京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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阪急電鉄桂駅西口の南西約三百メートルにある三宮神社(三ノ宮神社 京都市西京区川島玉頭町)は、川島玉頭町周辺地域の鎮守社です。この神社は、川島周辺の神社の中では最も広い境内を持っていて、本殿の傍にある椋の大木は、周囲からも良く見え、地域のシンボルとなっています。


さて、三宮神社(三ノ宮神社)の祭神は、鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)です。
祭神の祖父神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、父神は山幸彦と海幸彦の神話の山幸彦穂穂手見命(やまさちひこほほでみのみこと)、母神は豊玉毘売命(とよたまひめのみこと)で日向の国で誕生しました。
祭神の命名の由来は、母神が出産する際に産屋が建てられることになり、その産屋は鵜の羽を葺草の代わりに葺いて建てました。ところが、産気が急で屋根を葺き終らないうちに祭神が誕生したことから、「鵜草葺不合=鵜茅葺き合えず」と命名されることになったとされます。尚、鵜草葺不合尊は、成人後、玉依毘売命を妃として四神を授かりましたが、その第四子が、神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)即ち、後の神武天皇とされます。
また、神社の主なご利益は、縁結び、安産、母乳の出・子育て、入学・就職、厄除け、延命、開運等諸般に霊験あらたかということです。

神社の創建ですが、神社の掲示板には、古老の口碑によるとして、三宮神社は、今から約千二百年前、山城国葛野郡川島村と呼ばれた現在の地を神域として祭神・鵜草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を奉祀した旧祠で、末社の白山神社の祭神・白山姫大神(しらやまひめのおおかみ)と共に産土鎮護の守護神であると記しています。また、二百六十余年前の記録によると、平安時代の天長年中(824〜34)に川島村の氏神として勧請したのが創祀と言うことです。
昭和十八年(1943)十二月二十二日に、明治三十九年(1906)の勅令による神饌幣帛料を給付される神社、明治四十一年(1908)の内務省令の会計に関する規定を適応すべき神社に指定されました。その後、本殿の老朽化により、昭和四十三年(1968)二月八日に氏子代表による造営委員会を設立して境内の整備と本殿の造営を計画し、昭和四十四年(1969)十一月三日に現在の荘厳な社殿の竣工となりました。末社として白山神社の他に岩神大明神社を祀ります。


御神木のムクノキは、本殿の直ぐ脇にあり、高さは二十メートル以上、幹周が五メートル以上、樹齢は三百年以上といわれています。京都府の調査によると、ムクの木では京都府下で五番目の大きさということで、平成十七年(2005)三月に京都市指定の保存樹に指定されています。
また、近年は太い枯れ枝が目立つようになったため、京都府の身近な視線環境保全推進事業の助成により、平成十年(1998)三月に枯枝除去、施肥料等の蘇生治療が施されました。

地蔵院(竹の寺)

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かなり前にブログパート1に掲載した私の好きな地蔵院(竹の寺)を、写真を増やして再掲載します。

京都で「地蔵院」というと、これまでにブログに採り上げてきた「椿寺」(地蔵院 北区一条通西大路東入る大将軍川端町)や老枝垂桜が美しい地蔵院(=地蔵禅院 京都府綴喜郡井手町)も注目したい寺院ですが、観光名所として知名度が高いのは、今回の「竹の寺(地蔵院)」だと思われます。
このお寺は、美しい竹の参道や名庭「十六羅漢の庭」で知られ、室町時代の管領・細川頼之の建立、一休禅師ゆかりの寺院でもあって歴史的な話題にも事欠きません。秋には椛と苔や竹林の対比が美しい隠れた紅葉の名所にもなります。

ただ、この地蔵院(京都市西京区山田北ノ町)、人気のある鈴虫寺(華厳寺)から歩いて数分程度の距離にあるにもかかわらず、観光シーズンでもそれほど拝観者は多くありません。嵯峨野嵐山の小寺に勝るとも劣らない京都らしい竹や苔の美が凝縮されたようなこの寺院が、鈴虫寺(華厳寺)を訪れる多過ぎる程の観光客から無視されていることを残念にも思いますが、このお寺が好きな方は、観光客が少なくて癒されるので、今のままの方が良いというところかもしれません。観光寺院と言うにはやや殺風景な方丈には、細川護熙元首相が細川家由緒のこのお寺を隠れ寺と呼んで何度も訪れているという週刊誌の記事が貼られていますが、確かに他人に教えたくない、京都通好みの小さな隠れ寺といった雰囲気もあります。



