京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

西京区

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善峯寺その3

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善峯寺の最後です・・


阿弥陀堂からさらに山を登ると、途中で稲荷社があり、この坂道からは、善峯寺の境内、さらに京都市街地を見下ろすことが出来るので、写真撮影のスポットになっています。
さらに、坂道を登ると「けいしょう殿」があります。昭和六十二年(1987)に、花山天皇の西国中興一千年を記念して建立された新しい建物で、桂昌院を祀っています。

境内の最上部には、奥の院になる薬師堂があります。
薬師堂は元禄十四年(1701)の建立で、「出世薬師仏」呼ばれる薬師如来像が安置されています。桂昌院の両親は、善峯寺の本尊と共にこの薬師如来に特に祈願して子供を授けられ、その子が桂昌院となったことから名付けられた薬師像です。また側には「たらちをの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏」と刻まれた桂昌院筆の献歌碑があります。「けいしょう殿」や薬師堂の辺りからの眺望は素晴らしく、京都市街の景観を一望できます。


また、薬師堂の西隣には「蓮華寿院庭」という紅葉の池庭があり、この地のある辺りは、善峯寺の住職となった歴代の青蓮院の法親王が住まいとしていた蓮華寿院の跡です。また、その側には十三の塔があり、その下の参道には「青蓮の滝」という小さな滝があり、この滝の竿石は、青蓮院門跡より拝受したものということです。


さらに奥に進むと、境内で一番高い場所に「青蓮院宮墓地」があります。 
この辺りまで来る方はかなり減りますが・・善峯寺の住職をした歴代門跡の廟所になります。
石の玉垣に囲まれて、

○鳥羽天皇皇子・覚快法親王墓
○後鳥羽天皇皇子・道覚法親王墓
○亀山天皇皇子・慈道法親王墓
○伏見天皇皇子・尊円法親王墓
○後伏見天皇皇子・尊道法親王墓
の宮内庁管理の五基の墓があります。

また、玉垣の外、北側には他の法親王の墓が並んでいます・・
○後桜町天皇皇子・尊真法親王墓
○伏見宮十八世皇孫・尊寶法親王墓
○後水尾天皇皇子・尊證法親王墓
○霊元天皇皇子・尊祐法親王墓

また、南側には、善峯寺の四祖で浄土宗西山派の祖・証空上人の墓(上人は、宝治元年(1247)十一月二十六日に白河遣迎院(京都市東山区)で七十一歳で入滅し、遺体は、善峯寺の北尾往生院(三鈷寺)山内で火葬にされました)を中央に、右に証空上人に帰依して北尾往生院(三鈷寺)再建に尽くした宇都宮蓮世房(れんしょう 宇都宮頼綱)、左に善峯寺ニ祖・観性上人(観性法橋)の墓が並んでいます。



最後になりますが、善峯寺には寺宝として、重要文化財指定の絹本著色「大元帥明王図」をはじめ、徳川五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院ゆかりの品をはじめ、彫刻・絵画・工芸・染織・古文書など千二百点余が伝えられています。これらの寺宝のうち約百点余が、平成十二年(2000)四月に完成した「寺宝館・文殊堂」で、年に二回、春と秋に特別公開されています。

他に年中行事としては、大般若会(一月二日)、桂昌院忌(六月二十二日)、施餓鬼会(八月十五日)、除夜の鐘(十二月三十一日)があり、有名な観音巡礼札所として、また神経痛・腰痛の祈願所、入学成就の祈願所として広く信仰を集めています。
また、境内には、桜、平戸つつじ、牡丹、石楠花(しゃくなげ)、芍薬(しゃくやく)、さつき、紫陽花、高砂ゆり、百日紅(さるすべり)、秋明菊(しゅうめいぎく)、紅葉、山茶花(さざんか)、南天(なんてん)、山茶花(さざんか)、椿、梅といった四季の花木が植えられていて、四季を通じて境内を彩ります。

善峯寺その2

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善峯寺の続きです・・
今回は善峯寺のパンフレットを引用して境内にある堂塔について、簡単に書いてみます。

善峯寺の境内の魅力は、山の寺院らしい広大で高低起伏にとんだ地形に建てられた諸堂を巡回するというところにあるでしょう。一周約四十分、山門から奥の院まで坂道や石段を登りながら、京都市街地を眼下にする回遊式庭園の変っていく風景を眺めていると疲れも忘れてしまいます。


さて、観光バスや阪急バスで善峯寺を訪れる場合は、山麓にある第二駐車場(バス停留所)から参道を登らなければなりません。山麓から仁王門に向かう参道の山道「阿知坂」は少し傾斜角度のある場所もありますが、距離自体は短く、約十分程度で東門に到着します。また、この坂道の途中には、「善峯坐禅石(よしみねざぜんせき)」や「仙翁石(せんおういし)」とも呼ばれる石があります。この石は開山・源算上人が初めて登山したとき、この岩の上で坐禅したといわれています。

