阿曾麻呂によって捏造された)について申上し、清麻呂が、「この度の大神の教命は国家の大事であり、託宣は信じ難いものです。願わくば神異を示し給え。」と言ったところ、神が忽然と、身の丈三丈余りのは満月のような姿で現れました。
清麻呂は、驚いて狼狽し仰ぎ見ることが出来ませんでしたが、神は託宣し、「我が国では君臣の身分定まっているにもかかわらず、道鏡は人道に背いて神器を得る野望を持っている。このため神は激怒していて、道鏡の願いを聴きとどけることなない。汝は帰って我が言葉の通りに奏上せよ。皇位は必ず皇孫によって継承されるものである。汝は道鏡の怨みを恐れてはいけない。我が必ず助けるであろう。」(「我が国家は開闢より君臣の秩序は定まっている。臣下を君主とすることは未だかつてなかったことである。皇位には必ず皇統の人を立てよ。無道の人は早く払いのけよ(続日本紀)」と告げました。

(尚、「八幡宇佐御託宣集」によると、清麻呂が宣命の文を読もうとした時、八幡大神が禰宣(ねぎ)の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣して宣命を聞くことを拒んだため、清麻呂は不審を表明して、与曽女に強く要請しました。そこで、与曽女が大神に顕現を願うと、満月のような光の中に僧形姿の身の丈三丈の大神が現れ、清麻呂は大神の「天の日継は必ず帝の氏に継がしめむ」という託宣を得たということです。)

清麻呂は帰京して、神の教えのままに天皇に奏上しました。
これは、称徳天皇や道鏡を怒らせますが、天皇は死罪にするのは忍びないと、清麻呂の官職を解い因幡員外介(いなばのいんがいのすけ)に左遷し、、姓名を別部(わけべ)穢麻呂(きたなまろ)と改め、(清麻呂がまだ任地に着かないうちに続いて詔があり(続日本紀))大隅国に流罪としました。また、法均は還俗させて、別部狭虫(さむし)と改名し備後国に配流しました。



次回に続きます・・

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前回に掲載した般舟院から、嘉楽中学校を挟んで西側にあるのが、般舟院陵(上京区般舟院前町)です。

この地もかつて般舟院の寺地でしたが、明治以降、宮内庁所管の皇室陵墓になっています。
贈皇太后源朝子(後土御門天皇の典侍で、死後、子の後柏原天皇の即位によって、永正元年(1504)に皇太后を追贈)の御陵で、後花園天皇・後土御門天皇・後奈良天皇の分骨所でもあり、他に江戸期の十一人の皇子皇妃の墓になっています。(尚、この御陵は、土日は門が閉ざされて見られません。東山七条の後白河天皇陵等と同様、門のある皇室関係の陵墓は平日のみの公開です。)


般舟院陵には、以下の皇室関係者の埋葬地とされています

○後土御門天皇後宮・贈皇太后朝子・般舟院陵

○後花園天皇分骨所

○後花園天皇後宮・嘉楽門院藤原信子墓

○後土御門天皇分骨所

○後奈良天皇分骨所

○後土御門天皇皇子・尊伝親王墓

○後柏原天皇後宮・豊楽門院藤原藤子墓

○後水尾天皇皇子・高仁親王墓

○後水尾天皇皇女・菊宮墓

○後光明天皇皇女・孝子内親王墓

○後西天皇皇女・女二宮墓

○後光明天皇皇女・孝子内親王墓

○桜町天皇皇女・盛子内親王墓

○光格天皇皇子・礼仁親王墓

○光格天皇皇女・寿賀宮墓



さて、般舟院陵の西側の片隅には、石仏が立ち並んでいて、その奥に小さな円墳(塚)があり、その上に小さな五輪塔が建っています・・この五輪塔は、式子内親王(のりこないしんのう、しきしないしんのう)塚(墓)とも言い伝えられていて、藤原定家とのエピソードから別名「定家葛の墓」とも言われています。

小倉百人一首の「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」の和歌でも知られる式子内親王は、平安時代末の後白河天皇の第三皇女で、若き日に賀茂の斎院を務め、後には藤原俊成を歌の師として多くの和歌を残しました。また俊成の子の藤原定家が式子内親王の身近に接していたことから、後に定家が式子内親王に恋慕の情を抱いていたという伝説が生まれました。

