京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

京都府下

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京都府亀岡市には、紅葉の名所として知られる鍬山神社(くわやまじんじゃ)がありますが、今回は、JR亀岡駅方面から鍬山神社に向かう途中にある小さな史跡を採り上げてみます。

さて、JR亀岡駅から府道6号線を南下し、下矢田の交差点を超えてさらに進むと、右手の小山(法楽寺山)に向かって細い参道が続いていることに気付きます。また、道路脇には「那須与市堂」と記された案内板があります・・この那須与市堂(亀岡市下矢田町)と呼ばれるお寺は、今では少し荒れた雰囲気の小寺院に過ぎませんが、法楽寺という霊験あらたかな寺院の旧跡と伝えられます。(尚、与一は、「与市」とも記されますが、「与一」で統一しておきます)

寺伝によると、平安時代の一条天皇の時代、陰陽師・天文博士として有名な安倍晴明が、亀岡市の下矢田町にあるこの安行山(西山=法楽寺山)の麓に、法楽寺という寺院を建立し、恵心僧都作の阿弥陀如来像を本尊として深く信仰したと伝えられます。
その後、約二百年が経った源平の時代、平家が陣を置く一の谷に攻め込むために源義経が丹波路に入った際、従軍していた那須与一宗高は、亀岡のこの地で俄かに病になり動けなくなりました。しかし、たまたま法楽寺の阿弥陀如来に病気回復を祈願した所、その霊験で快復したということです。
喜んだ与一は一行の後を追い、その後の屋島の戦いでは、この阿弥陀如来の霊符を身に付けて戦い、再び霊験により有名な扇の的の武勲が立てられました。そして、その後は、武士を捨てて法楽寺を再興し、阿弥陀如来への信仰に余生を過したということです。

江戸時代の享保元年(1716)の火災で法楽寺は焼失しましたが、信者達が駆けつけた時には、焼け落ちた御堂の跡に、まばゆい金色の光に輝く本尊が立っていたと伝えられます。その後、明治二十六年(1893)になって見晴らしの良い現在地に地元の人々の手で再建され、火災で焼けた仏像を安置、那須与一が法楽寺を再興したとう伝承から「那須与市堂」と名付けられました。
そして、現在も延命長寿や老病、尿の悩みをはじめ、学問や武術を志す若い人々にも霊験あらたかな阿弥陀如来様として信仰されているということです。
境内には、本堂の他に那須与一の供養塔、地元の老人会の集会所等があります。

笠置寺その4

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笠置寺の最後になります・・・


前回の最後に採り上げた「貝吹き岩(かいふきいわ)」のある広場から、さらに少し右に向かうと、「行在所遺址」という石標があり石段が山上に続いています。ここが「後醍醐天皇行在所跡」で、標高二百八十九メートルの笠置山山頂になります。

頂上は、約三百坪の平地になり、中央に左右に石垣のある行在所跡があります。明治前半まで、この行在所付近は民有地となっていて、草木の茂る荒地と化していましたが、天皇中心の国家思想の高まりによって、明治二十八年(1895)に設立された笠置山元弘彰址会が、明治三十三年(1900)に後醍醐天皇の行在所を示す石垣を整備しました。行在所の玉垣は、短い柵のように一列に並んでいるだけなので、その奥に自由に立ち入ることが出来ますが、雑草が生えた雑木林があるだけです。尚、行在所跡の前には、後醍醐天皇の御製「うかりける 身を秋風にさそはれて おもわぬ山の 紅葉をぞみる」の歌碑が設けられています。

また、行在所跡から右手に石段を下ると、「西ののぞき」と呼ばれる見晴らしの良い場所があります。
ここは笠置寺の本尊、弥勒大磨崖仏の頭上にあたり、天智天皇の皇子が危うく転落しかけたという伝承のある断崖上でもあり、転落事故防止のために立ち入り禁止の柵が設けられています。


さて、行在所跡や「貝吹き岩(かいふきいわ)」のある広場の下には、宝蔵坊跡があり、現在は「もみじ公園」となっています。
この地には、かつて笠置寺の塔頭・宝蔵坊(宝物庫)があり、安政の大地震で倒壊したということです。その後、明治二十五年(1892)頃に、伊賀の実業家・田中善助がカエデを寄進して植えました。このカエデが大きく成長した現在、「もみじ公園」は、京都府南部を代表する紅葉の名所の一つとなっています。
また「もみじ公園」への道にある巨石には、「ころもかけ地蔵」と呼ばれる阿弥陀磨崖仏が掘られ、「もみじ公園」には、元弘の戦乱で天皇方として奮戦して亡くなった石川義純の忠孝を讃える石標が、子孫の手によって昭和四年(1929)に建てられています。

この「もみじ公園」から左へ進むと、前回に書いた弘法大師空海を祀った「大師堂」があり、「大師堂」前の階段を下りると、本堂正月堂に続く道に出ます。こうして、一周約八百メートル、所要時間三十〜四十分の行場者巡りは終わりとなります。

笠置寺の主な見所を採り上げましたが、他にも、毘沙門堂や舎利殿のさらに奥に約三十分程度山道を歩くと、笠置寺の歴代住職の墓、さらに谷を越えた東山には笠置寺中興の祖・貞慶上人(解脱上人)の五輪塔墓があります。(尚、貞慶が復興した海住山寺にも墓があり、貞慶が復興に尽くした両寺に分骨されたと考えられます)他にも貞慶上人が築いた六角堂跡のある般若台には上人ゆかりの「上人井戸」等の史跡が残ります。