さて、坂道を登って東門を潜ると、山門のすぐ脇に至ります。(尚、自動車の場合は、この山門の側にある第一駐車場まで登れるので、あっけない程楽ですが、やはり歩いて登る方がご利益も有りそうで、お寺の印象も深まるでしょう。)


この山門は、元禄五年(1692)に桂昌院の寄進で再建されたもので、西国三十三ケ所巡礼札所らしい雰囲気のあるものです。また、楼上に祀られている本尊の文殊菩薩と両脇の金剛力士像は、鎌倉仏師の運慶の作で、源頼朝が寄進したものといわれています。山門の正面にあるのが観音堂です。
観音堂は、善峯寺の本堂で、同じく桂昌院の寄進によって元禄五年(1692)に再建され、西国三十三ケ所観音霊場の第二十番札所、京都洛西観音霊場の第一番札所として有名です。前回に書いたように、本尊の十一面千手観世音菩薩は、安居院仁弘法師の作と伝えられ、元々は洛東東山の鷲尾寺に祀られていましたが、長久三年(1042)に後朱雀天皇によってこの地に移されて善峯寺の本尊として祀られました。そして、善峯寺の創建当時に開山源算上人が作った本尊・十一面千手観音菩薩像を脇立としたと伝えられます。

また、本堂の右には長寿の効果があるとされるお香水、本堂の左には平成十二年(2000)四月に完成した寺宝館の文殊堂があります。文殊堂では、善峯寺の寺宝が春秋に特別公開されていますが、特に重要文化財指定の絹本著色「大元帥明王図」や桂昌院や徳川家由来の品々の他、平安から江戸時代に至る仏画や仏像、明治の文人画家富岡鉄斎の屏風数点などが見所です。


本堂の右手から石段を登ると、多宝塔と経堂や、春に美しい枝垂れ桜や有名な「遊龍」の松があります。多宝塔は元和七年(1621)に賢弘法師によって再建されたもので、山内最古の建物として重要文化財に指定されています。桂昌院が鉄眼の一切経を納めたという経堂は、祈願成就のための絵馬堂で宝永二年(1705)に建立されたものです。周囲の紅葉と枝垂れ桜は、桂昌院のお手植えといわれ、特に枝垂れ桜は樹齢三百年といわれます。

また、巨木で、尚且つ姿形の美しさから日本一の松とも呼ばれる有名な「遊龍」の松は、樹齢六百年といわれる五葉松で、昭和七年(1932)に国の天然記念物に指定されています。
この「遊龍」の名は、前右大臣・花山院家厚が、幕末の安政四年(1857)に命名したもので、長く横に伸びた枝振りが巨龍が波に浮かんでいる様に似ていることから名付けられました。また、側の石標は明治二十六年(1893)、長州出身の陸軍中将・鳥尾小弥太の揮毫になります。元々.全長五十四メートルありましたが、平成六年(1994)に、松くい虫の被害を受け約十五メートル程切られています。


「遊龍」の松の東側には、つりがね堂や護摩堂があります。
つりがね堂は、貞享二年(1685)の建立で、桂昌院が五代将軍徳川綱吉の厄除けのために寄進したとされる「厄除けの鐘」が吊られています。また、護摩堂は、元禄五年(1692)の建立で、不動明王五大尊を祀っています。またつりがね堂の辺りからは、京都市外を眺めることができます。護摩堂からさらに北へ進むと、開山堂があります。開山堂は、元禄五年(1692)の建立で、極めて長命だった開山源算上人の最晩年百十七歳の像が祀られています。

また、開山堂の西には、桂昌院廟や宝篋印塔、十三仏堂があります。
桂昌院廟には、宝永二年六月二十二日に七十九歳で亡くなった桂昌院の遺髪が納められています。また、鎌倉時代に建立された宝篋印塔には、慈円(慈鎮)大僧正によって、伝教大師最澄筆の法華経が納められ、元禄五年(1692)に建立された十三仏堂には、善峯寺の諸守護神が祀られています。
さらに、境内の北側には、 桂昌院が幸せを願って祈念したという幸福地蔵(しあわせじぞう)があり、自分以外の人の幸せを願うと効果があるといわれます。この幸福地蔵の眼下には桜・あじさい苑があり、さらに白山権現社や十三の塔、北門を望むことが出来ます。


さて、さらに西へ進んで少し石段を登ると、釈迦堂があります。
釈迦堂は比較的新しい建物で、明治十八年(1885)の建立です。本尊・石仏釈迦如来像は、開山源算上人の作と伝えられ、明治初年までは、善峯寺よりさらに山上、約二キロの釈迦岳(海抜六百三十メートル)に安置されていましたが、山を登って参拝す信者も多いということから、明治十三年(1880)に下山、この地に祀られました。
また以前は、釈迦堂の薬湯風呂(やくとうぶろ)が、夏の縁日(五月と十月の第二日曜日の年二回)に善峯で取れる百草湯で沸かされ、神経痛、腰痛平癒をはじめ諸病に効能があるとされて一般参拝者も入浴できました。しかし、この薬湯風呂は、平成二十年(2008)十月で終了しました。また、釈迦堂付近からも京都市外を見渡せます。

