京都を感じる日々★古今往来Part2・・京都非観光名所案内

京都を感じる日々★古今往来part1・・京都非観光名所案内のニューバージョンです。

山科区

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大石神社その1

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京都の山科は、忠臣蔵で有名な大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか・よしお)が隠棲した地として知られます。(忠臣蔵には必ず山科の場面が出て来ますが、全国的にも山科といえば、大石内蔵助しか思い浮かばない人も多いと思われます。)
実際、山科区には、大石内蔵助が建立した主君の浅野長矩の墓や赤穂義士の遺髪塔のある瑞光院(ずいこういん 以前ブログに採り上げています)、大石内蔵助の隠棲地に建つ岩屋寺(いわやじ)など幾つかの史跡が残っていますが、今回の大石神社(おおいしじんじゃ)は、岩屋寺と共に山科西部を代表する観光地の一つに数えられる神社です。

大石神社は、昭和初期に創建された比較的新しい神社ですが、境内地は約二千三百坪あり、桜やもみじ等も多く植えられていて四季夫々の風情が楽しめます。特に、春には本殿前の枝垂桜「大石桜」が美しい花を咲かせることでも知られ、討入りのあった十二月十四日に行われる「山科義士まつり(山科義士祭)」も、山科を代表する観光行事として有名です。



さて、京都市山科区西野山桜ノ馬場町にある大石神社は、赤穂義士として有名な大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)公を祭神とする神社で、赤穂義士・大石内蔵助良雄の義挙を顕彰するために、昭和十年(1935)に山科の大石隠棲の地に創建されました。

神社の創建に際して、当時の支援団体や全国の崇敬者からの援助がありましたが、特に、当時浪曲界の重鎮だった吉田大和之丞(二代目吉田奈良丸)の助力が大きかったようです。吉田大和之丞は、赤穂義士の熱心な崇敬者で、浪曲や講演等を通じて赤穂義士の義挙を称え、その武士道精神の宣揚に努力しました。そして、全国の浪曲師に働きかけて、大石内蔵助隠棲の山科に神社建設を計画しました。
これに賛同した京都府も、府庁内に京都府知事を会長とする大石神社建設会を設立し、地元にも山科義士会等の組織が作られました。そして、これら各団体や全国の崇敬者の募金活動によって、昭和十年(1935)十二月十三日に鎮座祭が斎行され、その後、昭和十二年(1937)四月に府社に昇格しています。また昭和十三年(1938)に吉田大和之丞は、大石神社境内に末社の天野屋利兵衛社を創建しています。


あまりにも有名な忠臣蔵の詳細については省略しますが、山科との関わりを中心に少し触れてみます・・・
さて、元禄十四年(1701)三月十四日、播州赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)が江戸城内の松の廊下で、 高家旗本・吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)に対し刃傷におよんだことから、将軍・徳川綱吉の命により内匠頭は即日切腹、浅野家は断絶、領地没収となりました。
事件の知らせで浅野家家中には動揺が走り、家臣達は篭城と開城に意見が対立しますが、城代家老・大石内蔵助良雄は、浅野家家中の意見をまとめて四月十九日に無血開城し、残務処理の後、五月十二日に赤穂を去りました。

そして、六月二十八日、内蔵助より先に赤穂を去って、山科に田地・屋敷を得て移り住んでいた親類の浅野家家臣・進藤源四郎俊式(しんどうげんしろうとしもと)の世話で、山科に移り住みました。(当時、山科は近衛家の領地で、進藤源四郎の親類・進藤刑部大輔長之(しんどうぎょうぶたいふながゆき)が近衛家の家司として山科の地を管理していたことから、源四郎を通じてその援助を受けたと考えられています。)