最後に、笠置寺には、これまでに登場した重要文化財指定の石造十三重塔や解脱鐘の他にも、墨書地蔵講式・弥勒講式(鎌倉時代 重要文化財)、有菱式石剣(弥生時代)、銅製釈迦誕生仏(八世紀インド伝来)、十一面観音像(藤原時代)、毘沙門天像(鎌倉時代)、解脱上人所持の鈴(鎌倉時代)、後醍醐天皇宸翰(鎌倉時代)、経塚埋納品(藤原時代)、明恵上人夢の記(鎌倉時代)、楠木正成・正行真筆(鎌倉時代)、図像抄一巻(鎌倉時代)、笠置寺縁起三巻(室町時代)、大幅釈迦涅槃図(室町時代)、笠置寺再興勧進帳(室町時代)、笠置寺縁起冊子本(室町時代)、笠置寺境内禁礼(室町時代)、後奈良天皇宸翰(室町時代)、後円融天皇宸翰(室町時代)、笠置寺縁起(江戸時代)、笠置寺十境の詩(江戸時代)等の寺宝を所蔵して、一部は収蔵庫に展示されています。

笠置寺その3

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笠置寺の続きです・・・


さて、前回に写真を掲載しましたが、本堂「正月堂」への途中、頭上に巨大な巨岩が突き出ていて、周囲の紅葉とよくマッチしています。
この岩は、「薬師石」と呼ばれる高さ約十二メートル、幅約九メートルの大岩で、その姿形から戦前は「軍艦岩」とも呼ばれていたそうです。「笠置寺縁起」が記している、天智天皇の皇子が岩から転落しかけた場所は、この「薬師石」の上部付近とされます。(あくまで後世の伝説に過ぎませんが、薬師石には、岩から転落しかけた時の馬の蹄の跡が残っているともいわれます。)
また、「薬師石」の右には、文殊菩薩像が刻まれていたという伝承もある高さ約七メートル、幅約十三メートルの「文殊石」があります。(実際に線刻を刻んだ形跡は無いので、文殊菩薩が刻まれたというのは後世の伝説のようです。)
さらに「薬師石」と「文殊石」の間に挟まれて載っている石(高さ一メートル、幅二メートル以上)は、天智天皇の皇子が再度この地を訪れる際の目印として笠を置いた石と伝えられ、「笠置石(かさおきいし)」と呼ばれています。そして、「文殊石」の奥にあるのが、高さ十二.四メートル、幅五.七メートル人形の光背が残る「弥勒石」です。



さて、いよいよ、笠置寺の本尊、弥勒大磨崖仏についてです。
正月堂の横にある高さ約十五.七メートル、幅約十二.七メートルの花崗岩の巨大な「弥勒石」に刻まれたこの弥勒菩薩像は、元弘の戦乱などの数度の火災に遭って、現在では後背を残すのみとなっていますが、古来多くの人々の信仰を集めてきました。特に、平安時代には末法思想の流行もあって天皇や貴族による「笠置詣(笠置詣り)」がしばしば行われました。

「笠置寺絵縁起」によると、この弥勒大磨崖仏の発願は天智天皇の皇子(大友皇子と推定)とされますが、実際にいつ頃彫られたのかについては諸説あるようで、元々は、古代の巨石信仰に始まると考えられています。花崗岩の加工技術は、仏教と共に渡来人によって大陸から伝来したとされるため、これら渡来人の子孫たちが大磨崖仏を彫刻したと考えられています・・実際、笠置山のある南山城の地域は、高麗系の狛氏族が多く住み着いた地域でした。

一説では、奈良時代に、東大寺の大仏殿建立のための用材が木津川を下って運搬できるように笠置寺の千手窟で祈願したとされる東大寺の開山・良弁(ろうべん)和尚や、その弟子で、笠置寺の千手窟より弥勒菩薩の住む兜卒天の内院に入って第一回の「お水取り」の行法を行った実忠(じっちゅう)和尚の指導の下で渡来人の石工が彫刻したともいわれますが、より前の白鳳時代に遡るという説もあります。ともかく、弥勒大磨崖仏は、元々は優雅な線彫りによって刻まれていて、平安時代には彩色が施されました(本朝世紀)が、元弘の兵火によって剥落して線刻を失い、今では後背を残すのみとなっています。
しかし、かつての厳かな弥勒像の姿は、「笠置曼荼羅(大和文華館所蔵)」からも窺われ、それによると、当時は現在のものよりも巨大な礼堂が本尊の前に建てられていたようです。また、大野寺(奈良県室生)の弥勒磨崖仏や当尾の辻の弥勒仏(京都府加茂町)は、この弥勒大磨崖仏弥勒菩薩像を模写したものと伝えられます。