さらに山を少し登ると、阿弥陀堂があります。
阿弥陀堂は、寛文十三年(1673)の建立で、本尊・宝冠阿弥陀如来を祀ります。また、常行三昧道場でもあり「常行堂」とも呼ばれます。堂内には、徳川家代々と善峯寺の信者の位牌が安置されています。また、阿弥陀堂の左側は書院になり、その南は池庭のある本坊になります。この本坊では、春秋に片岡鶴太郎作(平成十七年)の本坊襖絵「游鯉龍門圖(ゆうりりゅうもんず)」をはじめ片岡鶴太郎の作品展を開催しています。本坊門横から阿弥陀堂にいたる白壁沿いの石段の道も風情があります。



次回に続きます

善峯寺その1

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今回から三回に分けて京都西山を代表する観光名所の善峯寺を採り上げます。
善峯寺は、秋の紅葉の他にも、春の桜や初夏のアジサイ等四季を通じて楽しめるという点で、文句の無くお勧めクラスの寺院ですが、特に国の天然記念物の日本一の松と称する遊龍松は必見です。(個人的には、特に春が好きです・・秋の西山の紅葉グラデュエーションより、春の枝垂れ桜と遊龍松のコントラストの方が優しげな風情で惹かれます。)


京都市西京区大原野小塩町にある善峯寺(よしみねでら)は、西国三十三ケ所観音霊場の第二十番札所、京都洛西観音霊場の第一番札所として知られ、また平成十六年(2004)からは、光明寺(京都府長岡京市粟生西条ノ内)や楊谷寺(柳谷観音 京都府長岡京市浄土谷)と共に「京都・西山三山」として連携し、自然豊かな京都西山を代表する三つの信仰の場として観光客にも広くアピールしています・・・(尚、観光ガイドでは、京都市内か市外かで扱いが違うことが多々ありますが、善峯寺は、光明寺や楊谷寺と違ってぎりぎり京都市内に属するという点で得をしています。市内中心部の観光名所で満足してしまっている京都市在住の方より、大阪方面の方の方が、意外とこの地域の寺院を知っていたりするのですが、西山三山はどれも魅力的なお寺で、このブログやPart1でも紹介しています。)



さて、京都西山・釈迦岳の東北中腹に建つ善峯寺は、山号を西山(せいざん)という天台宗系の単立寺院(善峰観音宗)で、西山宮門跡とも称しています。本尊は十一面千手観世音菩薩になり、寺院の創建は平安時代末期の長元二年(1029)、源算(げんさん)上人の開山と伝わります。
寺伝によると、開山・源算上人は、因幡国(鳥取)に生まれ、正暦二年(991)九歳の時に、比叡山横川の、「往生要集」を著したことで知られる恵心僧都源信(えしんそうず げんしん)の弟子となって修行し、長徳元年(995)、十三歳で剃髪受戒しました。そして、長元二年(1029)、四十七歳の時、浄土は西方にあるという思想から都の西山のこの地に法華院という小堂を建て、十一面千手観世音菩薩像を刻んで本尊としたということです。伝説では、山の神である阿智阪明神の化身の老翁から寺院建立を頼まれ、(善峯寺の麓には阿智阪明神社が祀られています・・三鈷寺の記事を参照ください。)源算上人が険しい山を切り開く方法に悩んでいると、明神の使いの猪の大群が現れて、一夜で地面を均して平地にして助けたということです。

その後、観音信仰の高まりによって観音霊場として栄え、長元七年(1034)九月、後一条天皇より、鎮護国家の勅願所と定められ「良峯寺」の寺号と詠歌を賜りました。
以来、歴代天皇の崇敬篤く、長久三年(1042)に後朱雀天皇が洛東東山の鷲尾寺に祀られていた安居院仁弘法師作という本尊・十一面千手観音菩薩像をこの地に移して当寺の本尊として千手堂を建立して祀り、先の十一面千手観音菩薩像を脇立としたと伝えられます。
その後、天喜元年(1053)後冷泉天皇の時代には、皇太弟・尊仁親王(後の後三条天皇)の后、藤原茂子が懐妊して難産だったため、当寺で祈願したところ、皇太子(貞仁親王、後の白河天皇)が無事に誕生しました。この報恩に報いるために、白河天皇は、本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、鐘楼、仁王門、鎮守七社の諸堂を建立したと伝えられます。さらに、治暦四年(1068)の大旱魃の際には、源算上人の祈祷と本尊千手観音の霊験によって無事に雨が降ったことから、朝廷より「良峰」の勅額が授けられたとのことです。


