京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

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今回は、京都市伏見区羽束師を代表する神社として、羽束師神社(はつかしじんじゃ 羽束師坐高産日神社)を採り上げます。
京都在住の方なら、羽束師という地名を知らなくても、京都府運転免許試験場がある地域といえば、ほとんどの人がご存知かと思います。羽束師神社は、運転免許試験場から直線で約六百メートル北、西羽束師川に沿った所にある神社で、遠くからでも鎮守の森が望まれ、地域のシンボルとして広く親まれています。それ程広い社域ではありませんが、京都市内でも最古の神社の一つとされ、歴史的にも注目すべき神社です。


さて、京都市伏見区羽束師志水町にある羽束師神社は、正式には、「羽束師坐高産日神社(はづかしにますたかみむすひじんじゃ)」といい、主祭神として高皇産霊神(たかみむすびのかみ)相殿に神皇産霊神(かみむすびのかみ)を祀ります。

神社の由緒書を引用しながら書いてみると、この両神は、天地開闢の際、高天原に現れて万物を造化したという三神の内の二神(他は天御中主神)であり、神名の「産霊(むすひ)」とは、万物の生産、生成を意味する言葉で、その成長する力を霊力とすることから、生産向上や諸縁むすび、安産の御利益があるとされます。
また、高皇産霊神は、別に高木神(たかぎのかみ)とも呼ばれるように、御神木(元々、神の宿る高木=御神木を神格化したものと考えられます)や神籬(ひもろぎ)との関係が深い神だったようです。
(特定の場所に社殿が建立される以前の古代の神道では、祭事の際には、巨木(御神木)の周囲に注連縄や玉垣で囲った聖地となる場所(神籬)を造り、そこに神の降臨を招いて祭祀を行いました)

その後、特に農耕神(田の神)として信仰され、その降臨を仰ぐ様々な祭礼行事に関わりのある天神とされます。そして、五穀豊穣を祈願する人々の間に稲霊(いなだま)を崇める「産霊(むすひ)」信仰が育まれ、収穫時期に新穀を神と共に新嘗(しんじょう)する農耕行事は、その最も重要な祭儀となりました。こうして、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)と神皇産霊神(かみむすびのかみ)を祀る「産霊(むすひ)」信仰が発展して、弥生時代から現在まで様々な文化を融合しながら新嘗祭(しんじょうさい にいなめさい)となり、勤労感謝の日として現在まで伝承されているということです。

また、高皇産霊神は、皇室や朝廷にとって最も重要な神の一つとして宮中の神祇官西院に設けられた八神殿に祀られましたが(天照大神(あまてらすおおみかみ)が皇祖神とされる以前は、この高皇産霊神が天皇家の祖神だったという説もあります。)、この祭神を祀る神社は「延喜式神名帳」記載の古社中で数社、京都では宮中を除いて羽束師神社のみになります。



さて、桂川や旧小畑川等の諸河川が合流する羽束師周辺地域は、かつては乙訓郡羽束郷と称され、長岡京の都の東端に位置し、水上交通の要地、農耕地として古くから栄えた地域でした。
また、良質の泥土も採取されることから、土器や瓦の製作、石灰の加熱精製等も行われました・・元々、「羽束師(はつかし)」とは、土や泥を意味し、「泊橿部」「泥部」「埿部」(はつかしべ、はせつかべ、ひじべ等と読みます)等と称した瓦や土器等の製作に携わった品部(職業集団)と関係が深い地名と考えられています。

「日本書紀」には、垂仁天皇三十九年冬十月、「(中略)是時楯部。倭文部。神弓削部。神矢作部。大穴磯部。泊橿部。玉作部。神刑部。日置部。大刀佩部。并十箇品部賜五十瓊敷皇子。(・・この時、楯部・倭文部・神弓削部・神矢作部・大穴磯部・泊橿部・玉作部・神刑部・日置部・太刀佩部等合わせて十箇の品部(とものみやっこ)を五十瓊敷皇子(いにしきのみこと)に賜う)」と記載され、また、「令集解」の職員令には「泥部=泊橿部とは古の波都加此の伴造を云う」と記されていますが、古代から羽束師地域には、「はつかし」と称する職業集団が居住し、長岡京の建造の際にも瓦等の製作に携わったと推測されます。実際、平成の発掘調査によって、神社の西方の長岡京の左京・四条四坊に当る旧址から、祈願の際に献上される土馬が発掘されていますが、これもこの地域の陶工集団が作ったものと思われます。そして、羽束師神社は、元々、この地の羽束氏がその祖神を祀った神社ではないかとも考えられています。