さて、地蔵院は、山号を衣笠山(きぬがさやま)という臨済宗系の単立寺院で、松尾の谷で地蔵菩薩を祀ることから「谷の地蔵」、美しい竹林に囲まれていることから「竹の寺」とも呼ばれています。夢窓国師を開山として、伝教大師最澄の作と伝わる延命安産のご利益のあるという地蔵菩薩像を本尊としています。
元々、この地には、鎌倉時代初期の歌人で、衣笠内大臣(きぬがさないだいじん)と呼ばれた藤原家良(ふじわらのいえよし 1192〜1264)の山荘がありましたが、その後、南北朝時代の貞治六年(1367)または応安元年(1368)に、室町幕府の管領細川頼之(ほそかわよりゆき 1329〜92)が尼僧妙性(みょうしょう)から付近の土地を買い取って、自身が深く帰依していた碧潭周皎(へきたんしゅうこう 宗鏡禅師)に寄進して寺院を建立しました。これが現在の地蔵院で、碧潭周皎(宗鏡禅師)は、自身の恩師で、西芳寺(苔寺)や天龍寺の作庭等で有名な夢窓疎石(むそうそせき夢窓国師)を開山に勧請して、自身は第二世となりました。



さて、地蔵院の開基となった細川頼之(ほそかわよりゆき 1329〜1392)についてです・・
細川頼之は、室町幕府二代将軍足利義詮が亡くなる際に、管領として幼少の三代義満の補佐を託され、以後十二年に渡って将軍職代行として幕政を主導し、室町幕府の基礎を築いた人物でもあります。
頼之は、足利氏の一門になる細川家の嫡流、細川京兆家(頼之の養嗣子となった弟・頼元が、右京大夫に任ぜられ、以後、代々の細川氏惣領家が右京大夫を踏襲したことから、その唐名で京兆家と呼ばれました)の出身で、元徳元年(1329)、細川頼春(ほそかわよりはる)の子として三河国(愛知県)に誕生して幼名は弥九郎といいました。

細川家は、鎌倉時代末期までは、足利氏庶流の三河国の一御家人に過ぎませんでしたが、その三代目に当たる公頼(きみより)の子、和氏(かずうじ)、頼春(よりはる)、師氏(もろうじ)の三兄弟や、その従兄弟(細川頼貞(よりさだ)の子)に当たる顕氏(あきうじ)、直俊(なおとし)、定禅(じょうぜん)兄弟らが、南北朝時代の戦乱で足利尊氏を支えて活躍したことで、やがて一大勢力へと成長していきます。
建武の親政で阿波守に任じられた一族惣領の和氏の死後(興国三年(康永元年 1342)死去)は、弟の頼春や、従兄弟の顕氏(その弟達は兄に先立って前後して死去)が、細川家一門の中心となって南朝と戦い、観応の擾乱でも活躍します。頼之も、父頼春に従って早くから戦場にあったようで、頼春が正平七年(文和元年 1352)四月に南朝軍との戦いで戦死した際は、一旦退却して軍を糾合した顕氏の指揮下で阿波軍を率いて南朝軍と交戦しています。


さて、正平七年(文和元年 1352)、頼春の戦死に続いて顕氏も病死したことで、細川一門は、次世代に当たる、和氏の子の清氏(きようじ)や頼春の子の頼之(よりゆき)を中心に、顕氏の子の繁氏(しげうじ)、師氏の子氏春(うじはる 父の淡路守護・師氏は、正平三年(貞和四年 1348)に死去))等に率いられることになります。
次世代の中心として幕政を担うことになったのは、一門の惣領となった清氏(きようじ)で、伊賀国や若狭国の守護を歴任し、正平十三年(延文三年 1358)の将軍尊氏の死後、仁木頼章(にきよりあき 高師直の死後に執事に任命)に代わって、将軍義詮から新たな執事職に任命され幕政を指導する立場となります。この間、頼之は、父の領地を継承して阿波国や伊予国守護も兼ねて南朝軍の抑えを任されて四国を平定し、その後、九州に勢力を築いていた足利直冬が中国地方に転戦すると、中国諸国を統轄して西国将軍として将軍職軍事権を代行し、直冬勢力を弱体化させました。

一方、幕府内では、執事となった従兄弟の清氏が、畠山国清と結んで、仁木義長(前執事の仁木頼章の弟)を失脚させるなど勢力を拡大していましたが、正平十六年(康安元年 1361)九月に、佐々木道誉や斯波高経等との対立から失脚し、従兄弟の氏春等と共に南朝に降ります。十二月、清氏は南朝の楠木正儀らと京都を占領するなどしたため、正平十七年(貞治元年(1362)、頼之は、将軍義詮から清氏討伐を命じられて讃岐国で清氏を戦死させ、氏春を降伏させました。