大石内蔵助が隠棲したのは、山科西部の西野山の山裾の地(西野山桜ノ馬場町 大石神社の南にある岩屋寺付近)で、閑静な山里で人目につきにくいという利点がありました。また、山科は東海道の街道町として京や江戸との行き来にも便利な地で、事件の善後策を考えるのにも適していたようです。東海道は、山科北部を通っていて、西に日ノ岡を越えると京都の三条大橋に連結し、東は大津を経由して遠く江戸に至ります。また、滑石街道で京都の東山今熊野へ、稲荷山の南を抜ける大岩街道(伏見街道)で伏見へ繋がっていました。

史実かどうかについては諸説あるようですが、忠臣蔵では大石内蔵助は、吉良側の警戒の目を欺き、また情報を集めるために祇園一力亭(祇園四条花見小路)や伏見撞木町の遊郭等で遊興にふけったとされます。京都の祇園へは東海道で、伏見へは大岩街道(伏見街道)で向かうのが便利だったかもしれません・・
実際には、内蔵助が頻繁に利用したのは、すぐ東へ山を越える滑石越だったようで、遊里からの帰り道に泥酔した内蔵助がこの石で休憩したと伝えられる腰掛石(こしかけいし)が峠道に残っています。(また、今熊野にある真言宗泉涌寺派総本山の泉涌寺の塔頭・来迎院(前にブログに採り上げました)も内蔵助ゆかりの寺院で、境内には内蔵助が作った茶室「含翠軒(がんすいけん)」があり、内蔵助はこの茶室で浪士たちと密談したといわれます。こちらへも滑石街道を使って通っていたのでしょう。)

こうして、内蔵助は討入り前の一年有余、山科に住居を構えて、山科や京都で、しばしば同志達と会合を開いて、浅野家再興の方法を模索し、その後は吉良上野介討ち入りの準備を進めました・・・
内蔵助は、当初は討ち入りを強行しようとする江戸の急進派同志を抑えて、亡内匠頭の弟・浅野大学長広(あさのだいがくながひろ)を立てて播州赤穂藩浅野家の再興を謀りますが、翌元禄十五年(1702)七月に、幕府が浅野長広に安芸広島藩浅野本家への預かりを言い渡したことで、お家再興の望みは絶たれました。
こうして、内蔵助は最終方針を本所吉良邸討入りに決定し、江戸の同志達と計画を進めます。内蔵助は五月に妻子を離縁し、八月には山科を引き上げて京都四条寺町に移り、十月には江戸へと出発しました。


さて、元禄十五年(1702)十二月十四日(討ち入り決行は十五日の午前四時頃)大石内蔵助良雄以下、元赤穂藩の浪士四十七士は吉良邸へ突入しました。表門からは内蔵助を大将として、片岡源五右衛門ら二十四名、裏門からは長男・大石主税を大将として、堀部安兵衛ら二十三名が襲撃し、約二時間の激闘の末、午前六時頃に吉良上野介義央の首を得て本懐を遂げました。
その後、四十七士は高輪泉岳寺の主君長矩の墓前に、その首を捧げ仇討ち達成の報告をしたのでした。
討ち入り後の赤穂義士四十六士(足軽の寺坂吉右衛門を除く)は、細川、松平、毛利、水野の四大名家に預けられ、 翌、十六年(1703)二月四日、幕府の命により、全員が切腹しました。時に内蔵助は四十五歳、義士達の遺骸は、主君・浅野内匠頭と同じ泉岳寺に葬られました。



次回に続きます・・

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山科区の小さな史跡が続きましたので、気分転換に山科盆地を流れる春の山科川と勧修寺公園の写真を掲載します。
山科川は、山科区のシンボルとして区民に親しまれている川で、勧修寺公園は、山科区で最も知られた公園になります。どちらも、山科区の知るためには押さえておきたい市民の憩いの場なので、史跡ではありませんが採り上げてみます。


京都市やその周辺地域にとって、鴨川(賀茂川)、桂川、宇治川をはじめとする幾つかの大河が無くてはならないものになっているように、山科川は、山科区民にとっては無くてならない地域のシンボル的な川です。他の京都市内の自然河川の大部分は桂川水系に属しますが、山科川は宇治川水系に属する唯一の川で、流域となる山科区と伏見区以外の京都市民にとっては馴染みの無い、地域限定の川ではありますが・・

