京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

京都府下

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正法寺の続きです。

さて、ヤマモミジに囲まれた参道を通って石段を登れば、正法寺の本堂や書院、庫裏等が建ち並んでいます。さらに、石段を登れば開山堂があり、本堂や庫裏等を見下ろすことが出来ます。また、ここから眺める茶畑が連なる風情ある風景も印象的です。

京都市内の寺院では、秋の観光シーズンは多くの観光客でゆっくりと紅葉を味わうことが出来ないことが多々ありますが、正法寺のような観光シーズンでも人が少ない穴場のお寺というのは大事にしたいと思います。

あくまで穴場ですので、京都市内の主な紅葉の名所は見尽くして、もう行く所が無いという方にお勧めです。

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京都には「正法寺」という名前の寺院が幾つかありますが、観光ガイド等に登場するのは、西京区大原野の大原野神社の南に位置し、借景庭園で知られる正法寺(西京区大原野南春日町)や、東山の山裾、霊山護国神社や霊山歴史館の傍にあって、京都市外を一望に出来る正法寺(東山区清閑寺霊山町)でしょう。(共にブログパート1に掲載)
今回採り上げた正法寺(京都府相楽郡和束町南下河原)は、京都府相楽郡にある小さなお寺ですが、京都府南部を代表する紅葉の名所の一つとして知られ、JR西日本の紅葉情報(及びJR調べを転載している朝日新聞等の紅葉情報)にも登場しています。

ただ、相楽郡周辺地域にお住まいの人はともかく、京都市内在住の人でも今回の正法寺を知る人は少なく、まして他府県の観光客の方にはほとんど知られていないと思われます・・そこで、小さな寺院ではありますが、紅葉の写真を中心に二回に分けて紹介させていただきます。
(尚、正法寺に近い紅葉の名所としては、有名な浄瑠璃寺、岩船寺、笠置寺(笠置山自然公園)等があり、正法寺への最寄駅でもあるJR加茂駅を拠点にして一日で廻ることも少々ハードですがなんとか可能です・・但し、バスは本数が少ないので、タクシー等を使わない場合は、早朝から綿密なスケジュールで行動することが必要ですが)



さて、京都府相楽郡和束町(そうらくぐんわづかちょう)は、京都府木津川市、京都府相楽郡笠置町・相楽郡南山城村、京都府綴喜郡井手町・綴喜郡宇治田原町、滋賀県甲賀市という六つの市町村に囲まれた京都府の最南東の端に位置する小さな町で、地域内には鉄道が通っていないために、奈良交通バスがJRの加茂駅や木津駅と結んでいます。
町の中心には和束川が流れ、地域の主な産業としては緑茶の栽培があります。「宇治茶の郷 和束の茶畑」といわれるように、和束は、京都府下最大の宇治茶の生産地で、茶畑が山上から山裾まで広がる美しい景観が町内各所で見られます。

正法寺(京都府相楽郡和束町南下河原)は、この和束町のほぼ中央、京都府道62号宇治木屋線(京都府宇治市の宇治橋西詰を起点に、相楽郡和束町木屋立花に至ります)と、京都府道・滋賀県道5号木津信楽線(京都府木津川市を起点に、滋賀県甲賀市信楽町中野に至ります)が交差する白栖橋付近から南へ約三百メートル入った高台に位置しています。(公共機関では、JR加茂駅から奈良交通バスで二十分。「山の家前」停留所下車、徒歩五分程度)



さて、正法寺は、山号を瑞泉山という臨済宗永源寺派の寺院です。寺伝では天平年間(729〜49)、聖武天皇の第二皇子・安積親王(あさかしんおう)の菩提を弔うために寺の背後にある、仏法寺山に行基菩薩を開山として建立されたと伝えられます。

