京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

山科区

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坂上田村麻呂の墓

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平安時代初期の武将として知られる坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、奈良時代の天平宝字二年(758)に、武将の坂上苅田麻呂(さかのうえのかりたまろ)の子として誕生しました。
坂上氏は渡来系の氏族で、中国の前漢(西漢)やその傍系の後漢(東漢)の流れを引くとされます。「続日本紀」「日本後紀」等によると、先祖は後漢末期の霊帝の曾孫とされる阿智王で、王は応神天皇の時代に一族を率いて日本に渡来し、大和に領地を与えられたと伝えられます。以後、武人の家系として朝廷に仕え、田村麻呂の父・苅田麻呂は、藤原仲麻呂の乱の鎮圧や道鏡の追放にも功を立て正四位下に叙せられています。


さて、若き田村麻呂は、当時、国家的な重大事となっていた陸奥国での蝦夷との戦争に加わって軍人としての名声を得ていきます。延暦八年(789)、紀古佐美(きのこさみ)率いる第一次征討軍が、阿弖利為(阿弖流為 あてるい)率いる蝦夷軍に大敗したという知らせは朝廷に衝撃を与え、大軍を動員した第二次遠征が計画されます。延暦十二年〜十三年(793〜794)、大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大将軍として十万の軍を動員した第二次遠征に、田村麻呂は征東副使として軍を指揮することになりました。この戦役の詳細は不明ですが、田村麻呂が中心となって一定の成果を挙げたようで、その功によって、田村麻呂は、延暦十五年(796)に、陸奥出羽按察使兼陸奥守、鎮守府将軍に任じられました。そして、翌延暦十六年(797)十一月に、征夷大将軍に任じられて、第三次征遠征の主将として遠征を準備します。


延暦二十年(801)、田村麻呂は、約四万の軍を率いて蝦夷の抵抗拠点となっていた陸奥国胆沢地方に遠征し、翌二十一年(802)正月に、同地に胆沢城を築きました。やがて、拠点を制圧された蝦夷軍は抵抗を断念し、同年四月、蝦夷首長の大墓公(おおものきみ)阿弖利為(阿弖流為)と盤具公(いわぐのきみ)母礼(もれ)ら五百余人がついに降伏しました。七月に田村麻呂は、降伏した阿弖利為と母礼を従えて京へ戻りました。
田村麻呂は、「今回は、阿弖利為達の希望をかなえて帰郷を許し、まだ帰属していない蝦夷を懐柔させようと思います。」と申し出ますが、公卿らは、「蝦夷らは、野蛮で約束を守らない。たまたま朝廷の威厳で捕らえたこれら族長を、彼らの願いを聞き入れて陸奥へ帰すのは、所謂、虎を養って禍を後にもたらすのと同じです。」と主張し、結局、八月、阿弖利為と母礼は、河内国植山(椙山・杜山とも)で斬られました。

その後、田村麻呂は、延暦二十三年(803)正月に再び征夷大将軍に任じられて、同年、志波城を造営しますが、長年に及ぶ東北遠征は、完成途上の平安京造営と共に、国家財政を悪化させ、多くの人民の疲弊を招いていました。延暦二十四年(805)十二月七日、今後の国家政策について参議・藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)と菅野真道(すがのまみち)が論議し、緒嗣は、「現在の天下の人民が苦しんでいるのは、軍事(東北遠征)と造作(平安京造営)なので、両方を中止すれば、百姓は安楽となりましょう。」と提案します。これに対して、菅野眞道は反対しますが、桓武天皇は、緒嗣の意見を採用して、軍事と造作を停止しました。

こうして、新たな東北遠征は中止となりましたが、田村麻呂は、延暦二十四年(805)六月に参議に列し、大同元年(806)三月の桓武天皇の崩御の際は、ショックを受けて立つことが出来ずにいた皇太子(平城天皇)を支えて付き従っています。さらに、同年四月に中納言、大同二年(807)に中衛府改めた右近衛府の大将、弘仁元年(810)に平城上皇から平城遷都のための造宮使に任じられます。また、同年の「薬子の変(平城太上天皇の変)」では、嵯峨天皇より大納言に任じられて、兵を集めるために東国へ向かおうとする平城上皇軍を美濃道で阻止して乱の鎮圧に功を挙げています。また、仏教への信仰も深く、清水寺を創建したという伝承でも知られます。


