京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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嵐山の渡月橋から、旧松尾街道沿いに松尾大社に向かう途中にある小さな寺院を採り上げます。

前に採り上げた西行ゆかりの西光院(西京区嵐山山田町 洛西観音巡礼第二十九番札所)の南約三百メートル、西京区嵐山山之下町のあるのが、同じく洛西観音巡礼第二十八番札所の蔵泉庵(ぞうせんあん 蔵泉寺とも)です。

蔵泉寺は、山号を寶珠山(ほうしゅうざん)という臨済宗相国寺派の尼寺で、諸病除けのご利益のある十一面観音菩薩を祀る山沿いに建つ小さな尼寺です。
寺伝によると、蔵泉寺は、室町時代に創建され、その後度々火災に遭って再建を繰り返しました。また、山崎の戦いで羽柴秀吉(豊臣秀吉)に敗れた明智光秀が、密かに身を隠した庵という伝承もあるということです。その後、江戸時代の元禄年間(1688〜1704)に、藤原北家の流れを汲む前左大臣(前左府)・花山院定好(かざんいんさだよし 諄貞院殿 1599〜1673)の息女によって再興されたと伝えられ、また、室町時代の尼五山(あまござん)の第二位・通玄寺の三子院のひとつ慈受院門跡(じじゅいんもんせき 前にブログに採り上げました)の末寺でもあるようです。

参道の途中には、夢窓國師が西芳寺(苔寺)から天竜寺へ通う途中に腰をかけて休憩したと伝えられる腰掛け石もあり、やや高台にある境内からの見晴らしも良く、全体として尼寺らしい閑静な佇まいの寺院という印象です。

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松尾大社から約五百メートル南、京都市西京区松室山添町にある月読神社(つきよみじんじゃ)は、現在は、松尾大社の境外摂社になりますが、元々は日本書紀にも登場する京都屈指の古社とされ、延喜式の名神大社の一つになります。境内は松尾の深い森に囲まれていて、私の好きな神社でもあります(かなり以前に、ブログパート1に採り上げましたが、写真を増やして掲載します)


さて、月読神社の祭神は月読尊(つきよみのみこと)です。「日本書紀」によれば、顕宗天皇の三年(487)春二月一日、阿閉臣事代(あべのおみことしろ)という者が天皇の命を受けて朝鮮半島の任那に派遣される途中、壱岐で月読尊が人に憑いて、「わが祖の高皇産霊(たかみむすひのみこと)は、天地を造られた功がある。田地を我が月神に奉れ。若し求めに応じて献上すれば、慶福を得られるだろう」という神託を受けました。
そこで、阿閉臣事代は京に還ると天皇に奏上して、山城国葛野郡の歌荒樔田(うたあらすだ)の地(桂川沿い、現在の上野辺付近他諸説あり)を神領として賜って月読尊を祀る神社を創建し、壱岐の県主(あがたぬし)の先祖の押見宿禰(おしみのすくね)が神職として奉仕したということです。
そして、以後、押見宿禰の子孫に当たる壱岐氏が卜部姓を称して(中世には松室姓へ)代々神職として世襲しました。

この「日本書紀」に記載されている神社創建伝承の背景を考えると・・元々、壱岐島(長崎県)で壱岐氏が海上交通の神として祀っていた月読神社が、京都へ勧請されることになったのは、前に採り上げた櫟谷・宗像神社(いちいだに・むなかたじんじゃ 京都市西京区嵐山中尾下町)と同じく、渡来系氏族、特に山城国のこの地一帯を古代から開拓していた秦氏が働きかけた可能性が高いと考えられています。
そして、秦氏を中心とした渡来系氏族が朝鮮半島から畿内に至る交通網の安全祈願のために月読尊をこの地に勧請したということは、古代の渡来文化の伝播を考える上でも興味深く、月読尊を祀る神社が全国でも少ないことからも注目に値する神社といえるでしょう。