その後、承保元年(1074)、源算上人は、善峯寺山内の北尾と呼ばれる尾根に隠居所として草庵を建て、往生院(北尾往生院 後の三鈷寺)と号し、この地で百十七歳の長寿をまっとうしたと伝えられます。また、中納言葉室顕隆の孫、顕能の子に当るニ祖・観性(かんせい)上人(観性法橋(かんせい・かんしょうほうきょう)が、安元ニ年(1176)、境内の中尾と呼ばれる尾根の蓮華寿院の側に法華堂を建てています。その後、天台座主を四度務め、史書「愚管抄」の著者、歌人としても知られる三祖・慈円和尚((慈鎮和尚)じえん、じちん)が、観性上人の招きで当山の中尾蓮華寿院に住持し、さらに、鳥羽天皇の皇子・青蓮院門跡覚快(かくかい)法親王も晩年、善峯寺の住職となっています。
この頃(平安時代後期)の良峯寺(善峯寺)の境内は、南尾、中尾、北尾という三つ山の尾根に分かれ、現在の善峯寺の本堂(観音堂)付近に南尾法華院、現在の奥の院薬師堂のある中尾に蓮華寿院、北尾に往生院があったということです。

観性上人(観性法橋)や慈円和尚((慈鎮和尚))は鎌倉幕府や朝廷との繋がりを強め、良峯寺(善峯寺)の境内を整備しました・・「吾妻鏡」によると、文治五年(1185)、源頼朝が鶴岡八幡宮に大塔を建立した際には、観性上人(観性法橋)は、天台座主の全玄僧正の代理の供養の導師として、六月三日から十八日まで鎌倉に滞在し、頼朝から大いに歓待されました。頼朝は、観性上人と終日談話して上人を深く崇敬するようになり、後に上人の希望に応えて、二十八部衆金剛力士等を、南都(奈良)仏師の運慶に作らせて善峯寺に寄進しています。また、慈円和尚も頼朝と親交があり、幕府と朝廷の良好な関係に努め、頼朝より越前国藤島庄を寺領として授けられています。さらに、建久三年(1192)、に天台座主に就任して、後鳥羽上皇より自筆の寺額を賜って「良峯寺」を「善峯寺」と改め、官寺に列せられています。また、法然上人門下で、浄土宗西山派開祖、四祖・西山上人証空(しょうくう 善慧房・善慧国師)も当寺の蓮華寿院に入っています。

承久三年(1221)後鳥羽上皇による承久の変の後、道覚(どうかく)法親王(後鳥羽上皇皇子、後に天台座主、青蓮院門跡)が難を逃れて密かに証空上人を訪ねて善峯寺に籠居しました。そこで、証空上人は、蓮華寿院を道覚法親王に譲って、自身は北尾往生院に退いて荒廃していた往生院を復興し、浄土宗西山派の祖となります。寛元元年(1243)、道覚法親王は、後鳥羽上皇が建立したという水無瀬の御堂・蓮華寿院を、善峯寺境内に移して、その側に青龍院という一寺を建立して境内を整備しました。

こうして、善峯寺蓮華寿院は、鎌倉時代初期の道覚法親王以降、室町時代にかけて、青蓮院宮慈道(じどう)法親王(亀山天皇皇子)、大乗院宮尊円(そんえん)法親王(伏見天皇皇子)、青龍院宮尊道(そんどう)法親王(後伏見天皇皇子)といった青蓮院関係の法親王の晩年の隠居所となり、西山宮門跡、西山宮、御所屋敷等と呼ばれました。(尚、江戸時代以降は青蓮院宮の尊證(そんしょう 尊証)法親王(後水尾天皇皇子)、尊祐(そんゆう)法親王(霊元天皇皇子)、尊真(そんしん)法親王(後桜町天皇皇子)、尊寶(そんぽう)法親王(伏見宮十八世皇孫)が入寺)

室町時代の第百二代後花園天皇が堂塔を改築し、応永二十五年(1418)十月に四代将軍足利義持から、永享四年(1432)十二月に六代将軍足利義教から、寺領同国散在する敷地や田畠、山林等を安堵されるなど、朝廷や幕府の庇護を受けた善峯寺は、僧坊五十二を数えるほど栄えましたが、その後、応仁の乱以降の戦乱で荒廃し、天文二十一年(1552)十〜十一月には、細川晴元と三好長慶の抗争により西岡近辺が放火され、善峯寺や三鈷寺が炎上焦土となっています。