さて、田村麻呂は弘仁二年(811)五月二十三日に、晩年を過ごした粟田別業で五十四歳で病死しました。嵯峨天皇は一日喪に服し、従二位を贈りました。二十七日、嵯峨天皇は、山城國宇治郡栗栖村に墓所を造営させ、葬儀の際は、勅命により遺骸は、甲冑兵仗等武具を身に付けた姿で、都のある東を向いて立ったまま葬られたと伝えます。これは、死後も田村麻呂が都を鎮護することを期待したものと考えられ、「群書類従」は、その後、国家の非常時には田村麻呂の塚の中で、鼓を打つか雷電のような大きな音がしたと記し(將軍塚鳴動といわれたという)、将軍に任命されて征伐に向かう者は、この墓に参詣して誓願したということです。



「日本後紀」によると、田村麻呂は、赤ら顔で黄色っぽい鬚を生やし、勇気や力は人に優れて将軍としての力量が有り、桓武天皇から勇壮な人物だと評されて征夷大将軍に任命されました。ただ、夷地と京との往復の間は無数の従者が付き従ったため、路次となる諸国は人馬を提供しきれず経費は莫大なものであったとも記し、辺境の軍事活動では、出陣する度に功があり、寛容な態度で兵士を処遇し兵に死力を尽くさせたということです。

「群書類従」は、その身体特徴等を詳細に記します・・大将軍は身長が丈五尺八寸、胸の厚さ一尺二寸あり、目は鷹の蒼い眸に似て、鬢は黄金の糸のようだったとします。その行動は機に応じて敏捷で判断力に優れ、怒って眼を廻らせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐに懐くほどであり、真心に溢れ、強い意思があったと記します。武勇は人を超え、辺境でその武を輝かせ、さらに、「帷帳(とばり)の中で策をめぐらせ、千里の外に勝ちを決する」と「史記」から引用し、漢の張良・簫何の軍略奇謀を持っていたと賞賛しています。

こうした伝承からか、田村麻呂は、生前だけでなく後世にも多くの崇敬を集め、日本史上で最初の伝説的な名将といえる存在となりました。田村麻呂以前にも、古代の戦乱で武人達が活躍しましたが、田村麻呂のように、様々な伝説を生んで武人のシンボル的な存在として讃えられた人物はいなかったようです。
平安時代以降の軍記物等には、田村麻呂の名前は、まず勇将の嚆矢として出てきます(「本朝の昔を尋ぬれば、田村、利仁、将門、純友、保昌、頼光、漢の樊獪、張良は武勇といへども名をのみ聞きて目には見ず」(義経記)、「馬の上、歩射、弓矢、打ち物取つてはすべて上古の田村、利仁、余五将軍、致頼、保昌、先祖頼光、義家朝臣といふとも、これにはいかでか勝るべきとぞ人申しける」(平家物語)、「異朝のことは伝聞計なり。わが朝の田村・利仁・頼光・保昌、異賊を退治すといへども、威勢国に及ばず・・」(梅松論読み下し)等・・




さて、近年、京大大学院文学研究科の吉川真司准教授の文献調査によって、山科区にある「西野山古墓(にしのやまこぼ)」が、坂上田村麻呂の真墓であることが判明したというニュースが伝えられました。

それによると、田村麻呂が創建したと伝えられる清水寺に残る「清水寺縁起」の中に墓の位置を特定させる文言があったということです・・縁起にある弘仁ニ年(811)十月十七日付の朝廷の命令書「太政官符(だじょうかんぷ)」の表題中に、田村麻呂の墓地に「山城国宇治郡七条咋田西里栗栖村の水田、畑、山を与える」という文言が記されていて、この場所を平安時代の図を基にした「山城国宇治郡山科地方図」と照合してみると、現在の山科盆地西部の西野山岩ケ谷町にあたることがわかりました。
この地には、「西野山古墓」があり、この古墳は、大正八年(1919)に偶然墓穴が発見され、木棺内部から純金で装飾された大刀や金銀の鏡、鉄の鏃(やじり)などの副葬品が出土していました。古墳の建造時期は、八世紀後期〜九世紀前期と考えられ、時代的にも坂上田村麻呂の時代と一致し、また被葬者が高位の武人であることを推定させる豪華な副葬品からも、坂上田村麻呂の墓と特定したということです。