その後、月読神社については、「続日本記」の大宝元年四月の条に、樺井(かばい)神、木島(このしま)神、波都賀志(はつかし)神等と共に、その神田から取れる稲を、今後中臣氏に給付せよとの勅があったと記され、また、「日本文徳実録」によると、文徳天皇の斉衡三年(856)三月に桂川の水害を受けて、松尾山南麓の現在地に移ったと記されています。

さらに、「日本三代実録」の貞観元年(859)正月の条に、京畿七道諸神進が神階及新叙された際、山城国においては、松尾神が筆頭として従一位に、第二位として葛野月読神と平野社の今木神が正ニ位に、稲荷神三前、梅宮四座(大若子神、小若子神、酒解神、酒解子神)が正四位上に、平野社の久度、古開神が従四位上、貴船神、乙訓火雷神、水主神等が従四位下に叙されていて、松尾社(現松尾大社)や平野社(現平野神社)のような現在も大社として知られる神社と並んで、月読社がたいへん重要視されていたことがわかります。また、同年九月八日の条にはこの月読神を筆頭に山城国の木島、羽束志、水主、樺井、和岐神他畿内の四十四神に遣いを派遣し幣を奉って風雨を祈らせています。

そして、「延喜式」によると、延喜六年(906)正一位勲一等の神階を得、延喜式では山城国葛野郡二十座の一つ「山城国葛野坐月読神社」として名神大社に列しています。このように、全国的にも非常に格式の高い名社でしたが、社地が松尾大社の勢力圏内にあるために、中世には松尾大社の摂社とされ、江戸時代の「都名所図会」でも「松尾七社」の一社と記されています。そして、明治十年(1877)に松尾大社の境外摂社に定められました。



境内は、江戸時代に建てられた本殿、拝殿を中心に、御船社、聖徳太子社、月延石があります。
聖徳太子社は、月読尊を崇敬し奉ったという聖徳太子の徳を称えて祀られたものといわれ、学問の神として知られます。また、御船社は、天鳥船神を祭神とし、毎年神幸祭の前に渡御安全祈願祭を執行する末社で、航海安全、交通安全の神になります。

月延石(つきのべいし)は安産石とも称し、「古事記」記載の伝説では、神功皇后が後の応神天皇を胎内に宿しながら新羅遠征を行った際、皇后は神石を腹に当てて出産を抑え、その後無事に安産できたと伝えられています。「雍州府志」の伝説によると、その後、月読尊の神託によって、第三十四代舒明天皇が、伊岐公乙等を筑紫に遣わしてこの神石を求めて当社に奉納したということです。こうして、月読神社は、安産の霊験のある神社として知られるようになりました。現在は、「戌の日」に安産の特別祈祷をしていて、祈祷後に「安産祈願石」に名前を書いて月延石の前に供えているということです。
その他、境内には縁結び・恋愛成就の「むすびの木」、水が枯れる枯れたことが無く、自己の罪や穢れを除く「解穢の水」があります。また、高い木々に覆われた静かな境内は、平成五年四月に京都市指定史跡に定められています。

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今回は、嵐山の渡月橋から、旧松尾街道を歩いて松尾大社に向かう途中にある西光院(さいこういん)を採り上げました。西光院は、西行法師ゆかりの寺院の一つで、洛西三十三観音霊場の第二十九番札所でもあります。


さて、京都市西京区嵐山山田町、渡月橋から五百メートル程度、旧松尾街道を南へ行ったところにある西光院は、山号をニ尊山(にそんざん)という浄土宗西山禅林寺派の寺院です。
元々、この地は、平安末期の僧で歌人として知られる西行が出家直後に庵を結んで住した場所と伝えられます。

