京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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円山公園の南にある円山音楽堂の東、石材店の横に隠れるようにある小さな寺院が雙林寺(そうりんじ 双林寺 東山区下河原鷲尾町)です。
現在は僅かに本堂等を残すのみですが、かつては広大な寺域を有した由緒ある勅願寺で、高台寺、東大谷廟、円山公園等は雙林寺の寺域を削って建造されたものです。平安時代の創建以来、衰退縮小しながらも現在まで存続し続けてきた、この地域の歴史の生き証人のようなお寺といえるでしょう。(以下、雙林寺の無料配布説明書(ホームページでも公開されています)を参照します。



雙林寺(双林寺)は、山号を金玉山という天台宗寺院で、本堂には、本尊の薬師如来像(国重文指定)と歓喜天像を祀ります。平安時代初期の延暦二十四年(805)、桓武天皇の勅命により、左大使尾張連定鑑(おわりのむらじさだみ じょうかん)が、伝教大師最澄を開基に招いて日本初の護摩祈祷道場として創建としたのが雙林寺の始まりと伝えられ、唐の沙羅双樹林寺に因んで、霊鷲山沙羅双樹林寺法華三昧無量壽院(正式名)と称しました。そして、弘仁十四年(823)の比叡山延暦寺の建立後は、その別院となったということです。

その後、永治元年(1141)には、鳥羽天皇の皇女・綾雲女王が住持となり、建久七年(1196)には、土御門天皇皇子・静仁法親王がこの寺で得度して双林寺宮と称する等、皇室との関係も深かく、鎌倉時代までは、数万坪という広大な寺領に十七の支院(塔頭)を有していたようですが、南北朝時代の建武二年(1335)に足利尊氏と新田義貞との戦場となって荒廃したと伝えられます。
その後、室町時代の至徳年間(1384〜87 または、応永年間(1394〜1427)とも)に、国阿(こくあ)上人が入寺して、山号を中霊山として時宗国阿派の本山、東山道場と称して再興しました。そして、後小松天皇の深い帰依を受けて、至徳三年(1386)に「金玉山」の宸額を賜っています。 しかし、その後、火災や応仁の乱によって再び荒廃しました。


また、平安時代末期には西行法師や平康頼(たいらのやすより)、南北朝時代には頓阿(とんあ)上人が雙林寺山内に庵を構えていたとも伝えられます・・

平安末期から鎌倉初期の歌僧として有名な西行法師(1118〜1190)は、俗名を「佐藤義清(さとうのりきよ)」という鳥羽上皇に仕える北面の武士でしたが、二十三歳の時、武士の名誉や出世等も捨て去って突然出家しました。その後、京を離れ全国を行脚しますが、雙林寺へは出家の翌年の永治元年(1141)から、その塔頭「蔡華園院」に居住していたようです。
「山家集」(上、冬歌)には、野辺寒草といふことを双林寺にてよみにける「さまざまに 花咲きけりと見し野辺の 同じ色にも霜枯れにけり」という歌があります。 また、有名な「山家集」(上、春歌)にある「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月の頃」という歌は、何時何処で詠まれたのかは不明ですが、「西行物語」によると、晩年は雙林寺に庵を結んで修行していたと記していて、その庵(西行庵)前の桜のもとで詠まれたのではないかという説があります。

また、北面の武士で後白河法皇の近習として知られる平康頼(?〜1220)は、治承元年(1177)、「平家物語」で有名な平家打倒を企てた鹿ケ谷の変が発覚し、少将藤原成経や法勝寺執事俊寛と共に鬼界が島に流されますが、翌年赦免されて帰洛し、この雙林寺の山荘(現在の東大谷祖廟の付近と推定)に隠棲して、晩年、この地で仏教説話集「宝物集」を著したとされます。
さらに、南北朝時代の和歌四天王の一人に数えられる頓阿法師(1289〜1372)は、西行を慕って諸国を行脚し、西行ゆかりのこの地に草庵を結んで「草庵集」を著しています。


また、中世以降、雙林寺は、桜の名所として知られたことから、安土桃山時代の天正十二年(1584)には、羽柴(豊臣)秀吉が花見の宴を催し、前田玄以に命じて花樹保護の制札を立てさせたといわれ、翌十三年(1585)には、秀吉が本堂を再建しています。
そして、慶長十年(1605)に高台寺、承応二年(1653)に東大谷廟が造営されることとなり、寺領を献上し規模を縮小しました。その後、明治維新の際に、再び天台宗に改め、明治十九年(1886)の円山公園の建造の際に、多くの寺領を上地して失いました。そして、現在は僅かに本堂一宇と飛地境内にある西行堂を残すだけとなっています。