「文殊石」の前にあるのが、国の重文に指定されている十三重石塔です。
この石塔は、高さ約四.七メートルあり、鎌倉時代から室町時代の作と推定されています。元々この場所は、笠置寺中興の祖・貞慶上人(解脱上人)が建久九年(1198)に木造本瓦十三重塔を建立した場所とされ、元弘の戦乱で木造塔が焼失後に建てられたもののようです。貞慶上人(解脱上人)が母のために建立した塔とも、元弘の戦乱で戦死した武将たちの供養塔であるともいわれていていますが、詳細は不明です。また、十三重石塔の両側にある五輪石塔は、元弘の戦乱で天皇方として奮戦して亡くなった石川義純と錦織俊政の墓という言い伝えもあります。

さて、本堂正月堂の下の道を下ると、正面に巨石が並んでいます。伝承では、この二つの大石には、かつては金剛界曼荼羅、胎蔵界曼荼羅が描かれていたということですが、その真偽は不明です。
この二つの石の間が笠置寺の修行場「千手窟」で、現在は土砂の堆積によって入口は埋もれていますが、弥勒菩薩の住む兜卒天の世界に通じる龍穴といわれ、弥勒菩薩石像と並んで笠置寺で最も重要な史跡の一つとされています。

天武天皇の白鳳十二年(684)には、役行者がこの千手窟に詣でたという伝承があり、奈良時代の天平十二年(740)年頃、聖武天皇の命を受けた東大寺の開山・良弁(ろうべん)和尚が、大仏殿建立のための用材が木津川を下って運搬できるように、千手窟で千手の秘法を用いて祈願したとされます。「笠置寺縁起」によると、この時、秘法によって現れた雷神が、筏の運行を妨げていた笠置山山麓の岩山を破壊して通路を開いたということです。そして、以降はこの故事に倣って大仏殿の修理の際は、必ずこの場所で無事完成を願って祈願法要が行われたとも伝えられます。さらに、天平勝宝三年(751)には、良弁の弟子、実忠(じっちゅう)和尚が、千手窟より弥勒菩薩の住む兜卒天の内院に入って、そこで行われていた行法を伝えたのが、有名な東大寺の「お水取り」の起源であると伝えられます。この行法は、天平勝宝四年(752)正月、笠置寺の正月堂で始めて行われ、翌二月に東大寺二月堂での行法(お水取り)へと受け継がれることになったとされます。



また、千手窟の右側、「金剛界石」「胎蔵界石」と並んで、おむすび形の高さ約十二メートル、幅約七メートルの花崗岩の巨石があり、美しい磨崖仏が彫られています。これが「虚空蔵石」です。

描かれているのは、伝・虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ、一説では如意輪観音、弥勒菩薩とも)で、像の高さは、約六.七七メートルあります。この辺りが本堂から離れていたために、元弘の戦乱の際にも戦火に焼かれず、当時と変らない美しい姿をとどめていて、笠置寺で最も完全な形で残るたいへん貴重な磨崖仏といえます。

この伝・虚空蔵菩薩磨崖仏は、「笠置寺縁起」によると、平安時代初期の弘仁年間(810〜24)、弘法大師空海が、この巨石に登って求聞持法を修した時、明星が巨石を照らして、その光跡で一夜にして彫ったと伝えられ、実際の作成年代も、奈良時代後期、平安後期等諸説あるようです。本尊の弥勒大磨崖仏の方があまりに有名だったためか、この伝・虚空蔵菩薩磨崖仏に関しては、文献上の記述が少ないようですが、日本屈指の最も美しく巨大な磨崖仏という評価もあるようです。(近年、笠置町町政五十周年の記念事業の一環として拓本が採られ、大掛軸が作成されています。)



さて、「虚空蔵石」からさらに進むと、笠置修行場の入口にあたる「胎内くぐり」があります。「胎内くぐり」は、人一人がなんとか通れる程の約十メートルの石のトンネルです。
一般的に、修行場に入る前には滝で身を清めるというのが普通ですが、笠置山には滝が無いために、この岩を潜り抜けることで身を清めたといわれ、一度母の胎内に戻って再生するという浄化の場所とされています。かつては天井となる石があったようですが、安政の大地震によって天井岩が落下して谷に落ち、それ以降は人工の切石の天井となったということです。
また、「胎内くぐり」から少し先に進むと、「太鼓石」があります。
上から落下した大岩に挟まれて道が通り抜けていて、上の大石を叩くと石の間の隙間から反響して太鼓のような音がするとされます。

さらに暫く進んで周回路が登りとなると、眺望が開けた場所に出ます。眼窩に木津川を見下ろすこの場所には、高さ約一.五メートル、幅約二メートル程の丸い石が大きな平石の上に載っています・・これが「ゆるぎ石」です。
この場所は、元弘の戦乱の際、後醍醐天皇軍が下から攻めてくる幕府軍に対して岩を落としたとところと言われていて、「ゆるぎ石」は、武器として使用された石の名残で、使用されないでここに置かれたままとなったようです。重心が中央付近にあって、今でも手で押すと動くことから「ゆるぎ石」と名付けられています。


「ゆるぎ石」の辺りから斜面下って進むと、再びたいへん見晴らしの良い場所があり、「東ののぞき」と呼ばれています。江戸時代にはここは月見の場所として用いられていたということです。また、側には「平等石(びょうどういし)」や幾つかの大石が重なるように置かれています。