西行(1118〜90)は、俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といい、若くして公家の徳大寺家に仕えて歌道に親しみ、保延三年(1137)には、鳥羽上皇の北面の武士となりますが、同六年(1140)に、二十三歳で出家して西行と称しました。その後は、鞍馬や東山山麓、嵯峨等に草庵を結んだと伝えられ、この地もその隠遁地の一つになります。その後、吉野や高野山で修行し、諸国を廻って仏道修行と和歌三昧の生活を送り、多くの秀歌を残して歌聖と呼ばれました。また、全国各地に数多くのゆかりの史跡を残しています。

さて、この地の西行の庵は、その後西行伝説と共に聖域化して、浄土信仰の念仏道場の西光寺へと発展していきました。そして、明治四十一年(1908)七月十日、西行ゆかりの二つの庵を起源にする旧西光寺(さいこうじ)と、旧松尾街道の南にあった西光庵(さいこうあん)が合併して寺を改築し、本尊として旧西光寺の阿弥陀如来立像と旧西光庵の阿弥陀如来立像の二尊を祀ったことから、山号をニ尊山、寺号を西光院と改称して、現在の西光院になりました。

山門と本堂は、明治四十一年(1908)の二寺合併の際に改築されたものです。また、本堂内陣の梁は寛政年間(1789〜1800)の改築の時のもの、欄間は文政八年(1825)に嵐山桜井氏からの寄進されたもので、石垣は改築以前のままということです。

本尊二体は、身丈がほとんど同じで本堂の中央に並んで安置されています。
本堂の正面中央の向かって左に安置されているのが、旧西光寺の阿弥陀如来立像です。一木造の鎌倉時代中期頃の作と伝えられていて、元和年間(1615〜23)の旧西光寺の出火によって一部を欠損しています。また、本堂の正面中央の向かって右に安置されているのが、旧西光庵の阿弥陀如来立像です。寄木造で火焔形の光背があります。これら本尊二体は平成十五年(2003)十一月に完全修理されています。共に夫婦円満、家庭円満、深き友情のご利益があるということです。
また、本尊向かって右の小さな厨子に安置されている赤子を胸に抱く観音像が、安産・子供の成長にご利益があるという子育観音菩薩(こそだてかんのんぼさつ)像で、西光院は室町中期より始まる洛西観音霊場の第二十九番札所となっています。


また、前庭には、山門のすぐ東隣に白塀から旧街道に張り出している一本の桜の老木があります。
西行お手植の西行桜と言われ、元々は境内の北側にあった山桜が長い歴史の中で南側に移植され受け継がれてきたということですが、明治の改築時にソメイヨシノに植え替えて現在に至っています。
さらに、西行桜の根元の自然石の上にあるのが、童子姿のお釈迦様の釈迦誕生佛です。大仏師長岡和慶(ながおかわけい)氏の作で、平成十三年(2001)四月に造立されました。困難を乗り越え、生き抜く力を与えれくれるお釈迦様ということです。

また、江戸時代中期の帝都画一覧(文化六年〜十一年(1809〜十四年)には、絵師河村文鳳(かわむらぶんぽう 1779〜1821)の筆によって、当時の本寺と本堂の北西の角にある西行庵が描かれています。この庵には西行の木像が長らく安置されてきたことから、西行時代の庵の跡地は、この西行庵が建てられていた本堂北西の場所だったと考えられています。しかし、この西行庵は明治時代には小さな御堂だけとなり、昭和になると、御堂も朽ち果て礎石が残るだけになりました。しかし、平成十八年(2006)十一月に、櫻元庵(ろうげんあん)として復興されました。
他に、寺宝として、前述した本堂の北西にあった西行庵に納められていた木像、西行法師旅休座像(さいぎょうほうしりょきゅうざぞう)があります。これは、安土桃山時代の名工、能面師出目(出目)の作と伝えられています。