その後、正平二十二年(貞治六年 1367)頼之は、将軍義詮が亡くなる直前に、管領として幼少の三代義満の補佐を託されて幕府を主導します。頼之は、内政では、正平二十三年(応安元年1368)に、天皇公家や寺社の荘園を保護する応安の半済令(応安大法)を施行し幕府の領地支配を固め、一方、建徳元年(応安三年 1370)頃、九州に今川了俊を派遣して征西府の懐良親王ら南朝勢力の掃討を推進し、畿内南部の南朝とは講和交渉を行って、楠木正儀を北朝へ帰属させるなど南朝弱体化に成功します。
しかし、天授五年(康暦元年 1379)閏四月、反頼之派の守護大名・斯波義将や土岐頼康らの圧力から将軍義満は、頼之を罷免します(康暦の政変)
失脚した頼之は出家しますが、頼之の弟で養子の細川頼元の赦免要請によって、元中六年(康応元年 1389)に頼之は赦免となり、その後、管領・斯波義将が元中八年(明徳二年 1391)に管領を辞して、四月に頼元が管領となると、宿老として幕政に復帰し、元中九年(明徳三年 1392)三月、六十四歳で亡くなりました。



さて、創建以降、地蔵院は細川家の庇護を受けて次々と伽藍を建立しました。
室町幕府の重臣細川氏由来の寺院として朝廷の信仰も厚く、北朝系の三代の天皇(崇光、後光厳、後円融)の御願寺にも準ぜられて京都五山と同様の特権を与えられ、多くの寺領が寄進されたということです。こうして、最盛期には、境内十七万平方メートル、境内塔頭三院、末寺二十六ヵ寺、諸国に領地五十四ヵ所を有する一大禅刹となったということです。

また、地蔵院は、一休宗純禅師が幼少期に修養した寺院としても知られます・・一休禅師は、応永元年(1394)、後小松天皇の皇子として、地蔵院の近くの民家で生まれたとされ、その後、地蔵院で過ごし六歳の時に、安国寺に移って本格的な修行に入りました。地蔵院の拝観の栞によると、この事は、禅師の弟子、済岳紹派の筆記になる「祖先詩偈」に、 「休祖(一休禅師)は初め嵯峨地蔵院に御座也」とあることによって明らかということです。その後、禅師は京都、堺などで布教して大衆を教化し、大徳寺にも住した後、晩年は山城薪(京田辺市)の妙勝寺を復興して酬恩庵とし、文明十三年(1481)に八十八歳で示寂しました。

その後、地蔵院は、応仁・文明の乱(1467〜77)によって諸堂悉く焼失します。そして、その後復興されますが、天正十三年(1585)の天正大地震で再び被災し、江戸時代初期には塔頭の龍済軒(りょうさいけん)と延慶庵(えんけいあん)がわずかに残る状態となりましたが、皇室や細川家の援助もあって、ようやく江戸時代中期の貞享三年(1686)とも)第十四世古霊和尚によって方丈が再建され、宝永元年(一七〇四)頃には寺観が整えられたと伝えられ、明治時代に、龍済軒・延慶庵の両寺を合併して現在に至っています。



さて、風情ある総門から、地蔵院の一番の魅力でもある、勢い良く空に伸びている高い竹林の参道を進んでいくと、正面に本堂、その右に庫裏や方丈があります。 
現在の本堂(地蔵堂)は、昭和十年(1935)に再建されたもので、堂内には、伝教大師最澄の作と伝わる本尊の延命安産地蔵菩薩を中心に、右に開山夢窓国師、碧潭周皎(宗鏡禅師)、左に細川頼之の木像を安置しています。
また、 本堂南には、碧潭周皎(宗鏡禅師)と細川頼之の墓石と伝えられる自然石「細川石」が並んで安置されています。文中三年(応安七年 1374)、碧潭周皎(宗鏡禅師)が示寂して地蔵院に埋葬された後、元中九年(明徳三年 1392)細川頼之もまた遺言によって、深く帰依した碧潭周皎(宗鏡禅師)の墓の傍に葬られたと伝えられているもので、自然石の印象的な墓石です。

また、本堂の右手にある方丈(京都市登録有形文化財に指定)は、江戸時代の貞享三年(1686)第十四世古霊和尚が、当時残存していた数少ない建物・・塔頭の延慶庵の方丈として建立したものです。その後、幕末の嘉永七年(1854)頃に西面に仏間が増築され、明治三年(1870)に仏間の床回りが修理され、昭和二年(1927)に大修理が行われていたということです。内部は八畳三室と六畳の仏間が一列に並んで、正面は広縁が通っています。そして、この縁先に庭園が広がります・・

この方丈庭園は、通称「十六羅漢の庭」として知られる名庭で、京都市の名勝に指定されています。(残念ながら写真撮影禁止)独特の意匠のこの庭は、作庭に関する記録が無いことから、作庭者・作庭年代は不明ですが、おそらく貞享三年(1686)に方丈が再建された際に、整備されたものと考えられます。また、元々は、碧潭周皎(宗鏡禅師)の作で、細川頼之遺愛の庭という伝承もあります。