本堂に安置する本尊・木像薬師如来坐像は、伝教大師最澄の作と伝わる平安時代の榧材一木造りの高さ約九十センチの像です。翻波式衣文がよく表現されている重厚な堂々とした姿で、国の重要文化財に指定されています。また、秘仏の歓喜天(聖天)は、西大寺管長で生駒山宝山寺貫主・松本実道大僧正が当寺のために勧請した、正に生駒聖天の分身というべき霊験あらたかなる尊像ということです。(毎月一日の聖天日、八日の薬師日に、第三日曜日には本堂にて護摩祈祷が行われます)

境内には、他に本堂の西南には小さな地蔵堂があり、その前には法華塚があります。
法華塚は、永治元年(1141)に、鳥羽天皇の皇女・綾雲女王が雙林寺の住持となった際、父鳥羽天皇の菩提を弔うために法華塔を建立し、天皇自ら書写した金字法華経八巻を納めましたが、応仁の乱によって宸筆法華経と共に罹災したため、その跡地にその灰土を集めて一塊の塚としたと伝えられているものです。

そして、明治五年(1872)八月、追善のために法華塚を修繕したときに地中より出現したのが、地蔵堂に安置されている地蔵菩薩像です。この時、長年持病に悩まされていた大阪の森田某という人が通りかかって、この地蔵菩薩に持病平癒を一心に祈願したところ、不思議にも数日後に全快したということです。
霊験に非常に感謝した森田某氏は、報恩感謝のため、現在の地蔵堂を建立し、寺のある鷲尾町町内守護と共に地蔵菩薩を祀りました。そして、現在も持病平癒地蔵尊として、多くの人々の信仰を集めているということです。(毎月二十四日は地蔵日として読経が行われます)

また、本堂西側にある三塔は、左から、頓阿法師、西行法師、平康頼の供養塔と伝えられていて、前述したように雙林寺ゆかりの人物であるところから、後世に好事家によって建てられたものと考えられています。また、かつて境内には、頓阿法師と平康頼の墓があったとされるということですが、実際の所は不明のようです。



最後に、飛び地境内にある西行堂です。
この西行堂は、本堂の西南、円山音楽堂の南(円山公園音楽堂南鷲尾町)にある西行庵内にあります。境内の拝観は自由ですが、堂内は非公開です。また、西行庵内の他の隣接する借家(松井氏)や「茶席(花輪氏)」の迷惑にならないように拝観することが望まれます。 
  
この西行堂は元々、天正時代に場所は不明ながら西行が居住したという塔頭、「蔡華園院」(西行草庵)の跡地に建立されたものということです。その後、享保二十一年(1731)に、摂津池田李孟寺の天津禅師によって、現在の地に移築再興されました。また、明和七年(1770)に冷泉為村が修繕しています。 堂中央には、為村筆の「花月庵」と記した横額が掛けらていて、その当時は、為村が「花月庵」と命名していたようです。その後、明治二十六年(1892)富岡鉄斎が勧進文を書き、庵主宮田小文法師によって、隣接する茶席(浄妙庵・皆如庵)が移築され、現在の姿となったということです。

尚、西行庵は、母屋、皆如庵(浄妙庵・皆如庵)、雙林寺が管理する西行堂からなり、茅葺きの母屋は、大徳寺塔頭真珠庵の浄妙庵を移したもので、皆如庵は、桃山時代の名席で、円窓の床と「道安囲い」が有名ということです。(尚、西行庵は、庵主花輪氏が管理し、茶室の予約拝観も可能です。)
また、西行堂内には、西行法師僧像、頓阿法師僧像が祀られていましたが、現在は雙林寺本堂に移されています。また門横にある「不許葷肉入門内」という石碑は、「葷(くん=ニンニク、ネギ、ニラ)や、肉の入門を許さず」と訳され、修行に必要の無い物の持ち込み禁止という意味になります。