これまで、西野山古墓は、周辺が中臣氏の根拠地という点からその一族の墓と推定されてきましたが、一部に坂上田村麻呂の墓という説も出されていたようです。そして、今回の調査により、田村麻呂の真墓の可能性が高くなったのかもしれません。ただ残念なことに、この古墓は、竹薮に覆われて近寄ることも出来ず、京都から山科に抜ける滑石街道の急カーブ地点の道路脇に僅かに「この付近、西野山古墓」と記す石標があるのみで、ブログに採り上げるには難しいという印象です。




さて、この西野山古墓から南東約一.五キロ、山科区勧修寺東栗栖野町にある今回の「坂上田村麻呂の墓」についてです。

京都市営地下鉄東西線の椥辻駅から西へ向かうと、勧修小学校の北側に「坂上田村麻呂公園」という児童公園があり、公園の面積の約半分が坂上田村麻呂の伝承墓として整備されています。
この墓は、明治二十八年(1895)四月に京都市が開催した「遷都千百年紀念祭」行事の一環として整備されたものです。

「遷都千百年紀念祭」は、桓武天皇を顕彰する祭典で、桓武天皇が平安京の大極殿で始めて正月の拝賀を受けた延暦十五年(796)から千百年目に当たることを記念して企画されたもので、幕末の戦争の影響と明治の東京奠都で人心が沈みがちだった京都の人々の誇りを取り戻すための大イベントでもありました。記念祭は、有栖川宮熾仁親王((ありすがわのみやたるひとしんのう)を総裁(後に小松宮彰仁親王(こまつのみやあきひとしんのう)と交替)に迎え、全国から莫大な寄付を集めて国家的な行事として行われました。
この時に、平安宮朝堂院正殿の大極殿を模した平安神宮が創建され、紀念祭の余興として行われた時代行列は、翌年以降「時代祭」として京都の三大祭へと発展していきます。また、実測によって羅城門遺跡(南区唐橋羅城門町)や大極殿遺跡(上京区千本丸太町上る)の位置を特定して石標が建てられ。その他三十一件の桓武天皇ゆかりの寺社や史跡の整備保存が行われました。今回の坂上田村麻呂の墓もこの時に修繕整備されたものです。


「坂上田村麻呂公園」にある建碑の当時の京都府知事・渡邊千秋筆の碑文によると・・
古来、創業や中興の業績高い天皇は、天皇自身の聰明さだけはなく必ず有能な側近がいるとして、神武天皇に可美真手命(うましまでのみこと)と道臣(みちのおみ)が、天智天皇には藤原鎌足と阿部比羅夫がいたように、桓武天皇には、三代の天皇に仕えた老臣・和気清麻呂と、蝦夷鎮圧により東国の防禦を確固たるものにした坂上田村麻呂がいたと記します。

そして、坂上将軍が没した時、嵯峨天皇は哀悼のあまり一日政治を廃し、山城国宇治郡栗栖のこの地に墓地を賜い、棺の中に立たせ平安京を向いて埋葬し、以後、将軍達は出陣の時にこの墓に参詣し武運を祈った・・後世東山の將軍塚が有名となるが、本来の將軍塚はこの墓である。その墓も歳月を経て、わずかに塚が残るだけになった。そして、遷都千百年紀念祭の開催に際し、宇治郡民は将軍の偉業を懐しんで墳墓を整備し参道を造り、これを知った宮内省を通じて明治天皇から助成が寄せられた。宇治郡民は感激し、記念の石碑を建立し坂上将軍の偉業を後世に伝えようと考えた・・と記しています。


石の玉垣に囲まれた高さ約一.五メートルの円墳「坂上田村麻呂の墓」からは、田村麻呂の生きた平安時代というよりも明治時代を感じます。明治は、過去の歴史上の人物を顕彰して、多くの史跡を整備した時代です。現在の整備された天皇陵と同様、この墓にも明治という時代の要求が生んだ近代史跡の雰囲気がどことなくあります。ただ、もし現在の天皇陵より学術的に証明された真陵が発見されても、現在の天皇陵が無くならないように、西野山古墓が本物の田村麻呂の墓だとしても、この墓も地域のシンボル的な史跡として残っていくでしょう。

