京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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向日神社その2

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向日神社の続きです・・


さて、向日神社の境内についてです。

長い雰囲気の良い参道を進むと、短い石段の上の中央に舞楽殿、その奥に拝殿・本殿。右手には参集殿社務所、左側は広い駐車場になっています(自動車の参拝者にはたいへん便利ですが、それ程広くない参道を車で走行するのは歩行者に危険でもあり、せっかくの雰囲気のある参道なので、ご老人や体の不自由な方はともかく、やはり歩いて参拝した方が良いように思われます)

また、駐車場のさらに左には客殿、剣道場があり、駐車場の手前にはお茶所、そして神社の境内にあるのは珍しいですが・・向日市天文館があります。
(この天文館は、昭和六十三年(1988)から平成元年(1989)にかけて、全国の自治体に1億円が交付された、所謂「ふるさと創生事業」の際、向日市民からアイデアを募集して誕生した施設で、平成五年(1993)三月に向日神社境内の一角に建設されました。天文館には、プラネタリウム、天体観測室、星見台、展示室があり定期的に天体観望会などを行っています。また、向日神社南側にある剣道場は昭和五十一年(1976)に建てられ、元向陽小学校の職員室等に利用されているもので、現在も小学校から大人まで剣道の練習に用いられています。)


現在の向日神社の本殿は、応永二十五年(1418)に建造されたもので(同二十八年竣エ)、本殿と拝殿が連なる権現造のような社殿形式で、室町時代の流れ造り様式の代表的な建築物として、国の重要文化財に指定されています。 また、東京の明治神宮の本殿は、向日神社の本殿をモデルにして(1.5倍に拡大して)造られたといわれています。
尚、江戸時代の『山州名跡志』には、「向日社。西岡の山上にあり、鳥居東向き石柱。拝殿南向き、社同じ・・・」と記され、現在は東向きの社殿が南向きだったことがわかります。また、現在の拝殿と舞楽殿は、寛永二年(1625)の建立ということです。特に周囲を回ってみると、重厚な雰囲気が印象的です。

また、本殿の背後の広いスペースは「鶏冠木の苑(かえるでのその)」と名付けられた楓と山桜の神苑になっています。今から百七十年前の江戸時代には、この場所に本殿があり、本殿が現在の地に移ってからは、楓と山桜の神苑となりました。また、戦前には土俵もあったそうですが、その後、雑木が繁茂して見晴らしが悪い土地になったため、新たに野外ステージを造り、楓と山桜の神苑に戻したということです。(尚、「鶏冠木(かえるで)」とは、楓の古名「かえるで」にちなんだもので、鶏の鶏冠が楓に似ていることから作られた和製漢字になります。)


境内社としては、参道の右手、手水舎の手前に、商売繁盛の神である勝山稲荷社があり、その奥には元稲荷社があります。また、手水舎の後ろには、学問成就の神として知られる天満宮社があります。また、本殿の左手には、五社があり、大己貴神(おおなむちのかみ)、武雷神(たけいかづちのかみ)、別雷神(わけいかづちかみ)、磐裂神(いわさくのかみ)、事代主神(ことしろぬしのかみ)を祀っています。

五社の後ろには、本殿と回廊で繋がった祖霊神社があり、また、本殿の左には、御霊社があり、伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)と伊邪那美尊(いざなみのみこと)を祀っています。そして、本殿背後の「鶏冠木の苑(かえるでのその)」の右には春日社があり、さらに一番奥(境内西)には、火雷大神の荒魂神(あらみたまのかみ)を祀る井戸を御神体とする増井神社があります。
また、付近には勝山神変大菩薩(役行者)が祀られていますが、これは、安永六年(1777)五月に彫られ物集女村(向日市物集女)で信仰されてきた役行者像を、昭和二十五年(1950)、向日神社の氏子会である向日社友信会の総代が、この勝山の麓に遷座したいと願って物集女住民を説得し、この場所に遷座し祀ったものです。     