次に、羽束師神社に関する文献上の記録です・・

文政年間(1818〜29)の当社神主古川為猛の「羽束師社舊記」によると、羽束師神社は、古代の雄略天皇二十一年丁己(477)の創建と伝えられ、その後、天智天皇四年(665)に勅命によって中臣鎌足が再建、延暦三年(784)長岡京遷都の際にも再建されたと記します。
また、「続日本紀」大宝元年(701)四月三日条に「勅。山背国葛野郡月読神。樺井神。木島神。波都賀志神等神稲。自今以後。給中臣氏。(勅により月読神、樺井神、木島神、波都賀志神等の神稲は今より以後中臣氏に給へ)」とあり、この「波都賀志神」が、羽束師神社についての最古の記録になり、少なくとも大宝元年以前に遡る古社と考えられます。
この「続日本紀」の記載は、羽束師神社等四社に属する斎田から抜穂して奉祭し祭人中臣氏が新嘗祭を行ったことを示していますが、中臣鎌足が再建したという伝承と合わせて、この神社と中臣氏との関係の深さが伺われます。また、「羽束師社舊記」は、大同三年(808)に、斎部広成(いんべひろなり)の奏聞によって摂社十一社を勧請したと記しています。

その後、「日本三代実録」貞観元年(859)九月八日庚申条に、「山城国月読神。木島神。羽束志神。水主神。樺井神。和岐神。大和国大和神。石上神。大神神。一言主神。片岡神。広瀬神。竜田神。巨勢山口神。葛木水分神。賀茂山口神。当麻山口神。大坂山口神。胆駒山口神。石村山口神。耳成山口神。養父山口神。都祁山口神。都祁水分神。長谷山口神。忍坂山口神。宇陀水分神。飛鳥神。飛鳥山口神。畝火山口神。吉野山口神。吉野水分神。丹生川上神。河内国枚岡神。恩智神。和泉国大鳥神。摂津国住吉神。大依羅神。難波大社神。広田神。生田神。長田神。新屋神。垂水神。名次神等遣使奉幣。為風雨祈焉。」と記されるように、平安時代には祈雨の神として京都周辺の畿内四十四神の一つとして崇敬され、潤雨や風鎮(大風を鎮める)の臨時祭が行われています。
また、延長五年(927)の「延喜式神名帳」では、山城国乙訓郡十九座(大社五座、小社十四座)として式内大社に列せられ、月次祭・新嘗祭の幣に預かりました(大。月次新甞 山城国筆頭に掲載)

その後、中世から近世にかけては、羽束師周辺地域の産土神として崇敬を集め、「都鄙祭事記」には、「久世、久我、古川羽束石祭四月中の巳日にて神輿二基あり。往古は、久世より下の村々は、羽束石社の産子なり。乱国の頃別れしも、上久世続堤より少し下れば往還の東に、羽束石社の御旅所と申す地あり。其所に小社並びに黄楊の古木あり」と記されていて、羽束師だけでなく、久世の南の久我方面一帯までの広い氏子区域を有していたようです。
また、「大乗院寺社雑事記」の文明十四年(1482)九月一日条には、「八月二十七日二十八日、西岡羽束石祭、守菊大夫楽頭、随分得分神事也、百貫計得云々、当座ニ六十貫計懸物在之云々、盛物等大儀講也云々」とあり、祭礼には宇治猿楽守菊大夫が、楽頭職として盛大な神事能を演じたこと等が記され、当時の神社の隆盛や羽束石祭の賑わいが伺われます。その後、明治六年(1873)に村社、明治十五年(1882)に郷社に列しています。



さて、一の鳥居から住宅地にある参道を進むと、こんもりとした鎮守の森に突き当たります。二の鳥居の先には入母屋造の割拝殿があり、その先に神明造の本殿がありますが、これらの建物は、幕末の嘉永三年(1850)の再建です。他に、境内の右手には神輿舎や社務所が建ち並んでいます。
本殿の左右には、天照大神を祀る天照大神杜をはじめ、八幡社、春日神社、大神社、子守勝手社、貴船社、西宮社、巌島社、稲荷社、愛宕社、若王子社の十一の境内社が祀られていますが、これらは、前述したように、平城天皇の大同三年(808)、当時、諸国騒擾が多かったことを憂いて安穏を祈願するために、斎部広成(いんべひろなり)の奏聞によって造営勧請した十一社ということです。また、他に羽束師稲荷神社等が祀られています。