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西京区嵐山にある櫟谷・宗像神社(いちいだに・むなかたじんじゃ)は、普通の小さな神社ですが、嵐山の渡月橋近くという立地の良さから、観光客が立ち寄ることも多い神社です。また、境内からは嵐山周辺を見渡すこともできます(かなり以前にブログパート1で採り上げたものを写真を増やして掲載します)


さて、京都市西京区嵐山中尾下町、嵐山モンキーパークの入り口傍にある櫟谷・宗像神社(いちいだに・むなかたじんじゃ)は、櫟谷神社と宗像神社という2つの神社が合体したもので、松尾大社の境外摂社になります。また、古くは、嵐山弁財天社と呼ばれてきたということです。

現在は、二社が並列した同殿で祀られていますが、元は夫々独立した社殿を持っていて、櫟谷神社は奥津島姫命(おくつしまひめのみこと)、宗像神社は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を祀ります。
この二女神は、名前が違うものの同一神として考えられていて、天智天皇の七年(668)に、筑紫の宗像(福岡県の宗像大社)から勧請されたものと伝えられています。

元々、福岡県の宗像大社に祀られるこの女神は、九州を中心とした海上守護女神として広く信仰され、平家の海上交通の守り神として広島の厳島神社に祀られたことでも知られます。この海(水)の女神が、海の無い京都に勧請されたのは、嵐山を流れる桂川(大堰川)の水運の安全祈願のためと考えられています。(桂川(大堰川)は、上流の保津峡が狭いために、大雨が一旦溜め込まれて下流に流れ、古来しばしば増水氾濫してきました。)そして、この勧請は、この地を治め松尾大社を総氏神としていた渡来系氏族の秦氏が働きかけたものと推定されます。

さて、秦氏との関わりの深いこの両社ですが、櫟谷神社は、早くから松尾大社の末社として位置付けられていたようで、延喜式によると、平安時代の嘉祥元年(848)に従五位下、貞観十年(868)に正五位下の神階を授けられて延喜式内社に列せられています。一方、宗像神社は、式内社では無いようですが、貞観十二年(870)に、葛野鋳銭所(現在の造幣局)に近いことから、新しい鋳銭が神社に奉納されていたことが三代実録に記されていて、櫟谷神社に準ずるものと考えられていたようです。以来、新しい鋳銭が必ずこの神社に奉納されることから福徳財宝の神、また、川海の女神から水難の守護神として、嵐山を訪れる人々必ずこの神社に詣でたということです。
この両社は、明治十年(1877)に、松尾大社の摂社として扱われることになり、現在、毎春の松尾大社の「神幸祭・還幸祭」では、松尾大社関係の「松尾七社」中の二社として、両社の祭神も下京区西七条の松尾大社御旅所(ブログパート1参照)に滞在されます。

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嵐山の渡月橋から、旧松尾街道沿いに松尾大社に向かう途中にある小さな寺院を採り上げます。

西京区嵐山薬師下町にある薬師寺(やくしじ)は、山号を東光山という臨済宗寺院です。山沿いの傾斜地にある地蔵堂に安置されている小さな地蔵菩薩像は、「はしご地蔵(梯子地蔵)」と呼ばれ、寝小便にご利益がある地蔵菩薩として知られています。

この東光山薬師寺の開山、天徳恵尭和尚は、約五百数十年前に天台宗の修験者として千日回峰の難行を成し遂げた人物でしたが、寝小便に悩んだ末、比叡山を降りて比叡山を望見する現在地に草庵を結びました。 そして地蔵菩薩を祀る一堂を崖上に建立して自身を含め世俗万人の夜尿等の病気を治すために修法を行ったということです。以来、寝小便をする子供から下の世話が必要な老人までが多数参拝したといわれ、崖上の地蔵菩薩を拝するために梯子を登ったことから、いつしか「はしご地蔵(梯子地蔵)」と呼ばれるようになり(現在は石段で登れますが)、祈願成就の御礼に、小さなその人の年齢に応じた段数のあるはしごを奉納する習わしがあるということです。

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