京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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光明寺その3

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光明寺の最後です・・

さて、秋の光明寺といえば、もみじの参道(紅葉参道)です。総門から左側の参道で、薬医門を経て玄関へと続いています。(紅葉期間は、境内を拝観した後、最後の帰り道にこの参道を通ることになります。)
両側に植えられた楓は樹齢百五十年で、大きく枝を伸ばして秋には紅葉のトンネルを作ります・・西山屈指の真っ赤な紅葉はやはり見事です。
また、初夏には青葉の美しい涼しげな参道にもなります。




(尚、参道を往復して前後左右、上下を撮影しています。少し参道の向き等がわかりにくいかと思いますが、よろしくお願いします)

光明寺その2

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光明寺の続きです・・


さて、光明寺の境内ですが、光明寺には三十二棟の建築物があり、主要な建物は回廊で繋がれています。そして、御影堂 附棟礼三枚 渡り廊下(本堂・阿弥陀堂間)、阿弥陀堂 附棟礼三枚、釈迦堂、勅使門、経蔵、観音堂、總門鐘楼 不銘礼一枚、薬医門、御廟、御廟拝殿 附御廟門・石柵、勢至堂、納骨堂、大書院 附玄関棟礼(棟礼一枚)、講堂、食堂、衆寮門の十七棟が長岡京市指定文化財に指定されています。



重厚な総門の前には、法然上人が初めて念仏の教えを説いた地として「浄土門根元地」と記された石碑があります。永禄六年(1563)、正親町天皇から「法然上人ノ遺廟、光明寺ハ浄土門根元之地ト謂イツベシ」という綸旨を賜ったことに由来するものです。

天保十六年(1845)に建てられた高麗門形式の総門を潜ると、左右二手に石畳の道が分かれています。左側の道は、樹齢百五十年という紅葉のトンネルで知られる通称「もみじの参道(紅葉参道)」で、右側が本堂に真っ直ぐに続く表参道です。この参道は傾斜がゆるやかで、女性や年寄りでも楽に登れるように配慮されていて、通称「女人坂」と呼ばれています。

また総門を入ってすぐ左手には、閻魔堂があります。堂に安置されている閻魔像は、元々閻地院という寺院の本尊だったということです。さらに、表参道と紅葉参道との分岐点に新しい石碑があり、馬の背に逆さに乗った熊谷蓮生法師(熊谷次郎直実)の姿が描かれています。
これは、光明寺開基・蓮生法師が、阿弥陀様のいる西方を敬うばかり、布教のため関東に向う際にも、「阿弥陀様におしりを向けることは出来ない」として、馬に逆さに乗って西に向って拝みながら進んだという「東行逆馬(とうこうさかうま)」の故事を記念したものです。



参道を登ると、正面に巨大な御影堂(みえどう)が見え、その右奥には阿弥陀堂があります。また手前には観音堂や経蔵、鐘楼、勧化所等が点在しています。

また、参道を登った左手には、昭和初期の歌人、塩田紅果の句碑があり、「うつし世の 楽土静けし 花に鳥」という句が刻まれています。参道右には、洛西観音三十三霊場の第七番目札所である小さな観音堂があります。この観音堂の本尊・十一面千手観音菩薩像は、約一メートル六十センチで、恵心僧都源信の作ともいわれ、また、西山の浄土谷の奥深い田の中から発見されたという伝承もありますが、重要文化財に指定されてからは京都国立博物館に寄託されています。
代わりとして、現在は、洛西観音三十三霊場の第八番札所・粟生観音寺(長岡京市粟生清水谷 光明寺の竹林を抜けて隣接)の十一面千手観音菩薩を祀っています。この観音寺という寺院は、子守勝手神社の境内にあるという神仏習合時代の信仰の伝える社寺ですが、長らく無住になっているので、その本尊を光明寺が守っているということです。