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前回に採り上げた岩屋寺のすぐ南に隣接するのが、山科神社(やましなじんじゃ)です。
この神社は大石神社や岩屋寺のついでに訪れる人がいるためか、小さな神社の割りには、一般観光客にも知られているようです。
山科区にもこれまでブログに採り上げてきた日向大神宮(山科区日ノ岡一切経谷町)や吉利倶八幡宮(山科区勧修寺御所ノ内町)等、私の好きな神社が幾つかありますが、山科神社も山里に似合う好きな神社の一つです。(因みに、これらの神社は、本殿が京都市指定文化財に指定されています)


さて、山科区西野山岩ヶ谷町、西野山の中腹にある山科神社は、祭神として日本武尊(やまとたけるのみこと)とその子の稚武王(わかたけのみこと)を祀ります。
社伝によると、平安時代の寛平九年(897)、宇多天皇の勅命によって創建されたと伝えられ、延喜式に記載されている山城国宇治郡に鎮座する山科神社二座(官幣名神大社・月次・新嘗)の内の一座と考えられています。

その後は、この地の豪族、宮道氏の祖神として祀られ(宮道氏については、前に宮道列子の墓について書いた時に出てきましたが、山城国宇治郡(京都と宇治にかけて)を本拠とした一族で、宇治郡大領だった宮道弥益の娘(妹)の列子と内大臣・藤原高藤との間に生まれたのが、藤原胤子(宇多天皇女御)で、胤子は、後に醍醐天皇の母となりました。) また、山科一之宮とも呼ばれて、この地の産土神として崇敬をうけて栄えたということです。

全盛期には、社領も山城及び丹波に広がっていて、社殿の規模も大きかったということですが、度々の兵火のため焼失して衰退し、現在は三間社流造の本殿や権殿、拝殿、神庫などを残すのみとなっています。また、中世以降、江戸時代には、この神社は「西岩屋大明神」と呼ばれ、東の岩屋神社(山科区大宅中小路町)や他の不明な上一社と共に「岩屋三社」とも呼ばれました。
そして、元禄十四、五年(1701〜1702)には、赤穂義士の大石良雄がこの山科の里に隠棲していた際には、この西岩屋社の奥の院に参篭して大願成就を祈ったといわれています。その後、明治に入って村社に列し「山科神社」と改称しました。


さて、急坂や石段を登った山の中腹にある境内の中央、東に面して建っている三間社流造(さんげんしやながれづくり)、桧皮茸(ひわだぶき)の現在の本殿の建築年代は、明らかにする史料が無いために不明ですが、本殿の前にある石灯篭に寛永二十年(1643)、鳥居には万治三年(1660)の刻銘があることから共に江戸初期のものと判明しています。(また、鳥居には「山城國宇治郡山科郷西山村」等と刻まれているということです)

本殿については、細部の彫刻に古風な様式が見られ、部材の風蝕(風による浸食)が大きいため、室町時代後期に造営された可能性もあるようですが、一部に後補材が認められることから、江戸時代前期(十七世紀前半)には現在の形態となったと考えられています。
そして造営年代の古さと質の高い貴重な遺構であることから、京都市指定有形文化財に指定されています。
また、末社として護国社等があり、神社の例祭は「山科祭」と呼ばれ、毎年十月十日に行われています。

岩屋寺その2

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さて、岩屋寺の続きです・・


岩屋寺では、拝観料を払うと、係の女性の案内で本堂や収蔵庫等の寺宝を拝観できます。
本堂に安置されている秘仏の本尊・不動明王立像(五十年に一度の開帳で、平成二十年に開帳しています)は、智証大師円珍作と伝えられるもので、大石良雄の念持仏だったといわれています。
また、本尊の横には浅野内匠頭他、四十七士の位牌を祀っています。義士達の戒名には「刃」と「剣」の文字があり、「刃」は切腹、「剣」は討ち入りに参加した事を表しているということです。