「平等石」は、修行場で最も巨大な扁平な石で、「平等石(びょうどういし)」の名は、御堂の中を回って修行する行道(ぎょうどう)から転じたものともいわれています。また、平等石と巨石の間の、人が何とか通れる程度の傾いた通り抜けの部分は、「蟻の戸わたり」と呼ばれ、平等石の周りを回る行道の一部です。また、「平等石」の背後には小さな洞窟があり、奥には修験道の名残らしく不動明王の石像が祀られています。尚、この平等石の中を潜るトンネルや、石の上に登るための鎖場は、現在は危険なため公開されていません。

「平等石」から石段を下ると、「二の丸跡」があります。
元弘の戦乱当時は、後醍醐天皇の仮皇居として正式な築城はなされなかった笠置山ですが、その後、戦国期に笠置山が要塞化してから、山頂付近の後醍醐天皇行在所を本丸と見立てて、一段下がったこの場所が二の丸になるということから、このように呼ばれるようになったということです。この場所も見晴らしがよく、現在は小さなあずまやがあるだけですが、昭和三十年代までは茶店もあったということです。

この「二の丸跡」から少し進むと広場になります。
この広場には貝を伏せたような巨石があって、「貝吹き岩(かいふきいわ)」と呼ばれています。元弘の戦乱のとき、この石の上で連絡のためのほら貝を吹いたとされることから、このように名付けられています。尚、この見晴らしの良い広場では、江戸時代には要人が笠置を訪れた際には、幕を張った休憩所が作られていたということです。また、この広場には、戦前に設けられた紀元二千六百年記念の国旗掲揚台の基壇の残骸が残っています。



次回に続きます。

笠置寺その2

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前回に続いて、笠置寺を採り上げます。
(尚、今回の写真は、最大の見所の正月堂と巨大な磨崖仏弥勒菩薩や虚空蔵磨崖仏を中心に掲載してみます。)

さて、笠置寺の歴史について続けます・・・

江戸初期の元和五年(1619)五月、笠置一帯のある山城国一部は、津藩藩主・藤堂氏の領地となり、笠置寺も藤堂氏の支配下に置かれます。
寛永十一年(1634)、二代藩主藤堂高次は、笠置寺に参詣し寺領として十五石を寄付しました。さらに高次は、慶安元年(1648)には、寺の弥勒堂(現・正月堂)を再建しています。以下、歴代藤堂藩主も参詣してその援助を受けますが、江戸中期頃から経済的に疲弊して荒廃し、安政元年(1854)の安政の大地震でも被害を受けました。
さらに、幕末には離反して寺を捨てる住職が相次いだことから、寺は実質的に笠置山麓の南笠置村の富裕な庄屋・大倉一族等の管理下にあったようです。こうして、明治初年には無住の寺となっていた笠置寺ですが、明治九年(1876)に大倉一族出身の大倉丈英和尚が入山し、約二十年に渡って笠置寺の復興に尽くしました。


さて、江戸時代中期以降の尊皇思想の高まりによって、笠置山は、奈良〜鎌倉時代に栄えた弥勒信仰の霊地としてでは無く、後醍醐天皇ゆかりの「元弘の乱」の史跡として知られるようになっていましたが、明治十九年(1886)には、笠置山山中に、小松宮彰仁親王の書による約五メートルの「行宮遺址」碑が完成し、明治三十三年(1900)には、笠置山元弘彰址会によって後醍醐天皇の行在所を示す石垣が整備されました。大正六年(1917)五月には東宮(昭和天皇)が笠置寺に参詣し、昭和七年(1932)には、笠置山一帯が国の史跡に指定されています。
戦前には、鉄道網の整備や国家主義の高まりによって、笠置を訪れる観光客は急増し、大阪近郊では、軍人の団体や学生達が「元弘の乱」の遺跡を訪れるために押し寄せました。また、当時は、南朝史跡に親しむ課外活動として小学生の遠足でも笠置を訪れるのが一般的だったということです。

その後、戦後の農地改革により一時経済的に困窮しますが、昭和三十二年(1957)四月には本堂、昭和三十八年(1963)に鐘楼堂を改修し、昭和四十九年(1974)春に舎利殿が完成。さらに、昭和六十三年(1988)大師堂を改築しました。平成三年(1991)には、NHK大河ドラマ「太平記」の影響で観光客も増え、平成九年(1992)頃には、餌をねだって観光客に寄り添って境内を回ることから、「笠置山をガイドする猫」として「笠やん」という野良猫がマスコミの脚光を浴びました(現在、死んだ「笠やん」の墓が参道にあります)そして、平成9年(1997)一月に本坊庫裏を改築、平成十六年(2004)に毘沙門堂を改築して今日に至ります。




さて、JR関西線「笠置駅」から笠置山へと向います・・駅の改札口の前には、「元弘の乱」で天皇方として活躍した足助次郎重範や大和般若寺の僧・本性房の活躍シーンを描いたコンクリート像があり、道路沿いには「笠置元弘の乱絵巻」として、「元弘の乱」のてん末を看板にして掲示していて、観光客にアピールしています。今でも、笠置山は、弥勒信仰の聖地というより、南北朝時代の戦場跡という方が一般的にはわかりやすいのでしょう。

駅から五分程度歩くと、左手に笠置山登山口が見えてきます。(尚、右側の道「柳生街道」は、「柳生の里」に通じる街道として知られます。創建当時は、この柳生街道が表参道で、街道途中には、貞慶上人が建久五年(1194)に建立した般若台院六角堂の跡地があり、史跡公園として整備されています。)