安積親王(あさかしんのう、728〜744)は、奈良時代の神亀五年(728)、聖武天皇の第二皇子として誕生しました。母は県犬養広刀自(あがたのいぬかいひろとじ ?〜792)で、同母姉には井上内親王(伊勢の斎王を経て、後に光仁天皇皇后となるも皇后位を廃され変死、御霊神となったとされます)、不破内親王(後に塩焼王の妻、尚、塩焼王は、後に藤原仲麻呂の乱に加わって処刑)があります。

母の県犬養広刀自は、聖武天皇の夫人として、養老元年(717)に、井上内親王に産み、神亀五年(728)に安積親王を産んでいます。(不破内親王は生年不詳)一方、聖武天皇には、広刀自の他に、皇太子時代からの妻(天皇即位後に夫人)として、藤原不比等の娘・藤原光明子(安宿媛 後の光明皇后 母は広刀自と同族の県犬養三千代(橘三千代))があり、養老二年(718)に、阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)、神亀四年(727)に基王(もといおう)を産んでいます。

県犬養広刀自も藤原光明子(光明皇后)も、政権を握る藤原不比等と、その後妻・県犬養三千代(橘三千代)の意向によって後宮に入ったと考えられますが、皇子を産むことを期待されたのは藤原氏の血を引く藤原光明子(光明皇后)でした。そこで、光明子の産んだ基王は、生後間の無い神亀四年(727)十一月に皇太子に立てられましたが、病気により翌年九月に夭折してしまいます。

この基王の夭折は、左大臣長屋王の呪詛が原因などと噂され、神亀六年(729)二月、王が謀反を企てているという密告を受けて、兵が長屋王の邸を包囲し、王やその王子達は自害しました(長屋王の変) この事件の背景としては、不比等の子の藤原四兄弟と長屋王の対立があり、四兄弟は、将来、長屋王の王子が男子の少ない聖武天皇の後継者となる危険性を未然に排除したものとも考えられています。

長屋王の変の後、天平元年(729)、藤原光明子が、王族以外から初めて立后(光明皇后)され、長く藤原摂関政治へと続く、藤原一族の子女が皇后となる先例となりました。しかし、その後も光明皇后の懐妊は無く、皇太子不在のままの状態が続きます。この間、唯一の皇子として、皇太子最有力候補のはずの安積親王は、非藤原氏系の皇子だったために立太子されることはありませんでした。
そして、結局、天平十年(738)正月、光明皇后の娘、阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)が立太子されましたが、これは異例ともいえる史上初の女性皇太子でした。


さて、天平十六年(744)閏一月十一日、聖武天皇の難波宮行幸が行われ、この際、付き従っていた安積親王は、途中、桜井頓宮(河内郡桜井郷)で脚の病気(脚気)となり、恭仁京に戻りますが、二日後の閏一月十三日に、十七歳で死去しました。(天皇は難波宮から大市王と紀朝臣飯麻呂を派遣して葬儀を監督させています。)
親王が病気となった際、恭仁京で留守を預かっていたのは、知太政官事鈴鹿王と、民部卿の藤原仲麻呂だったこともあって、親王は藤原仲麻呂に毒殺されたという説もあるようですが、実際のところは不明です。
また、親王は、天平十五年(743)に、左少弁藤原八束邸の宴に招かれていますが、この時、内舎人として大伴家持も従っていて、その時に、家持が詠んだ歌や、翌年の親王の死を嘆いて二月に詠んだ歌が「万葉集」に記されています。
親王は、恭仁京の東北に位置する和束山(相楽郡和束町白栖)に葬られたとされ、宮内庁管理の「聖武天皇皇子・安積親王和束墓」が茶畑に囲まれて佇んでいます。(正法寺の北)


さて、正法寺に戻ります・・
創建当初の正法寺は、多くの寺領を持った大寺だったとも伝えられますが、中世の兵火によって荒廃しました。その後、江戸時代の正保元年(1644)、仏法寺山城の城主田村氏が、山麓の現在地に堂宇を移設して再建し、如雪文巌(じょせつぶんがん)上人を請来して中興開山とし、真言宗から臨済宗永源寺派に改め、寺名を正法寺としました。また、上人に帰依していた後水尾上皇と中宮・東福門院の寄進を受けて諸堂を整備したことから、現在も正法寺には、東福門院の念持仏だったという聖観音座像が安置されています。