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清水寺への参詣道として知られる五条坂の途中、清水寺の大きな駐車場の西にある安祥院(あんしょういん 京都市東山区五条通東大路東入遊行前町)は、通称「日限(ひぎり)地蔵さん」「日限さん」として親しまれている寺院です。
本堂の左にある地蔵堂に祀られる地蔵菩薩像(日限地蔵)は、参拝者が自分で日数を決めて祈願することが出来るお地蔵様として知られ、広く信仰を集めています。 それ程広い境内ではありませんが、清水寺周辺の観光寺院の混雑ぶりとは違う、静かな一時を感じられる寺院です。


さて、安祥院(あんしょういん)は、東山木食寺と号する浄土宗寺院です。
元々は、平安時代の天慶五年(942)に、朱雀天皇の勅願によって、天台座主尊意(そんい)僧正が乙訓郡大藪郷(現南区久世大藪町)に創建した護国院(ごこくいん)という天台宗寺院が起源と伝わります。その後、護国院は荒廃しますが、鎌倉時代の文永年間(1264〜75)、法然上人の高弟・勢観房源智(げんち 浄土宗総本山・知恩院の第二世)上人の弟子、蓮寂(れんじゃく)上人が再興して、浄土宗寺院に改め安祥院と称しました。その後は浄土宗の念仏道場として栄えますが、南北朝の兵火に遭って焼失。その後、再建されるものの、江戸時代に再び衰退します。そして、享保十年(1725 或いは十二年(1727))に、木食正禅養阿(もくじきしょうぜんようあ)上人が中興して、現在の地に移転しました。


木食正禅養阿上人については、前にブログパート1で松明殿稲荷神社(下京区七条通賀茂川西入稲荷町)を採り上げた際に書きましたが、少し再掲載しておきます

木食とは米穀を断って木の実を食べて修業することで、この苦行を修めた僧は、木食上人と呼ばれていました。木食正禅養阿(?(1687とも)〜1763)上人は、この苦行を修めた江戸中期の真言宗の僧侶で、特に社会事業に尽くしたことで知られています。

養阿上人は、丹波(京都府)桑田郡保津村の武士の子として生まれ、二十四歳で仏門に入って「朋厚坊正禅」と改名し、泉涌寺雲龍院で修業しました。高野山で木食行を修めた後、信濃(長野県)や美濃(岐阜県)を行脚し、京都に戻って七条大宮に「梅香庵」という草庵を結びました。そして、「南無阿弥陀仏」を唱えて念仏行脚するなど念仏聖として、一般寺院から敬遠された罪人や身寄りの無い不遇な人々の魂を供養するため、洛中洛外の無縁墓地を回りました。
当時京都には十一ヶ所の無常所(南無地蔵、大谷、西ノ土手、粟田口、最勝河原、元三昧の六つの墓地と、狐塚、阿弥陀ケ峰、中山、千本、七条金光寺の五つの三昧堂)があり、上人はこれら無縁墓地や刑場傍の墓地で墓参りを三年間続け、またこれらの内十ヶ所で死者の供養のための名号碑を建立しています。

そして、享保十年(1725)、五条坂の安祥院を再建し、その後も、様々な社会事業を行いました。
元文三年(1738)には、三年もの月日を掛けて東海道五十三次の難所といわれた京都への入口に当る峠道・日ノ岡峠(蹴上から山科へ抜ける旧国道1号線)の改修工事を完了、ここに峠道の管理所、休憩所として最初の庵と同名の梅香庵(木食寺)を建てています。
元文六年(1741)に「法橋」の位を授かって、「養阿」と号し、延享四年(1747)頃には、急坂のある渋谷街道(現・東山区から山科に抜ける渋谷道)の補修工事を行っています。そして、宝暦十三年(1763)に亡くなり安祥院に埋葬されました。



さて、安祥院の本尊・阿弥陀如来像は、木食正禅養阿上人の自作と伝えられ、安祥院は、「六阿弥陀巡拝(めぐり)」の第四番札所になります。
この「六阿弥陀巡拝(めぐり)」は、木食正禅養阿上人が阿弥陀仏の霊感を受けて発願したもので、功徳日(毎年の変動はありません)に当たる、正月十五日、二月八日、三月十四日、四月十五日、五月十八日、六月十九日、七月十四日、八月十五日、九月十八日、十月八日、十一月二十四日、十二月二十四日、春秋彼岸に、三年三ヶ月、この「六阿弥陀」に参拝すれば、無病息災、家運隆盛、諸願成就を得るといわれています。