笠置山の登山口としては、車道「新登山道」と旧登山道「史の道コース」がありますが、「史の道コース」は東海自然歩道になっていて、広く歩きやすい山道です。この「史の道」の途中には、後醍醐天皇軍と鎌倉幕府軍が戦った「元弘の乱」の際、天皇方の足助次郎重範が強弓で矢を放って幕府軍との戦端を開いた場所といわれる「一の木戸跡」があり、「足助次郎重範公奮戦跡」の石標があります。
一方、「新登山道」の途中の脇道には、崖の自然石に「行宮遺址」と彫まれた場所があります(後醍醐天皇の仮皇宮を置かれたのを記念して、明治時代に建立されたものです)。どちらの道からでも徒歩約四十分程度で笠置寺の山門前に到着します。(今回は旧登山道の様子を掲載します。)



さて、山門を潜ると、左手に本坊や鐘楼、収蔵庫、椿本護王宮、大師堂、右手の石段上には毘沙門堂、稲荷社、舎利殿等が立ち並んでいます。また、椿本護王宮の右には、修行場の入口があり、ここからは一周約八百メートル(所要時間三十〜四十分)の修行場となっています。この修行場には、弥勒磨崖仏、正月堂、石造十三重塔、虚空蔵菩薩磨崖仏、千手窟、後醍醐天皇行在所、二の丸跡等の史跡があり、「胎内くぐり」「太鼓石」「ゆるぎ石」「平等石」「蟻の戸わたり」「貝吹石」などと名付けられた巨岩が点在しています。

山門のすぐ側には、まず「笠置型灯篭」があります。
笠置型灯篭とは、平安時代に笠置寺参道に建てられていた灯篭と伝えられますが、現存するものや資料が無いことから、幻の灯篭といわれてきました。しかし、近年、愛知県岡崎市の石材業者組合が大正時代に発行した本に形式や寸法が記載されていたことが判明したことから復元されたものです。さらに、その左には江戸時代に手水鉢に転用された室町時代の大きな石製「本尊仏香炉」が置かれています。

山門の左手にある笠置寺本坊は、笠置山山内の一子院(塔頭)旧福寿院になります。
笠置山では、平安時代以降の全盛期には、四十九院の一子院(塔頭)があったと伝えられ、創建から明治までこれら山内子院(塔頭)を総称して笠置寺とし称し、笠置寺という建物自体は無かったようです。山内の多くの子院(塔頭)は、「元弘の乱」で焼失して衰徴し、その後幾つかが再建されましたが、江戸時代初期には、福寿院、知足院、不動院、文殊院、多門院の五院があったようです。さらに、安政の大地震を経て、江戸末期には福寿院、知足院、文殊院、多門院の四院が無住のまま残存していました。そして、明治九年(1876)に大倉丈英和尚が入山した際に、福寿院を笠置寺本坊と定め、多門院は本堂を毘沙門堂として残し、他の子院は取り壊されました。

本坊の側には、コンクリート製の鐘楼があります。鐘楼の鐘は、「解脱鐘」と呼ばれ、国指定文化財に指定されています。
鐘の基底部は六つに切り刻まれていて「六葉蓮弁」蓮の花をイメージした日本で他に類の無い中国風の独特な意匠となっています。この「解脱鐘」は、東大寺の俊乗坊重源(ちょうげん)上人の作と伝えられ、鎌倉時代の建久七年(1196)、重源上人は、この鐘と中国から持ち帰った紺紙金泥の大般若経六百巻を笠置寺の貞慶(じょうけい、解脱上人)上人に寄進しました。しかし、その後、大般若経とそれを納めていた六角堂や鐘楼は元弘の戦乱で焼亡し、この鐘のみは幸い無事だったということです。この鐘は現在は除夜の鐘でのみ撞かれています。また側の庫裏は平成九年(1997)一月に改装されたもので、同じく側の笠置寺収蔵庫には、笠置寺に伝わる寺宝を納め、その一部は展示されています。




「解脱鐘」からさらに右手奥に進むと、「椿本護王宮」があります。
椿本護王宮は、笠置寺の鎮守社で、祭神として椿本護法善神を祀っています。「笠置寺縁起」によると、平安時代の延喜八年(908)に、日蔵(にちぞう)上人が、千手窟より弥勒菩薩の住む兜卒天の内院に入った際に、山神から御告げを受けて吉野金峯山の椿本大明神を勧請したものと伝えられます。
現在の社殿は、向拝の虹梁の木鼻、海老虹梁の木鼻の渦絵様を単円でなく、一、二回折って変化をつける等、安土桃山時代に豊臣氏が寺社建築の再興に用いた手法を合わせて用いているため、記録文書の裏付けは無いものの、元弘の戦乱で焼失した建物を、本堂等と共に豊臣氏が再興した可能性があると考えられています。

一方、本坊の方とは逆に、山門から右の石段を登ると、毘沙門堂があります。
毘沙門堂は、元々、笠置寺の子院(塔頭)多門院の本堂で、明治時代に毘沙門堂に改められました。本尊は鎌倉時代の像高五十センチの木造毘沙門天像です。伝説では、楠木正成の念持仏として、かつては信貴山の毘沙門天と並んで戦勝の神、福徳の神、財宝の神として多くの人々に信仰されてきました。建物の老朽化により、現在の建物は平成十六年(2004)六月に改築されたものです。また、毘沙門堂の前には稲荷社があり、側には、元弘の戦乱から六百五十年を記念して昭和五十六年(1981)十月に建立された慰霊の碑が建てられています。さらに奥に進むと舎利殿があります。