本堂と軒続きの収蔵庫には、浅野内)匠頭長矩肖像画、大高源吾が使用した木刀、源吾直筆の竹図掛軸、大石良雄と子の主税が用いた二つの机、大石の銭函、大石直筆の書状、大石使用の膳椀、討ち入りに用いられた槍、等の多くの赤穂義士の遺品を所蔵しています。
これらの大石良雄の遺品の一部は、大石が討ち入りのため江戸へ向かった際に、死を覚悟して旧邸に残していた遺品分配に関する目録に基づいて、後に岩屋寺と大石の親類で山科の土地を世話した進藤家に分配されたものということです。


また、毘沙門堂(木像堂)は、明治三十四年(1901)に建立されたもので、毘沙門天の前に安置されている四十七士の木像は、討ち入り前に大石良雄の指示で作られたとされ、討ち入りの数十年後に大石良雄の縁者によって奉納されたといわれます。(案内の方によると、大石は討ち入りの同志たちの死後のことまで考えることの出来る優れた人物で、義士達の行いを後世に伝えるためにこの木造を作らせたということです。そして、これが、後に多く作られた赤穂義士像の基となったオリジナルの像ということです)また、東郷平八郎元帥書「赤穂義士」扁額が架けられています。


境内にある茶室「可笑庵」は、この地にあった大石の旧邸の約三百年前の古材を用いて昭和五十八年(1981)に建造されたもので、水屋を含めて四室で構成された茶室の梁や鴨居の一部がこの古材の再利用で造られています。その後、茶室周辺は拡張整備され、茶庭三日庭が作られ、露地には鞍馬石が用いられています。この茶室は、現在も毎週土曜日の裏千家流庵主指導のもとに茶道教室が開かれるなど茶会で用いられています。また、「可笑庵」の前にある老いた梅の木は、大石良雄が討ち入り前に植えたお手植のものとされます。

さらに、「可笑庵」の横には、大石がこの地に祀ったという弁財天社があり、ふと傍の灯篭を見ると、桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん 1873〜1916)の名前が刻まれています。
大石神社創建に関わった吉田奈良丸と並んで、明治時代の浪曲師として一世を風靡した雲右衛門は、宮崎滔天(私が大学時代に非常に関心が有った人物でもあります)が弟子入りしていていたことでも知られる人物で、現在の浪曲スタイルを確立しました。雲右衛門も赤穂義士伝を得意としていたこともあり、赤穂義士の偉業を讃えて灯篭を奉納したもののようです。(写真)



本堂手前の石段下には、左(南)に大石稲荷大明神社があり、門前から参道にかけて広い敷地が広がります。敷地の北端にあるのが、討ち入り後に一人生き延びたと伝わる足軽・寺坂吉右衛門が持ち帰った大石良雄の遺髪を祀ったと伝わる大石良雄遺髪塚です。
討ち入りの後、大石の命を受けた寺坂吉右衛門は、討入の報告や大石の遺品の処置を伝えるために山科に戻ったとされ、その際に大石の遺髪も届けられたと伝えられます。現在の大石良雄遺髪塚は、元々は大石良雄旧址碑として安永四年(1775)に大石の信奉者の宮部義正・上田正並によって建てられたものですが、後に遺髪塚として転用されたようです。

また、敷地の大部分は寺域から外れ公園化していますが、かつて宅地化していたのを、史跡保存のため市が所得し整備したもののようです。大石は、この敷地の一町四方に邸宅を造成したとされ、敷地内の新しい十三重塔の傍に明治三十四年(1901)に建てられた「大石良雄君隠棲旧址」の石標があります。
また、この広場には数多く歌碑や句碑が点在しています。


最後に、岩屋寺の行事としては、四月十四日に浅野内)匠頭・義士追善法要が行われます。
また、大石神社を採り上げた時により詳しく書きましたが、十二月十四日には義士祭が盛大に行われ、「山科義士まつり」として知られる討ち入り当時を再現した行列一行が岩屋寺に参拝に訪れ、収蔵庫の遺品も一般公開されます。