荒廃した善峯寺は、江戸時代には、寛正四年(1792)六月、幕府から山城国内散在の寺領を安堵されるなど徐々に復興し、特に、現在の諸堂の多くは、五代将軍徳川綱吉の生母・桂昌院の援助によって建てられたものと伝わります。桂昌院は、幼少時に親に連れられて善峯寺等洛西一帯の寺院に度々参詣していたとも伝えられ、善峯寺の復興のために多額の寄進をいって境内を整備しました。また、元禄十年(1697)十二月には、幕府は善峯寺と西岩倉の金蔵寺の二寺に対して寺田若干が加賜され、共に寺禄二百石の御朱印地を賜わっています。こうして善峯寺は、二百石及び山林四十二万五千坪を寺領とし明治時代に至りました。



さて、善峯寺は、約三万坪(十万平方メートル)という広大な境内に多くの堂塔が点在しています。次回は境内について書いてみます。

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十輪寺

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西京区大原野小塩町にある十輪寺(じゅうりんじ)は、平安時代の六歌仙の一人で、「伊勢物語」の主人公としても知られる在原業平(ありわらのなりひら)が晩年に隠棲した地と伝えられることから、通称「業平寺(なりひらでら)」と呼ばれる観光寺院です。

しかし、阪急バスの小塩停留所の直ぐ前に位置するというアクセスの良さにもかかわらず、意外と訪れる人は少ない気がします。その理由としては、人気の善峯寺が西(約1.5キロ先)にあるために、ほとんどの観光客が十輪寺の前を素通りしてしまうことにあるようです。
また、十輪寺と善峯寺と合わせて訪問したい時も、どちらを先に訪問すべきか悩む人もいるようです。自動車の場合は、両寺共に駐車場があるために問題は無いのですが、路線バスの場合は、本数が少ないこともあって、先に終点の善峯寺に行く方が良いと感じます。そして、バスの本数が少ないので、善峯寺の後は歩いて十輪寺に行くのも良いと思います。
善峯寺からなだらかな坂道(京都府道二〇八号向日善峰線)を徒歩で十輪寺へと下るのは比較的楽ですが、十輪寺から善峯寺へと登るのは坂がなだらかに見える割に足にきます。
十輪寺を後にすると、最後は十輪寺前から、路線バスに乗ることが出来ます・・但し、秋の観光シーズンは、善峯寺の観光客で路線バスは満員状態です。しかし、一人や二人は押し込んで乗ることができるでしょう。本数が少ないので、置いていかれることは少ないと思われます。




さて、十輪寺は、山号を小塩山(おしおやま)という天台宗寺院で、本尊は伝教大師最澄作と伝わる木造延命地蔵菩薩座像です。
寺伝によると、平安時代初期の嘉祥三年(850)、第五十五代・文徳天皇が女御染殿后((そめどののきさき 藤原明子=ふじわらのめいし ふじわらのあきらけいこ)の安産祈願のために、比叡山延暦寺の恵亮(えりょう)和尚を開山に請じて創建し、伝教大師最澄作の延命地蔵菩薩像を安置したことに始まるとされます。そして、その結果、無事に皇子惟仁親王(後の清和天皇)が生まれたことから、後文徳天皇の勅願所となったということです。
その後は、藤原北家(花山院家)の帰依を受け、花山院家一統の菩提寺となり栄えましたが、応仁の乱の兵火によって堂宇は焼失し、江戸時代の寛文年間(1661〜73)に、左大臣藤原定好(ふじわらのさだよし 花山院定好 1599〜1673)によって再興され、三代後の右大臣藤原常雅(ふじわらのときまさ・つねまさ 花山院常雅 1700〜1771)によって堂宇が整備され現在に至ります。


創建当時の本堂は、応仁の乱によって焼失し、現在の本堂は江戸時代の寛延三年(1750)に再建されたものです。
寺の掲示板によると、この本堂は、密教本堂、神社拝殿、禅宗仏堂の三つの様式を混交した珍しい建物で、屋根は鳳輦形(ほうれんがた)という神輿(みこし)を模った珍しい形をしたもので、強い起り(むくり)破風を施しています。内部・天井の彫刻も神社様式と寺院形式が混在した独特の意匠が施されていて、内部彫刻では、沓脱ぎの柱内部正面の丸柱は、鳥居を型どっていて、丸柱上部の獅子は「あ・うん」を舌で表した独特な表情で作られています。
また、正面、四隅、側廻、梁中央部には、木鼻のような獏(ばく)の姿が彫り廻らされていて、梁側面には蓮華様を浮き彫りしています。透かし彫りの絵様蟇股を含め細部のこれらの彫刻は全体的に微妙な連携を保っているということです。また基壇は亀腹(建物の脚部などを固めて饅頭型に造ったもの)、礎石は自然石です。
全体として建築様式の多様さと、珍奇さ、独創性において類を見ないとして、国指定文化財になっています。また、鐘楼は、寛文六年(1666)十月頃の建立で、同じく文化財指定です。(梵鐘「不迷梵鐘(まよわずのかね)」も同年作です)



