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防共協定(ぼうきょうきょうてい、ドイツ語: Antikominternpakt)は、1936年(昭和11年)11月25日に日本とドイツの間で調印された共産「インターナショナル」ニ対スル協定を指す。締結当初は二国間協定である日独防共協定と呼ばれ、国際共産主義運動を指導するコミンテルンに対抗する共同防衛をうたっており[1]、後の日独伊三国を中心とした軍事同盟、いわゆる枢軸国形成の先駆けとなった。 1937年にイタリア王国が原署名国として加盟し[2]、日独伊防共協定と呼ばれる三国間協定となり、1939年にはハンガリー王国と満州国、スペインが参加したことによって多国間協定となった。1941年には条約の改定が行われるとともにドイツ勢力圏にある複数の国家が加盟したが、枢軸国の崩壊とともに消滅した。
目次[表示]背景1933年に国際連盟を脱退した日本では、国際的孤立を防ぐために同様に国際連盟から脱退したドイツ・イタリアと接近するべきという主張が日本陸軍内で唱えられていた。また、ソビエト連邦は両国にとって仮想敵であり、一方のソ連では1935年7月に開催された第7回コミンテルン大会で日独を敵と規定するなど、反ソビエトという点では両国の利害は一致していると考えられた。また駐独日本大使館付陸軍武官大島浩少将は、かつて日露戦争の際にビヨルケの密約によってロシア帝国とドイツ帝国の提携が成立しかけ、背後を気にする必要が無くなったロシアが兵を極東に差し向ける恐れがあった事例をひき、ユーラシアにおけるソビエト連邦とドイツの提携を断乎排除する必要があると唱えていた[3]。
ドイツ側の対日接近論者の筆頭であったのは、総統アドルフ・ヒトラーの個人的信任を得ており、軍縮問題全権代表[4]の地位にあったヨアヒム・フォン・リッベントロップであった。リッベントロップはこの協定を、イギリスを牽制するためのものとして準備していた。国家社会主義ドイツ労働者党には、外務全国指導者のアルフレート・ローゼンベルクがいたが、日独接近は英独関係に悪影響を及ぼすと考えて躊躇していた[5]。ヒトラーはリッベントロップを将来の外相であると評価していたが、外相となるには「手柄を挙げることが必要」と考えていた[6]。
一方でドイツ外務省は、日本が建国した満州国承認も行わず対日接近には消極的で、極東情勢に不干渉の立場をとっていた。外相コンスタンティン・フォン・ノイラートは「日本は我々になにも与えることができない」と評価していた[7]。また第一次世界大戦で特に紛争があったわけでもないのに敵国側についた日本に悪印象を抱いていた[8]。さらには、リッベントロップが外務次官の地位を要求していたにもかかわらず、外務省側ではこれを拒否するなど両者には強い敵対関係があった[9]。このため11月26日の調印式にいたるまで、外務省はこの協定交渉を一切関知しようとしなかった[10]。
この複数の関係機関が独自に活動している状態は、ナチス外交の多頭制と、複数路線制を示すものであると指摘されている[5]。リッベントロップは「リッベントロップ事務所」を設立し、対日交渉に臨んだ。
日独間の締結交渉
大島浩駐独武官 第一次交渉リッベントロップは兵器ブローカーフリードリヒ・ハックを通じて日本との接触を図った。ハックは日本海軍と取引があり、1935年1月にはロンドンで山本五十六軍縮会議全権とリッベントロップの会談を実現させた。リッベントロップはヒトラーと山本の面会を求め、日独接近の交渉を行った。しかし海軍の独自の動きを警戒する松平恒雄駐英大使と、武者小路公共駐独大使によってこの動きは阻止された[11]。この動きは国防軍情報部長のヴィルヘルム・カナリス中将に察知されたが、彼は対ソ同盟を主張しており、国防軍の大勢と異なり、リッベントロップらと協力する動きを開始した[12]。
9月13日、ハックは駐独日本大使館付陸軍武官大島浩少将に接触し、日本陸軍参謀本部の意向を確認した。大島も外務省を通じず、陸軍とリッベントロップの間で交渉を行うように要請している。11月半ばまでの間ハックと大島の間で予備交渉が行われ、大島はソ連を対象とした軍事色の強い保証協定を提案している[13]。ハックはこの提案をカナリスに伝え、カナリスは国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルクにこの提案を提示することにした[14]。ブロンベルクはこの提案に前向きに応じ、リッベントロップと大島の会談を促した[14]。しかしブロンベルクはこの時点で、対日接近が対中関係に及ぼす影響をまったく考慮しておらず、国防軍総局長ヴァルター・フォン・ライヒェナウをはじめとする対中接近派の意見に従うようになり[14]、具体的な軍事協定の締結には強く反対することになる[15]。カナリスは国防軍内における対日接近派の勢力拡大と、対中接近派の抑制に努めることになる[16]。
大島からの報告を受けた日本陸軍参謀本部は、参謀総長閑院宮載仁親王が「ベルリンでの作業計画」を裁可し、交渉のために参謀本部欧州課独逸班長若松只一の訪独を承認した[15]。しかし日本参謀本部の動きを察知した駐日大使館付武官オイゲン・オット大佐はこの動きを国防軍上層部に通報した。カナリスはこの動きに動揺し、オットに対し駐日ドイツ大使ヘルベルト・フォン・ディルクセンへの報告を禁じた[15]。