尚、「六阿弥陀巡拝(めぐり)」の札所は、以下の寺院になります・・


一番・東山 真如堂(真正極楽寺) 阿弥陀如来

二番・東山 永観堂禅林寺 阿弥陀如来

三番・東山 清水寺阿弥陀堂 阿弥陀如来

四番・五条坂日限 安祥院木食寺 阿弥陀如来

五番・新京極さかれんげ 安養寺 阿弥陀如来

六番・新京極 誓願寺 阿弥陀如来



また、本堂の左にある地蔵堂に祀られている地蔵菩薩像は、木食正禅養阿上人が、享保十五年(1730)に作ったとされる高さ二・六メートルの金銅製の像です。
享保十三(1728)年に、霊元法皇に仕える女官が病気で亡くなった際、養阿上人がその供養しましたが、この時、上人の地蔵建立の願いを聞いた法皇は、鏡や白銀等を寺に下賜しました。そして、これら鏡等を鋳入してこの地蔵像が完成したと伝えられます。また、こうした伝承が伝えられるように、安祥院は皇室との関係も深かったようで、「拾遺都名所図会(天明七年(1787)刊行)」は、安祥院は零元法皇の勅願所で、後西院(後西天皇)の位牌を祀ると記しています。
そして、この地蔵菩薩は、明治時代に入ると、通称「日限さん」と称されるようになり、参拝者自身が一定の日数を決めて願い事をすると、諸願成就するとして信仰を集めることになりました。


また、境内には、木食正禅養阿上人の墓塔、上人が一条寺の狸谷不動尊(ブログパート掲載)に造立した後に、移したものとされる不動明王像、弁財天等が祀られ、木食正禅養阿上人が日ノ岡峠道の普請に使った車石、西京極の佃橋(旧天神川)に架けられていた橋桁石、上人自筆の大日三尊光明真言碑等があります。
また、境内にある山桜は、ヤマザクラとオオシマザクラの自然交配種で非常に珍しい貴重な品種(ヤマザクラ近縁種)で、平成十六年(2004)三月に、京都市の保存樹に指定されました。老木のため一時衰弱しましたが、不定根の発達で無事に再生し、毎年四月には綺麗な花を咲かせています。


また、安祥院は、境内墓地に勤王の志士として知られる梅田雲濱(うめだうんぴん)の墓があることでも知られます。(写真)
梅田雲浜(1815〜59)は若狭小浜藩の藩士の家に生まれ、儒学者として大津に湖南塾を開き、小浜藩の塾望楠軒の講主として迎えられますが、海防策の意見書を藩主に提出したのが藩政批判とみなされ版籍を剥奪されます。こうして浪人となった雲濱は、この一乗寺の葉山観音堂の堂守小屋に住むことになりました。妻を抱え、その日の暮らしも出来ないほど困窮していたようです。
その後、ペリー来航時には,尊皇攘夷を唱えて志士たちの精神的な指導者として活躍しますが、安政の大獄で捕えられ獄死しました。

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今回は、かなり前にブログパート1に採り上げた八坂庚申堂(やさかこうしんどう)の写真を増やしてバージョンアップ版として更新します。(尚、パート1とパート2に掲載している史跡は、原則として重ならないようにしているので、前記事は全て削除しています)

さて、京都市東山区金園町、東山の八坂の塔の坂道の下に、観光客の目を引く朱塗りの山門のある、いかにも庶民的なお寺があります。これが、地元で「庚申さん」と親しまれている八坂庚申堂です。
「庚申さん」こと、八坂庚申堂は、正しくは、大黒山延命院金剛寺という天台宗寺院で、この庚申堂は、大阪の四天王寺庚申堂、東京の入谷庚申堂(現存しません。現在は浅草の浅草寺が代わって三庚申といわれます)と並び日本三庚申の一つとされます。特に、この八坂庚申堂は、日本最初の庚申信仰の霊場ということで、本尊の青面金剛童子は飛鳥時代に渡来した秦河勝により秦氏の守り本尊として請来されたと伝えられます。


庚申信仰は、元々中国の道教の教えから来た信仰で、その後、仏教、神道、修験道等の様々な信仰と結びついて全国で流行しました。元々特定の本尊の無い庚申信仰は、神仏混交の影響から、日吉山王信仰(日吉大社の祭神「大山咋神(おおやまくいのかみ)」は、神社が天台宗延暦寺の鎮守社となったことで、山王信仰へと発展しました)と結びついて山王権現、また仏教系では青面金剛や帝釈天、神道系では猿田彦神を祀ることが多かったようです。