また、鐘楼にある梵鐘は、「遣迎鐘」(けんこうがね)と呼ばれ昭和二十四年(1949)に鋳造されたものです。また、御影堂の左側には、高さ約五メートルの「法然上人立教開宗の像」があります。この像は、法然上人誕生八百五十年を記念して、昭和五十七年(1982)に建てられたものです。

さらに、経蔵と「法然上人袈裟掛の松」が右手にあります。
光明寺に伝来する多くの経典や注釈書、その版木等を納める経蔵は、宝永四年(1707)に建てられたもので、以降も大規模な補修が行われてきたということです。また、「法然上人袈裟掛の松」は、法然上人が始めて念仏の教えを高橋茂右エ門夫妻に説いた際、この西山広谷の地に暫く留まろうと考えて袈裟を脱いで掛けた松の木と伝えられています。元々は、本山の裏山の奥深い谷の斜面に生えていたものを、昭和五十七年(1982)に株分けされて経蔵の前に移されたということです。
また、経蔵の隣には勧化所(かんげしょ)があります。勧化とは「仏の教えを説いて信心を勧める」という意味で、布教のための事務や参拝者に御札や御影を配布する場所です。現在の建物は、安政二年(1855)に建てられたものを基本にしていて、紅葉の有料期間は写真の展覧会や茶店などが開かれます。



さて、光明寺境内の中心となる御影堂(本堂)は、応仁の乱等で何度も火災に遭ってその都度再建されました。現在の建物は、宝暦四年(1754)に完成したもので、十八間四面(約三十三メートル四方)あり、建築様式は入母屋の総欅造りで、派手な装飾の少ない重厚で全体的な功績にすぐれた近世浄土宗本堂の典型とされます。

御影堂(本堂)内陣正面には、本尊「法然上人御自作の張子の御影」が祠られています。
「張子の御影」は、建永二年(1207)に起こった「建永の法難(承元の法難)」の際、法然上人が、母からの手紙を水にひたして自ら作ったといわれる像です。

「建永の法難(承元の法難)」は、後鳥羽上皇によって、専修念仏の停止と法然上人の四国流罪が決定された事件です。
「建永の法難(承元の法難)」の直接のきっかけは、法然上人の弟子だった住蓮坊と安楽坊という二人の僧の礼讃を聴いた、後鳥羽上皇の女官、松虫姫と鈴虫姫が上皇の不在時に出家してしまったという事件でした。寵愛する女官が無断で出家したことを知った後鳥羽上皇は激怒し、住蓮坊と安楽坊は死罪、法然上人や親鸞その他の弟子達は流罪とされました。事件の背景には、旧仏教教団からの上皇への強い働きかけがありました。

さて、四国への流罪が決まった時、既に法然上人は七十五歳になっていました。
上人御も弟子達も、この世で再会することは出来ないと感じていました。四国への途中、弟子の湛空という人物が上人を訪ね、別れを惜しんで是非にと形見の品を請います。
そこで、法然上人は、上人が十三歳で比叡山に入るときに母から送られ、以来肌身離さず持っていた手紙を懐から取り出しました。そして、この手紙を水にひたして粘土のようにして、水面に映った自身の姿を見ながら肖像を作って湛空に与えました。喜んだ湛空は、この像を抱いて京都に帰り、漆を塗って仕上げました。その後、この「張子の御影」は二尊院に祀られ、時期は不明ですが、後に光明寺に移されたということです。



御影堂の右にあるのが阿弥陀堂です。
阿弥陀堂は、欅造の寛政十一年(1799)の再建された建物で、本堂より華やかな造りです。
本尊の六尺七寸(約二メートル)以上の阿弥陀如来像は、蓮生法師(熊谷直実)が、琵琶湖畔の堅田(滋賀県)の浮御堂から背負ってきたという伝承のある阿弥陀如来像(恵心僧都作)が安置されています。

また、御影堂の後ろには、法然上人の舎利(遺骨=分骨一部)を納めた御廟があります。
御廟は明暦二年(1656)の再建で禅宗様式を基調とした華麗な建物です。軒下の周りには邪鬼、龍、象、獏、等の多くの彫刻が施され、廟内部の板壁には飛天や雲、蓮の花等が極彩色に描かれているということです。さらに、御廟前の拝殿は、山内では最も古い承応二年(1653)の建物です。