境内、特に参道の周囲には、多くのヤマモミジが植えられていますが、これらは紅葉の名所として有名な本山の滋賀県の永源寺から移植されたもので、刻々と変わる時間帯で、様々な色のグラデーションが楽しめ、イチョウの黄色や葉の緑とのコントラストも美しいです。(訪問時は、既にイチョウの葉は大部分落ちていましたが、モミジは盛りを過ぎたとはいえ、もうしばらく楽しめるようでした。また、台風被害のために、樹齢百年以上の杉の大木等が何本か無残に倒れているのが残念で、境内周辺はまだ造成整備中の場所もあるようでした。)
また、毎年十一月半ばには、期間限定でライトアップも行われていて、その際には、東福門院の念持仏だったという聖観音座像の開帳や、ふろふき大根の接待、住職が指導している陶芸教室の作品展もあるということです。

鍬山神社その2

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鍬山神社の続きです・・

今回は、鍬山宮本殿・八幡宮本殿の側面や背後の写真を中心に、境内の小さな末社の写真を掲載します。
鍬山神社は、境内がそれ程広くないのがやや残念な気もしますが、両本殿は京都市内の中堅神社クラスよりも立派で、山を背にした堂々とした姿は一見に値します。

写真の末社は、心字池の中島にある厳島社、二の鳥居の右にある金山社、樫船社、高樹社、日吉社、熊野社、疱瘡社(疱瘡稲荷社)、安産石、愛宕社、天満宮。そして、参道の入口付近には百太夫社です。

また、拝殿の左手から小さな鳥居を潜って山道を登ると小祠等が点在していて、山道の先には「銀鈴の滝」と呼ばれる小さな滝もあります(この山道は非常に暗くて、写真は不鮮明なものになっていますが、よろしくお願いします。)

鍬山神社その1

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JR亀岡駅から府道6号線(高槻街道とも呼ばれ大阪府高槻市へと続きます)を南に約三キロ、亀岡市上矢田町にある鍬山神社(くわやまじんじゃ)は、紅葉の名所として知られます。
亀岡市の紅葉の名所としては、他に出雲大神宮、神蔵寺、龍潭寺等が有名ですが、中でも鍬山神社は市内中心部に近いこともあって、紅葉時期には市外から訪れる人も多いようです。また、十月に行われる神社の秋季大祭「亀岡祭」は、「丹波の祇園祭」とも呼ばれ、亀岡を代表する大祭です。


さて、鍬山神社の祭神は、本社鍬山宮に主神として大己貴神(おおなむちのみこと 大国主命)を、境内社八幡宮に客神として誉田別尊(ほんだわけのみこと 応神天皇)を祀ります。
大己貴神は、農業及び諸産業・商売繁盛・縁結び・学業・医療の神として信仰され、誉田別尊は、武運長久、勝運の神として知られます。両祭神は仲が悪かったという伝承もあって、本社鍬山社と境内社八幡社は共に同規模・同形式の立派な社殿で競い合うように祀られています。


社伝等によると、古代の神代の昔、丹波の国(現在の亀岡盆地)は泥沼の湖の底に沈んでいて、里人の生活はたいへん厳しいものでした。大己貴神(大国主命)は、大山咋神(おおやまくいのかみ)以下八柱の神を黒柄山(京都府南桑田郡樫田村=現大阪府高槻市)に集めて話し合い、一艘の樫船に乗って、一把の鍬を挙げ、保津浮田(請田)辺りの峡を切り開いて湖水を干拓して肥沃な農地にしたと伝えられます。里人は、この神徳を称えて天岡山の麓に祀ったのが神社の創建になり、また、神々が開削に使った鍬が山積みになったことから鍬山大明神と名付けられたと伝えられます。