また、社宝としては、紙本墨書日本書紀神代巻下巻(国重要文化財 延喜四年藤原清貫筆と奥書に印)、飾太刀(天狗久光作の銘)、小野通風筆「正一位向日大明神」額、棟札(応永二五年本殿棟札一枚、慶長二年棟札一枚)、古印(「向日神社政印」の銅印)、朱印状(豊臣秀吉及び徳川歴代将軍の朱印状)等があります。



また主な年中行事として、例祭(五月一日)、氏子祭(神幸祭は五月第二日曜日の三日前、還幸祭は五月第二日曜日)等があります。氏子祭の神幸祭(おいで)では、祭礼の三日前に当社から祭神を鳳輦(神輿)に遷し鶏冠井(かいで)御旅所(向日市鶏冠井町)を経由して上植野御旅所へお遷し、そして、還幸祭で上植野御旅所から各地区を巡航して本社へ祭神がお還りになります。

また、向日神社には特徴ある「座」による特殊神事があります・・
戦国時代の下剋上時代、畿内各地の諸豪族が室町幕府を窺うため、京都近郷に潜入するようになりました。この地の農民達は彼等に田地を強奪されることを恐れ、田地を向日神社に寄進してその難を逃れたということです。その後、世情が鎮まるにつれて、農民達は神社に寄進した田地を返してもらい、神社に感謝するために夫々が「座」と呼ばれる組織を構成し感謝の祭を行ないましたが、これが、現在まで伝わる「年頭祭(ねんど)」や「索餅祭(さっぺ)」と呼ばれる特殊神事になります。

各座の人々は、互いに土地を出し合って座の財産とし、その収入によって座を維持しました。また、各座の最年長者を総一老と呼んで、四月一日には村の行政を司らせていたという故事もあるように一種の自治組織でした。このような成立過程から、向日神社の座は、同業者が商業発展を目的として形成した他社の座とは起源を異にする歴史的にも注目されるものであるということです。

座が行なう祭(神事)の一つ、「年頭祭(ねんど)」は、各座の長老五人が本殿に招かれることから名付けられ、「索餅祭(さっぺ)」は、各座が小判形の吉餅及び餅を薄い円形にした花平(はなびら)を神前に供えますが、この小判形の吉餅、餅を薄い円形にした花平の造り方から「索餅祭(さっぺ)」と名づけられるようになったといわれます。そして、この二つの神事は、現在まで四百年以上続いていて、特に、索餅祭では御膳等の祭器が当時のまま保存され現在も使用されているということです。



最後に、向日神社の境内は木々が多く憩いの空間となっていて、京都府全域から選ばれた「京都の自然二百選(平成七年三月選定)」にも選ばれています。
特に、西側一体は、隣接する勝山公園、勝山緑地に溶け込んで自然豊かな空間を形成しています。また、向日神社の裏参道になる坂道には地元住民らの手で守られている「桜の苑」があります。次回は、この勝山公園や勝山緑地を中心に写真を掲載します。

向日神社その1

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今回は、向日市のシンボル的な存在の向日神社(むこうじんじゃ)です。
平安時代の由緒ある式内社で、古くは向神社、向日明神と呼ばれ、現在も向日市全域の鎮守社として「明神さん」の名前で市民から親しまれています。また、市を代表する観光名所としてお勧めクラスの史跡でもあります。


向日神社(京都府向日市向日北山)は、向日市の西部一帯にある向日丘陵の最南部、阪急電鉄西向日駅から北西約五百メートル程にある小高い丘に鎮座しています。
アストロ通り(京都府道六十七号線)という向日市商店街通りに面した大鳥居を潜ると、二百メートル程の御影石を敷きつめた長い参道が真直ぐ続き、その先に舞楽殿がかすかに見えます。
向日神社の最大の魅力の一つがこの参道で、両側には桜、つつじ、きりしまつつじ、楓等の木々が植えられていて、春の桜のトンネル、夏の新緑のトンネル、秋の紅葉のトンネルと四季折々の風情が楽しめる場所になっています。(ただ、乗用車での参拝者も多く、結構頻繁に車が参道を往来するので、徒歩の参拝者は注意が必要です)
また、先日、ブログに掲載したように、大鳥居の手前左脇には、日像上人ゆかりの説法石が安置され、参道の途中、右手にも他の説法石やさざれ石が置かれています。