御影堂の右手前には、「圓光大師御石棺」と刻まれた石棺があります。
前述したように、建暦二年(1212)に法然上人が入滅した後も旧仏教からの迫害は続き、嘉禄三年(1227)、叡山衆徒が東山大谷の上人の墳墓を暴いて、遺骸を鴨川に流そうという企てが発覚します。危険を感じた上人の弟子達は、遺骸を納めた石棺を嵯峨・二尊院、更に太秦・西光寺に移しました。翌安貞二年(1228)正月二十日の夜、上人の石棺から不思議な数条の光明が放たれ、粟生野の念仏三昧院を照らしました。そこで、同月二十五日、石棺をこの粟生野の地に移して遺骸を荼毘に付し、寺の裏山に遺骨を納める廟堂を建てました。これがその石棺とされます。



御影堂から左へ石段を下ると、元文元年(1736)建造の方丈(釈迦堂)、勅使門があり、庫裏、講堂へと続きます。方丈は、「類焼の釈迦如来」「頬焼けの如来」と呼ばれる釈迦如来像を祀ることから釈迦堂と呼ばれます。
この釈迦如来像の頬には焼火箸で焼かれた跡といわれる傷跡があり、以下のような物語が知られています・・・昔、淀の水津村の漁師で、非常に乱暴なことから「悪次郎」と呼ばれていた男がいました。ある日、この男の元へ、見知らぬ托鉢僧が物乞いにきました。悪次郎は全く相手にしませんでしたが、その後も托鉢僧は、毎日物ごいに来ます。ついに腹を立てた悪次郎は、僧の左の頬に焼火箸を押しつけました。しかし僧は微笑んで何も無かったかのように去っていきました。
気味が悪くなった悪次郎が僧の後を追うと、僧は粟生の光明寺の辺りで姿を消しました。悪次郎が不思議に思って寺の住職に頼んで御堂の中に入ると、釈迦如来像の左の頬に火傷の跡があったのでした。驚いた悪次郎は、大変な事をしてしまったと後悔し、以後、お釈迦様を深く信仰して善行を心掛け、「慈悲の弥陀次郎」と呼ばれるようになったということです。


この釈迦堂(方丈)の前庭は、「信楽庭(しんぎょうてい)」と呼ばれる枯山水庭園です。
白州に大小十八個の岩を配していて、阿弥陀の慈悲に包まれながら生死の大海を渡る念仏行者の姿を現しています。一番大きな三つの石は弥陀三尊の姿を表し、また十八という石の数は、阿弥陀如来が衆生救済に関する四十八の願い(四十八願)を立てた内の、十八番目「念仏往生の願」を表しています。

講堂は天保四年(1833)に建立され、食堂と共に浄土宗寺院の中でも、壇林(仏教学問所)に関する類例の少ない遺構ということで、その他、大書院、小書院等が連なります。
また、玄関の右には、安貞二年(1228)正月、法然上人の十七回忌に遺骸を荼毘にふした「円光大師火葬跡」があり、跡地に祀られている石造得大勢至菩薩像は、紅葉によく映えます。
さらに、その前には、幹周三百八十八センチ、樹高十五メートル、樹齢は400年〜500年という柏槙(びゃくしん)の大樹があります。柏槙は「イブキ」ともいわれるヒノキ科の樹木で、この木は法然上人の火葬跡前に献樹されたものといわれていて、これほどの大樹は珍しく長岡京市の指定天然記念物や「京都の自然二百選」に選ばれています。

また、付近には法然上人が修行中に宿を借りた「高橋茂右衛門屋敷跡」石標、鎮守社、宝物庫などあります。尚、光明寺は、寺宝として千手観音像(重文)、四十九体化仏阿弥陀仏来迎図(重文)、二河白道図(重文)等の多数の寺宝を所蔵しています。