この「庚申」とは、干支の「庚(かのえ)申(さる)」の日を意味し、六十日ごとに来る十干十二支のこの日の夜に、人の体中にいる三尸(さんし 三匹の虫)が、寝ている間に抜け出して、寿命を司る神である天帝にその人間の行った罪を告げに行くといわれ、これを知った天帝は、その罪の罰としてその人間の寿命を縮めると考えられていました。そして、これを防ぐために、庚申日の夜は寝ないで徹夜するという「庚申祭」という風習があり、時代により「守庚申(しゅこうしん)」、「庚申待(こうしんまち)」等とも呼ばれています。

この風習は、平安時代初期頃より中国より伝来して貴族の間に、さらに仏教と結び付いてからは広く諸国に広まり、鎌倉から室町時代には武家に、さらに江戸時代には広く庶民の間でも信仰されました。特に、江戸時代には、村落全体で酒盛りをして一夜を明かすという寄り合い組織「庚申講(こうしんこう)」が全国で作られていました。八坂庚申堂の本尊・青面金剛は、抜け出した三尸(三匹の虫)を食べると考えられていたので、いつの頃からか「庚申待ち」には、青面金剛を拝むという信仰が広まり、青面金剛は庚申さんと呼ばれるようになったようです。

また、仏教系神道系に関係なく庚申信仰のシンボルと知られるのが猿です。
その由来は「庚申」の「申(さる)」=「猿」から来ているとも、山王信仰の神使である猿が採り入れられたとも、また三尸(三匹の虫)に告げられないために「見ざる(猿)、言わざる(猿)、聞かざる(猿)」が阻止するという意味である等と諸説ありますが、この三神猿は、世の諸悪を排除して開運招福をもたらすとして庚申信仰の地では必ずどこかに描かれているようです。


さて、八坂庚申堂こと金剛寺は、平安時代の中頃、役行者以来の修験道の大家といわれた雲居寺の僧、浄蔵貴所(じょうぞうきしょ)が、庶民にもお参りできるように、八坂の地に青面金剛を祀る庚申堂を建立したのが始まりと伝えられますが、一説には聖徳太子の創建という説や、八坂の塔(法観寺)の末寺だったという説もあるようですが、実際は確かな事は不明のようです。

現在の御堂は、江戸時代の延宝六年(1679)に再建されたものといわれ、表門の屋根の上には「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿像があり本堂の周りには、たくさんの「くくり猿」が、参拝者により吊るされています。「くくり猿」は、猿が手足をくくられ動けない姿を現わしていて、猿を人間にたとえ、人間の心の中にある欲望が動かないように、庚申さんに括り止めてもらうという禁欲のおまじないです。また、こんにゃくを病人の頭の上に吊るすと病気が治るという「こんにゃく祈祷」、下着に祈祷印を受けると、家族に下の世話の面倒を受けないという「たれこ封じ」等の庶民信仰も伝えられ、現在も、八坂庚申堂は、これら病気や災難除けにご利益があるとして親しまれていて、八坂の小さなシンボルのひとつになっています。

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映画館祇園会館の西約百メートル、祇園のネオン街の真ん中(京都市東山区新橋南通東大路西入ル祇園町北側)にある小さな神社が、観亀稲荷神社(かんかめいなりじんじゃ)です。

すぐ北西の元吉町(新橋花見小路西入ル元吉町)にある辰巳大明神が、芸妓さんの守り神、祇園白川・新橋のシンボル的な神社として京都観光ガイド等に採り上げられるのに対し、こちらの神社は一般的にはほとんど知られていないでしょう。(祇園新橋を除くと、鴨川と四条通・東大路通に囲まれた祇園町北側一帯は、普通のネオン街と化していて、京都らしさはまったくといって無いので仕方ありません。)
しかし、観亀稲荷神社は、江戸時代の膳所藩ゆかりの歴史ある神社で、火伏せ(防火)の神として祇園の歓楽街を火災から守っているようです。(以下、神社にある由緒書を大部分引用します)