さて、「椿本護王宮」の側の修行場入口から進むと、左に「大師堂」へと続く石段があり、石段下には、「笠置山をガイドする猫」として知られた「笠やん」の小さな墓(笠坊之墓」)があります。また、右手の参道を進むと「正月堂」が見えてきます。

「大師堂」は、天平勝宝三年(751)に、東大寺の実忠(じっちゅう)和尚が建立した旧正月堂の跡地にあります。
現在の笠置寺は真言宗智山派に属していることから、室町時代の石仏弘法大師像を祀っています。有名な東大寺の「お水取り」の行法は、天平勝宝四年(752)正月、この笠置寺の旧正月堂で始めて行われ、翌二月に東大寺二月堂での行法へと受け継がれることになったともされ、また、この旧正月堂(笠置寺本尊礼堂)があることから、東大寺山内(二月堂・三月堂・四月堂等があります)には最初から正月堂は建立されなかったということです。この旧正月堂は、元弘の戦乱で焼亡して以降も復興されず、現在の正月堂は、明治三十年(1897)の関西鉄道の開通によって、現笠置駅にあった大師堂を笠置寺境内の旧大師堂跡地に移築したものです。

一方、現在の「正月堂」は、笠置寺の本堂です。
笠置寺の本尊である巨大な磨崖仏弥勒菩薩に相対して建てられていて、本堂ではあるものの、本尊磨崖仏弥勒菩薩が巨大なために礼拝堂にもなっています。また、右下の断崖に接しているため、懸崖造になっています。
また、正月堂の本尊として、堂内には天平勝宝三年(751)に、東大寺の実忠(じっちゅう)和尚が、千手窟で修行した際に感得したという十一面観音像を祀っています。この十一面観音像は、江戸時代初期の東大寺の公慶(こうけい)上人が笠置寺に寄進したもので、平安時代中期の作とされています。
元々、現在の「正月堂」のある地には古くから崖仏弥勒菩薩を拝礼する礼堂があり、鎌倉時代初期の建仁三年(1203)に貞慶(解脱上人)が鎌倉幕府の寄進を得て豪華な礼堂を再建しています。その後、礼堂は元弘の戦乱で焼失し、その後、室町時代末期の文明十四年(1482)頃に笠置寺の住職となった東大寺の貞盛(じょうせい)和尚が復興し、さらに津藩二代藩主・藤堂高次が、慶安元年(1648)に再建しています。そして、昭和三十二年(1952)に解体修理された際に、かつての礼堂様式を復元して、桟唐戸量開き開口を設けています。




次回は、巨大な磨崖仏弥勒菩薩や虚空蔵磨崖仏を中心に書いてみます。

笠置寺その1

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今回から数回に分けて、京都府相楽郡笠置町にある笠置寺(かさぎでら)を採り上げます。
(今回の写真は、参道から境内一部のみです。暗い小雨の中での撮影のために写真が不鮮明ですが、次回以降に、見所となる磨崖仏や胎内めぐりの写真を掲載します。)


笠置寺は、浄瑠璃寺、岩船寺、海住山寺、蟹満寺などと共に南山城を代表する観光名所です。(但し、これらの寺院は、京都府に属しますが、地理・歴史的にも雰囲気的にも奈良の寺院といった方が正しいと思います。)笠置寺は京都や奈良からも少し遠いので、観光客はそれ程多くは無いようですが、巨石に囲まれた面白い行場めぐりや後醍醐天皇の行在所跡等もあり、巨大な大磨崖仏を見るためだけでも、訪れて損の無いお勧めレベルの観光名所といえます。
(笠置寺によると、笠置を訪れる人は年間七十万人で、その内、笠置山登山客が五万人。さらに、笠置寺を訪れて磨崖仏を拝んで修行場を巡る人になると年間一万五千人に過ぎないとして、もっと多くの方に笠置寺を知って欲しいということです。このブログで少しでもお寺をアピール出来ればと思います。尚、小林義亮氏の労作「笠置寺 激動の1300年―ある山寺の歴史―(文芸社)」を参照します)


さて、笠置寺のある相楽郡は、京都府の最南端にある郡で、その東部にある笠置町は南を奈良市に接している京都府内で最も小さい町(東西六キロ、南北六.五キロ)です。さらに、この狭い笠置町の中央を木津川が東西に流れ、川の両岸の大部分が山林で占められているため、街(僅かな店がある程度の鄙びた里といった風情ですが)は谷沿いの非常に狭い地域にあります。
この笠置町のシンボル的な存在が、JR関西線「笠置駅」の直ぐ東にある、標高二百九十メートルの笠置山です。笠置山は古くから巨石信仰が盛んな山岳霊場の地で、山を境内とする笠置寺には多くの遺跡が残っています。また、笠置山を中心とする周辺は、笠置山自然公園として整備されていて、桜や紅葉の名所としても知られています。