さて、山科川は、全長約十五キロあり、京都市伏見区の最北部地域にある高塚山の山麓から発して北上して山科区の西部の山岳地域に入り、山科区小山地区に入って西へ流れます。その後は山科区の中央部の市街地を南北に縦断して伏見区に入り、伏見区の六地蔵地区から西に流れて宇治川に注ぎます。

この山科川の市街地を縦断する中流域地域は、川の両側に遊歩道が整備され、ジョギングや散歩に最適の環境になっています。
今回写真を掲載した山科区勧修寺付近は、山科川の支流・旧安祥寺川(きゅうあんじょうじかわ 山科区北西部の山間に発し、山科区西部を縦断して西野山地区で南東へ向きを変えて山科川に合流)が山科川に合流する地域で、その三角州の位置には観修寺公園があります。(公園の南には名神高速道が見えます)


さて、この山科区の南端に近い、山科川と旧安祥寺川の合流地にあるのが、山科区の唯一の屋外運動公園の観修寺公園(山科区勧修寺東金ヶ崎町)です。
山科区では珍しいかなり大きな公園(東西約二百メートル、南北最大約二百七十メートル余(あくまで地図上の推定です))で、公園の大部分は野球場やテニスコートが占めますが、北側には児童公園があり、高さ十四メートル、幹周一.四メートルのケヤキ並木が連なっています。
その他、中央の野球場を囲んで木々や草花が植えられていて、夏の新緑や秋の紅葉を楽しめる場所になっています。また山科川沿いの遊歩道と連結していて、散歩の途中に休憩するのにも便利です。
(また、公園の西南隅には、昭和四十七年(1972)設立の山科南部土地区画整理組合による「まちづくりの碑」(平成8年建立)があります。)

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山科区勧修寺西栗栖野町、前に採り上げた中臣神社の直ぐ東にあるのが宮道古墳(みやじこふん)で、「宮道朝臣列子墓(みやじのあそんれっしのはか)」としても知られる史跡です。

宮道列子(みやじのれっし)は、山城国宇治郡大領(現在の京都府宇治市・京都市山科区一帯を支配していました)を務めた宮道弥益(みやじのいやます)の娘(妹とも)と伝えられ、その後、藤原北家の基礎を築いた藤原冬嗣の孫に当たる内大臣・藤原高藤(ふじわらのたかふじ)の妻となりました。そして、二人の間には、後の大納言・:藤原定国(ふじわらのさだくに)、右大臣・藤原定方(ふじわらのさだかた)、そして、宇多天皇の女御として醍醐天皇の生母となった藤原胤子 (ふじわらのいんし たねこ 宇多天皇女御、贈皇太后) 等が産まれました。

「今昔物語集」によると、若き日の藤原高藤が南山科で鷹狩をした際に雷雨に遭って、偶然、宮道弥益の邸で雨宿りして一夜を過ごし、この夜に見初めた弥益の娘・列子と結ばれて胤子を授かったということです。六年の後、母娘に再会した高藤は二人を引き取ったと伝わり、後に成長した胤子は、元慶八年(884)頃に、光孝天皇の第七皇子・源定省(みなもとのさだみ)と結婚しますが、仁和三年(887)に定省は皇族に復帰して宇多天皇として即位しました。こうして胤子は宇多天皇の女御となって醍醐天皇を産むことになります。

その後、 この勧修寺地域は、醍醐天皇の即位によって出世した藤原高藤・定方に始まる勧修寺流(藤原北家勧修寺流)の本拠地となったため、醍醐天皇を中心に、宮道弥益、宮道列子、藤原胤子、藤原高藤、藤原定方といった人物の史跡が勧修寺一帯に残っています(醍醐天皇山科陵(だいごてんのうのちのやましなのみささぎ)も、一応、伏見区に属しますが、距離も近く関連史跡といっても良いでしょう。)



