京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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西光寺(京都府亀岡市安町)は、JR亀岡駅の西約一キロにある小さな寺院です。観光寺院ではないため一般公開していないお寺ですが(参拝希望者は事前にお寺に申し出て欲しいということです)、興味深いエピソードもあるので、少し書いてみます。(亀岡市の案内掲示板から引用します)


さて、西光寺は、山号を安行山という浄土宗寺院です。
寺伝によると奈良時代の天平勝宝元年(749)、東大寺の建立や社会福祉事業に活躍した行基菩薩が、阿弥法師と共に勧進して、現在地の西、蓍山(しばやま 安行山=西山)の麓に庵を建立し、基行院と称したのが始まりということです。
その後、治承元年(1177)、藤原成親や俊寛僧都等の後白河法皇の近臣が平家討伐を謀議した事件として知られる鹿ケ谷の変の首謀者の一人として死罪となった藤原師光入道西光法師の遺骨を、後白河法皇の命によって同庵に埋葬して、西光寺として一宇を建立、開山を西光法師としました。

さて、西光(さいこう ?〜1177)は、平安時代後期の官人・僧で、俗名は藤原師光(ふじわらのもろみつ)といい、元々は、阿波国の豪族麻植為光の子として誕生しました。やがて、中納言藤原家成の養子となって、乳兄弟とも伝わる少納言藤原通憲(信西)の臣下となり、その推挙によって左衛門尉に任じられました。その後、平治の乱で通憲(信西)が亡くなると、出家して西光と称しました。
側近・信西の死を惜しんでいた後白河法皇は、西光を抜擢して信頼し、西光は伝奏として活躍、「院の第一の近臣」と呼ばれる存在となりました。

さて、西光の子の藤原師高は加賀守、その弟の師経はその目代となっていましたが、安元三年(1177)、比叡山の末寺・白山涌泉寺と紛争を起こし、その末寺宇河寺を焼くという騒動となりました。これに激怒した白山の僧は比叡山に訴えます。そこで、三月二十二日、比叡山大衆は、藤原師高の流刑を求めて神輿を担いで強訴する騒ぎとなり、御所を警備していた平重盛の兵と比叡山大衆の間で衝突が起こり、矢が神輿に当たるなどして、大衆は神輿を放置して帰山する騒動となります。(尚、この放置された神輿を祀ったのが、ブログパート1に掲載した京都市中京区の白山神社です。)

結局、事件の張本人、藤原師高は尾張国に流罪、弟の師経は禁獄となりましたが、その後、師高の流刑を嘆いた父の西光が訴えたこともあって、後白河法皇は五月、天台座主明雲を検非違使に逮捕させて解任、伊豆国へ配流しました。ところが、比叡山大衆が、配流途中の明雲を奪回して比叡山に匿います。西光から厳罰を進言された後白河法皇は、平清盛に比叡山攻撃を命じましたが、その直後、北面の武士、多田行綱(源行綱)が、鹿ケ谷の陰謀を清盛に密告します。そこで、清盛は比叡山攻撃を取りやめ、集結していた平氏の大軍に陰謀参加者を捕縛させました。

「平家物語」によると、西光は、法皇の庇護を受けようと院御所に向かう途中、平家の兵に捕らえられます。清盛は西光の顔を踏みつけて責めますが、豪胆な西光は顔色一つ変えず、逆に清盛を嘲笑し罵倒したといわれます。激怒した清盛は西光を拷問にかけ、無礼な言葉を発したその口を裂き、五条西朱雀で斬首させました。また、西光の子、藤原師高も流刑先の尾張で殺害、弟の師経・師平も京都で処刑されたということです。

また、「源平盛衰記」等によって、西光法師は、京都のお盆の「六地蔵めぐり」で知られる六地蔵(伏見地蔵(大善寺)、鳥羽地蔵(浄禅寺)、桂地蔵(地蔵寺)、常盤地蔵(源光寺)、鞍馬口地蔵(上善寺)、山科地蔵(徳林庵))ゆかりの人物としても知られます。六地蔵は、保元二年(1157)、後白河法皇が平清盛に命じて、洛中の入口六ヶ所に一体ずつ祀ったものと伝えられますが、この時、清盛は西光法師に命じて供養させたということです。