この笠置山の山頂にあるのが、「天武天皇勅願所」「後醍醐天皇行在所」として歴史有る古刹の笠置寺です。
笠置寺は、山号を鹿鷺山(ろくろうざん)という真言宗智山派の寺院で、本尊は巨大な磨崖仏弥勒菩薩です。寺の創建年代は不明ですが、室町時代成立の「笠置寺絵縁起」によると、本尊の弥勒菩薩の発願は天智天皇の皇子(大友皇子と推定されます)、笠置寺の創建は天武天皇によるとされます。(他に「諸寺縁起集」の「笠置山縁起」では「天智天皇の第三皇子」と記していて、川島皇子とも推定されるようです。)

「笠置寺絵縁起」や「今昔物語」によると、天智天皇の十年(671)、天智天皇の皇子(大友皇子と推定)が、笠置山に狩猟に来て、崖の先端まで鹿を追いつめた所、皇子が乗っていた馬が勢い余って崖下に転落しかけました。皇子は咄嗟に、「山の神よ、もし私の命を助けてくれるなら、この岸壁に弥勒仏像を刻んで奉ります」と念じたところ、馬は後ろに何とか退いて、危うく危機を逃れました。そこで皇子は、場所の目印として崖上に自分の被っていた笠を置いて帰ります・・これが「笠置」という名前の発祥とされます。
さて、その後、皇子は再び笠置山を訪れて弥勒菩薩を刻もうとしますが、あまりの絶壁のために悩んでいると、天人が現れて見事な弥勒像を刻んでくれたと伝えられます。そして、「笠置寺縁起」では、その後、白鳳十一年(683)天武天皇が笠置寺を創建したとしています。
また、「笠置寺縁起」とは別の伝承では、山号「鹿鷺山」の由来として、天智天皇の皇子が置いた笠を探していると、一羽の白鷺が飛んできて道案内をしたことから、弥勒菩薩発願の発端となった鹿と、道案内をした鷺との縁から、山号を「鹿鷺山」、寺号を「笠置寺」としたということです。

これらの伝承には、弥勒菩薩を発願したのは天智天皇の皇子(大友皇子と推定)で、一方、寺の創建者は、壬申の乱で大友皇子と敵対した天武天皇とされるなど関連の不明な点も多く、創建当時の文献が皆無なことから、全くの後世の伝説とする説もありますが、笠置山の大岩石の前から弥生式土器の有樋式石剣が発見されるなど、笠置山は古代から巨石信仰の地だったことは確かなようです。



笠置寺で最も重要な史跡の一つといわれる「千手窟」は、巨石に穿った洞窟ですが(現在は穴は通じていません)、天武天皇の白鳳十二年(684)に、役行者がこの千手窟に詣でたという伝承があります。また、奈良時代の天平十二年(740)年頃、聖武天皇の命を受けた東大寺の開山・良弁(ろうべん)和尚が、大仏殿建立のための用材が木津川を下って運搬できるように、千手窟で千手の秘法を用いて祈願したとされます。「笠置寺縁起」によると、この時、秘法によって現れた雷神が、筏の運行を妨げていた笠置山山麓の岩山を破壊して通路を開いたということです。

さらに、天平勝宝三年(751)には、良弁の弟子、実忠(じっちゅう)和尚が、龍穴(千手窟)より弥勒菩薩の住む兜卒天の内院に入って、そこで行われていた行法を伝えたのが、有名な東大寺の「お水取り」の起源であると伝えられます。この行法は、天平勝宝四年(752)正月、笠置寺の正月堂で始めて行われ、翌二月に東大寺二月堂での行法(お水取り)へと受け継がれることになったとされ、これらの伝承から、少なくとも奈良時代には、笠置山は大岩石に刻まれた仏を中心にした一大修験行場として栄えていたことが伺われ、その後、東大寺の末寺となっていったようです。


やがて、平安時代になると、笠置寺は弥勒信仰の一大霊場として栄え、天皇や公家の参詣の記録が増えてきます・・延喜年間(901〜23)には醍醐天皇(笠置寺縁起)、永延元年(987)十月に円融上皇(百練抄)、寛弘四年(1007)六月に藤原道長(御堂関白記)、万寿年間(1024〜28)に藤原頼通(笠置寺勧進状)、寛治四年(1090)六月に白河上皇(後ニ条帥通記)、元永元年(1118)九月に右大臣藤原宗忠(中右記)、安元ニ年(1176)十一月に後白河上皇(笠置寺縁起・一代要記己集)が笠置寺に参詣したという記録もあり、「枕草子」にも、寺の段に「寺は壷坂、笠置、法輪、霊山は、釈迦仏の御住みかなるがあはれなるなり」とその名が記されるように、笠置寺は畿内を代表する大寺院となっていたようです。また、天仁年間(1108〜10)には、笠置山の僧・永眞によって、現在の本堂の位置に礼堂が建立されますが、大治五年(1130)に焼亡して、その後は小さな草堂が礼堂として用いられていたようです。


