京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は、京都市北区平野上柳町にある「後朱雀天皇火葬塚」を採り上げます。

この火葬塚は、金閣小学校という小学校の校門側にあり、以前に採り上げた白河天皇火葬塚(衣笠西馬場町)から八十メートル程南にあります。円形の塚は小学校の校舎二階から直ぐ下に見下ろせる位置にあるので、場所柄、あまり周囲をウロウロして怪しい人に間違われないようにした方が良い感じもします。


さて、第六十九代・後朱雀天皇(ごすざくてんのう 1009〜1045)は、寛弘六年(1009)十一月、第六十六代一条天皇の第三皇子として生まれ、名を敦良(あつなが)といいました。母は関白・藤原道長の長女・中宮彰子(ふじわらのあきこ しょうし 上東門院)で、同母兄に第六十八代・後一条天皇があります。

敦良親王(後の後朱雀天皇)は、寛仁元年(1017)八月に兄・後一条天皇の皇太弟となりますが、この立太子の背景には、関白・藤原道長の強力な後押しがありました。
当時、道長は、娘の彰子が一条天皇との間に、敦成親王(あつひらしんおう 後の後一条天皇)、敦良親王(あつながしんのう 後の後朱雀天皇)を生んでいて、これら若い皇子を順番に即位させることで、今後二代の間にも揺ぎ無い権力を握ることを目指していました。道長にとって邪魔な存在は、一条天皇に代わって即位した第六十七代・三条天皇で、道長とは疎遠な関係でした。(前にブログPart1で「三条天皇北山陵」を採り上げた際に、より詳しく書いていますので、ご参照ください)

道長は三条天皇の意向を無視する妨害工作を繰り返し、この道長の圧力に加えて三条天皇には生来眼病があったことから、ついに、長和五年(1016)正月、三条帝は、道長の勧めを聞き入れて退位を決意します。そして、退位の条件として、第一皇子・敦明親王(あつあきらしんのう)を敦成親王(後の後一条天皇)の皇太子にすることを道長に認めさせました。しかし、三条上皇が寛仁元年(1017)五月に崩御すると、道長は、帝との約束を反故にし、敦明親王に対して圧力をかけます。こうして、敦明親王は皇太子を辞退したいと道長に申し出ました。喜んだ道長は、敦明親王に報いるために小一条院太上天皇の尊号を贈って准上皇として厚遇します。



さて、道長は、敦明親王の皇太子辞退によって、寛仁元年(1017)八月、九歳の敦良親王(後の後朱雀天皇)を兄・後一条天皇の皇太子に定めました。
その後、寛仁六年(1021)に道長の六女・嬉子(ふじわらのきし よしこ)が敦良親王に東宮妃として入内しますが、嬉子は万寿二年(1025)に第一皇子・親仁親王(ちかひとしんのう 後の後冷泉天皇)を出産して間もなく亡くなり、その後、三条天皇の皇女で、道長の孫(母は道長の娘・中宮妍子)に当たる禎子内親王(ていし・さだこ ないしんのう 陽明門院)が入内し、第一皇女・良子内親王、第二皇女・娟子内親王、そして、長元七年(1034)に第二皇子・尊仁親王(たかひとしんのう 後の後三条天皇)を生んでいます。
そして、長元九年(1036)四月、兄の後一条天皇が皇子の誕生を見ぬまま二十九歳で崩御したため、敦良親王(後朱雀天皇)はその後を受けて二十八歳で即位しました。


翌長元十年(1037)一月、関白・藤原頼通は、父道長に倣って外戚として自らの権力基盤を安定させるため、養女・嫄子(ふじわらのげんし もとこ嫄子女王、一条天皇皇子・敦康親王(後朱雀天皇の異母兄)の娘)を入内させて、三月中宮に冊立しました。(頼通は父道長と違って不運にも子女に恵まれなかったため、早くから養女としていた嫄子を入内させて中宮とし、皇子の誕生を期待したのでした。)