さて、西光寺に戻ります・・・
その後、江戸時代の慶長年間(1596〜1615)に、学同和尚によって現在地に移されましたが、元和年間(1615〜1624)に火災に遭って焼失し、寛永年間(1624〜44)、当山二十九世・恵譽圓霊(けいよえんれい)上人により再建されました。しかし、その後も、月日と共に荒廃していったようです。その後、江戸中期に、ようやく鏡譽恢源(きょうよかいげん)和尚が再興したことから、和尚は中興上人と呼ばれています。

また、境内にある地蔵堂に祀られている地蔵菩薩像は、恵心僧都源信が感得して自ら彫ったと伝えられるもので、元々は、京都の誓願寺(中京区新教極 ブログ参照)に祀られていましたが、元禄七年(1694)五月二十三日の夜、誓願寺の僧、超然(ちょうぜん)上人と、当山の鏡譽上人の二人が同時に霊夢を見て、それに従って、当山に招来されたと伝えられ、氷上地蔵尊と呼ばれているということです。

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先日、円通寺について書いた際に、寛延二年(1749)に丹波篠山藩から移封され、幕末まで八代に渡って丹波亀山藩を領有した形原松平家について触れましたが、今回は、元禄十五年(1702)に、遠江浜松藩から丹波亀山藩に移封されて三代に渡ってこの地を支配し、形原松平家と領地を交換する形で丹波篠山に移った青山家ゆかりの秋葉神社(あきばじんじゃ)です。(尚、亀岡市には幾つかの秋葉神社があるようですが、今回は、紺屋町にある秋葉神社(元秋葉神社)を採り上げました。)


ただ、丹波亀山藩の青山氏といっても、どうもイメージが湧きそうにありません・・そこで、この機会に、明智光秀が亀山城を築いたあたりから、少し近世の丹波亀山の歴代領主について確認してみます・・

戦国時代末期、亀山地域(現京都府亀岡市)では、波多野氏をはじめとする諸豪族が攻防を繰り返していましたが、天正五年(1577)に、織田信長が明智光秀を派遣して丹波攻略を進めました。そして、天正七年(1579)に波多野氏を滅ぼすことに成功した光秀は、信長から丹波一国を与えられました。
その後、天正十年(1582)に、本能寺の変を起こした光秀が羽柴秀吉(豊臣秀吉)に滅ぼされると、秀吉は、信長の四男で秀吉の養子となっていた、羽柴秀勝に丹波亀山を与えます。しかし、秀勝は天正十三年(1585)に病死し、秀吉の甥で同名の羽柴秀勝(豊臣秀勝)が代わって丹波に入ります。

その後、天正十八年(1590)に、秀勝の甲斐国転封によって、秀吉の甥・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)が、丹波亀山を与えられました。そして、文禄四年(1595)、小早川秀秋(前年に小早川家の養子となりました)が、隠居した養父隆景の九州北部の領地を継承すると、豊臣五奉行として知られる前田玄以が亀山五万石を領有しました・・こうして、近世丹波亀山藩は前田家によって始まりました。しかし、慶長七年(1602)に玄以が死去すると、藩を継承した子の茂勝は、丹波八上藩に移封され、僅か二年で丹波亀山藩は幕府の天領となりました。


その後、慶長十四年(1609)に譜代大名の岡部長盛が下総山崎藩から三万二千石で移封され(以後、幕末まで譜代大名が続きます)、再び丹波亀山藩が誕生しましたが、大阪の陣で功績を挙げた長盛は、慶長二十年(1615)に丹波福知山藩へ加増移封されます。
代わって、元和七年(1621)、三河西尾藩より大給松平家の松平成重が二万二千石で移封され、寛永十年(1633)の成重の死後は、二代忠昭が継承しますが、翌寛永十一年(1634)に豊後亀川藩に移封されます。

その後、近江膳所藩から菅沼定芳が四万一千石で移封され、寛永二十年(1643)の定芳の死去後は、二代定昭が継承しますが、慶安元年(1648)に定昭が若くして嗣子無く死去したことから改易となります。
代わって藤井松平家の松平忠晴が三万八千石で移封され、二代忠昭を経て、貞享三年(1686)三代忠周が武蔵岩槻藩へ移封されるまで続きます。
貞享三年(1686)、久世重之が備中庭瀬藩より五万石で移封されますが、元禄十年(1697)に三河吉田藩へ移封となり、美濃郡上藩より井上正岑が四万七千石で移封されますが、元禄十五年(1702)に、常陸下館藩へ移封されます。