築山や池泉等を設けない平庭形式の枯山水庭園で、庭全体に約三十個の石が様々に配置され、石の一つひとつが十六羅漢の修行の姿を表しているとされることから、「十六羅漢の庭」と呼ばれています。また、地蔵院の羅漢は、男山八幡宮(石清水八幡宮)に願をかえているので、その方向(左手後)に少しずつ傾いているということです。緑豊かな庭で、杉苔の中に、楓や五葉松、名椿「胡蝶侘助」等椿が植えられていて、特に春の椿の頃に風情のある庭園です。(尚、夏場は蚊が多いので注意)

また、地蔵院には、金剛界門、衣笠山、来鳳軒、枯木堂、観音殿、地蔵宝殿、尺竜谷、尸陀(しだ)林、不動井、興雲洞の「地蔵院十境」が伝わっていて、かつての境内を想像させます。また、竹林に囲まれた地蔵院の境内一円は、方丈・庭園が一体となって「竹の寺」と呼ばれるに相応しい優れた境内環境を形成していることから、西山一体の自然環境の核の一つとして、京都市の文化財環境保全地区に指定されています。

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大悲閣(千光寺)の続きです。


さて、最晩年になって、了以は大悲閣(千光寺)に隠棲しました。この頃には既に病気を患っていたようです。ただ、実現しませんでしたが、琵琶湖の水位を下げることによる新田開発や、琵琶湖と京都間の水路の開削、勢多川と宇治川間の水路の開削等を計画していたとも伝えられます。そして、慶長十九年(1614)三月、富士川の河岸が崩れ舟の運搬にきたしたために、幕府から了以に河岸修繕の命が下りますが、了以は病気のために動けず、子の素庵を代理として派遣します。そして、素庵が富士川の工事を完了する直前、同年七月十二日に、了以は六十一歳で亡くなりました。


尚、父の協力者だった長男の素庵(すみのくらそあん 1571〜1632)も、実務に専念して家業の業績を上げる傍ら、儒学を藤原惺窩に、書を本阿弥光悦に学んで、儒学者・芸術家としても活躍し、光悦と共に「寛永の三筆」のひとりにも数えられました。家業を子に譲って引退した晩年には、古活字の嵯峨本(角倉本)を制作したことでも知られ、江戸時代でも屈指の文化人の一人とされます。(尚、角倉家宗家は、素庵の息子(玄紀・巌昭)の代に、高瀬川の舟運を管轄する京角倉家と、大堰川の舟運を管轄する嵯峨角倉家に分れて明治に至ります。)
また、角倉家の一族の和算家、吉田光由(よしだみつよし、1598〜1672)は、寛永五年(1628)に、日本初の算術書「塵劫記」を出版した人物として知られ、この「塵劫記」は、日本の数学入門の模範書として、その改訂版や類書は明治時代まで続くベストセラーとなりました。
この関係で、大悲閣(千光寺)は、そろばん上達の寺ともいわれ、最近では数学理数上達の寺としても知られるということです。




さて、大悲閣(千光寺)は、本堂が十数年前の台風で倒壊して以来、境内は長らく荒れ放題な状態が続いていました。元々、大悲閣(千光寺)には檀家が無く有名な観光寺院でも無いために、その維持管理は大変だったのですが、さらに台風の大被害が追い討ちとなってしまったのでした。
当時の御住職が高齢で病気がちなこともあって、再建はほとんど進まず、拝観も中止となってしまいましたが、その後、現在の若い御住職が引き継いで、痛みの目立つ客殿に諸仏を移して拝観も再開され、今はさらに仮本堂に諸仏を移して本堂再建を目指して取り組んでおられるようです。

大悲閣(千光寺)の見所としては、まず、登り口に松尾芭蕉が大悲閣を訪れて詠んだという「花の山 二町のぼれば大悲閣」という句碑があります。江戸時代には花の名所として知られ、多くの文人達が寺を訪れたようです。ここから約百メートル石段を登れば、中門、鐘楼があり、その上の狭い空間に客殿と仮本堂があります。

仮本堂の中央に安置されているのが、本尊の千手観世音菩薩です。
この千手観音像は、恵心僧都源信の作と伝えられ、了以の念持仏だったといわれます。また、脇侍として右に毘沙門天、左に不動明王が安置されています。
有名な了以翁等身坐像は、以前は客殿に安置されていましたが、現在は仮本堂内の右側に安置されているようです。この像は、了以が病気で亡くなる前に、自身の像を作って大悲閣側に安置するようにと遺言したと伝えられる像です。眼光鋭い法衣姿で、手に石割斧(いしわりおの)を持ち片膝を立てた坐像で、今も眼下に流れる保津川の安全を見守っているということです。

その他、境内には、寛永七年(1630)の了以の十七回忌に、儒学者でもあった子の素庵が林羅山に撰文を依頼し、素庵の弟長因が書いた石碑「角倉了以行状記(近年有志の寄進で修復)」や夢窓国師の座禅石等があります。
また、客殿には、位牌の他に、写経道具やガイドブック、パンフレット、眺望を楽しむための双眼鏡等がやや雑然と置かれていて、勉強部屋か休憩所のような寛いだ雰囲気です。
この客殿からの眺望が、この寺院の最大(或いは、了以に関心の無い方にはほとんど唯一)の魅力といわれ、眼下には保津川の流れ、遠くは京都市外が一望できます。