岩屋寺その1

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前回に採り上げた大石神社のすぐ南、なだらかな坂道の上に位置するのが、山科区の数少ない観光寺院の一つ、岩屋寺(いわやじ)です。
岩屋寺は、別名「大石寺(おおいしでら)」とも呼ばれる尼寺で、近畿三十六不動尊の第二十四番霊場、三十六尼寺めぐりの一寺でもあります。境内に忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか・よしお)の住居跡があることで知られます。
(山科区には毘沙門堂、勧修寺、随心院といった四季の花々を楽しめる京都を代表する有名観光寺院がありますが、岩屋寺は観光地としての知名度ではまだ地域限定かもしれません。しかし赤穂義士関連としては全国でも必見クラスの史跡の一つでしょう。)

山門を入った本堂周辺はそれ程広くは感じませんが、境内の総面積は、約七万九千二百平方メートルあり、その大部分は山門前の敷地や竹林等が占めているようです。
この広場の中にあるのが、大石良雄が討ち入りまでの一年余りの間、住居としていた屋敷跡で、大石良雄遺髪塚、大石良雄山科閑居址等の数多くの石碑が点在しています。また、この周囲には、桜や梅、椛も多く、長閑な里の風情を楽しめる空間となっています。そして、山裾の高台に位置しているために、山科の夜景を楽しむことも出来るということです。(以下、岩屋寺の案内表示その他で記載されている通り、本名の「大石良雄」に統一して書いてみます)



さて、京都市山科区西野山桜ノ馬場町にある岩屋寺は、正式には「神遊山金地院岩屋寺」という曹洞宗永平寺派天寧寺の末寺です。
元々は、平安時代に創建され、比叡山三千坊の一つに数えられる天台宗寺院だったということですが、火災により古記録を喪失したために、寺院の詳しい歴史は不明のようです。また、かつては、隣接する山科神社(やましなじんじゃ)の神宮寺だったと伝えられています。

その後、赤穂義士・大石良雄がこの地に隠棲したことで、大石の住居に隣接する岩屋寺は、赤穂義士ゆかりの寺院として知られるようになっていきます。
(大石と山科との関わりは、大石神社を採り上げた際に書きましたが、一応、一部再掲載しておきます。)


元禄十四年(1701)三月十四日、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内の松の廊下で、 高家旗本・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に対し刃傷におよんだことから、将軍・徳川綱吉の命により内匠頭は即日切腹、浅野家は断絶、領地没収となりました。この時、赤穂藩の城代家老・大石内蔵助良雄は、浅野家家中の意見をまとめて四月十九日に無血開城し、残務処理の後、五月十二日に赤穂を去って六月二十八日に山科の里に住居を構えました。

この山科の地には、大石良雄より先に赤穂を去っていた親類の浅野家家臣・進藤源四郎俊式(しんどうげんしろうとしもと)が移り住んでいて、その世話でこの地を選んだと思われます。(当時、山科は近衛家の領地で、進藤源四郎の親類・進藤刑部大輔長之(しんどうぎょうぶたいふながゆき)が近衛家の家司として山科の地を管理していたことから、源四郎を通じてその援助を受けたと考えられています。)


こうして、大石良雄は、討入り前の一年有余、山科に住居を構えて、山科や京都で、しばしば同志達と会合を開いて、浅野家再興の方法を模索し、その後は吉良上野介討ち入りの準備を進めました・・・大石は、当初は討ち入りを強行しようとする江戸の急進派同志を抑えて、亡内匠頭の弟・浅野大学長広(あさのだいがくながひろ)を立てて播州赤穂藩浅野家の再興を謀りますが、翌元禄十五年(1702)七月に、幕府が浅野長広に安芸広島藩浅野本家への預かりを言い渡したことで、お家再興の望みは絶たれました。
こうして、大石は最終方針を本所吉良邸討入りに決定し、江戸の同志達と計画を進めます。大石は五月に妻子を離縁し、八月には山科を引き上げて京都四条寺町に移り、十月には江戸へと出発しました。


さて、元禄十五年(1702)十二月十四日(討ち入り決行は十五日の午前四時頃)大石内蔵助良雄以下、元赤穂藩の浪士四十七士は吉良邸へ突入しました。表門から大石良雄を大将として、片岡源五右衛門ら二十四名、裏門からは長男・大石主税を大将として、堀部安兵衛ら二十三名が襲撃し、約二時間の激闘の末、午前六時頃に吉良上野介義央の首を得て本懐を遂げました。その後、四十七士は高輪泉岳寺の主君長矩の墓前に、その首を捧げ仇討ち達成の報告をしたのでした。
討ち入り後の赤穂義士四十六士(足軽の寺坂吉右衛門を除く)は、細川、松平、毛利、水野の四大名家に預けられ、 翌、十六年(1703)二月四日、幕府の命により、全員が切腹しました。時に大石良雄は四十五歳、義士達の遺骸は、主君・浅野内匠頭と同じ泉岳寺に葬られました。