さらに、遠江浜松藩から青山忠重が五万石で移封され、二代俊春を経て、三代忠朝が寛延二年(1749)に丹波篠山藩へ移封されるまで続きます。そして、代わって形原松平家の松平信岑が丹波篠山藩から五万石で移封されて来ると、その後は、信直、信道、信彰、信志、信豪、信義、信正の八代百二十三年に渡って形原松平家が亀山藩を継承し幕末に至りました。



さて、秋葉神社です・・(以下、亀岡市の案内掲示板参照)

元禄十五年(1702)、青山下野守忠重(あおよましもつけのかみただしげ)が、遠江浜松藩から、丹波亀山五万石の藩主として転封してきますが、着任の翌十六年(1703)四月十六日の夜半、亀山城下では火災が発生し、家屋の多くが被災しました。また、この火災の他にも貞享・元禄の頃には、人が集まって暮らしている城下町では、度々火災が発生していたようです。
新たに藩主となった青山忠重は、前任地の浜松で防火の神様として広く信仰されていた秋葉三尺坊を城下町の紺屋裏惣堀内側の穴太口に仮宮を建立して神霊を勧請し、城下の防火を願ったということです。これが今回の亀岡市紺屋町の秋葉神社の始まりとなります。


ここで、秋葉三尺坊(秋葉三尺坊大権現、秋葉大権現)についてです・・・
秋葉三尺坊とは、赤石山脈の最南端に位置する秋葉山(静岡県浜松市天竜区)の山頂に鎮座する火伏の神です。
明治の神仏分離令以降、多くの神社と寺院は創建当初から個別のものとしてきれいに分離、整理されてしまっていますが、実際は、仏教伝来以来、両者は密接に結び付き一体化して発展してきたことはよく知られています。現在の秋葉山にある秋葉神社(社伝等によると、和銅二年(709)頃の創祀と伝えられます)は、火之伽具土神(ひのかぐつちのかみ 火産霊神=ほむすぼのかみ)を祭神としていますが、これも明治以降に仏教的要素を取り除き神道系の祭神名に改めたもので、神仏分離令と廃仏毀釈以前は、秋葉山の山岳信仰を起源にして、信州出身の修験道の行者という説のある三尺坊をその没後に大権現として祀った秋葉三尺坊大権現(秋葉大権現)が祀られていました。
秋葉三尺坊大権現(秋葉大権現)は、観音菩薩が本地仏(日本の神々は諸仏の仮の姿という、仏を主、神を従とする神仏混交思想の理論付けとなった本地垂迹説に基づいて、秋葉三尺坊大権現の本来の姿は観音菩薩ということになります)で、秋葉山を境内地とする秋葉寺(しゅうようじ)境内にあった秋葉社に祀られ秋葉寺の守護神とされました。


さて、江戸の町民は木造長屋に集まって居住していたことから、度々発生する火事を最も恐れていたので、元禄時代頃から秋葉信仰は全国的に大流行し、秋葉山山頂の秋葉寺に詣でる「秋葉詣」が盛んになり、全国各地に秋葉社が勧請されました。そして、その勢いを恐れた徳川幕府は貞享二年(1685)に禁令を出したほどだったと伝わります。また、亀岡の地では、秋葉神社の他に、もう一つの火防神として知られる愛宕信仰が広く根付いている土地でもあるということです。


亀岡の秋葉神社に戻ります・・
青山下野守忠重が、浜松から秋葉三尺坊(秋葉三尺坊大権現、秋葉大権現)を勧請したその後、「医王山三尺坊大権現小祠之記(いおうざんさんじゃくぼうだいごんげんしょうしのき)」によると、享保十七年(1732)に、亀山城下の郷長だった杉原守建という人物が、城下を眼下にすることの出来る医王谷の奥に聳える小坊主ヶ岳(下矢田村)山頂に遷宮することを願い出て、寛延三年(1750)に遷宮されたと伝わるということですが、これが、現在、下矢田町にある秋葉神社です。
そして、今回採り上げた紺屋町の秋葉神社は、遷宮後に残された小祠が元となった神社で、遷宮後も「元秋葉神社」として崇敬されているということです。