さて、向日神社の祭神は、向日神(むかひのかみ)、火雷神(ほのいかづちのかみ)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、神武天皇(じんむてんのう)の四神です。
向日神社の創始の詳細は不明ですが、平安時代の『延喜式神名帳』に「乙訓郡十九座(大五座・小十四座)」の一社として記載された式内社で、神名帳では「山城国乙訓郡向神社(むこうじんじゃ)」と称され、後に同式内社の乙訓坐火雷神社(ほのいかづちじんじゃ 名神大 月次新嘗))を併祀して現在に至っているということです。 また、この両社は、同じ向日山に鎮座したことから、向神社は上ノ社、火雷神社は下ノ社と呼ばれていたということです。そして、上ノ社は五穀豊饒の神として、下ノ社は祈雨、鎮火の神として朝廷の崇敬篤い神社として崇敬されました。


また、社伝によると、古代、大歳神(おおとしのかみ)の御子、御歳神(みとしのかみ)が、現在の鎮座地のこの峰に登られた時に、この地を向日山(向津日山)と称し、この地に永く鎮座して田作りを奨励されたことに始まるといい、祭神が向日山に鎮座されたことから、御歳神を向日神と呼ぶようになったと伝えています。
また、火雷神社は、神武天皇が大和国橿原より山城国に遷り住んだ時、神々の土地の故事により、向日山麓に社を建てて火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)を祀られたのが創立とされます。その後、奈良時代の養老二年(718)に、社殿を改築して新殿遷座した際、火雷大神の御妃神の玉依姫命と、創立の因縁によって神武天皇を併祭したとされます。


さて、少し話が長くなりますが、向日神社の下ノ社に祀られていた乙訓坐火雷神社(乙訓社とも)については、向日神社の他に、比定社として角宮神社(すみのみやじんじゃ 京都府長岡京市井ノ内南内畑)があるので、角宮神社の伝承や平安時代の古記録を加えて、乙訓坐火雷神社について補足してみます。

祭神火雷大神の最も古い伝承として、『山城風土記逸文』の賀茂伝説(京都の賀茂社(現下鴨神社)の創建伝承)があります。この逸文には、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと 下鴨神社主祭神)の娘、玉依媛命が、瀬見の小川(賀茂の川)で禊をしている時に、上流より流れて来た丹塗の矢を拾って寝床におかれたところ、矢は男神になって結婚し子供が生まれたという神話が記されていて、この玉依姫の夫神が乙訓国の郡の社の火雷大神(火雷命)と記しています。
その後、火雷大神の御子別雷神を祭神とする上賀茂社(上賀茂神社)や、玉依姫と建角身命を祭神とする下賀茂社(下鴨神社)と共に乙訓坐火雷神社は、国の大弊にあずかる名神大社としての社格の高い社とされてきたようです。


史書では『続日本紀』の大宝二年(702)七月八日の条で、「詔。伊勢太神宮封物者。是神御之物。宜准供神事。勿令濫穢。又在山背国乙訓郡火雷神。毎旱祈雨。頻有徴験。宜入大幣及月次幣例。(伊勢の大神宮からの奉庫からの物資は紙の御物である。神事に供えるものなので、濫りに穢すことのないようにせよ。また、山城国乙訓郡にある火雷神は雨乞いを行う度に霊験がある。大幣と月次祭の幣帛を奉るようにするようにせよ。)」とあるのが初見になり、その後、宝亀五年(774)正月二十五日の条に、山城国司が「去年の十二月に乙訓郡の乙訓社で、狼や鹿が多く、野狐は百頭もいて毎夜吠えていましたが、七日で止みました。」と言上したとあり、これが原因で、同年六月五日には、乙訓社に山犬や狼の怪があるということで幣帛を奉っています。