さらに、境外社として、一の鳥居の東には、北向見返天満宮(京都市伏見区羽束師古川町)があります。延喜元年(901)、菅原道真公の太宰府左遷の際、菅公は当社に参拝して、都のある北を向いて「君臣再び縁を結び給え」と祈念した上、「捨てられて思ふおもひのしげるをや 身をはづかしの社といふらん」という歌を詠じたとされ、このゆかりの地に菅公の遺徳を慕い奉祀されたものです。

神社の境内は、古来「羽束師の杜(森)」と呼ばれる豊かな鎮守の森で、古歌に詠まれ親しまれてきました。現在は森の面積は縮小したと考えられますが、近年、周辺環境が都市化により激変している中で、京都市内最古といわれる神社とその森の価値はたいへん高いということで、境内全域が京都市指定登録文化財の史跡に指定されています。また、境内のクスノキは区民の誇りの木に選ばれています。


他に、境内には、「治水頌功之碑」や「羽束師川」の石標がありますが、これらは、江戸時代の羽束師神社の神官古川吉左衛門為猛に関する石碑で、古川為猛は、羽束師地域の発展に努めた人物です。

古来、羽束師の地は農耕が盛んでしたが、桂川右岸には低湿地帯が広がり、度重なる川の氾濫に住民は苦しめられました。そこで、江戸時代の文化八年(1811)、土地の住民達の組合組織が中心となって治水工事が行われました。工事は費用面等の苦労からなかなか完成しませんでしたが、当時の羽束師神社の神官古川吉左衛門為猛の努力によって、十七年の歳月を経て文政八年(1825)、現在の久我から古川、樋爪、水垂、大下津、山崎を経て桂川に注ぐ、本支流合わせて総延長十二キロの人工水路「羽束師川」が完成しました。この運河の完成により、周辺は水害から免れ、荒廃した土地は耕地へと変化し現在の地域の発展に繋がりました。

昭和五十年(1975)五月に建てられた「治水頌功之碑」は、この羽束師川の堀削工事に尽くした古川為猛の功績を顕彰する石碑です。為猛は水害に苦しむ地域を憂いて、私財を投入して羽束師川の堀削工事を計画し、十数年の苦心の末にようやく完成させます。為猛は天保七年(1836)に六十七才で死去しますが、その功業を評価されて昭和三年(1928)に従五位を追贈されています。そして、昭和六年(1931)に、頌功の碑が建立されますが、この石碑が盗難に遭ったため、これを復元したのが現在の石碑ということです。

また、「羽束師川」と刻まれた石標があります。こちらも、古川為猛の功績を称えるもので、工事は官府の力ではなく、神明の加護を祈って心身を傾け、私財を投じて地域開発の素志を貫いた古川為猛翁の独力によって成し得た事業であるとし、文政八年(1825)羽束師神社の名をとって羽束師川と命名された際、古川翁の偉業を後世に伝えるために、久我綴道四ッ辻に道標が建立されたものを、由縁の深い羽束師神社境内に移し建てたものということです。

最後に、羽束師神社の年中行事としては、五月中旬の羽束師祭(羽束師の舞・こども神輿)、十月中旬の例祭(舞楽奉納)等が知られています。

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京都市伏見区の久我・羽束師地域は、古くから農業が盛んで、昭和の半ばまでは、田畑の中にぽっかりと浮かんだ久我神社や神川神社、菱妻神社、羽束師神社等の大きな鎮守の森が遠くからでも見ることが出来る長閑な田園地域だったようです。しかし、現在は宅地化が進んで人口も増え、小中学校や病院等も新設されて周辺環境は激変しました。特に、「京都府道123号水垂上桂線」と呼ばれる上桂から淀へ抜ける道路の西側には、一戸建ての数百もの新興住宅が次々と建ち並ぶようになりました。
今回の久我神社(こがじんじゃ)は、そんな住宅街に囲まれた小さな神社ですが、神社の鎮守の森の周辺のみは、今も独特の静けさが漂っていて、古代からの地域の歴史を感じさせてくれる気がします。