本堂には、文徳天皇の女御染殿后の安産祈願に霊験があったと伝わる伝教大師最澄作の本尊・延命地蔵菩薩像(腹帯地蔵)や、花山法皇が西国巡礼の際に背負っていたと伝えられる十一面観音菩薩像(草分観音(くさわけかんのん)、禅衣観音(おいずるかんのん))を安置しています。

延命地蔵菩薩座像は、等身大の木造坐像で、その腹部に巻かれた腹帯で染殿后が安産したことから、「腹帯地蔵尊」と呼ばれ、現在も子授けや安産を願う人たちの信仰を集めています。(尚、この地蔵尊は秘仏で、毎年一回八月二十三日が開帳日です。)
また、「草分観音(くさわけかんのん)」と呼ばれる小さな十一面観音菩薩像は、花山法皇が西国三十三番札所を再興した際に、巡礼を通して背負っていた観音菩薩像を十輪寺に納めたとものといわれ、「禅衣観音(おいずるかんのん)」とも呼ばれています。この像は、西国三十三番霊場詣でに向かう者は、最初に詣でなければならない観音菩薩とされ、法皇の手形を模ったという木製御手判も保管されています。

その他寺宝として、菩薩面(年代不詳、明治初期に重要美術品に指定。京都国立博物館寄託)、スリランカ釈迦仏(幸福の釈迦)等があり、江戸時代に描かれた王朝風襖絵は、明治の廃仏毀釈によって失われましたが、大阪在住の黒田正夕(くろだしょうせき)画伯によって三十二面の豪華な襖絵が復元されています。その他、原在勤作の袋戸棚襖絵「業平と二条后の舞」、「小松曳き」等があります。

また、庭園は、寛廷三年(1750)、右大臣藤原常雅(花山院常雅)が本堂を再興した時に作庭されたもので、高廊下と茶室、業平御殿と名づけられた三つの建物に囲まれた庭園です。
庭園の中央には、樹齢約二百年と伝わる枝垂桜、通称「なりひら桜」があり、見る位置によって人に様々な想いを感じさせることから「三方普感の庭(さんぽうふかん)の庭」とも呼ばれています。



さて、十輪寺といえば、平安時代初期の歌人として知られる在原業平(825〜880)ゆかりの史跡として知られます。
業平は、第五十一代・平城天皇の第一皇子・阿保親王の五男で、古くから「伊勢物語」の主人公と同一視されてきました。「伊勢物語」では、主人公の男(業平)と、二条后(にじょうのきさき 藤原高子 ふじわらのたかこ)や伊勢斎宮の恬子内親王(やすいこないしんのう 文徳天皇皇女)との恋物語が描かれていて、在原業平といえば情熱的な生涯を送った男の典型として後世伝説的に語られることになりました。
業平は、晩年にこの十輪寺に隠棲して、塩焼きの風流を楽しんだとも伝えられていて、この地が「小塩」という地名なのは、この故事に由来しているということです。
そして、境内裏山には、在原業平の墓と伝えられる小さな宝篋印塔(業平塔)があります。(尚、左京区の吉田山にある竹中稲荷神社にも、業平の墓とされる業平塚があります)

また、境内奥の高台には、業平が難波(大阪)の海から潮水を運ばせて塩を焼き、その風情を楽しんだという塩窯の跡があります。
直径五メートル程の窪地の中に石積みの窯跡があり、周囲はしめ縄が張り巡らされていますが、業平はかつての恋人だった二条后が近くの藤原氏の氏神・大原野神社(京の春日大社)に参詣した時に、この地で塩を焼いて紫の煙を立ち上らせて昔日の恋を偲びあったといわれています。

塩竃の側にある「業平朝臣塩竃之由来」によると、中世以降に業平信仰が生まれ「陰陽の神、歌舞の神(謡曲杜若より)」として信仰されるようになったことから、塩竃を清めて煙を上げてそれに当って良縁成就、心願成就、芸事上達等を願うようになったということで、今も恋愛結婚成就のご利益があるということです。
この現在の塩竃跡は、地形は原型のままということですが、塩竃自体は故事に因んで数十年前に復元されたものです。また、飛地境内には汐汲池(潮溜池)があります。
さらに、十輪寺と在原業平に因んだ謡曲として「小塩」があります・・都の人々が大原野の小塩の辺りに花見に出かけて、一人の老翁に姿を変えた業平の霊に出会います。老翁は舞を舞ったり、歌を詠じて昔を懐かしんだりした後、夜明けと共に消え去っていくという話です。

十輪寺では、業平を偲んで、毎年、五月二十八日の業平忌(業平は、元慶四年(880)五月二十八日に、五十六歳で死去しました)、十一月二十三日の塩がま清祭(きよめさい)には、三味線に似た三弦を用いた三弦法要が行われます。


最後に、十輪寺の本堂の前には、樹令八百年という大樟樹(おおくのき)があり、本尊が樟で作られているために、その分身として祀られています。伝説によると、地蔵菩薩の神力で一夜にして大樟樹にならしめたというので「願かけ樟」とも呼ばれる神木です。また、その左には「なりひらもみじ」もあり、境内は紅葉隠れた名所でもあります。