また、境内には亀岡の名木に選ばれている「秋葉神社のイスノキ」があります(胸高幹周一.五五メートル、樹高十四メートル)案内板によると、イスノキは、関東以西の本州や四国、九州、琉球、台湾、中国に分布する常緑高木で、暖帯から亜熱帯の植物で、京都府下での自生は確認されていないということです。成長が遅く、材は緻密でソロバンの玉、橋材に用いて千年ということで、灰は陶芸の釉薬に用いられます。また、江戸時代の百科事典「和漢三才図会」によると、葉にできる虫瘤をヒューヒューと鳴らして神輿の供奉をするということです。

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今回の地蔵院は、亀岡市西町の民家の間にあって少し見つけ難い小さな御堂ですが、亀岡市の案内掲示板を参照して書いてみます。

JR亀岡駅の東南、山陰街道の西町を過ぎて、北町に入ろうとする所で、「子安地蔵尊」の道標があります。そして、そこに「寛政九年(1797)四月如意山菩提寺住本明」と記されているように、この小さな地蔵堂は、元々は、山号を如意山、寺名を菩提寺という真言宗智積院の末寺だったようです。そして、祀られているこの地蔵菩薩像は、同寺の本尊だったと伝えられます。現在地は現在の町割では西町に属していますが、「北町の地蔵」として地元では親しまれてきたということです。

ここに祀られている地蔵菩薩坐像は、明智光秀による亀山城築城以前は、追分村(現追分町、現在地の東)に祀られていましたが、築城後に現在地に移されたということです。また、この蔵菩薩像は、老ノ坂に祀られている子安地蔵と同木・同作とも伝えられています。
古くから安産祈願成就の霊験あらたかな尊像として篤く信仰されてきたようで、その霊験については、亀山藩の儒臣の中島魚(雪楼)が寛政六年(1794)に著した「地蔵院霊像記」が額装されて堂前に掲げられているということですが、判読できませんでした。

御堂内部も暗くて確認できませんが、案内板によると、この地蔵菩薩は、大雨の時に水中から現れたという伝承があり、伽羅陀山地蔵尊(からださんじぞうそん)と呼ばれているということです。
そして、地蔵尊は、両腕を曲げて胸の前で、宝珠と錫杖を持ち、左足を踏み下げて蓮台の上に半跏した優美な姿で現され、平安時代後期の洗練された定朝様式の彫技から都風の像であることが一目でわかるということです。また、この像が左手に持っている宝珠の中に納められている宇賀神は、白蛇を神として祀ったもので、一切衆生に愛福を授け菩提に至らせるという福の神とされています。

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江戸時代の寛延元年(1748)から幕末まで、丹波亀山藩(現京都府亀岡市)は、八代に渡って形原松平家(かたはらまつだいらけ)が継承しましたが、今回はこの形原松平家ゆかりの寺院です。


さて、形原松平家(かたはらまつだいらけ)は、室町時代の三河の豪族、松平信光(後に徳川家康を登場させる松平宗家の第三代とされます)の四男・松平与副を祖とする松平氏の庶流で、当初、三河国宝飯郡形原(愛知県蒲郡市形原)を領したことから形原松平家と呼ばれます。

その後、四代家広、五代家忠の時代に、宗家の徳川家康に仕えて功をあげ、その子の六代家信は、元和四年(1618)に、形原藩一万石の大名となり、その後、摂津国高槻藩二万石、下総国佐倉藩四万石へと移封しました。その後、佐倉藩を継承した七代の康信が、摂津国高槻藩を経て、慶安二年(1649)に、丹波篠山藩五万石の藩主となりました。その後、典信、信利、信庸(信利弟)を経て、信岑(丹波篠山藩形原松平家五代)が、享保の大飢饉で苦しむ領民に重税を課すという失政を行って、寛延元年(1748)に丹波亀山藩五万一千石に移封されます。以降、幕末まで丹波亀山は形原松平家が八代に渡って領有しました。


形原松平家藩主の菩提寺としては、亀山城跡の東にある光忠寺(京都府亀岡市古世町北古世町)が有名で、六代家信以降の歴代藩主の墓がありますが、今回採り上げた円通寺は、亀山城跡の西に位置し、藩主の奥方の菩提寺になります。(以下、亀岡市の案内掲示板を引用)