さて、京都市伏見区久我森の宮町にある久我神社(こがじんじゃ)は、祭神として、別雷神(わけいかづちのかみ)・建角身命(たけつぬみのみこと)・玉依比売命(たまよりひめのみこと)の三柱を祀ります・・・これらの祭神は、賀茂両社(上賀茂神社と下鴨神社)と同一(別雷神は上賀茂神社、建角身命と玉依比売命が下鴨神社の祭神)になります。

社伝によると、久我神社の創建は、八世紀の末、平安京遷都に先立って、桓武天皇が山城長岡京に遷都した延暦三年(784)頃、王城の艮角(うしとらのすみ 北東)の守護神として、この地に鎮座されたと伝わり、延喜式の神名帳では「久何神社」と記され、乙訓郡十九座(大五座、小十四座)に数えられる京都市内でも最古の神社の一つといわれています。また、祭神が賀茂両社(上賀茂神社と下鴨神社)と同一であることから、江戸時代には、鴨森大明神、また森大明神とも呼ばれていたと伝えられます。そして、なぜ、賀茂氏の祖神が祀られているのかという疑問点から、以下のような興味深い説があります・・


まず、一説によると、久我神社は、元々、古代に山背久我国造として北山城一帯に勢力を持っていた久我氏の祖神、興我萬代継神(こがよろづよつぐのかみ 「三代実録」に記載され、この祭神を祀る神社が、現在の久我神社ではないかと推定されます)を祀った神社でしたが、久我氏の衰退後に賀茂氏がこれに代わってその祖神を祀ったのではないかということです。


また、「山城国風土記」逸文から、当社は、平安・長岡京遷都以前に遡る古社で、賀茂社の前身ではないかという説もあります。(以下に、「山城国風土記」逸文を読み下し文に改めて、掲載してみます。)

賀茂御祖神社(下鴨神社)について記す中で、
「加茂の社 可茂と称ふは、日向の曽の峰に天降り坐しし神、賀茂の建の角身の命、神倭石余比古の御前に立ち坐して、宿りて大倭の葛木の山の峰に坐しき。彼より漸遷りたまひて、山代の国の岡田の賀茂に至りたまひ、山代の河の随に下り坐して、葛野の河と賀茂の河との会へる所に至り坐し、賀茂の川を見廻らして言りたまはく「狭小くあれど、石川の清川にあり」とのりたまふ。仍ち名けて石川の瀬見の小川と曰ふ。彼の川ゆ上り坐して、久我の国の北の山基に定まり座しき。その時ゆ名けて賀茂と曰ふ。

賀茂の建の角身の命、丹波の国の神野の神、伊可古夜日女を娶きて生みませる子、玉依日子と名く。次、玉依日売と曰ふ。玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊したまひし時、丹塗やすなはとこのべさおつひはら矢、川上ゆ流れ下りき。乃ち取りて床辺に挿し置き、遂に孕みて男子生れませり。

人と成りて、外祖父建の角身の命、八尋屋を造り、八戸の扉を竪て、八腹の酒を醸みて、神集へ集へて七日七夜楽遊したまひて、さて子と語らひて言ひたまはく「汝の父と思はむ人にこの酒を飲ましめよ」といふ。即ち、酒圷を挙げて天に向きて祭らむとして、屋の甍を分き穿ち天に昇りたまひき。乃ち外祖父の名に因りて、可茂の別雷の命と号く。謂ゆる丹塗矢は乙訓の郡の社に坐せる火の雷の命なり。賀茂の建の角身の命、丹波の国の神野の神、伊可古夜日売と玉依日売との三柱の神は、蓼倉の里なる三井の社に坐せり。」とあります・・


文中、「彼の川ゆ上り坐して、久我の国の北の山基に定まり座しき。その時ゆ名けて賀茂と曰ふ。(その川からお上りになられて、久我の国の北の山麓に住居を定められた。その時から賀茂というのである)」とありますが、これは、賀茂氏族の祖神、賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)が、大和から木津川を経て久我の国に移り住んで、賀茂氏を称したと解釈できます。
この「久我の国」とは、古代の葛野、乙訓地方の古称とされ、通説では、賀茂川上流の西賀茂を指すとされ、西賀茂の大宮の森の鎮守社「久我神社(ブログパート1に掲載しています)」がこの伝承に因んで祀られています。