三鈷寺

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今回は、西京区大原野石作町、観光地として知られる善峯寺の北にある三鈷寺(さんこじ)を採り上げます。
前回の金蔵寺は、街中から遠い隠れ里のお寺といった雰囲気でしたが、今回の三鈷寺(さんこじ)は、観光地として知られる善峯寺のすぐ北にあるにもかかわらず、意外とその行き方がわからないという人が多い「隠れ寺」です。一応観光寺院ですが、訪れる人は少ないので、人の多い善峯寺に疲れた時は、すぐ近にあるこの眺望の良いお寺で寛いでも良いかもしれません・・二人だけの時間を過ごすのにも良い感じですね。(新しい広い客殿は、休憩所としても利用できます)


三鈷寺(さんこじ)を訪れる人は、そのほとんどが善峯寺のついでと思われるので、善峯寺から三鈷寺(さんこじ)に行く方法について少し書いてみます・・・主に三つの道があります。
一つは、善峯寺山下のバス停留所の手前約百メートル右手に「西山本山三鈷寺」の石標があり、側に「阿智坂明神社」という善峰の小さな鎮守社があるので、この目印のある坂から山道を登るという方法です。この「阿智坂」と呼ばれる坂道は、石が転がっている自然道に近いもので、距離は約四百メートル、十数分程度で寺に到着します。しかし、短い距離で一気に山上に駆け登る道なので、かなりの傾斜角度があります・・・山に登るという覚悟が必要です。その後、道は折れ曲がって石段へと続き、三鈷寺の東門(門は無いですが、こちらが正門ということです。)に至ります。(山道の参道付近の写真を掲載しておきます。)
車の場合は、善峯寺の山上にある駐車場の入り口のさらに上、対向車があれば離合できないような細道が三鈷寺に通じていて、タクシーではこの道を通って観光客を運ぶようです。

一番楽でお勧めなのは、善峯寺の北門を抜けることです。(この北門、善峯寺境内の幸福地蔵の辺りから、桜・あじさい園を挟んで遠望できます。善峯寺のパンフをお持ちの方は境内案内図をご覧下さい。)この門から二分程道路を歩けば、すぐ三鈷寺の西門(高麗門)に至ります。
(善峯寺の北門は無人の場合が多く、その場合一旦外に出ると、境内に戻ることは出来ない仕組みになっているので、善峯寺の境内を楽しんだ後で三鈷寺に寄った方が良いでしょう。また、帰りは先程書いたような急な山道を下るということになりますが、登りに比べると比較にならないほど楽です。)



さて、三鈷寺は、山号を西山(せいざん)、または華台山(けたいさん)という西山宗(せいざんしゅう)の総本山です。中世には西山往生院、往生院本山とも称されて栄え、天台宗、浄土宗西山派、さらに天台宗を経て、昭和二十六年(1951)に四宗(天台・真言・律・浄土)兼学の西山宗本山として独立しました。本尊は佛眼曼荼羅(ぶつげんまんだら)で、洛西三十三所観音霊の第五番、西山国師遺跡霊場第十二番札所でもあります。

三鈷寺は元々、善峯寺山内に建てられた草庵(御堂)に始まるために、その歴史は善峯寺と重なる部分が多いです。寺伝によると、平安時代中期の承保元年(1074 京都市の駒札では長久三年(1042)となっています)、善峯寺の開山として知られる比叡山横川の源算(げんさん)上人が、善峯寺山内の北尾と呼ばれる尾根に隠居所として草庵を建て、往生院(北尾往生院)と号したのが三鈷寺の創建と伝えられます。
尚、平安時代後期の善峯寺の境内は、南尾、中尾、北尾という三つ山の尾根に分かれ、現在の善峯寺の本堂(観音堂)付近に南尾法華院、現在の奥の院薬師堂のある中尾に蓮華寿院、北尾に往生院があったとされ、北尾往生院があったのは、現在の三鈷寺よりさらに山中でした。


その後、往生院(北尾往生院)は、善峯寺の二祖・観性法橋(かんせい・かんしょうほうきょう)を経て、三祖・慈鎮(じちん 慈円)和尚から、建保元年(1213)に法然上人門下の四祖・西山上人証空(しょうくう 善慧房・善慧国師)に譲られました。西山上人は、当時荒廃していた往生院を復興して、浄土宗西山派の不断如法念仏道場として発展させて独立し、背後の山の頂上髢嶽(かもしかだけ)の三峰の形が仏具の三鈷に似ているところから寺名を三鈷寺と改めて、後嵯峨天皇から宣旨を賜って勅願所に列せられました。また、安貞2年(1228)ニ月には、中納言中宮大夫・藤原実基から領地の山城鷄冠井荘内の地を、三鈷寺(善峯寺徃生院)の不断念仏供料に提供されています。
西山上人は、宝治元年(1247)十一月二十六日に白河遣迎院(京都市東山区)で七十一歳で入滅し、遺体は三鈷寺山内で火葬にされました。上人に深く帰依していた蓮生(れんしょう 宇都宮頼綱)は上人の墓所として三鈷寺山内に多宝塔を建て、観念三昧院華台廟と称しました。