さて、観亀稲荷神社の祭神は、加具都智命(かぐつちのみこと)宇賀御魂命(うかのみたまのみこと)です。元々、祇園町のこの地域は、江戸時代初期、京都御所警衛を担った近江国膳所藩第二代藩主・本多俊次(ほんだとしつぐ 1595〜1668)が、万治二年(1659)十月に幕府より賜った膳所藩京屋敷跡になります。
この当時の屋敷の区域は、東は今の東大路、西は花見小路、北は新橋町通、南は富永町通りに囲まれた約四千三百五十坪だったということで、現在の観亀稲荷神社をほぼ中心とした祇園町北側周辺一帯ということになります。

また、その約五十年後の宝永六年(1709)に、当時の膳所藩主、本多康慶(ほんだやすよし 1647〜1718)は、郡山、淀、 亀山(今の亀岡)藩と共に、将軍から京都御所の火の番(火元管理)のため京詰を命令され、この四藩が臨月交代で幕末まで御所の警備をしました。


さて、観亀稲荷社は、この康慶の子・康命(やすのぶ 1672〜1720)が、御所の火の番である膳所藩が火を発しては恐れ多いから、火伏せの神・遠州秋葉山の秋葉権現を藩邸に勧請するようにという父康慶の遺言によって、享保三年(1718)に、膳所藩内の茶臼山(ちゃうすやま)に秋葉権現を勧請し、更にその分霊を当地に移祀したものということです。

また、神社の創建当時は、この付近は竹薮で覆われていたため、これを伐り開くと、亀が出て歓んだということから、観亀、歓亀または歓喜神社と称し、その後、(恐らく稲荷神を合祀したために)観亀稲荷社と称するようになりました。そして、現在も飲食街の真ん中という場所がら火伏せ(防火)の神として崇敬者が多いということです。
また、現在の社地は、元々の膳所藩京屋敷の中庭に当たるとされます。

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京都市東山区粟田口鍛冶町、粟田神社と仏光寺本廟の間にある良恩寺は、通常非公開寺院の小さなお寺ですが、エピソード的に話題がある寺院でもあります。


さて、良恩寺は、山号を華頂山(かちょうざん)という浄土宗西山禅林寺(総本山は永観堂禅林寺)に属する寺院です。創建は永禄年間(1558〜70)とされ、元治元年(1864)に刊行された「花洛名勝図会」は、元々は天台宗寺院で、中世になって浄土宗に改め、その後青蓮院に属したと記します。また一説には、周辺地域にこの寺院に関連する名前が多いことや付近から金紋の瓦が出土することなどから、かつては広大な敷地を有する寺院だったという説を記しています。

本堂に祀られる像高三尺(約九十センチ)の阿弥陀如来坐像は、小野篁(おののたかむら)作と伝わり、地蔵堂(導引地蔵堂)に祀られる地蔵菩薩像は、伝教大師の作とも伝わり、「導引地蔵(みちびきじぞう)」の名前で知られています。

この「導引地蔵(みちびきじぞう)」という名前の由来ですが、「花洛名勝図会」も少し記していますが、かつて背後の華頂山(東山三十六峰の一つ)に火葬場があったことが関係しているようで、良恩寺はこの火葬場を管理し地蔵堂の前で葬者に引導を渡していたことから、この地蔵尊は導引地蔵と呼ばれるようになったといわれます。


また、良恩寺は、寺宝として豊臣秀吉ゆかりの「手取釜」を所蔵しますが、この釜には、以下のような伝承があります・・・
その昔、この良恩寺のある粟田口付近に、粟田口善法(あわたぐちぜんほう)という茶人がいました。わび茶の創始者として知られる村田珠光(むらたじゅこう)の弟子といわれ、この粟田口に草庵を構えて隠者として暮らしていました。善法は清貧を旨として、食事も茶の湯もただ一つの茄子型の手取釜を用い、時には往来の者を呼び入れてこの釜で茶を振舞ったということです。

さて、この釜が天下の名器だと知った豊臣秀吉は、早速、千利休を介して大金で釜を譲るようにと持ちかけました。しかし、善法は「この釜を献上してしまったなら、何で茶を飲めば良いのか?このような釜を持っているから所望されるのだ」と大事な釜を叩き壊してしまいました。
このことを聞いた秀吉は、自分が釜を所望したのは誤りだった悔やんで、これと同じ手取釜の写しを二つ鋳造させて、一つを善法に与え、もう一つは自分用にしたといわれます。そして、良恩寺には、この時、善法が拝領した茄子型の手取釜とされる釜が伝えられています。

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