しかし、これとは別に、賀茂氏が移り住んだのは、「久我の国」の一部に相当する乙訓(現京都市伏見区)の久我であるとする伝承があり、賀茂氏が当地「久我国」に住居を構えて祖神を祀ったのが当社であり、その後、賀茂川を北上して現在の賀茂の地に鎮座したというのです。


また、同じく、「玉依日売、石川の瀬見の小川に川遊したまひし時、丹塗やすなはとこのべさおつひはら矢、川上ゆ流れ下りき。乃ち取りて床辺に挿し置き、遂に孕みて男子生れませり。(玉依日売が、石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時に、丹塗り矢(赤く塗った矢)が川上から流れてきた。そこで、それを持ち帰って家の寝床の近くに挿して置くと、とうとう身ごもって男の子を産んだ。)」という文に関連して、久我の里には、久我の西方(乙訓座火雷神)から、丹塗り矢が当社(玉依比売命)に飛んできて、 やがて当地で別雷神が生まれたという伝承もあるということです。鴨川と桂川の合流地点付近に鎮座するこの神社が、水運を通じて上流の賀茂社と何らかの関係があったのではないかとも想像させる伝承です。


以上のような伝承や諸説があるように、謎めいた歴史が興味深い久我神社ですが、夏でもほの暗い境内にもどこか神秘的な雰囲気が漂っています。この豊かな神社の森は、 かつては、多くの歌に「久我の杜(こがのもり)」として詠まれてきたと伝えられます。
また、江戸時代の記録から、神社には社僧がいたようで、「願応寺に住職社僧となり祭祀を司り寛永十年(一六三三)蓮住院松庵卒す」 と神社の旧記に記されているということです。その後、明治時代に村社に列格し、昭和四十四年(1969)に社務所が改築され、また昭和五十九年(1984) には、御鎮座千二百年を記念する祭事が盛大に行われています。そして、現在もこの久我の郷の人々をはじめ諸人の殖産興業、五穀豊穣、厄除方除、安産育児、平和安全の守護神として崇敬されているということです。


さて、静かな森に囲まれた割拝殿の先には、江戸時代に建てられた本殿があります。
京都市の掲示板によると、現在の本殿は、天明四年(1784)に再建されたもので、棟札から大工棟梁は小嶋弥惣太源久清という人物で、この弥惣太が幼年のため、播磨の宗左衛門と利兵衛が肝煎(きもいり)として造営に携わったことが判明しています。
この本殿は、三間社流造で切石積の基壇上に建っていて、身舎内部は内陣と外陣に分れています。妻飾(つまかざり)は虹梁大瓶束(こうりょうたいへいづか)で、密集した葉を彫刻した笈形(おいがた)が付いていますが、この地域の建造物としては、妻飾等の彫刻がやや派手なことが特徴で、これは、播磨の大工(宗左衛門や利兵衛達)が造営に関与したためと考えられています。
また、造営棟札の他に、普請願書の控えや板製の建地割図等の造営に関する資料がよく保存されていて、建築年代や播磨の大工の関与も認められる比較的大きな社殿で、また保存状態も良好ということから、平成二十年(2008)四月に京都市の登録有形文化財に指定されています。

また、本殿の左右には、末社として春日神社、稻荷神社、八幡宮、天満宮、加藤清正を祀る清正社があり、鳥居の脇には天神立命(あめのかみたちのみこと)を祀る歯神社が祀られています。また、「お唐臼」という石臼が安置されています・・傍の石碑の文字は不鮮明ですが、かつて二丁先の久我神社御旅所の社殿建造の際、この石を持ち帰った者に神異(祟り)があったことから元に戻したと伝えられ、その後、川中に埋もれていたものをこの地に祀ったもののようです。また、境内のクスノキとクロガネモチが区民の誇りの木に選ばれています

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京都市伏見区久我石原町・・桂川に架かる桂川橋(名神高速道路橋梁)西詰に位置するのが、菱妻神社(ひしづまじんじゃ)です。
一の鳥居と境内の間(境内から数十メートル南)には、名神高速道路が頭上を走っています・・このやや落ち着かない環境にある神社ですが、それ程広くない境内は緑に囲まれて、静かで趣があります。
(尚、同名の神社が、直線で約八百メートル北の南区久世築山町にあります。久我(こが)と久世(くぜ)と読みは違いますが、漢字が似ていて、神社名が同じということで、訪問の際は要注意)