しかし、嫄子入内は、禎子内親王の心を深く傷つけ、後朱雀天皇と禎子の間に亀裂を生みます・・皇太子時代から天皇と禎子との関係は、三人の皇子皇女に恵まれるなど良好なものでしたが、強引に嫄子の中宮冊立を企てる藤原頼通の圧力を感じた禎子は、皇子・尊仁親王(たかひとしんのう 後の後三条天皇)を連れて宮中を出て、憎い嫄子が死去した後の長久元年(1040)十二月までの四年間、御所に参内しなかったと伝わります。(権力を握る頼通に気兼ねして、後朱雀天皇としてもどうすることも出来ず、この間、互いを慕う後朱雀天皇と禎子の間に交わされた和歌が残っています。禎子の返歌には恨みも感じますが)

一方、嫄子も後朱雀天皇の寵愛を受けて、長暦二年(1038)、翌三年(1039)に相次いで祐子内親王、禖子内親王の皇女二人を生みますが、長暦三年(1039)八月に亡くなりました。
頼通が入内させた嫄子が皇子を生むことなく亡くなったことは、頼通に代わって外戚の地位を得ようとするその弟達の野心を刺激し、長久三年(1042)三月には、頼通の異母弟・権大納言・藤原頼宗(ふじわらのよりむね)が娘延子(えんし)を、同年十月には頼通の同母弟・内大臣・藤原教通(ふじわらののりみち)が娘生子(しょうし・なりこ)を相次いで入内させますが、共に皇子を得ることはありませんでした。(延子は懐妊中に後朱雀天皇が崩御に遭い、その三ヵ月後に正子内親王を生んでいます。生子は子供を産むことはありませんでした。)
こうして、頼通・教通兄弟ら藤原一門が権力を巡って後宮対策に熱中する間、邪魔者扱いの皇后・禎子内親王とその皇子・尊仁親王(後の後三条天皇)は頼通らに冷遇されていましたが、藤原頼宗の同母弟の権大納言・藤原能信(ふじわらのよしのぶ)のみは、異母兄・頼通への反抗心もあって、中宮大夫として禎子内親王や尊仁親王の側に仕え彼らを支えました。



さて、寛徳元年(1044)正月から都では悪病が流行し、五月二十五日頃には後朱雀天皇も里内裏・東三条第で病にかかります。その後、帝は一旦は快復したようですが、十二月後半には再び重病となりました。悪性の腫瘍によって左肩が腫れて熱を持ち、冷水をかけて熱を抑えるなどの治療が行われました。(「栄華物語」では病名を「にきみ」と記します)
治療に当たったのは、当代一の名医で、後に(永承七年1052)後冷泉天皇(後朱雀天皇の子)の病気を治した功績から、各々従四位上・従四位下に任じられることになる典薬頭・和気相成(わけのあいなり)、権医博士・丹波雅忠(たんばのまさただ)でしたが、この時は二人の治療の効果も無く、帝の病気は快復しませんでした。翌寛徳二年(1045)正月十日には、後朱雀天皇の快復を祈願して大赦があり、皇太子の第一皇子・親仁親王(後の後冷泉天皇)も帝を見舞いました。そして、後朱雀天皇はついに危篤状態となり譲位を決断しました。


後朱雀天皇は、漢詩や和歌を好んだ才能ある天皇でしたが、政治の実権は藤原頼通が握っていたため、これまで大きな政治的決断をすることはありませんでした。しかし、死の間際に、その後の歴史に少なかざる影響をもたらす一つの決定を行いました。それは、頼通に圧迫されて日陰の身に置かれていた第二皇子・尊仁親王(後の後三条天皇)を、皇太子・親仁親王が即位した後の皇太子に決めたことでした。