その後、鎌倉時代初期に、笠置寺中興の祖・貞慶(じょうけい、解脱上人 1155〜1213)上人が登場して堂塔を整備し、笠置寺は全盛期を迎えます。
興福寺の貞慶上人(解脱上人)は、平治の乱で知られる少納言・藤原通憲(信西)を祖父とする名門の出身で、当時の旧仏教を代表する名僧の一人です。貞慶上人は、建久四年(1193)に、南都の仏教の退廃を嘆いて笠置寺に隠遁し、承元二年(1208)に笠置から近い観音寺(海住山寺と改名 以前にブログに採り上げています)再建のために笠置を去るまでの約十五年間を笠置寺で過ごしました。そして、その人脈を生かして後鳥羽上皇や九条兼実といった朝廷だけでなく、鎌倉幕府にも接近して、その援助を得て笠置寺を興福寺と並ぶ旧仏教の拠点として発展させました・・
こうして、建久五年(1194)八月に般若台院六角堂(大般若経を安置する六角形の御堂)、建久九年(1198)には木造十三重塔を建立、建仁三年(1203)二月には礼堂を改築しました。また、建久七年(1196)には、東大寺の重源(ちょうげん)上人が貞慶上人に解脱鐘を寄進しています。

一方、貞慶上人は、法然上人等による鎌倉新仏教に対しては厳しく対立姿勢をとり、元久二年(1205)に法然の弾劾を求める「興福寺奏上」を起草し、この奏上は、法然や親鸞の流刑の遠因となりました。(尚、貞慶上人は、建暦三年(1213)ニ月三日に入寂)
その後、寛喜二年(1230)に東大寺の僧、宗性(そうしょう 1202〜1278)上人が笠置寺に入って、多くの経典を整備し、文応元年(1260)十三重塔を修復する等寺の発展に努めています。



さて、鎌倉時代末期の元弘元年(1331)に「元弘の乱」が起こります。
後醍醐天皇の側近、前権大納言・吉田定房が六波羅探題に後醍醐天皇の倒幕計画を密告したことから、天皇の二度目の鎌倉幕府打倒の計画が事前に発覚したのでした。

この戦乱の様子は「太平記」や「笠置寺縁起」等に生きいきと描かれています・・それによると幕府は五月から七月にかけ公家や僧等の関係者を逮捕尋問します。八月になって後醍醐天皇は、中納言・万里小路藤房、季房兄弟を従えて三種の神器を奉じて御所を脱出、東大寺東南院、鷲峰山を経て、八月二十七日に笠置山に篭って挙兵しました。笠置山は、防御に適した急斜面と巨岩で守られた天然の要害だったのです。天皇は防備を固めると共に、二十八日には楠木正成を笠置山に招請する等周辺諸国から兵を募りました。しかし、九月に入ると幕府軍が笠置山に攻め寄せ、幕府はさらに諸国から増援軍を募りました。

九月一日には抜け駆けした幕府方の高橋一族、小早川氏が天皇方に撃退されて敗走。三日には天皇方の三河の住人・足助重範が強弓で寄せ手の将・荒尾兄弟を射殺し、大和般若寺の本性房という大力の僧兵が大岩を投げ落として幕府軍を苦しめるなどの活躍をしたと伝えられ、六日には幕府軍が三の木戸周辺で天皇方と激戦を展開して一旦退却しています。以後、近隣諸国の兵で増強された幕府軍は連日攻撃を繰り返しますが、天然の要害を攻めあぐんで膠着状態が続きます。そこで、幕府軍は天皇側に使者を派遣して、天皇の京都帰還を促しますが、天皇はこれを拒絶します。しかし、九月二十六日、東国から大佛貞直、金澤貞冬、足利高氏(尊氏)等の幕府増援軍が笠置に到着し、笠置山を包囲して総攻撃をかけます。幕府側の備中の住人・陶山義高、小宮山次郎が風雨の中で夜襲をかけ、ついに笠置山は九月二十八日夜、攻防一ケ月で落城しました。天皇側では石川義純、錦織俊政が奮戦して戦死、足助重範は捕らえられ、後に六条河原で斬首されました。

脱出した後醍醐天皇は、三十日に捕らえられ、一旦、宇治平等院に幽閉された後、十月三日に六波羅探題に預けられました。天皇は「今回の事は、自分の意思では無く天魔が勝手にやったものなので、どうか寛大な処置にして欲しい(花山院宸記)」と哀願しますが、元弘元年十一月、隠岐国への流罪と決定、翌元弘ニ年(1332)三月には隠岐の配所に送られました。この戦乱で笠置寺は、わずかに千手堂、六角堂、大湯屋、経蔵を残して全山焼亡し、本尊・弥勒磨崖仏も焼失し、貴重な古記録も失われてしまいました。
こうして、笠置寺は、幕府側の東大寺尊勝院の支配下に置かれますが、元弘三年(1333)天皇側が各地で再起すると、各地に散っていた笠置寺宗徒が呼応して立ち上がり、東大寺尊勝院の代官を追い払って支配権を奪回しています。


さて、鎌倉幕府が滅亡すると、天皇方への貢献から、元弘三年(1333)八月に笠置寺本堂再建の勅宣が出されますが、南北朝の戦乱が起こって再建途中で延期となり、永和二年(1376)三月にも再建が計画されますが実現しませんでした。ようやく、永徳元年(1381)三月に本堂が再建されますが、応永五年(1398)に籠所から出火して本堂が焼失しています。
そして、応仁の乱以降の戦国期には笠置山は山城として用いられ、笠置寺はかつての栄華を取り戻すこと無く、細々と存続していたようです。また、創建以来、興福寺や東大寺との繋がりが深かった寺は、経過不明ながら江戸時代初期には真言宗寺院となっています。


字数オーバーのために次回に続きます・・・

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