延暦三年(784)十一月二十日には、近衛中将正四位上の紀朝臣船守を遣わして、賀茂上下二社に従二位を叙すと共に、兵部大輔従五位上大中臣朝臣諸魚を遣わして松尾と乙訓の二神に従五位下を叙していますが、叙任の理由は長岡遷都のためでした。また、同月二十八日には、使者を派遣して賀茂上下二社と松尾、乙訓社を修理させています。

その後、『日本紀略』によると、弘仁十三年(822)八月三日には、乙訓社は広湍、竜田社等と共に従五位に叙され、 弘仁十四年(823)六月四日には、祈雨(雨乞い)のため貴布祢、広湍、竜田と共に幣帛を奉られました。以後、乙訓社は、賀茂上下、松尾、垂水、住吉、貴布祢、丹生川上社等と共に主に祈雨神として朝廷から崇敬され、『日本紀略』や『続日本後紀』、『文徳天皇実録』、『日本三代実録』といった国史に度々登場しています。
また、嘉祥三年(850)七月十一日には正五位下、貞観元年(859)正月二十七日に從四位下に叙されています。しかし、鎌倉時代初期の承久の変(1221)の戦乱で灰燼に帰したということです。


さて、前述したように、向日神社の社伝によると、向日神社は、元々、上ノ社(向神社)と下ノ社(火雷神社)に分れていましたが、建治元年(1275)、下ノ社の社殿が荒廃したことにより上ノ社に祭神の火雷神を合祀し、以後、下ノ社の再興が出来なかったため上ノ社に上記四柱を祀って、向日神社として現在に至っているとしています。承久の変(1221)の戦乱以降に衰退したという火雷神を祀る神社は向日神社の下ノ社だと推定されますが、一方、角宮神社の伝承では、衰退した乙訓坐火雷神社(現角宮神社の前身)の社地は、現在の向日神社の西約一.五キロの現在の長岡京市井ノ内の西部の宮山にあったと伝えています。

その後、室町時代の文明十六年(1484)になって、井ノ内宮山にあったという火雷神を祀る社が、鎮座地を変えてようやく復興されましたが、これが現在の角宮神社(すみのみやじんじゃ 京都府長岡京市井ノ内南内畑)になります。建治元年(1275)に火雷神を合祀した現在の向日神社と、その後、再建された近隣の角宮神社とは、共に元は式内社の乙訓坐火雷神社であるとして、どちらが正当な乙訓坐火雷神社の後継神社かという論争が古くからあったようですが、由緒ある歴史を掲げるのが寺社縁起の通例でもあり、残存する伝承資料の真偽を詮索しても結論の出る問題ではないようです。まして、参拝する際には一切関係ないことですが、少し情報として補足してみました。


また、向日神社の宮司は、平安時代以来、代々、「六人部(むとべ)家」が務めていますが、向日神社は、元々、六人部(むとべ)氏が自領に鎮守社を祀ったことが創始とも考えられます。
そして、幕末の向日神社の宮司、六人部是香(むとべよしか、1806(1798とも)〜1864)は、平田篤胤門下の国学者として知られ、孝明天皇にも進講し、坂本龍馬や中岡慎太郎、副島種臣等にも影響を与えたといわれています。



次回に続きます・・

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今回は、京都府向日市の歴史を伝える文化財住宅である須田家(すだけ)住宅についてです。

阪急電鉄西向日駅の北西、アストロ通りという向日市商店街通りを北上すると、向日神社の数十メートル程北に古風な住宅があります・・これが須田家住宅(京都府向日市寺戸町西ノ段)です。(以下、向日市提供の市内情報参照)


さて、京都府向日市は、元々、向日町を起源としていますが、この向日町の名前は、現在、向日市全域の鎮守社である向日明神(向日神社)に由来しています。

安土桃山時代の天正二十年(1592)年八月、天下を統一した豊臣秀吉は、西国街道沿いの向日明神前に新町を造ることを認め、その命によって、当時の京都所司代前田玄以が、向日前新町の建設を認める三ヶ条の定書を下したことが向日町(向日前新町)の始まりと言われています。当時誕生した新しい町(向日前新町)は、西国街道西側の向日明神領の町と、寺戸村から割かれた上之町(カミンチョ)、鶏冠井村から分かれた下之町(シモンチョ)の三町から成っていたということです。