この次期皇太子の決定過程については、真偽については明らかではありませんが、「今鏡」「古事談」「愚管抄」等に興味深いエピソードが記されています。
それらによると、危篤状態となった後朱雀天皇は、皇太子・親仁親王(後冷泉天皇)への譲位を宣言しますが、次期皇太子については決定に迷いました・・・・
天皇には皇太子・親仁親王(後冷泉天皇)と尊仁親王(後の後三条天皇)以外に皇子は無く、二十歳の皇太子(親仁親王)にも皇子はありませんでした。順番からいえば、第二皇子・尊仁親王が次期皇太子となるのが通例ですが、関白・藤原頼通が、天皇の提案に対して態度を保留し、今すぐ決める必要は無いでしょうと、決断の先延ばしを進言したからでした。

頼通が尊仁親王(後の後三条天皇)の立太子に賛成しなかったのは、親王の母が禎子内親王で、藤原氏と外戚関係に無かったことによります(禎子は三条天皇の皇女で、藤原道長にとっては孫(母は藤原道長の娘・中宮妍子)に当たりますが、頼通ら当時の摂関家との関係ではかなり傍系といえます)
頼通の立場からいえば、外戚関係に無い尊仁親王の立太子は、自身や次世代の権力基盤の安定という点から大変都合の悪いことでした。頼通は、外戚関係にある皇太子・親仁親王(後冷泉天皇)にいずれ自身の外孫となる皇子が誕生すれば、その皇子を皇太子にしようと考えていました。

さて、「今鏡」や「愚管抄」によると、頼通の意見を聞き入れ皇太子については決定を保留していた病の床の後朱雀天皇のもとに、頼通の異母弟・権大納言・藤原能信(ふじわらのよしのぶ)が参上します。
先に書いたように、能信は尊仁親王(後の後三条天皇)の保護者の立場にあり、尊仁親王の将来を心配する数少ない親王の味方でした。
能信は、後朱雀帝に「二宮(尊仁親王)の御出家についてですが、どの僧に師事を命じましょうか?」と尋ねました。これを聞いた後朱雀帝は、意外と感じたのか、「東宮(皇太子)にするつもりだ。どうして僧になどしようか」と言い、関白(頼通)が東宮(皇太子)については、急いで決めることも無いと言うので、後日決定しようと思っていると語ります。これを聞いた能信は、ここぞとばかりに、「今日すぐに、二宮(尊仁親王)を東宮(皇太子)になされなければ、もう実現できないと思います」と言うと、後朱雀帝も自身の病気を考え「それならば、今日すぐに」と、直ちに尊仁親王を立太子させるという遺詔を発したということです。
優れた才能を持ちながら頼通に気兼ねしてきた後朱雀帝が、生涯の最後に頼道に逆らって自身の意志を通したといえるでしょうか。こうして、尊仁親王(後の後三条天皇)は立太子され、藤原能信は東宮大夫となって引き続き親王を支えることになりました。
(尚、その後の尊仁親王については、「後冷泉天皇火葬塚」で書いてみます)



最後に後朱雀天皇の崩御についてです・・
寛徳二年(1045)正月十六日、危篤状態となった後朱雀天皇は、親仁親王(後冷泉天皇)に譲位して上皇となり、皇弟尊仁親王(後の後三条天皇)を皇太子としました。そして、十八日に出家し、同日崩御しました。(享年三十七歳)
遺骸は、二月二十一日に香隆寺の北西(香隆寺乾原)で火葬され、遺骨は一条天皇御願で、長徳四年(998)に創建した仁和寺塔頭・円教寺に納められ、その後、天喜三年(1055)十月、円教寺寺域の一部に円乗寺と称する御堂が建立され、後朱雀天皇陵とされました。(香隆寺については、白河天皇火葬塚や二条天皇陵等を採り上げた際に書いていますが、鎌倉時代以降に廃絶し、その正確な位置は不明となりました。明治時代に北区平野を跡地と推定し「二条天皇香隆寺陵」が造られました)