吉良上野介義央の首を得て本懐を遂げた後、大石は、この山科の邸宅、田畑等一切を岩屋寺に寄進したと伝えられます。その後、岩屋寺は、一時は荒廃して、その後、大石の旧宅も取壊されたようですが、幕末の嘉永年間(1848〜54)に、当時の住職・堅譲尼(けんじょうに)が、京都町奉行・浅野長祚(あさのながとし)等の寄付を受けて再興しました。



次回に続きます・・・尚、今回は山門内の諸堂の写真を掲載しました、次回は大石良雄山科閑居址等、山門の外の様子を掲載します。

大石神社その2

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大石神社の続きです・・

さて、明治元年(1868)十一月、明治維新によって、京都を出発し東京に向かった明治天皇の一行は、江戸入城に先立って高輪泉岳寺前に勅書と金一封を贈りましたが、その勅書は、大石内蔵助以下の赤穂義士を表彰したもので、「汝良雄等 固ク主従ノ義ヲ執リ仇ヲ復シテ法ニ死ス 百世ノ下人ヲシテ感奮起セシム 朕深ク嘉焉賞ス」と記されていました。
これは、江戸の庶民に人気のあった赤穂義士を顕彰することで、明治天皇以下の新政府に対して、人々が忠誠心(内蔵助らを模範とした)を表明することを期待するというメッセージが込められていました。

元々、赤穂義士の討ち入りは、江戸時代から人形浄瑠璃・歌舞伎の人気題材として「仮名手本忠臣蔵」等「忠臣蔵物」と言われる人気ジャンルとなっていたのですが、幕府を憚って登場人物を太平記の歴史上の人物に置き換えていました。しかし、明治以降は、幕府を憚る必要が無くなって実名での上演が可能となり、明治天皇のお墨付きをもらったこともあって、益々民衆に支持されて上演回数を重ね、講談や浪曲、映画、文芸等の題材にもなっていきます・・・今回の大石神社の創建も、この内蔵助らの人気が背景にあったことは言うまでもありません。

そして、現在でも忠臣蔵はたいへん人気があることから、大石神社には一年を通して多くの参拝者があります。近年では、平成十一年(1999)には、NHK大河ドラマ「元禄繚乱」放映に合わせ儀式殿を宝物殿に改築し、平成十三年(2001)より十五年(2003)にわたる「大石神社忠臣蔵三百年記念祭」の記念事業として、平成十四年(2002)に拝殿の銅板葺き替えを行い、参道の整備や神木の枝垂桜の整備等を行っています。



さて、本殿の左にあるのが、天野屋利兵衛を祀る末社の義人社です。
忠臣蔵に登場する天野屋利兵衛(あまのやりへい)は、大阪の本町橋に店を構えていた北組惣年寄の豪商といわれます。(京の呉服商・安田善右衛門、または綿屋善右衛門がモデルともいわれます)

利兵衛は討入りの際に赤穂義士に武器を調達し資金面でも援助しましたが、討ち入り前に準備していた武器を発見され、奉行所に捕まって拷問を受けます。しかし、赤穂義士が本懐を遂げるまでは決して白状しなかったといわれ、「天野屋利兵衛は男でござる」 の名ゼリフで知られています。
前述したように、この末社は、昭和十三年(1938)に大石神社創建に関わった吉田大和之丞が、赤穂義士を助けた義商・利兵衛を祀るために創建したもので、「商売の神様」 と言われ、現在も商売繁盛のご利益があるとして信仰されています。