次回は、いよいよ「もみじの参道(紅葉参道)」です。

光明寺その1

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京都府長岡京市粟生西条ノ内にある光明寺(こうみょうじ)は、西山浄土宗の総本山で、浄土宗開祖、円光大師法然上人が初めて念仏を唱えたとされる地(浄土門根元地)に建つ由緒ある大寺院です。
また、京都の西山を代表する紅葉の名所として知られ、平成十六年(2004)からは、善峯寺(京都市西京区大原野)や楊谷寺(柳谷観音 京都府長岡京市浄土谷)と共に「京都・西山三山」として連携し、自然豊かな京都西山を代表する三つの信仰の場として観光客にも広くアピールしています。
(普段は境内自由ですが、紅葉期間は特別拝観として有料となります。別名「もみじ寺」と呼ばれるように、紅葉の鮮やかさは西山屈指といわれるので、やはり紅葉期間に行くべきでしょう。)


(尚、今回訪問した日は十一月二十六日で、「西山忌」が行われていました。「西山忌」は、宗祖法然上人の教えを受け継いだ光明寺第四世、浄土宗西山派の祖・西山(せいざん)上人こと證空上人の忌日の法会で、今年は第七百五十八回目に当り、御影堂では仏賛歌奉納、法要等が行われました。)

光明寺は、洛西一の伽藍を持ち、境内五万六千平方メートル(約一万八千坪)という大寺院なので、三回に分けて写真を掲載してみます。(光明寺、長岡京市のHPを参照します。)



光明寺は、山号を報国山という西山浄土宗の総本山で、(正式名は報国山念仏三昧院光明寺)、本尊は阿弥陀如来です。
寺伝によると、鎌倉時代初期の建久九年(1198)、法然上人の弟子の蓮生法師(俗名・熊谷次郎直実)の開基とされ、法然上人を開山第一世としています。また、法然上人が念仏の教えを最初に説いた「浄土門根元地」「立教開宗発祥の地」ともいわれ、創建当初は、念仏三昧院と称していました。法然上人二十五霊跡十六番、京都洛西観音霊場七番札所でもあります。


光明寺のある西山の粟生野・広谷と法然上人との関係は、保元元年(1156)、法然上人が二十四歳(1157)の時に遡ります。
当時、比叡山西塔の黒谷で念仏修行を行っていた法然上人は、天台宗だけでなく諸宗の教学を学ぶため、京や南都(奈良)の高僧を訪ねて教えを受けていました。
この時も、嵯峨清涼寺に参籠した後、南都の学匠を歴訪する旅の途中、この粟生野の里の長者だった庄屋・高橋茂右衛門の邸に一夜の宿を借りました。茂右衛門夫婦は、民衆を救いたいという上人の求道の志に感銘を受け、教えを見出した後は、是非最初に自分たちに教えを説いていただきたいと願いました。上人は快く「我正しく、凡夫往生の道を開いた暁には、まず御身にその喜びを分かとう」と約束しました。

その後、二十年の時を経て、承安五年(1175)春三月、四十三歳の法然上人は比叡山を下りて浄土宗を開きました。そして、各地を説法して回る前に、二十年前の約束を思い出して、先ずこの地で茂右衛門夫婦に念仏往生の教化の第一声を挙げたと伝わります。こうして法然上人は、一時粟生広谷に住んだ後、間もなく東山吉水(知恩院御影堂付近)に移りました。


さて、文治元年(1185)頃、源平の戦いで知られる武将・熊谷次郎直実が、吉水の法然上人を訪ねます。直実は、一の谷の戦いで平敦盛を討ってから世の無常を強く感じ、戦の罪業を償う道を模索していたといわれます。法然上人の教えに感動した直実は、弟子入りして剃髪、法力房蓮生の名を授けられました。(出家は建久三年(1192)頃とも)
その後、蓮生法師(熊谷直実)は、数年の修行の後、建久九年(1198)、上人ゆかりの粟生広谷に一寺を建てました。そして、法然上人を勧請して入佛落慶法要を営んで上人を開山第一世と仰ぎ、蓮生自身は二世となりました。この時、法然上人から「念仏三昧院」の寺号を授けられました・・これが光明寺の前身です。