尚、対岸の亀山公園には角倉了以像(右京区嵯峨亀ノ尾町亀山公園内)があり、了以や素庵の墓は二尊院にあります(共に以前にブログに掲載)
また、渡月橋の下流南岸にある公立学校共済組合嵐山保養所「花乃家(はなのいえ)」の前には、「桓武天皇勅営角倉址・了以翁邸址・平安初期鋳銭司旧址(右京区嵯峨天龍寺角倉町の石標があります。この石標は、前述したように、桓武天皇がこの地に「角倉」を定めたという伝承と、角倉了以の先祖がこの「角倉」の地で土倉を営んで「角倉」を家号とし、了以・素庵父子が舟運管理のためにこの場所に邸宅を設けていたことを表したものです。また、平安初期鋳銭司は嵐山の麓辺りにあったという伝承もあり、石標にはその旧跡であることも記されています。


また地域は違いますが、高瀬川沿いにも了以ゆかりの史跡が多く、高瀬川一之船入(中京区木屋町通二条下る西側)、二之船入跡(中京区木屋町通御池下る西側)、三之船入跡(中京区木屋町通三条上る西側)、角倉氏邸址(中京区木屋町通二条下る西側)、角倉了以別邸跡(中京区木屋町通二条下る東側 がんこ寿司二条店前)等の石標が建てられています。

大悲閣(千光寺)その1

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嵐山の渡月橋から保津川(大堰川)の右岸を約一キロメートル遡った所にある嵐山温泉から、さらに九十九折の石段を登ること約百メートル、嵐山の中腹にあるお寺が千光寺(せんこうじ)です。

千光寺は、安土桃山時代〜江戸初期の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)ゆかりの寺院で、通称の大悲閣(だいひかく)の名で知られます。十数年前に台風で本堂が倒壊して再建途中にあるために、現在もかなり荒れた雰囲気が漂う田舎の古い庵や山荘のような小さな寺院ですが、京都市内を一望できる「絶景」を売りにしていて、秋の観光シーズンには嵐山観光の穴場として訪れる人も多いです。



さて、京都市西京区嵐山中尾下町、嵐山の中腹にある千光寺(せんこうじ)は、正式には、嵐山大悲閣千光寺という黄檗宗の単立寺院(元々は天台宗)で、本尊は千手観音菩薩になります。通称の「大悲閣」というのは、観音菩薩を安置する観音堂を指します。

元々、千光寺という寺院は、創建年代は不明ですが、嵯峨中院(現在の清凉寺=嵯峨釈迦堂の付近)にあり、鎌倉時代には後嵯峨天皇の勅願寺にもなった由緒ある寺院でしたが、やがて衰退してしまったようです。その後、江戸時代初期の慶長十九年(1614)五月、豪商角倉了以(すみのくらりょうい)が、晩年にこの地に隠棲し、保津川の開削工事に関係した人々の菩提を弔うために千光寺を現在地に移して、二尊院の僧、道空了椿(どうくうりょうちん)和尚を中興開山に講じて建立したということです。
尚、「大悲閣」とは、仏の「大慈大悲(だいじだいひ 仏教の根本「慈悲」の精神から、一切の衆生に楽を与える「慈」と一切の衆生の苦を抜く「悲」)」という教えに基づいた、一般に観音堂を意味する名称ですが、千光寺境内に了以が建立した観音堂が有名になったためか、千光寺は、特にこの「大悲閣」の名で知られるようになりました。



さて、安土桃山・江戸初期の豪商で、京都の水運の父ともいうべき角倉了似(1554〜1614)についてです。
了似は、天文二十三年(1554)、嵐山の天龍寺付近で土倉(金融業、高利貸し・質屋)と医業を営んでいた吉田家に誕生し、名を光好といいました。

元々、角倉家(本姓吉田氏)は、近江佐々木氏の出身でしたが、角倉家の祖となった吉田徳春が、足利三代将軍義満と四代義持に仕え、近江から洛西嵯峨の角倉の地へ移り住んだと伝えられます。(尚、「角倉」の名前の起こりについては諸説あるようですが、京都市歴史資料館の「フィールドミュージアム京都」のサイトを参照すると、かつて、桓武天皇が勅営角倉を洛西のこの地に置いたという伝承があったようで、寛永六年の林羅山による撰文「河道主事嵯峨吉田了以翁碑銘(了以の行状記)」には「洛の四隅に各々官倉あり,西に在るを角倉という」と記されていて、これがいつしか地名となり角倉了以の祖・徳春がこの地に住したことから、(さらにその後、吉田家歴代の当主が土倉(金融業、高利貸し・質屋)業を行ったことから、「倉(蔵)」にかけて)「角倉」を家名(屋号)としたと考えられます。渡月橋の下流南岸にある公立学校共済組合「花乃家(はなのいえ)」の前には、この伝承に基づいた「桓武天皇勅営角倉址・了以翁邸址」の石標があります)