さて、菱妻神社の祭神は、天兒屋根命(あめのこやねのみこと)です。

神社の創建は、平安時代後期の第七十四代鳥羽天皇の永久元年(1113)二月、現在の久我地域を代々領有した久我家の祖になる右大臣源雅実(みなもとのまさざね 1058〜1127)が、奈良の春日大明神から藤原氏の祖神・天児屋根命を勧請し、村上源氏の守護神として火止津目大明神(鎮火の神)として崇め祀ったことに始まると伝えられます。
鎮座当時は広大な社領地があったということですが、桂川の大洪水に犯され縮小したと伝えられ、また、久寿元年(1154)に、菱妻大明神に改めています。以来、藤原氏や源氏の氏神であると共に、火止津目の名のごとく火災等災いを鎮め平和をもたらす神として、久我の卿の鎮守の社、久我郷の郷人達の平和と幸福を守護する鎮守の神として崇敬され、また学問文筆上達の御神徳の高い神としても有名だったということです。また、神社の案内板によると、当時、創建当時、華やかな御遷宮が行われたことは、「千種の花を手につみいれて 御所へまいらせ 御所へまいらせ」と囃された当時の古歌からも偲ばれるということです。


神社の祭事の中で、特に五月に行われる神社の氏子祭の起源は古く、室町時代の十五世紀には、ほぼ現在の形で行われていたと考えられています。また、中世には競馬、猿楽、田楽等も行われていたということです。
氏子祭では、神幸祭を「御出(おいで)」といい、かつては夜に行われ、久我村中の者が、鉢巻きにたすき掛けで、「せじゃろや(先女郎)、せじゃろや」と囃し、また、先女郎という女の子が供したということです。また、還幸祭は「千種祭(ちくさまつり)」といい、かつては牛車の供もあり、牛車は青・黄・赤・白・紫の五色の紙で作った造花で飾られ、男の子が乗って囃し言葉を歌ったということです。そして、現在も、千種祭には牛車が飾られ、神輿渡御も行われるということです。


本殿周辺には、村上源氏の祖・具平親王(ともひらしんのう たいのしんのう)を祀る具平宮をはじめ、八幡宮、住吉神社、粟島神社、虫八幡宮、稲荷神社といった多くの末社が点在し、また、参道脇には 平成12年(2000)に解体されたものを移築した久我橋欄干が置かれ、昭和五十年(1975)に度重なる桂川の豪雨災害を抑える重力式低堰堤が完成したことを記念する久我堰災害復旧工事竣工記念碑があります。また、緑豊かな境内にある大きなクスノキ、エノキは伏見区の区民の誇りの木に選ばれています。

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一般観光ガイドには、ほとんど登場しない京都市伏見区西部の久我(こが)や羽束師(はつかし)地域ですが、一見に値する注目すべき神社が幾つかあることで神社通には知られています。

まず、久我には、久我神社(久我森の宮町)や菱妻神社(久我石原町)があり、羽束師には、羽束師坐高御産日神社(羽束師神社)があります。これらに比べると、本殿が新しく魅力という点では劣るかもしれませんが、今回の神川神社も平安時代以前にも遡る古社と伝えられています。
また、これらの神社に共通するのが、周辺環境が良く緑が豊かなこと、また、割拝殿(中央を吹き抜けにして土間とし通り抜けられるようにしています。(私も訪れたことがある大阪府堺市泉北の桜井神社の拝殿(国宝)がよく知られます。)が取り入れられていることです。割拝殿は、京都市内では珍しく、周辺地域の神社に見られることから、この地域が歴史文化的に長岡京等と関連が深かったことを窺わせます。



さて、神川神社(かみかわじんじゃ 羽束師鴨川町)は、「京都府道123号水垂上桂線」と呼ばれる上桂から淀へ抜ける狭い道路に面する神川小学校と田畑の間に静かに佇んでいる小さな神社です。
祭神は、本殿に、煮底筒男命(そこつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、上筒男命(うわつつおのみこと)、上津少童命(うわつわたつみのみこと)を祀ります。