さて、円通寺(京都府亀岡市紺屋町)は、山号を華屋山という曹洞宗寺院です。
大永二年(1523)、勅諡法輝円明(ちょくしほうきえん)禅師、白洲巌龍(しらすがんりゅう)大和尚を開山として招請し、形原松平家の奥方の菩提寺として創建されました。(開基については、藩主の正室側室等々諸説あるようです。)創建当時は、まだ形原松平家は三河国(愛知県西部)の小豪族に過ぎませんでしたが、その後、徳川家康に使えて松平家が大名になると、藩主の菩提寺である光忠寺と共に、松平氏の国替えに伴って、三河国形原、摂津国高槻、下総国佐倉、摂津国高槻、丹波篠山、丹波亀山へと再三移転を繰り返しました。
寛延元年(1748)の丹波篠山からこの丹波亀山(亀岡市)への移転の際は、当初は本町の寿仙院(円通寺の東)のある場所に移されましたが、寛政元年(1789)に、穴太道の要衝である亀山城の西の現在地に移りました。


また、円通寺に伝わる形原松平家七代の康信(大安君)の念持仏であった達磨大師像には面白い逸話があるということです・・ある時江戸藩邸で火事が起こりましたが、この時、一生懸命に防火に励む人物があり、そのおかげで藩邸は類焼を逃れたということです。康信がその者に感謝して、褒美を使わそうと探しましたが見つかりませんでした。その後、康信が厚く信仰している念持仏の達磨大師像の衣の裾が少し焦げているのが見つかり、この達磨大師像が火災から守ってくれたということがわかり、その不思議な霊力に感動したということです。

(尚、円通寺は普段一般公開はしていませんので、参拝希望の方は事前にお寺に申し出てくださいということです。)

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丹波国亀山(現京都府亀岡市)は、戦国時代末期に、明智光秀が丹波亀山城を築城して以来、山陰と京都を結ぶ交通拠点として栄えた城下町でした。
そして、今も、JR亀岡駅前の亀山城跡の周辺には、城下町時代の歴史を伝える小さな史跡が点在しています・・今回の大圓寺(だいえんじ)もその一つになります。(以下、亀岡市の案内掲示板等参照)


さて、京都府亀岡市西町にある大圓寺(大円寺)は、正式には「鏡智山瑞雲院大圓寺」という浄土宗知恩院派の寺院で、本堂に本尊阿弥陀如来像を祀ります。

大圓寺(大円寺)は、天文二十二年(1254)九月、室町幕府の第十三代将軍・足利義輝の外護を受けた、専譽周公(専譽秀光 せんよしゅうこう)上人によって創建されました。
創建当初は、保津川の北(確かな所在地は不明)に建てられ、学問所としての性格を備えていたということです。その後、明智光秀が亀山城を中心とした城下町を形成するにあたり、城下の西、穴太道の要衝となる現在地に移されました。また、小早川秀秋が文禄四年(1595)に米弐石を寄進した五箇寺の一つでもあるということです。
その後、寛永二十年(1643)と元禄十二年(1699)の二回の火災に遭って焼失再建を繰り返し、現在の本堂や山門は、宝永七年(1710)に再建されたものです。


平成十二年(2000)に建てられた新しい薬師堂に祀られている薬師如来坐像(亀岡市指定文化財)は、関西地方では非常に珍しい鋳鉄製の仏像で、鎌倉時代(平安時代末期とも)の作と考えられ、定朝様式の表情も穏やかな仏様です。(因みに関東方面には鋳鉄製の仏像は数があるようです)

この鋳鉄薬師如来は、別名を「亀山薬師」と称し、古くから霊験あらたかなる尊像として知られ、元々は、亀岡(亀山)という地名の由来になる小山「亀山」(現亀山城天守閣付近)に祀られていましたが、その地に天守閣が築かれることになった為、一旦追分村に移され、その後大圓寺に移されたものと伝わります。薬師如来像の胎内からは室町時代の応永年中(1394〜1427)の墨書やさらに古い年代と思われる墨書きも見つかっているということです。
また、この薬師如来像と同范(同じ型)で造られたと思われる鉄仏が、京都市右京区山ノ内の念仏寺(通称、水子供養寺 ブログ掲載済み)と、ドイツのケルン東亜美術館に所蔵されているということです。

他に、本堂の左前には、亀岡樹木百二十選の一つに選ばれている「三鈷の松」があります(写真)
一本の松が根元から三本に別れて仏具の三鈷に似ていることから名付けられています。

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