さて、円融天皇から後三条天皇の時代・・平安中期から後期にかけて、現在の仁和寺の周辺には、塔頭として円融寺、円教寺、円乗寺、円宗寺の、いわゆる「四円寺」と総称される天皇御願寺が相次いで建立されましたが、その後中世には全て廃絶してその位置も不明となりました。
この内、第六十四代・円融天皇の勅願寺として天元六年(永観元年 983)に創建された円融寺の跡地は、現在石庭で知られる龍安寺(竜安寺)境内と推定されています。そして、明治時代に、この龍安寺の裏山(右京区龍安寺朱山 龍安寺内)に、他の「四円寺」の円乗寺、円教寺、円宗寺を陵墓とした後朱雀天皇、後冷泉天皇、後三条天皇の三代の天皇陵が一ヶ所に集められて整備されました。(「後朱雀天皇円乗寺陵」「後冷泉天皇円教寺陵」「後三条天皇円宗寺陵」)
しかし、「四円寺」の跡地自体の特定が困難な中で、これらの陵墓をまとめて地定するにはやはり無理があり、「後朱雀天皇円乗寺陵」についても、現在は、遺骨が納められた円教寺や円乗寺は、仁和寺の南東方面にあったと推定されることから、陵墓の信憑性には問題があるとされています。

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今回は、京都市北区等持院東町にある堀河天皇火葬塚を採り上げました。
この火葬塚の特徴は、巨大な松の木があることです。この大樹のおかげで、前にブログPart1で採り上げた帝の父・白河天皇の火葬塚よりも立派に感じます。ただ、この松は、残念ながら現在、松枯れ病によってか赤く変色してしまっています。


さて、第七十三代・堀河天皇(1079〜1107)は、白河天皇の第二皇子で、名を善仁(たるひと)といい、応徳三年(1086)十一月に八歳で天皇に即位しました。もちろん政治の実権は父の白河上皇が握って院政を敷きました。白河上皇が、急いで幼少の堀川帝に譲位したのは、亡父・後三条帝の遺命に背いて自身の皇統を守るために他なりませんでした・・・

白河上皇の父、後三条天皇は、宇多天皇以来十代を経てようやく現れた藤原氏を外戚としない天皇(母は三条天皇の娘・禎子内親王)で、歴代天皇を傀儡としてきた藤原氏の摂関政治体制を終わらせるという歴史的な役割を果たした天皇として知られます。
学才に極めて秀で、倹約を旨とした名君として後世讃えられた後三条帝でしたが、皇太子時代には関白・藤原頼通の圧力に耐えて二十四年もの長い不遇な時代を過ごしました。頼通は藤原氏と縁の薄い皇太子・尊仁親王(後三条)を追い落とそうとしますが、尊仁親王(後三条)は、唯一の味方の大納言・藤原能信(頼通の異母弟で頼通と対立していました)に支えられて危機を乗り越え、結局、兄の後冷泉天皇に、最後まで皇子が生まれなかったことから即位することが出来ました。
こうして登場した後三条帝の治世は、在位五年余の短いものでしたが、藤原能信の養子能長や下級公家を抜擢して親政を行い、荘園整理令を発布して藤原氏の経済的基盤に打撃を与えました。晩年の延久四年(1072)に第一皇子・貞仁親王(白河天皇)に譲位したのも、病気に因るものという説の他に、藤原氏を抑えるために院政を敷くことを意図していたという説もあります。