神川神社は、延喜式神名帳の山城国乙訓郡鎮座十九座(大五座、小十四座)に数えられる式内社で、古くは神川座住吉神社と称したと伝えられます。
江戸時代の文政年間(1818〜1829)の当社神主・古川為猛(羽束師神社の神官としても知られます)が記した「住吉社之略記」によると、羽束師東部周辺は、鴨川と桂川の合流地点の西岸でもあるため、度々川が氾濫して湿地帯化し、また難破船があったことから、水運交通の守護神として摂津の住吉社の御神霊を勧請したものと伝えられています。また、延暦三年(784)の長岡京の造営の際は、勅令によって大祓の神事を行ったとも伝えられます。以来、神川周辺地域の産土神として崇敬され、明治六年(1873)に村社に列し、明治十年(1877)に神川神社と改称しました。
その後、昭和五十七年(1982)六月十一日に不測の火災により本殿が焼失し、神殿造営について幾度も協議の末、浄財寄進を募って昭和五十八年(1983)十月中旬にコンクリート造の本殿が竣工、同月二十四日に遷座祭を厳修し復興しました。

さて、木立に囲まれた参道を進んで、割拝殿を抜けると、少し寂しい印象の境内が広がり、コンクリート造の本殿があります。木造本殿の焼失は残念ですが、由緒ある古社が存続できたことは幸いというべきでしょうか。また、末社として、天照大神(あまてらすおおかみ)を祀る大宮社と稲荷社があり、境内のエノキの木が区民の誇りの木に選ばれています。

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京都市伏見区西部の久我(こが)や羽束師(はつかし)は、有名史跡も少なく、鉄道網の空白地帯でもあるため、京都観光ガイド等ではほとんど採り上げられることの無い地域です。(アクセスは、向日市や長岡京市側からJRや阪急の最寄り駅・・JR(向日町・長岡京駅)や阪急電鉄(西向日・長岡天神駅)から路線バス、または、伏見区の京阪中書島から路線バスを利用しなければなりません)

今回は、この伏見区久我本町にある誕生寺(たんじょうじ)を採り上げました。
誕生寺は、道元禅師の生誕地を顕彰するために大正時代に創建、昭和になって完成した新しい寺院で、京阪国道1号線の赤池交差点の西、桂川に架かる久我橋の南袂に位置しています。



さて、鎌倉新仏教の六開祖(法然、親鸞、栄西、道元、一遍、日蓮)の中で、京都で誕生したのは親鸞と道元の二人です。親鸞は山城国宇治郡日野 (京都市伏見区日野)を根拠地とする藤原北家の流れを汲む日野氏の出身で、現在も伏見区の日野地域には、法界寺や日野誕生院(共にブログパート1に採り上げました)といった日野氏や親鸞ゆかりの史跡が残されています。

一方の道元ですが、幼少期については不明な点も多いですが、通説では、正治二年(1200)、村上天皇の孫・源師房を祖とする村上源氏の出身で、鎌倉初期の政治家として辣腕を振るった内大臣久我通親(こがみちちか 源通親、土御門通親)の子として誕生したと伝わります。また、母は摂政関白藤原基房(ふじわらのもとふさ 松殿基房)の娘、藤原伊子(ふじわらのいし 冬姫)です。
(尚、この伊子は、平家政権の下で不遇だった父基房に政治的に利用され、上洛してきた木曽義仲(源義仲)の正室とされてその寵愛を受け、義仲の戦死後は、再び政略結婚で久我通親の側室となりました。)

さて、道元禅師は、三歳の時に父を、また八歳で母を失って、異母兄の大納言堀川通具(ほりかわみちとも 久我通具)に養育されたとされます。(現在は、この堀川通具の実子説等があります)
また、生誕地についても諸説あり、一つは、藤原道長等歴代藤原氏の埋葬地として知られる宇治市木幡(現在、宇治陵があります)にあった、道元の母方の祖父とされる摂政関白藤原基房(松殿基房)の別邸、木幡山荘(現在、松殿山荘が建てられています)とされます。
これは、少年道元が木幡山荘から叡山へ赴いたという伝承(伝光録等)から推測されたもので、誕生地であるという明確な証拠があるという訳ではありません。