現在、民部卿法印(前田玄以)の名前で出された向日前新町三町に関する定書が残されていますが、それによると、当時は道(西国街道)から西に家を建てている者もいましたが、前のまま街道よりは西は向日明神の社領とすること。
三町間(新しく生まれた向日前新町)には、農村の家役人(本百姓)は居住してはならない。但し、隠居した者等(在所において諸役仕らない二男、三男等の分家、または退隠したもの)は移住してもよい。
また、新しく町を造るに当っては、家を建てない者(町割りを行って土地の割り当てを受けた者が、家を建てない場合)がある場合は、家を建てた者の方から土地を渡すことを定めています。

こうして誕生した向日前新町では、江戸時代には、 特に寺戸村から割かれた上之町界隈(現在の向日市民会館(向日市寺戸町中ノ段)から南、旧西国街道と物集女街道とが交差するあたり)に、宿屋、油屋、酒屋、醤油屋、呉服屋、魚屋、質屋、両替屋、医者等々の多くの商店や職種の人々が軒を並べていたということです。当時立ち並んでいた家々の大部分は現在は残っていませんが、僅かに当時の歴史を今に伝えているのが、須田家住宅です。



さて、須田家住宅は、屋号を「松葉屋」といい、明治三十年代まで醤油の製造販売を営んでいた旧家になります。この付近は、かつて西国街道と愛宕道、丹波道の分岐点になり、江戸の元和二年(1616)に作成されたこの地域の家並みを記した古文書にも「松葉屋」の名が記載されていることから、少なくとも江戸初期から四百年以上もの歴史がある旧家ということになります。
そして、江戸時代の街道筋の貴重な建物(特に主屋の南棟は十七世紀末の建立)ということで、昭和六十二年(1987)に、京都府の指定文化財(建造物)に指定されています。


尚、西国街道は、京都の東寺口を起点として、この向日町を経て高槻、茨木(大阪府)を経由してから伊丹、西宮(兵庫県)に抜ける旧街道で、京から西国に向かう主要幹線道路でした。
また、丹波道(旧山陰道)は、京の丹波口(七条口)を起点として、桂川を越えて樫原・大江(京都市西京区)を経て丹波亀山(京都府亀岡市)に続いていました。そして、丹波道は、樫原(京都市西京区)で物集女街道と呼ばれる道筋に分かれ、この街道は南下して、向日市の物集女町を経て寺戸町で西国街道に接続していました。
さらに、江戸時代の京都で「伊勢に七度、熊野に三度、愛宕様には月参り」と歌われたように、火伏の神として有名な愛宕山山頂の愛宕神社(京都市右京区)へと続く京及び周辺からの幾つかの参詣道があり、向日神社周辺にも、この参詣道の名残の愛宕灯篭が今も残っていて、当時の街道筋の歴史を伝えています。そして、現在、須田家住宅の前には、「右西国街道 中あたごみち 左たんばみち」の新しい道標が建てられています。


須田家住宅は、一見すると新しく改築された建物のようにきれいですが、これは、平成三年(1991)から七年をかけて修復されたからです。普段は非公開ですが、年二回ほど申込制による特別公開が行われています。

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向日市最大の観光名所である向日神社(京都府向日市向日北山 阪急電鉄西向日駅から、北西に約五百メートル)の大鳥居の南側、参道の左脇に、一つの大きな石が祀られています。また、これとは別に二つの石が神社の参道右側にさざれ石と並んで安置されています。

これらの石は「説法石」といわれ、京での日蓮宗の布教を禁止されて西国へ追放となった日像上人が、徳治二年(1307)頃、この石の上に座して西国街道を行き交う人々に説法をしたと伝えられています。(特に、鳥居脇の説法石は、向日市の重要な史跡の一つなので単独で写真を掲載します。)