この伝承のように、天岡山の社地は、古代から神代鎮座の霊場として信仰されてきたようで、その後、和銅二年(709)にはじめて社殿を建立し神社として創祀されたと伝えられます。また、鍬山大明神は、八田(やだ)社、矢田社とも呼ばれ、平安時代の延喜式神名帳にも、丹波国桑田郡十九座(大二座 小十七座)の一つとして記載されています。

また、鍬山大明神の横に祀られている八幡宮は、永万元年(1165)五月八日、天岡峰(面降山)上に戒衣を着、弓矢を持つ誉田神が降臨し、その託宣によって本宮(鍬山宮)の相殿に祀られたと伝えられます。しかし、それ以降、毎夜雷雨が起こり、戦闘殺伐の声が空中に聞こえ、鳩と兎が争って明け方の境内には死骸が散乱するといった不思議な事が起こったために、里人は両神の不仲のためと考え、それぞれ二棟の本殿に分けて祀った所、騒ぎは鎮まったと伝えられています。
また、八幡大神の影向石(天下り岩 阿闍梨寛純師が建立、三上竜山銘文を記す)が、天岡山北の赤子谷上にあるということです。



神社には寛正年間(1461〜66)の棟札が現存しているということですが、この時建てられた社殿も、戦国末期の明智光秀の丹波攻めの戦乱で衰退しました。その後、慶長十四年(1609)に丹波亀山藩主となった岡部長盛が、翌十五年(1610)に再興して、現在地に社殿が建立されました。現在の桧皮葺き権現造の社殿は、共に文化十一年(1814)に、当時の藩主松平信志が建立したもので、鍬山宮本殿・八幡宮本殿共に京都府登録文化財に指定されています。

また、境内には多くの小さな末社があります・・拝殿の右にある心字池の中島に厳島社があり、二の鳥居の右には、金山社、樫船社、高樹社、日吉社、熊野社、稲荷疱瘡社(稲荷&疱瘡社合祀)、安産石、愛宕社、天満宮が祀られています。そして、参道の入口付近には百太夫社が祀られています。さらに、拝殿の左手から、小さな鳥居を潜って山道を登ると、小祠等が点在していて、その先には「銀鈴の滝」と呼ばれる小さな滝があります。
また、神社周辺は「矢田の紅葉」と呼ばれる紅葉の名所として知られ、秋は、参道付近と心字池周辺を中心に鮮やかな椛を楽しめます。緑も豊かで、神社の森一帯が昭和六十年(1985)に京都府の文化財環境保全地区に指定されています。また、神社は亀岡市の自然百選にも選ばれています。


他に、当社で行われていた神事芸能の一つに、現在の能楽の源流の一つともなっている丹波猿楽があります。かつては、鍬山神社を拠点として、平安京はもとより摂津、河内等各地に出向いて活躍していたということですが、天正四年(1576)の明智光秀の丹波進攻の混乱により廃れたと言われています。
また、創建間もない頃から行われてきたという例大祭(亀岡祭)も、戦国時代の戦乱で一旦中断します。しかし、その後、歴代の丹波藩主が、神領等を寄進するなど保護に努めたため、徐々に神事祭礼が復興しました。
京都府登録無形民俗文化財、亀岡市指定無形文化財に指定されている例大祭(亀岡祭)は、延宝年間(1673〜81)に、地元古世の住人の発起によって再興され、以後、亀山藩主の庇護のもと、町衆の祭りとして現在まで継承されてきました。毎年、十月二十日から五日間にわたって行われ、二十五日の還幸祭(本祭)では、神輿の巡行と共に十一基の山鉾が町内を巡行し、「丹波の祇園祭」と呼ばれています。