もう一説は、今回の誕生寺のある久我(こが)の地とされます。
久我は、かつては久我の庄と呼ばれ、道元の父・久我通親(源通親)の所領で、その別邸(久我水閣)がありました。こちらも、道元がこの地で誕生し、父の死まで過した可能性が高いということに過ぎませんが、道元禅師ゆかりの久我水閣の旧地を顕彰して誕生寺が建てられています。
(尚、親鸞ゆかりの日野と道元ゆかりの久我は、京都市伏見区の東端西端に位置しますが、伏見区という広い区域の歴史的な奥深さを感じさせます)



さて、 誕生寺は、山号を妙覚山という曹洞宗寺院です。
大正五年(1916)、当時の曹洞宗大本山永平寺の第六十六世・日置黙仙(ひおきもくせん 1847〜1920)禅師は、明治維新で東京に移り住んだ久我家当主の侯爵久我通久(こがみちつね 1842〜1925)から、この地が久我家別邸・久我水閣旧地であることを聞いて、共に久我の地の歴史を調査しました。この結果、この地こそ道元禅師の誕生地であると合議一致し、その顕彰のための寺院の建立を発願しました。
そして、田村一郎、浅野総一郎、御木本幸吉等の政財界や宗門寺院の協力を得て、大正七年(1918)に地鎮祭を修し、越前(福井県)武生小松の郷(現福井県越前市小松町)にある道元ゆかりの妙覚寺の寺号と共に、寺に安置された道元禅師の自作と伝えられる禅師尊像をこの地に移して翌八年(1919)に、誕生山妙覚寺として創建、翌九年(1920)五月に仮本堂に入仏遷座の式が行われました。

しかし、同年九月二日、日置黙仙禅師が新潟県養広寺の戒場で七十四歳で遷化したために、その後の計画は頓挫したまま昭和五十年代に至りました。その間、昭和十六年(1941)に、妙覚山誕生寺と改称し、また、豊川稲荷を勧請奉安して寺の復興を祈願しています。
そして、道元禅師の生誕八百年(平成十二年(2000))を迎えるに際し、再び復興計画が進み、本山初め全国の信者等の寄付により、昭和五十七年(1982)から十六年間をかけて本堂、稲荷堂(豊川稲荷)、山門、庫裏、座禅堂、鐘楼堂、供養塔といった全堂宇の新築完成と境内整備を行い現在に至ります。


さて、「高祖道元禅師」と記された赤い大きな提灯のある山門を潜ると、広い空間に新しい本堂、稲荷堂等の諸堂が立ち並び、道元禅師幼少像、慈母観音造像、仏足石等が安置されています。また、本堂の西には「道元禅師産湯之井戸」があり、山門前には、鐘楼や区民の誇りの木に選ばれたイチョウがあります。また、新しい五輪石塔と宝篋印塔は、禅師の両親(久我通親と母伊子)の恩に感謝するために平成九年(1997)に建造されたもので、特に母の供養塔(宝篋印塔)は、久我の地に伝わっている宝篋印塔(古くから久我では「鶴の塔」と呼んできました)」を模したものです。

宝篋印塔は、中国の五代十国時代(907〜960)の呉越国の最後の国王・銭弘俶(在位948〜978)が造った「金塗塔」の形式を模して、鎌倉時代中期から後期に建立されたものといわれますが、久我の地では、誕生寺の南にある日蓮宗・妙真寺(久我東町)境内に、道元禅師建立という伝承のある日本最古という美しい石造の宝篋印塔が安置されていました。そして、この宝篋印塔は、現在、実業家北村謹次郎(1904〜1991)の収集品を集めた私立美術館の北村美術館(京都市上京区河原町今出川下ル一筋目東入ル梶井町 特別公開のみ)の庭園に安置され、国の重要文化財に指定されています。

この塔は、元々、久我村の仏光寺という寺院にあり、道元禅師の祖父・久我雅通(1118〜1175)の塔、禅師の母の塔とも伝えられ、久我家の先祖累代の菩提を弔うために建立されたものと考えられています。
このような由来から、誕生寺では、この新しい宝篋印塔建立の際、久我伝来の「鶴の塔」を原寸復元しました・・梵字は風雨に晒されて摩滅して模写出来ませんでしたが、その他は当初造られたままの姿に再現されているということです。尚、大正時代に、日置黙仙禅師が道元禅師の両親に授与した、「桂川院源底通親大禅定門」、「鶴夢院妙覚則心大禅定尼」という戒名が両塔(五輪石塔と宝篋印塔)に刻まれています。

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