尚、蓮生は、俗名を宇都宮頼綱(うつのみやよりつな)といい、鎌倉幕府の有力御家人でしたが、元久ニ年(1205)に北条氏に謀反の嫌疑を受けて出家し、実信房蓮生と号しました。蓮生は歌人としても優れ、京都の小倉山麓の二尊院の側に山荘を構えて、藤原定家と親交を深めます。そして、蓮生が定家に、山荘の障子に貼るための色紙の執筆を依頼したことをきっかけに、「小倉百人一首」が生まれることになりました。この蓮生も、華台廟に西山上人と共に祀られています。


その後、三鈷寺は、中世を通じて念仏道場として西山上人証空の法流を伝え、多くの寺領荘園を有して栄えました。当時は嵐山の二尊院に至る広大な寺域を持っていたということですが、応仁の乱(1467)の兵火によって山内は荒廃して多宝塔以下の堂宇を失いました。また、天文二十一年(1552)十〜十一月には、細川晴元と三好長慶の抗争により西岡近辺が放火され、三鈷寺や善峯寺などが焼失しています。
その後、江戸時代には常念仏再興の綸旨を授かって新たに寺領を得て復興されましたが、かつて栄えたよう時代のような旧観には復さなかったようです。そして、昭和二十六年(1951)、第五十二代・台龍上人が現在の寺観を整備して、天台宗を改めて西山宗として独立し、平成十四年(2002)春に平成の大修理が完了して現在に至ります。



三鈷寺の境内ですが、現在は、建物としては華台廟、本堂を中心に、庫裏や客殿等があるのみですが、多くの由緒有る寺宝を所有しています。
華台廟と本堂は軒続きで並び、建物の奥に張り出した華台廟には彩色された西山上人像が祀られています。また、本堂には諸仏が安置されています。二祖・観性法橋(かんせい・かんしょうほうきょう)筆とされる本尊の佛眼曼荼羅(ぶつげんまんだら)は、かつての三鈷寺の壮大な本堂に祀られたものですが、現在の本堂には納まりきれない大きさのため、京都国立博物館に寄託されていて、代わりに智証大師円珍作と伝わる全身が金色の珍しい不動明王像「金身不動明王」が本堂の中央に祀られています。

また、本堂右手には慈覚大師円仁作といわれる「抱止阿弥陀如来(だきとめあみだにょらい)」が祀られています。この像は、右手を胸に置き、左手を下方に下げた姿をしていて、先程書いた実信房蓮生が夢の中でこの阿弥陀如来の姿を見て、その姿を追って衣にすがり付いたところで夢から覚めたという伝説が伝えられます。その他、西山上人筆と伝わる「当麻曼荼羅」、同じく西山上人作という「十一面観音菩薩像」、「西山上人思惟像」、「西山上人思惟之御影」、西山上人筆「鎮勧用心」、「宇都宮頼綱画像」、三条称名院筆「宇都宮系図」等の寺宝を所蔵しています。


さて、三鈷寺の一番の人気は・・といってもこのお寺を知らない観光客は多いですが・・本堂前や客殿からの眺めです。
その眺望は、関西屈指といわれ、比叡山から東山三十六峰、京都市内、宇治、城陽、木津方面まで一望出来、江戸時代の「都名所図絵」では「二大仏七城俯瞰の地」と記されています。
(「二大仏七城俯瞰の地」ですが、「二大仏」とは、京都方広寺と奈良東大寺の大仏のことで、「七城」とは、二条城、伏見城、淀城、高槻城、大坂城等の京都内外の城を意味します。もちろん実際は大阪や奈良まで眺望出来る筈は無いのですが、それ程眺望が良いと例えられたようです。)
違いはあまり判らないと思いますが、本堂前(無料)と客殿(有料席)からの眺望写真を掲載しておきました。(最初の二枚が本堂前、残り三枚が客殿から、少し見える角度が違います)
特に東山に上る名月の眺めは関西随一とされ、中秋の名月を鑑賞する「観月の夕べ」も行われているようです・・・夜に懐中電灯を片手に急坂を登るというのはかなりハードですが。

また、境内では、桜やツツジ、紫陽花、桔梗、萩、紅葉等四季を通じて花を楽しめ、特に境内東にある大きなイチョウの木がお寺のシンボルとなっています。(今回はこのシンボルのイチョウの葉は落ちてしまった後でしたが、客殿裏にある別の大きなイチョウも含めて撮影しておきます)

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