宮道古墳(宮道朝臣列子墓)から外れますが、ここで、少し勧修寺流の関連史跡を確認してみます・・・

まず、観光寺院として知られる真言宗山階派の大本山・勧修寺(山科区勧修寺仁王堂。この一帯の地名が「かんしゅうじ」のため、お寺の名前も「かんしゅうじ」と呼ばれることが多いですが、正式には「かじゅうじ」になります。)は、昌泰三年(900)に、醍醐天皇が亡き母・胤子の菩提を弔うために、この地にあった母ゆかりの宮道弥益の別邸を寺に改めたもので、叔父の藤原定方を開基、東大寺の承俊律師を開山として創建したもので、勧修寺という寺号は、祖父・藤原高藤の諡号(しごう)に由来しています。

また、勧修寺の南にある宮道神社(みやじじんじゃ 山科区勧修寺仁王堂町 前にブログに採り上げています)は、勧修寺の元となった宮道家ゆかりの神社で、寛平十年(898)に創祀され、後に宮道弥益・列子、藤原高藤・定方・胤子等勧修寺ゆかりの人々を合祀しています。

さらに、勧修寺の西約一キロに位置する小野陵(山科区勧修寺北大日町)は、宇多天皇の女御として醍醐天皇の生母となった藤原胤子の陵墓です。
また、勧修寺の西には、前にブログに採り上げた藤原定方の墓(山科区勧修寺下ノ茶屋町)や、藤原高藤の墓(小野墓 山科区勧修寺下ノ茶屋町の鍋岡山山頂)もあります。

大宅廃寺跡(おおやけはいじあと 山科区大宅奥山田・山田・鳥井脇町)は、中臣鎌足建立が建立した山階精舎(山階寺)や、豪族大宅氏の氏寺などにも比定されますが、一説には宮道弥益が妻のために建てた御堂という説もあるようです。そして、大宅寺(大宅中小路町)は、「今昔物語」に宮道弥益の妻が建立したとも記されている寺院で、本堂の後には宮道弥益夫妻の墓と伝えられる五輪塔があります。




さて、宮道列子に戻ります・・醍醐天皇の外祖母となった列子は、延喜七年(907)十月十七日に亡くなって、山城国宇治郡に丁重に葬られました。「延喜式」諸陵寮式には、「後小野墓」と称し、山城国宇治郡小野郷に墓が作られたことが記されています。

今回採り上げた勧修寺西栗栖野町にある「宮道古墳(円墳)」は、前回に書いた中臣遺跡の「中臣十三塚」といわれる古墳時代後期の墳丘墓の一つと考えられています。古墳は竹林に覆われ、周囲は空堀があるようです。そして、古くから宮道列子の墓と伝えられていることから、古墳の前には「宮道朝臣列子墓」の石碑が立てられています。

また、列子の墓のあるこの古墳は、明治維新の頃に私有地となったようですが、昭和八年(1933)九月に勧修寺宮の旧臣に当たる永田重泰という人が勧修寺に寄進しました。現在の新しい列子の墓(供養塔)は、平成十九年(2007)に大宅寺に奉安されている列子の両親と同サイズの塔を建立し奉安したものということです。(上記したように、大宅寺の本堂の後には、宮道弥益夫妻墓と伝えられる五輪塔二基があります。)

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山科区一帯にあって、京都の洛東最大の集落史跡とされるのが、「中臣遺跡(なかとみいせき)」です。今回は、山科区勧修寺にある西金ヶ崎公園内(山科区勧修寺西金ケ崎)、勧修小学校内(勧修寺東栗栖野町)、勧修寺市営住宅敷地内(勧修寺東栗栖野町)の各中臣遺跡碑の写真を掲載し、西金ヶ崎公園内と史跡住宅の中臣遺跡を解説する石碑の文章を引用してみます。