その後、三世幸阿上人の時、建暦二年(1212)正月二十五日、法然上人は八十歳で入滅し、遺骸は東山大谷の地に埋葬されました。しかし奈良や叡山の旧教団からの迫害は続き、嘉禄三年(1227)、叡山衆徒が上人の墳墓を暴いて、遺骸を鴨川に流そうという企てが発覚します。危険を感じた上人の弟子達は、秘かに遺骸を納めた石棺を嵯峨・二尊院、更に太秦・西光寺に移しました。

翌安貞二年(1228)正月二十日の夜、法然上人の石棺から不思議な数条の光明が放たれました。驚いた弟子達が光を追って行くと、都の南西、粟生野の念仏三昧院にたどり着きました。
そこで、同月二十五日、石棺をこの粟生野の地に移して遺骸を荼毘に付し、寺の裏山に遺骨を納める廟堂を建てました。そして、この時の奇瑞にちなんでこれ以後念仏三昧院は光明寺と称し、仁治三年(1242)正月九日、四條天皇から「光明寺」の寺額を賜り、これ以降、寺号を光明寺と正式に改めたと伝えられます。


さて、光明寺のある現在の長岡京市周辺は、京の都と西国を結ぶ交通の要所だったため、特に応仁の乱以降、度々戦乱の舞台となりました。そのため、光明寺も、応仁の乱、細川・三好氏の騒乱、織田信長の元亀・天正の戦乱等の兵火によって焼失・再建を繰り返したようです。
文明二年(1470)二月には、西軍の畠山義就が勝龍寺城を拠点として京を狙い、翌三年(1471)ニ〜七月にかけて光明寺のある粟生や善峰の麓、勝龍寺で合戦を繰り返しています。

一方で、光明寺は、永禄六年(1563)三月に、正親町天皇から「法然上人ノ遺廟、光明寺ハ浄土門根元之地ト謂イツベシ」という綸旨を賜り、以降、「浄土一宗の本廟」「浄土門根元之地」として称し、その権威を高めました。
また、翌永禄七年十(1564)二月には将軍足利義輝から寺領を安堵され、天正九年(1581)九月には正親町天皇から紫衣の綸旨を賜っています。豊臣政権でも寺領を安堵されて、江戸時代の慶長十六年(1611)四月には、浄土宗西山流派は光明寺と禅林寺(永観堂 現・浄土宗西山禅林寺派総本山)の両本山体制となっています。
正保(1645〜48)頃には、光明寺本堂(御影堂)が建立され、明暦二年(1656)八月に廟堂が建立、同三年(1657)五月には梵鐘が鋳造されたという記録があり、江戸初期には堂宇の整備がほぼ完成していたのでしょう。

しかし、享保十九年(1734)十一月に、光明寺の客殿から出火した火災により堂宇が全焼失し、その後再建が始まります。享保二十年(1735)一月に半鐘が鋳造され、寛保元年(1741)四月には高槻藩京屋敷から「円光大師石棺」を譲渡、宝暦2年(1752)四月に御影堂(本堂)が上棟、明和四年(1767)三月に殿鐘が鋳造、寛政十一年(1799)四月に阿弥陀堂が上棟しています。

その後、元治元年(1864)七月には、長州藩兵が勤皇派に協力した光明寺に進駐して方丈や本堂を宿所とし、十九日の禁門の変を起こします。そして、敗北した長州軍を追って、二十一日、幕府軍が山崎に進攻して放火したことから、光明寺では本尊や寺宝を避難させ、僧侶らが山奥で野宿したということです。明治維新後は、勤王派への献金による財政悪化や廃仏毀釈による影響で衰退し、末寺から補助を募るなど苦労しますが、徐々に再建し現在のような大寺院へと復興して現在に至ります。



字数オーバーのため、次回に境内の建物等について書いてみます。

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