後三条帝が、いかに藤原専制政治の復活を警戒していたかを表すのが、第一皇子・貞仁親王(白河天皇)の皇太子として、異母帝の第二皇子の実仁親王(さねひとしんのう)を立て、さらに実仁親王が即位した後は、その弟・輔仁親王を皇太弟とするよう遺言したことです。
後三条の即位当時は、苦労を共にした唯一の皇子の貞仁親王(白河天皇)が皇太子に立てられましたが、貞仁親王(白河天皇)の母は、帝の皇太子時代の保護者・藤原能信の養女・藤原茂子でした。
藤原摂関政治を排除することを政治課題とした後三条帝としては、自分の死後も藤原勢力を復活させないためには、第一皇子・白河帝の子孫よりも、即位後に生まれた藤原氏と外戚関係の無い源基子を母とする実仁親王と輔仁親王に皇位を継承させた方がより安全だと考えていたようです。
そこで、延久四年(1072)の白河天皇の即位の際には、二歳の実仁親王が皇太弟と定められ、翌延久五年(1073)に後三条上皇が重態となると、後三条は、生後間もない輔仁親王を、実仁親王即位後にその皇太弟とするよう遺言しました。弟の血統に皇位を譲らなければならない白河は内心大いに不満でしたが、もちろん父帝の遺命に背くことは出来ないことでした。

さて、白河天皇には、承保元年(1074)に生まれた第一皇子の敦文親王がありましたが、承暦元年(1077)に四歳で夭折してしまいます。しかし、二年後の承暦元年(1077)に待望の第二皇子が誕生しました・・善仁親王(堀河天皇)です。そして、応徳ニ年(1085)に皇太弟の実仁親王が十五歳で疱瘡で病死するという絶好の機会が訪れると、白河帝は、翌三年(1086)、父帝の遺言を無視してもう一人の異母弟・輔仁親王を退けて実子の八歳の善仁親王(堀河天皇)を立太子して即日譲位を宣言、堀河天皇の即位に成功します。



こうして即位した堀河天皇の治世ですが、幼少期は、父白河上皇や摂政(後に関白)藤原師実(藤原頼道次男)が政治を行いましたが、その後、寛治八年(1094)に師実の子、藤原師通が父の後を継いで関白に就任すると、師通の補佐を得て堀河天皇の一時的な親政が始まります。

藤原師通は、白河院政期の貴重な同時代資料、日記「後二条師通記」の著者としても知られ、生真面目で道理を貫く気丈な人物でした。師通は、「(天皇ではなく)上皇の御所の門前に、(人々が)牛車をとめるなどということがあるのだろうか(今鏡)」と、白河院政に批判的で、度々、白河上皇や父師実を無視して独断で政治を行い(愚管抄)、白河上皇の寵愛する院近臣勢力を抑え、堀河天皇の親政を支えました。そして、その道理に基づいた政治は、「嘉保・永長の間、天下粛然(本朝世紀)」と高く評価されました。しかし、承徳三年(1099)、師通が病死すると、白河院政に異を唱えるものは無くなり、また康和三年(1101)に師通の父師実が亡くなると藤原摂関体制はさらに弱体化しました。そして、堀河天皇が病弱だったこともあって、白河上皇が再び政治の実権を握るようになっていきます。

こうして堀河天皇は次第に政治から離れ、文化面にその才能を発揮していきます。天皇自身は、和歌や管弦に秀で、中でも当代屈指の笛の名手として知られました。帝の周囲には学問や音楽に秀でた公卿達が近臣として仕え、管弦を中心とした貴族文化が最も栄えた時代でした。
在位二十一年は当時の天皇としても非常に長く、堀河帝は「末代の賢王也(続故事談)」、またその治世は「天が下治まりて、民安く世のどかなり(発心集)」と讃えられることになります。