その後、医術を本業として歴代将軍に侍医として仕え、また了以の祖父にあたる吉田宗忠(よしだそうちゅう)の頃から嵯峨大覚寺境内で土倉(金融業、高利貸し・質屋)業を行って富を蓄え、海外貿易にも進出していったようです。(江戸時代には、角倉家は、茶屋四郎次郎の「茶屋家」、後藤庄三郎の「後藤家」とともに「京の三長者」といわれるほど栄えますが、角倉家は江戸以前から京屈指の豪商だったといえます)吉田宗忠は、土倉は長男に、次男の吉田宗桂(よしだそうけい 了以の父)に医者を継がせますが、了以の父、宗桂も、医家は次男の吉田宗恂(よしだそうじゅん)に継がせ、長男の了似の方は、「角倉(すみのくら)」を正式に家名(屋号)にして土倉業を発展させることになります。また、子の素庵(そあん)は了以の良き協力者となりました。

了似は素庵と共に、豊臣秀吉の時代に海外貿易に加わって日本史上の民間貿易の創始者の一人となり、続いて徳川家康から朱印状を得て、朱印船(角倉船と呼ばれました)貿易を行い、慶長八年(1603)から数回に渡っては安南国(ベトナム)等の南方諸国との貿易等で成功しさらに莫大な富を得ました。その後、蓄えた巨万の富を元手に、商品流通のためには国内の河川網の整備が必要と考え、その開削事業にも乗り出し、手始めに慶長十一年(1606)に保津川(大堰川)の開削を行いました。


現在は「保津川下り」やトロッコ列車が行き来する観光名所として知られる保津川(ほづがわ)は、古くは、葛野川(かどのがわ)とも呼ばれました。(尚、河川法では、上流から淀川に合流する全流域を「桂川(かつらがわ)」で統一していますが、一般的には、流域によって、丹波高原から亀岡盆地までを大堰川(おおいがわ 大井川)、亀岡市盆地から保津峡や嵐山あたりまでを保津川(ほづがわ)、それ以下の淀川の合流点までを桂川(かつらがわ)と呼ぶことが多いです。)

保津川(葛野川)は、平安京が誕生する以前から、丹波と京を結ぶ物資輸送の大動脈としての役割を持っていました。そして、五、六世紀頃には、葛野(かどの)の地と呼ばれた流域の嵯峨・松尾一帯を支配していた渡来系氏族の秦氏が、先進土木技術を用いて渡月橋付近に「葛野大堰(かどのおおい)」という大きな堰(せき)を築いたことでも知られます。葛野大堰は、堰で川水を貯水して、別の水路を使って取水するためのもので、堰で川の水量を調整して洪水を防ぐ一方、水路に水を導いて周辺地域の農業用水を確保するというものでした。こうして秦氏は、周囲一帯を農業の可能な地域へと変えていきました。そして、この大堰堤が完成した際に、葛野川から大堰川(大井川)とも呼ばれるようになったと伝えられます。
保津川は、その後の平安京の造営の際も、丹波や京北地域からの木材輸送に活躍するなど、ほとんどの生活物資を外部からの供給輸送に頼っていた京都にとっては欠かすことのできない大動脈(現在の高速道路のようなもの)の一つでした。



さて、了以は、慶長九年(1604)に、備前と美作(共に岡山県)を流れる和気川(吉井川)を訪れ、この地で舟底の平らな高瀬舟が盛んに行き来する様子を観察しました。そしてこの時、効率よくスピーディに物資を運搬する方法は、日本全国の河川全てで舟が運行出来るようにすることだと思い立ったといわれています。

そして、まず手始めとして、幼少期より慣れ親しんだ保津川を開削して高瀬舟を保津川でも採用しようと考え、さらに現地で綿密な調査を行いました。かつて一度も舟が通ることの出来ない場所に、舟運の開通を計画するのは山城・丹波二国にとっても喜ばしい事であるとして、慶長十年(1605)幕府に提出した保津川開削建議が認められ、了以と素庵は、慶長十一年(1606)三月から保津川(大堰川)の開削を開始しました。