その伝説を基にした物語に、能「定家」があります。
あらすじは、以下のようなものです・・・旅の僧一行が荒れた邸跡で雨宿りをしていると、一人の里の女が現れて、ここはかって定家の建てた時雨亭だと教え、ある墓に案内します。そして、女は、この墓は式子内親王の墓で、蔦葛(つたかずら)がびっしりと纏わりついているのは、定家葛(ていかかずら・ちなみにこのエピソードから、テイカカズラという花の名前にもなりました)で、深い契りを交わした内親王の死後も、定家の深い想いは蔦葛となって墓石に纏わりついて、内親王の魂は安まることがないのです、と語ります。そして自分こそが内親王であると告げて、僧に読経を頼んで消えていきます。僧が墓前で読経すると、今度は年老いた姿で現われた式子内親王の霊は、読経の中で舞いながらまた墓の中に消えていくのでした・・
墓の真偽はともかく、室町時代末以降に記された「応仁記」にも、大聖歓喜寺にある「定家葛の墓」として記されているようで、古くから式子内親王の墓と呼ばれていたようです。(尚、大聖歓喜寺は前に採り上げた雨宝院の前身となったお寺です。)


大聖歓喜寺境内から、桃山時代に伏見から移転してきた般舟院境内へ、そして明治に整備された御陵内へ・・と周辺の環境が変っても、この五輪塔は、ただこの地にポツンと残ってきたのでしょうか?
土塀で囲われた隣の皇族陵墓から外れて、石仏と共に塚だけが残っているのがなんとも不思議な感じ・・どう扱ってよいのか迷った末に、御陵の横にそのままにしているといった印象です。
また、側の大きな鎌倉時代の石仏も良い感じです。

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前にブログPart1で採り上げた般舟院と般舟院陵の写真を増やして再掲載します。

上京区今出川通千本東入る般舟院前町には、嘉楽中学校という中学校がありますが、その校門前には「禁裏道場蹟」の石標が立っています。この石標は、この地が御所の禁裏道場として栄えた般舟院(はんじゅいん)という寺院の敷地だったことを示しています。
この般舟院は、現在も小さくつつましく残っていて、中学校の東側に「月指山般舟院」と記された山門らしきものがあるので奥に進むと、ビルと学校の間に新しいお堂が見つかります。この通る人も気付かないよう般舟院ですが、かつては中学校の敷地からその西側の般舟院陵までに至る大寺院でした。


般舟院は、山号を指月山という天台宗寺院で、正式には般舟三昧院(はんじゅさんまいいん)といいます。また、本尊は阿弥陀如来です。応仁の乱以降に、後土御門天皇が恵徳上人(えとくしょうにん)善空を開山として伏見指月に建立し、以降歴代皇室の菩提所として、皇室ゆかりのお寺として現在も有名な泉涌寺と並んでたいへん重んじられ、その後、文禄三年(1594)、豊臣秀吉の伏見築城によって現在の西陣の地に移りました。

江戸時代には、後陽成天皇、後水尾天皇、後光明天皇、新上西門院(霊元天皇中宮)、中和門院(後陽成天皇女御)、新中和門院(中御門天皇女御)、中御門天皇、壬生院(後水尾天皇の典侍)、新広義門院(後水尾天皇の典侍)、桃園天皇、桜町天皇等の法会が行われています。また、延宝六年(1678)九月には、泉涌寺に四百石、般舟院に百石が加増され、享保十五年(1730)の大火に遭って霊牌殿が被災しています。

明治以降は、泉涌寺が明治維新の廃仏毀釈で墓域を宮内省に上地されて縮小し一時衰退したように、般舟院も完全に衰退しました。皇室からの補助がなくなり、般舟院に安置されていた歴代天皇の位牌は泉涌寺に移され、また敷地の大部分は、上京第七番組小学校(現在の嘉楽中学校)となりました。
こうして、現在は本堂・元三大師堂が残るのみですが、所蔵する平安時代作の木造不動明王坐像と木造阿弥陀如来坐像が重要文化財に指定されています。


次回は、隣接する般舟院陵についてです。

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京都にある幕末維新史跡に関しては、熱心なファンが色々と研究されているので、ブログのPart1でもまり採り上げていませんが、今回は、幕末ファンには御馴染みの史跡の薩藩戦死者墓(甲子役戊辰役・薩藩戦死者墓)です。京都の幕末史跡としては最も目立つものの一つでしょう。


薩藩戦死者墓は、臨済宗相国寺派の大本山・相国寺(上京区相国寺門前町)の塔頭・林光院の境外墓地で、相国寺東門を抜けて約四十メートル東にあります。柵で囲まれて墓地内への立ち入りは出来ませんが、広い敷地を占め、左側には大正時代建立の戦没者合同碑もあります。
この地には、元治元年(1864)七月の蛤御門の変(禁門の変)と、慶応四年(1868)一月の鳥羽・伏見の戦いで戦死した七十二名の薩摩藩士が合葬されているということです。


尚、京都にある他の薩摩藩士の墓碑や墓としては、前にブログpart1で採り上げた東福寺の塔頭・即宗院内「薩摩藩士東征戦没の碑」と伏見区にある大黒寺内「薩摩藩九烈士墓」が知られています。

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