さて、山科盆地は、中臣鎌足(藤原鎌足)で知られる中臣氏(後の藤原氏)の本拠地として古くから開発され、大津京や平安京の隣接地としても歴史的に大きな影響を与えた地域でした。
そのためか、山科区の山科盆地の南部と栗栖野丘陵を取り巻く一帯には、「中臣遺跡(なかとみいせき)」と呼ばれる縄文時代(後期旧石器時代 約二万年前)から平安時代を経て、室町時代に及ぶ大規模な集落遺跡があります。この遺跡群は、集落跡と古墳群から成る複合遺跡で、東は山科川、西を旧安祥寺川で囲まれ、両河川の合流点から北へ広がっています。

以下の地域に分布しています
東野(舞台町・森野町)
栗栖野(狐塚・中臣町・華ノ木町・打越町)
西野山(中臣町・中鳥井町)
勧修寺(東栗栖野町・西栗栖野町・西金ヶ崎・東金ヶ崎・椥辻番所ヶ口町)


発掘調査によって、住居跡は、山科川と旧安祥寺川に面した段丘面を中心に点在し、大きく二つの時期に分けられることが判りました・・・一つは弥生時代の終末期から古墳時代の前期にかけての遺跡で、もう一つは古墳時代からその終末期にかけての遺跡になります。
その内、古墳時代からその終末期にかけての集落遺跡には、中臣鎌足(藤原鎌足)が邸宅(陶原館)を構えていたという「山科の陶原」があった可能性もあり、そうであれば、「中臣遺跡」は古代史上たいへん貴重な遺跡となることになります。


また、この地の古墳群(中臣群集墳)は、栗栖野丘陵にある小円墳の群集墳で、いずれも六世紀末〜七世紀前半に造られたものと推定されています。この地の古墳群は、「中臣十三塚」と呼ばれてきたように、かつては多くの古墳があったようです。
昭和四十三年(1968)に高校生によって初めて集落跡が発見され、1972年から土地区画整理に伴う道路工事や宅地開発に先立って発掘調査が続けられました。現在は、近年の宅地造成によって古墳群の大部分が失われ、現在まで墳丘を残しているのは、ブログに採り上げた折上稲荷神社境内にある折上神社古墳(通称「稲荷塚」)と、「宮道朝臣列子墓」の碑がある「宮道古墳」だけということです。

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今回は、先日採り上げた折上神社(折上稲荷神社)の周辺にある二つの小さな神社をまとめて採り上げてみました。

山科区栗栖野華ノ木町・・折上神社(折上稲荷神社)の直ぐ北東に位置する朝日神社(あさひじんじゃ)は、境内の石板によると、祭神として、天照大神(あまてらすおおかみ)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、徳川家康公(とくがわいえやすこう)の三柱を祀っています。

この地に三柱神が祀られた(神社の創建)のは、文献によると、江戸時代の元文五年(1704)申年七月吉日ということです。元々、この地は、徳川三代将軍家光の息女・千代姫が収得して、その後、乙訓郡大山崎妙音山観音寺に寄進した地とされ、 享保年代(1716〜35)に多くの移民によって開拓し、栗栖野新田が生まれたということです。
これらの移民は、主に久世郡寺田村、紀伊郡富森村、下鳥羽村などから移住したようで、これら開拓移民らによってこの地の鎮守神として朝日神社が創建されました。それ以来、現在まで、二百五十年間栗栖野地域の氏神として信仰されています。 また、境内の記念碑によると、昭和四十七年(1972)十月に建物を新改築しているようです。



さて、山科区西野山中臣町、小さな公園のような空き地にある小さな中臣神社(なかとみじんじゃ)は、祭神として倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀ります。

祭神の天児屋根命は、古代豪族中臣氏の祖で、後に藤原氏の氏神として祀られました。この関係から、中臣神社もこの地を領地としていた中臣氏との関わりが伺われますが、その祭祀年代や中臣氏との関係は不明ということです。そして、現在は、山科神社(岩屋寺に隣接)の御旅所になっています。また、直ぐ近くには、藤原氏出身の「宮道朝臣列子墓」があります。(今後、採り上げます)

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