了以自らが陣頭指揮したこの開削工事は、やはり難事業となりました。
大悲閣(千光寺)の境内にある林羅山書の「吉田了以碑銘」等によると・・大石には縄を巻きつけて滑車(轆轤)でこれを引き、水中にある石は、櫓(浮樓)を組んで、先が尖った長さ三尺、周り三尺、柄の長さ二丈余りの鉄棒を縄につなぎ、数十人で曳き上げ落下させて石を砕き、水面に出ている石は火薬で爆破し、川幅が広すぎる所では石を積んで川幅を縮めて水深を深くし、滝がある所は上流から川底を掘り下げて削って平らにしたと記しています。しかし、この努力の結果、工事開始から僅か五ヵ月後の同年の八月にこれを完成させ、世間を大いに驚かせました。
こうして、これまで筏で木材輸送を行っていた保津川で、初めて舟(高瀬舟)によって物資運搬が行われることになりました。(尚、高瀬舟は、長さ約七間(十三.八メートル)、幅六尺六寸(約二メートル)で底が平らで船首が高く幅が広いことから、木材の他にも、米、塩、薪、鉄材、石、醤油、農作物、木材製品等を大量に積むことができたのでした)
もちろん、了以にとっては、この工事もビジネスであって慈善事業として行った訳ではないので、開削以後、通船料や倉庫料を徴収して莫大な利益を得ました。しかし、この保津川開削によって、丹波と京都の物資輸送はいよいよ盛んとなり、川の周囲には湊町が誕生して栄えました。その恩恵は江戸時代を通じてたいへん大きなものだったといえます。

さて、保津川開削の成功を知った徳川幕府は、同年(慶長十一年(1606))に、今度は駿河国(静岡県)富士川の開削を命じます。富士川は保津川よりも流れも速く、さらに難事業でしたが、了以は、翌十二年(1607)二月〜十月に富士川の見事に水路開発に成功します(当時、山間部に住む人々は、舟を見たことが無かったために、「魚でないのに水の上を走る」と大いに驚いたという話も伝わります。)
しかし、続いて翌十三年(1608)に幕府から命じられた、諏訪湖から遠州掛塚(静岡県)に至る天龍川の開削では、水の勢いが強過ぎて対処出来ず挫折しました。

その後、翌慶長十四年(1609)、今度は京都で了以に活躍の場が与えられます。
当時、豊臣秀頼が東山方広寺の大仏殿の再興を計画していましたが、諸国から集められ淀川を舟で運ばれてきた建設資材の巨石巨木等を、伏見から東山の方広寺まで陸路で輸送することは困難を極めました。これを知った了以は、鴨川を使った運搬を提案して認められます。
そして、慶長十五年(1610)に開始した「鴨川水道(運河)」の工事は翌年に完成しました。川底の高い箇所を崩して川底の高低を無くし、川の湾曲部分を修正したことで、全体に水量が増えて舟の行き来が自由となったのでした。こうして、了以の提案が大仏再建のための資材運搬の問題を解決し、慶長十六年(1611)秋に大仏殿は無事に再建されました。

さらに、了以は運搬に鴨川を使用した結果、氾濫の発生する度に修復する必要を感じ、鴨川に平行した新しい運河の開削を計画し、幕府の認可を得ます。これが高瀬川の開削です。
工事は、慶長十八年(1613)から段階的に行われ翌年に完成しました。高瀬川の完成によって、京都中心部と伏見が水路で結ばれることとなり、水路での大阪方面からの物資輸送が可能となりました。高瀬川開削は、江戸時代の京都の経済発展を支える基となった事業といえます。(ブログパート1には、史跡「高瀬川一之船入」を掲載しています)


次回に続きます・・

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阪急嵐山線の上桂駅の北東、桂川左岸に近い住宅地にある観世寺 (かんせいじ かんぜじ)は、新興住宅等に囲まれて建つ小さな寺院です。ほとんど住宅地に溶け込んでしまっているために、寺院らしい特徴ある屋根を目印に探さないと、見つけ難いかもしれません。山門前の道幅も非常に狭いのですが、石版レリーフの仁王像が向かい合っていて、その向こうに朱塗りの本堂があります。


さて、京都市西京区桂上野北町にある観世寺は、山号を大悲山(だいひざん)という西山浄土宗に属する寺院で、京都洛西観音霊場の第二十七番札所になります。寺伝によると、観世寺は鎌倉時代の京都の西山にあった山岳寺院、法華山寺(ほっけさんじ)を前身とする由緒ある寺ということです。
今回の観世寺よりも、一大山岳寺院だった法華山寺の方が歴史的に面白いので少し書いてみます・・・


この法華山寺は、鎌倉時代の嘉禄二年(1226)に園城寺(三井寺)の高僧、勝月坊(証月坊)慶政(けいせい 1189〜1268)上人によって京都西山に創建され、通称「峰ヶ堂」「峰の堂」「峰堂」等と呼ばれた中世寺院です。(西京区御陵の峰ケ堂・峰ケ堂町・細谷地区、山田谷田山地区一帯)