日像上人の生涯については、このブログの京都市上京区の妙顕寺について書いた際に、ほぼ書き尽くしましたので、引用して簡単に書いておきます・・

日像上人は、文永六年(1269)八月十日、甲斐源氏の流を汲む豪族、平賀忠治の子として下総国平賀(現千葉県松戸市の本山本土寺の地)に誕生し、幼名を万壽麿といいました。
健治元年(1275)七歳で出家して異父兄に当たる、日朗(日蓮の高弟)上人の弟子となり、その後、身延山の宗祖日蓮上人に対面します。日蓮上人は少年を、将来の京都での布教、天皇に法華経を伝えるという大任を担える逸材であると内心喜んで、以後、経一丸(きょういちまる 経一麿とも)と名付け身近に仕えさせ教育を施しました。

さて、弘安五年(1282)九月、体調を崩した日蓮上人は、約九年を過ごした身延山を降りて、同月十九日、武蔵国千束郷の門下、池上宗仲の館(現在の東京の池上本門寺)に入りました。
臨終を悟った上人は、十月十一日、多くの弟子や信者の中で、日朗上人の弟子で十四歳の経一丸(きょういちまる 経一麿とも)を特に枕元に呼び、最後の遺命として、帝都弘通(ていとぐずう 京都での布教活動)と宗義天奏(しゅうぎてんそう 天皇への布教)を遺命しました。

当時、まだ関東を中心にした地方教団だった日蓮の教団が全国的に発展するためには、何としても天皇のいる京都(帝都)での布教が必至でした。しかし、旧仏教有力寺院の多い京都での布教は大変な難事が予測されるものでもあり、十四歳の経一丸には教団の将来にかかわる非常に重い任務が託されたといえます。こうして、弟子達に後を託した日蓮上人は、十三日の辰の刻(午前八時)に六十一歳で入滅しました。


さて、その後、経一丸は、直ぐに名を日像と改め、日朗上人を師として修行に励み、永仁元年(1293)二十五歳の時、翌年の日蓮上人十三回忌を前にして、帝都弘通の大目標を決行することを決意し、この難事業に耐え抜くため、鎌倉比企ケ谷で寒中百日間の荒行を行って心身を鍛えました。
そして、翌永仁二年(1294)二月に鎌倉を出発、三月には佐渡の師(日蓮上人)の霊跡を巡拝しながら北陸道を京へ向かいました。

そして、四月に入洛を果たすと布教活動を開始します・・妙顕寺に伝わる「龍華歴代師承傳」によると、日像上人は、この年(永仁二年)の四月二十八日の早朝、御所の正門(東門)前で昇っていく朝日に向かって立つと、法華経の題目を高らかに唱え始め、一日中唱えて夕方になっても止めなかったと伝わります。五月十三日、同二十一日にも街中の十字路で大声で題目を唱え続け、その後は洛中各所で毎日辻説法を続けて貴賎様々な人々を勧誘し、綾小路大宮に法華道場として法華堂(妙顕寺の前身)を建立し、布教活動を続けました。

次第に上人に入門を求める者が増える一方で、既存宗教を邪宗と弾劾する日像の説法に対し、延暦寺等他宗派の迫害も起って布教活動の停止を朝廷に訴えました。
徳治二年(1307)五月二十日、日像上人は後宇多上皇の勅命で、京を追われ土佐国播多への流刑を命じられますが、洛西の乙訓郡付近に留まって布教活動を続けました。




さて、日像上人が流刑地の西国に向かう途中、乙訓郡(現在の向日市周辺)の向日神社(当時は向日明神)付近で、飛んできた二羽の白い鳩が上人裾を加えて放さず、また老人が現れて日像に教えを請いたいと頼みました・・これらは、祭神の明神の化身で、上人をこの地に引き止めるために姿を変えていたのでした。
そこで、日像上人は、大石(現在の説法石)に腰を下ろして説法すると、これを聞いた多くの村人が上人に帰依して、法華経信者となったといわれます。