(尚、前にブログに登場した地蔵院(通称「椿寺」 北区大将軍川端町)には「法正院空誉上斉善士」と刻まれた利兵衛の墓があります。また、これもかなり前にブログに掲載した「赤穂義士の寺」こと本妙寺(左京区北門前町)には、綿屋善右衛門が建立したという赤穂義士の吉田忠左衛門・子の沢右衛門と貝賀弥左衛門(吉田忠左衛門の実弟)夫妻の墓(三名の遺髪を納めます)があり、さらに、聖光寺(下京区寺町綾小路上ル かなり前に訪問したのに未だブログ登場待ち状態)には、大石内蔵助の実母・お熊の墓と共に「安田善右衛門好時」の名前で利兵衛の墓があり、寺の山門横には「天野屋利兵衛は男でご座る」の石碑があります)



さて、本殿の右にある枝垂桜は、神社の建設が認可された昭和八年(1933)から、この地に生育していた枝垂桜を整備して境内に定植させたもので、昭和十年(1935)の御鎮座の際に御神木としたものです。戦後は、その美しさで参拝者や地域の人々に親しまれ、「大石桜」と呼ばれるようになり、毎年四月の第一日曜日には「さくら祭」が催されています。「さくら祭」では、琴の演奏、武者小路千家による献茶式等が行われ、そば席や子供たちへの露店等もあります。(今回の訪問時は、桜はピーク過ぎでしたが)


また、境内にある宝物殿(無料)には、大石内蔵助良雄、小野寺十内秀和、大原源吾忠雄、中村勘助正辰の各書や、内蔵助の山科隠棲宅の欄間片、浅野内匠頭長矩の肖像画、享保十四年筆の義士四十七士図(三幅軸)、忠臣蔵横幟、四十七士図屏風、堂本印象画の山桜図陶板、吉田大和之丞(奈良丸)画の富士の図衝立、東映歴代大石内蔵助役の俳優写真等が展示されています。

大石神社の祭典・神事としては、元旦の「初詣 (歳旦祭)」、二月四日の「自刃命日祭(祭神の大石公以下四十六義士の切腹した二月4日に自刃命日祭として、慰霊神事が斎行されます)」、
四月の第一日曜日の「さくら祭」、四月十四日の春季大祭、七月の最終日曜日の「大石公山科隠棲祭(大石公が赤穂を離れ、二十八日京都山科、西野山の里に住いした日を記念するもので、平成三年より新暦に改め七月最終日曜日に夏祭として行われ、夕涼み落語会、子供たちへの露店などがあります。)そして、十二月十四日には「義挙大祭 (義士祭)」、大晦日に「大祓式」があります。


最後に、大石神社だけでなく、山科区を代表する年中行事として知られる「山科義士まつり」について書いてみます・・昭和四十九年(1574)に始まったこの行事は、山科区全学区の自治連合会と山科区地域女性連合会、山科経済同友会を中心にした実行委員会が運営し、討ち入りのあった毎年十二月十四日に行われています。

メインになるのは、華麗な時代行列です。
討入り当時を再現する四十七士による「義士行列」は、義士表門隊、義士裏門隊と二体で構成され、また、幼稚園児による四十七義士(幼児達の行列なので、距離は山科駅から三条通周辺のみ)、浅野内匠頭の妻・遥泉院をはじめとする女人列、祇園一力亭での様子を再現する婦人舞踏列等の総勢二百五十人のボランティアによる華麗な行列が、山科北山麓の毘沙門堂(以前のブログの記事を参照ください)を出発し、約六キロ先の最終目的地・大石神社へと向かいます。
また、行列途中の舞台では、東映太秦映画村の協力を得て、「刃傷松の廊下」や「切腹」「連判状改め」「討ち入り」などの芝居が行われ、女性陣による「大石音頭」、「元禄花見踊り」が華やかに行われます。

さて、行列は、午前十時に毘沙門堂を出発します。また、行列に先駆けて大石内蔵助、大石主税、遥泉院らの行列代表者が、大石内蔵助が建立した浅野内匠頭長矩の墓のある瑞光院で墓前に礼拝を行います。瑞光院の代表者と合流した行列は、山科の市街地中心部のJR山科駅や市役所を経て、西野山方面に移動し、岩屋寺で再び大石内蔵助、大石主税、遥泉院ら行列代表者が礼拝をし、最後の大石神社に午後3時頃に到着し神社に参拝します。
大石神社境内でも義挙大祭が催行され、献茶や献花、浪曲、剣舞、剣道などが行われ、参道にも多くの屋台が出て賑わいます。

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