慶政上人は、摂政九条良経(くじょうよしつね 藤原良経)の子とも伝えられ、弟に関白九条道家(藤原道家 京都東福寺の開基としても知られます)がいます。本来なら、名門九条家の長男として朝廷政治を行う立場でしたが、生後間もなく障害を受けたために仏門に入る運命となったという伝承もあります。
上人は、幼くして園城寺で出家し、承元二年(1208)年頃に京都西山に隠棲します。その後、建保五年(1217)には中国宋に渡って修行して翌年帰国し、建保七年(1219) 〜貞応元年(1222)にかけて(嘉禄二年(1226)とも)西山に法華山寺を建立しました。上人は、栂尾高山寺の明恵上人とも親交を結び、奈良法隆寺の保護に尽力したことでも知られます。また、仏教説話集「閑居友」をはじめ多くの著述を残し、「続古今和歌集」をはじめとする勅撰集に二十二首が選ばれるなど和歌にも優れた学僧でした。

さて、「峰ヶ堂(法華山寺)」は、その後、慶政上人の出身でもある九条家の保護を受けて発展していきます。また、前にブログのパート1に西福寺を採り上げた際に書きましたが、この峰ヶ堂(法華山寺)の東山麓、現在の松尾大社から西芳寺(苔寺)に至る一帯には、延朗上人が安元二年(1176)に松尾社(松尾大社)の神宮寺として創建した「谷ヶ堂(西福寺)」がありました。谷ヶ堂(西福寺)は、鎌倉時代の最盛期には塔頭四十九を数えたと伝えられていて(有名な西芳寺(苔寺)も、元はその塔頭の一つだったと考えられます)、当時の西山は、峰ヶ堂(法華山寺)から谷ヶ堂(西福寺)へと山全体を多くの塔頭寺院が覆いつくしていたと思われます。
その後、峰ヶ堂(法華山寺)は、室町時代には足利将軍家の祈願寺にもなり、最盛期には「東の清水寺、西の法華山寺」と並び称されたほどの一大山岳寺院となり、伏見宮貞成親王や将軍足利義政等が参拝した記録が残っているということです。


しかし、この地域は、丹波と京都を結ぶ山陰道の唐櫃越に位置し西国から京へ入る際の入口だったために、西から京を伺う軍勢はこの地を占拠駐留することが多く、兵火に遭うことも多かったようです。

南北朝の戦乱では、元弘三年(正慶二年 1333)四月に、鎌倉幕府の六波羅探題軍と西から京へ迫った千種忠顕率いる後醍醐天皇軍が交戦した際に、谷ヶ堂(西福寺)は、隣接する浄住寺(じょうじゅうじ)等と共に全山焼失し、峰ヶ堂(法華山寺)も被災しました。文和四年(1355)二月には、京へ侵攻した足利直義党の桃井直常や足利直冬を、将軍足利尊氏・義詮父子が反撃して撃退しましたが、この時、義詮は峰ヶ堂(法華山寺)に陣を敷いています。
また、明徳二年(1391)の明徳の乱では、十二月、京都を固めた将軍足利義満に対し、摂津堺の山名氏清と呼応して丹波で挙兵した山名満幸が丹波から京へ攻め込みますが、この時も満幸は峰ヶ堂(法華山寺)に陣を敷いて京を狙いました。また、応仁・文明の乱では、文明元年(1469)四月に、西軍が東軍の陣する西山を攻め、峰ヶ堂(法華山寺)、西芳寺、谷ヶ堂(西福寺)等に火を放ち、東軍は丹波に敗走しています。
このように、峰ヶ堂(法華山寺)は、南北朝の争乱以後、度々兵火に遭って衰退し、特に大永七年(1527)に炎上して以後は急速に衰え、天文三年(1534)に廃寺となりました。その後、跡地には、管領細川晴元の家臣、守護代木沢長政が峰ヶ堂城を築きました。



さて、長くなりましたが、今回の観世寺は、この峰ヶ堂(法華山寺)に関連した寺院と伝わり、峰ヶ堂(法華山寺)が、鎌倉幕府の六波羅探題軍と後醍醐天皇軍が交戦した正慶年間(1332〜1333)の兵火に遭った際、本尊阿弥陀如来像や聖観音像が難を逃れてこの地に祀られたのが始まりということです。
山門の阿吽の仁王石像を抜けた正面にある本堂は、昭和四十年(1965)に再建されたもので、本尊阿弥陀如来像や洛西観音霊場の聖観音像、毘沙門天像、閻魔坐像等が安置されています。
また、境内の左には安産延命にご利益のある北向地蔵菩薩を祀る地蔵堂、法悦羅漢・わらべ羅漢の二灯明羅漢像や仏足石が置かれています。そして、毎年の十一月二十三日には、羅漢講式が行われ、写経納経が行われるということです。


以下はついでになりますが、観世寺の直ぐ南東数十メートルには地元の小さな社、龍王明神社があります。個人が祀ったような小社ですが、入り口の門は開られていて自由に参拝できるようです。
また、観世寺の南西数十メートル(京都市西京区桂上野中町)には、産土神社(うぶすなじんじゃ)があります。祭神は彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)で、末社として八幡社、春日社があります。こちらは、平成十三年(2001)に本殿と境内の整備がされたようで、どちらの神社も荒れたところが無く、地元の人の手できれいに維持管理されているといった印象です。

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