このように文化面で才能を発揮し、穏やかで上品な人柄で周囲から慕われた堀河帝でしたが、当時の記録に因ると、帝は幼少期より常に病気や体調不良に悩まされていたようです・・・(以下、煩雑なため西暦は省略)
寛治六年六月
寛治七年六・八月
嘉保元年五・六・十一月
嘉保二年七・九〜十・十一月
永長元年三・七・九月
承徳元年十月
承徳二年三・五月
康和元年八月
康和三年八月
康和四年二・十一月
康和五年十月
長治元年八月
長治二年三・四・七・八・九・十月
嘉承元年一・二・四・六・九・十月と体調不良や病気の記述が続き、崩御の年の嘉承二年(1107)には、三月七日、五月十日〜二十五日、六月二十日と病気が悪化していったようです。
そして、ついに七月六日には重態となりました。(崩御の様子は乳母子の典侍藤原長子「讃岐典侍日記」が記しています)
こうして、嘉承二年(1107)七月十九日、堀河天皇は堀河殿(現中京区堀川通二条下る付近)で二十九歳で崩御し、同二十二日に納棺と葬儀の決定、二十四日に香隆寺(香隆寺については、以前に白河天皇火葬塚や二条天皇陵などで少し書いています)の付近で火葬され、翌二十五日に遺骨は香隆寺に納められました。
その後、永久元年(1113)三月二十二日、堀河帝の遺骨は仁和寺山陵円融院に改葬されています。尚、明治時代に地定された現在の堀河天皇後圓教寺陵(のちのえんきょうじのみささぎ)は竜安寺の北東(竜安寺は円融天皇ゆかりの円融寺が衰退した後に建立されました)にあり、一条天皇円融寺北陵に隣接しています。

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上京区平野八丁柳町にあるのが、第78代二条天皇の御陵「二条天皇香隆寺陵(にじょうてんのうこうりゅうじのみささぎ)」です。住宅地に囲まれた他の天皇陵と何ら違わない普通の天皇陵という印象ですが、面積はかなり広く、比較的近い三条天皇北山陵や花山天紙屋川上陵よりも雄大な印象です。


第78代二条天皇(1143〜65)は、後白河天皇の第一皇子で、名を守仁(もりひと)といいました。守仁親王は、生母(源懿子)の死により、祖父の鳥羽上皇に引き取られて、その皇后・美福門院(藤原得子)により育てられていたために、父後白河との関係は疎遠だったようです。

少し溯ります・・・久寿二年(1155)、鳥羽上皇と美福門院は、最愛の息子・近衛天皇(鳥羽と美福門院間に生まれた第九皇子)が17歳で病死したことから、憎んでいた崇徳上皇(鳥羽の第一皇子 鳥羽が子の崇徳を、自身の祖父・白河上皇の子と疑い、叔父子と呼んだという話は良く知られます。)の復位(また、崇徳の皇子・重仁親王の即位)を阻止する為に、「文にあらず武にもあらず、能もなく芸もなし」とこれも天皇の器では無いと考えていた第四皇子・雅仁(まさひと)親王(後の後白河天皇)を天皇にすることを決意しました。
実は、鳥羽上皇と美福門院は、養育した孫・守仁親王(二条天皇)が、後に「末の世の賢王におはします(今鏡)」と記されるほどの優れた才能があったために、天皇に即位させたいと考えたのですが、親王がまだ幼少で、その父が皇位を継いでいないというのも憚られた為、とりあえず中継ぎとして暗愚な父の後白河を即位させたというのが実状だったようです。翌保元元年(1156)、鳥羽上皇が崩御すると、たちまち保元の乱が勃発し、後白河は、兄・崇徳上皇派を破ることに成功します。



さて、後白河は3年後の保元三年(1158)に、皇位を守仁親王に譲って上皇となり、こうして15歳の二条天皇が誕生します。二条天皇の治世は、院政を敷く父・後白河上皇との対立の時代でもありました。元々、鳥羽上皇が期待したように、二条は才能のある若者で、後白河の院政を良しとせず、二条の親政を期待する美福門院一派等上級貴族の支持を集めていました。これに対し、後白河の力はまだ弱かったものの、摂関体制下で日陰の身だった乳母の夫・藤原通憲(信西)を重用し、信西は源義朝や平清盛といった武士との結び付きを進言します。この武家との結びつきが、その後白河院院政を強め、さらに平氏政権を生み出していくことになります。
しかし、後白河を支える勢力内では、藤原通憲(信西)と藤原信頼、平清盛と源義朝が対立を激化させ、平治元年(1159)に「平治の乱」が勃発します。この時、二条天皇は後白河と共に反乱勢力に幽閉されますが、清盛の六波羅邸へ逃れることが出来ました。