この時、鶏冠井(かいで 京都府向日市鶏冠井町)の真言宗寺院・真言寺の住職、実賢が日像上人に帰依して改宗し、開山として日像を迎え、寺を真経寺(真言寺の真と、 日像上人の幼名 経一丸の「経」にちなんで 現向日市鶏冠井町大極殿)と改めましたが、真経寺は畿内最初の日蓮宗寺院(妙顕寺の前身法華堂を除いて)ともいわれ、日像の布教活動の拠点となりました。(尚、真経寺は江戸時代に南真経寺と北真経寺に分かれました。)

また、この向日市鶏冠井地区の石塔寺に伝わり、毎年五月に行われる「鶏冠井題目踊り(京都府無形文化財指定)」も日像の布教活動が生んだ踊りです・・日像がこの地を訪れた際、早速、帰依した上辻三郎四郎という村人が上人に食事を提供しようと準備をしていると、炊煙が「南無妙法蓮華経」という題目の文字となりました。これに驚いた村人達が一斉に日像に深く帰依して、喜び踊ったことが始まりと伝えられます。


さて、説法石は日像上人の霊跡として今も信仰の対象となっているようです。この説法石は、元々は向日神社の参道にありましたが、明治の廃仏棄釈と神仏分離令で神社境内から外に出され、その後、一番大きな横約一・五メートル、幅約七十センチ、厚さ約五十センチの大岩が現在の場所に安置されたということです。

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今回は、京都府向日市(むこうし)からです・・・

京都府向日市(むこうし)は、北東西の三方を京都市に、南を長岡京市に接するたいへん小さな市です(全国で四番目に小さい市ということです)そのため、観光名所も少なく、一般の観光ガイドでは、向日市を無視するか、僅かに向日神社(むこうじんじゃ)が掲載される程度と思われます。


一方、向日市に接する北の京都市西京区には、有名な善峰寺を筆頭に、金蔵寺、十輪寺(業平寺)、三鈷寺(眺望絶佳の寺)、勝持寺(花の寺)、宝菩提院願徳寺(国宝如意輪観音)、大原野神社、正法寺(鳥獣の石庭)、洛西竹林公園というバラエティに富んだ観光名所が揃っています。
また、南の長岡京市には、光明寺(念仏発祥の地にして紅葉の名所)、乙訓寺(ボタンの寺)、長岡天満宮(キリシマツツジで有名)、楊谷寺(柳谷観音)という観光名所の四天王ともいうべき社寺があります。これに対し、向日神社と長岡京遺跡で対抗しているのが向日市で、明らかに観光客誘致では分が悪いといった印象です。


しかし、現在の行政区域の範囲はさておいて、歴史を遡ってみると、現在の向日市のある地は、平安遷都前の一時期、長岡京の大極殿が聳え立つ、日本の政治の中心地でした。また、鎌倉時代末期には法華宗の「帝都弘通(京都での布教)」に生涯をささげた日像上人の教えを関西で最も早く受け入れた地域でもあります。農業も栄え、京都の後背地として歴史的に重要な役割を持った地域といえるでしょう。
今後、有名観光名所は少なくても、小さな味のある史跡が点在している向日市の史跡も採り上げたいと思います。




さて、今回は、向日市の桜の名所の一つ、「桜の径」です。

向日市は、京都や大阪のベッドタウンとして早くから開発され、現在も多くの新興住宅地が周辺に広がっています。阪急電鉄の西向日駅の南東周辺にも、昭和初期という早い次期に開発された閑静な住宅街がありますが、約三百本のソメイヨシノが開発時点から住宅街のほとんどの通りに植えられていて、春には美しい「桜の径」になり、地元の人々の散歩道として親しまれています。

そして、これら桜並木の道は、四方から集まって「噴水公園」という円形の小公園(ベンチが少し並んだ休憩所程度ですが)を取り囲んでいます。桜並木が家々とマッチして、どこか、桜の花に囲まれて生活することを選んだ地元住民の誇りや喜びといったものも感じます。
また、発掘調査によって、この地域から、「春宮」と墨書された土器が出土していて、長岡京時代には皇太子の住居がこの付近にあったのではないかと考えられているということです。

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