その他、主な年間行事としては、

「元旦祭」・・元日に氏子の繁栄を祈願します。
「節分祭」・・二月三日、祭儀の後、修験者による護摩焚きが行われます。
「花祭」・・四月十五日、御旅所(形原神社)の例祭です。
「八ケ日祭」・・五月八日、 八幡宮の大祭です。
「水無月祭」・・七月二日、半年間の穢れ疫除けを祈願して人形流しが行われます。
「秋季大祭」・・十月二十〜二十五日、前述したように、「亀岡祭」と呼ばれます。
「紅葉祭り」・・十一月中、境内の紅葉は、矢田の紅葉として有名です。
「七五三詣」、十一月中、男女三才、男五歳、女七歳の子供のお祝い
「御火焚祭」・・十二月三日、大篝火を焚き厄を祓います。
「月次祭」・・毎月1回、早朝から氏子の参拝があり、その安泰を祈願します。

等があります。



次回に本殿の続きと末社の写真を掲載します。

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JR亀岡駅の西約五百メートル、料理旅館として知られる楽々荘(田中源太郎翁旧邸)の直ぐ北にあるのが法得寺(ほうとくじ 京都府亀岡市余部町清水)です。
少し奥まって民家に挟まれている小さな寺院ですが、明恵上人が創建したと伝わる古刹と伝わります。(観光寺院ではありませんので、参拝希望者は事前にお寺に申し出てくださいということです。以下、亀岡市の案内掲示板を引用します)


さて、法得寺(ほうとくじ)は、山号を住心山という高野山真言宗寺院で、本尊弘法大師像を大師堂内に祀ります。鎌倉時代初期の建暦元年(1211)三月頃、明恵高弁上人により創建されたと伝えられ、大聖院南光坊と称して、明恵上人を開山としています。

京都栂尾(とがのお)高山寺の開山としても有名な明恵高弁上人については、ここでは簡単な略歴のみとしますが、平安時代末期の承安三年(1173)一月、紀伊国有田郡の伊勢平氏の出身という平重国と地元の有力豪族湯浅宗重の娘の間に誕生したとされます。治承四年(1180)、八歳で両親を失ったことから、京都の高雄山神護寺にいた文覚上人の弟子、上覚を師匠として出家し、十六歳で東大寺において受戒を受け、仁和寺や東大寺等畿内各地で顕光諸学を学びました。

建永元年(1206)、後鳥羽上皇から山城国栂尾を下賜されて高山寺を開き、華厳興隆の道場としました。また、法然上人の浄土宗が起こり念仏が広まると、これに対して、戒律を重んじ顕密諸宗の復興に努力しました。また、臨済宗の開祖、明庵栄西禅師が宋から伝来した茶の種を譲り受け、栂尾山に撒いてその繁殖を図ったことも有名です。そして、寛喜四年(1232)一月に六十歳で遷化しました。
尚、亀岡にある明恵上人ゆかりの寺院としては、今回の法得寺の他に、宮前町宮川にある神尾山金輪寺が上人を中興開山としているということです。


さて、法得寺に戻ります・・・
明恵上人の創建から三百年を経た江戸時代初期に、衰退していた寺院を尭永法印が再興して中興開山となっています。また、江戸時代には下町にあり、現在の安町通から雑水川(ぞうすがわ 桂川の支流)付近までが境内地だったと伝えられ、旧町内唯一の真言宗寺院として広く亀山城下の商人の信仰を集めていたということです。また、江戸時代初期、中興後の二世となった真照法印が、渇水に苦しむ里人のために、境内地の東に田地を潤すための池を掘ったといわれ、里人が感謝も意を込めて「真照池(しんしょういけ)」と呼んでいたということですが、この池は現在は残っていません。

現在の狭い境内には、大師堂と庫裏のみが現存している状態ですが、法得寺に伝わる虚空蔵菩薩坐像は、明恵上人伝来の仏像と伝えられています。また、大師堂には、本尊宗祖弘法大師と大聖不動明王が祀られ、その他、地蔵菩薩立像や千手観音立像等が伝わります。また、境内鎮守社の天満宮社には、妙法院法親王御筆の天満宮御影が祀られているということです。

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