平治の乱後も、院政を推進しようとする後白河と、天皇親政を行おうとする二条との対立が続きます。永暦元年(1160)、二条は近衛天皇の皇后だった太皇太后・藤原多子(2人の天皇の妃となったことから「二代の后」と呼ばれました。)を入内させますが、これも二条が鳥羽・近衛天皇の正当な後継者としての地位を固めて、後白河院政を牽制するためだったともいわれます。この年以降、美福門院が死去するなど二条天皇の勢力は弱まりますが、特に大きかったのは、応保元年(1161)に、後白河と寵愛する平滋子(建春門院 平清盛の妻時子の妹)の間に、新しい皇子(憲仁新王 後の高倉天皇)が誕生したことでした。

後白河の長男・二条天皇(次男の以仁王もそうです)は、幼少時より後白河と離されてその後も鳥羽上皇一派によって育てられ、父と疎遠な関係にあったわけですが、新しく生まれた皇子は、後白河にとって寵愛する平滋子(建春門院)との間の愛息であり、平家との結び付きを強化するためにも待望の天皇候補だったからです。早速、この憲仁親王を皇太子にしようとする平時忠らの陰謀が発覚して、二条は時忠ら後白河派の近臣を解官して後白河派を圧迫します。

長寛二年(1164)には今度は二条に待望の皇子(順仁親王 後の六条天皇)が誕生して、二条天皇の親政推進派、後白河上皇の院政推進派が共に後継者を得ることになりました。両者の対立はさらに激化することが予測されましたが、意外な事態で決着します。
長寛三年(1165)に二条を支えた太政大臣・藤原伊通が死去し、さらに、二条自身も病に倒れ2歳の皇子・順仁親王(六条天皇)に譲位し、翌月に23歳で崩御したのでした。二条の死によって、後白河は最終的に勝利をつかみました。後白河は平清盛と結んで、幼帝・六条天皇を在位二年数ヶ月、五歳で譲位に追い込んで、自身の子・八歳の高倉を即位させました。こうして、後白河は以後の高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇とさらに院政を続けることになります。




さて、二条天皇は亡くなると、遺骸は火葬にされて、遺骨は香隆寺の境内に造られた三昧堂に納められたと伝えられます。この香隆寺という寺院は、平安時代中期に創建された真言宗の寺院で、現在の京都市北区に位置したと伝えられます。かつて白河上皇が崩御した際も、火葬後に遺骨は一旦香隆寺に埋葬され、後に鳥羽離宮の御堂成菩提院が完成した後に改葬されているように由緒ある由緒ある寺院だったようですが、中世(鎌倉)以降に廃絶してしまったためにその跡地も、二条天皇の陵墓の所在も不明となりました。
平家物語には「香隆寺の東北、蓮台野の奥、船岡山にをさめ奉る」とあり、平安時代に葬送の地として知られた衣笠山から船岡山一帯にあったことは確実で、船岡山説や衣笠山説等諸説がありましたが、明治二十二年(1889)に香隆寺の跡地を推定して、等持院の東に位置する現在地に円丘の御陵が造られました。もちろん推定であり実際にこの地に陵墓があったかは不明です。尚、この陵墓から南西200m余りの地には堀川天皇の火葬塚があり、堀川天皇の遺骨も一時香隆寺に安置されていたとも伝えられます。

最後に、先程も書きましたが、衣笠山から船岡山にかけての付近一帯は平安時代には葬送地で、皇室の荼毘所となった地域でもありました。そのために多くの陵墓や火葬塚があります・・・二条天皇香隆寺陵の他にも、堀川天皇火葬塚、白河天皇火葬塚、花山天皇紙屋川上陵、後朱雀天皇火葬塚、一条天皇・三条天皇火葬塚、三条天皇北山陵、近衛天皇火葬塚、後冷泉天皇火葬塚等が点在しています。これらについても少しづつ採り上げてみたいと思います。

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