日本の参謀本部は提携には積極的であったが、軍事同盟には消極的であった。しかし日ソ戦の際にドイツが「好意的中立」を保ってくれることを希望していた。リッベントロップ事務所のヘルマン・フォン・ラウマーはソ連を刺激することを恐れ、協定内容を対ソ連ではなく「コミンテルンによる国際共産主義運動が自国に波及する事を防ぐ」という婉曲的な内容にしようと提案した。当時、ソ連政府はコミンテルンの活動はソ連政府と無関係であるという立場を取っており、これを逆用したものであった[10]。大島も反コミンテルン協定であるという「マント」を着せることに同意した[17]。
11月15日にはリッベントロップ邸において、リッベントロップ、カナリス、ハック、ラウマー、大島、若松が会談を行った。この席でリッベントロップは「一般的な友好協定」に「軍事上の付属紳士協定」が加えられたものを提案し、成立した協定はイギリスに通知されるべきことと、ポーランドの参加が考えられるとした[18]。
この時期になるとリッベントロップらの動きは外務省にも察知され、リッベントロップは「様々な部局、とりわけ外務省からの抵抗」に悩まされるようになった[18]。しかし11月27日にリッベントロップと面会したヒトラーは、「対コミンテルン条項は公表してもよい」「調印はベルリンで行う」という「決断」を示した[19]。11月30日にはラウマーによって協定案が完成した。「コミンテルンの危険に対する防御協力」をうたった本文と、締結国がソ連の紛争に巻き込まれた場合には一方の締結国はソ連を援助しないことを定め、ソ連との条約締結禁止した付属協定、そして両国軍の間で締結される軍事協定から構成されていた。
しかしこの協定案提示から7ヶ月間、協定交渉は一時停滞することになる。
停滞期の交渉この時期、イタリアのエチオピア侵攻(第二次エチオピア戦争)が勃発し、イギリスによる調停が試みられたことは、イギリス・イタリア・フランスによるストレーザ戦線が再来するのではないかという懸念がドイツ側に存在し、外交政策の再検討を行う事態となった[20]。外務省はこの機会を巻き返しの時期ととらえ、リッベントロップらの動きに抵抗した[21]。また国防軍による中華民国との交渉も大きく進展し、汪兆銘らはドイツを仲介者とした日中和平を希望するようになった[22]。ヒトラーはこの仲介に「外見上、原則的な賛意」を与え、リッベントロップも大島に、日独協定に中華民国を加えることはできないかと打診している[23]。一方で国防軍の過度な対中接近には外務省も否定的であり、ベルンハルト・ヴィルヘルム・フォン・ビューロー外務次官は国防軍やライヒェナウの姿勢を非難している[24]。
1936年1月、日本外務省欧亜局長東郷茂徳は陸軍から説明を受けて初めて協定締結交渉を察知した。東郷は協定に反対であった。また同月には日独合作映画『新しき土』の制作のためと称してハックが来日、日本の関係者と交渉を行った[25]。
2月に二・二六事件が勃発して陸軍の発言力が増大したため、日本外務省も交渉締結の路線から外れることは出来なかった。5月8日、外相有田八郎は駐独大使武者小路公共に「両国間に事項を限定しない漠然たる約束」をする趣旨の指令を行った。しかし参謀本部は大島少将に「日ソ戦が勃発した際に中立を守る」規定を盛り込むように指令した。
4月6日にはライヒェナウらの主導で、中華民国に一億ライヒスマルク借款を行うことを始めとする援助協定が成立した。これは対独接近を考えていた日本側にも大きな衝撃を与えた。ライヒェナウはこの際に日独提携と独中提携は両立しないと言明した上で、「リッベントロップ氏による日本との協定交渉は中止された」と語っている[24]。5月には国防軍が日本との提携は対ソ戦争の際に役立たないばかりでなく、イギリスやアメリカとの敵対関係も呼び込むと警告する報告書を提出した[26]。一方で援助協定のあまりの巨大さを知った外務省は、国防軍を牽制するため、対日接近に傾くようになった[27]。
再交渉リッベントロップは1936年7月に駐英大使に任命されているが、ヒトラーとのパイプを妨害されることを怖れ、ロンドンに赴任したのは10月になってからであり、その後もしばしば帰国してヒトラーと連絡を取っている[6]。7月には防共協定の案文と付属議定書がドイツ側から日本に提示された。この内容は1935年11月にラウマーが作成した案とほぼ同一のものであったと見られている[28]。日本側は協定の公表自体には反対であったが、ドイツ側は協定本文については公表することを望んだ[29]。一方でライヒェナウらはなおも強い独中協定を主張し、中独軍事同盟の成立も主張していた[29]。9月にライヒェナウは帰国するが、ヒトラーは「(ライヒェナウがヒトラーの)対日構想を台無しにしようとしている」と激怒し、「将軍たちは政治を何も理解していない」と罵った[30]。
10月23日には仮調印が行われ、日本の枢密院における審議を待つばかりとなった[31]。しかし国防軍の親中的な姿勢が伝えられるにつれ、枢密院での審議が危ぶまれるようになった。武者小路大使はドイツ側に抗議し、協定締結は不可避と考えるようになった外務省が国防軍に対中支援協定の中止を求めたことでこの動きは決着した[32]。
協定締結11月25日、ベルリンのリッベントロップ事務所で協定の調印式が行われた[33]。日本側の全権大使は武者小路駐独大使、ドイツ側はリッベントロップが行った。協定の内容はドイツ側の提案、すなわち1935年11月のラウマー案の内容を大きく超えるものではなかったが、国防軍の主張通り軍事協定の性格はつかなかった[34]。
協定締結後には祝賀晩餐会が開かれたが、この席にはヒトラー、ヘルマン・ゲーリング、ルドルフ・ヘスといった高官の他、外務省関係者からは外相ノイラート、外務次官エルンスト・フォン・ヴァイツゼッカーらの首脳が参加したが、国防軍からはただ一人カナリスが参席していた[35]。国防軍はこの場に高官を出席させないことで不快感を示した形になり、またこのような場にカナリスのような地位の人間が出席するのは極めて異例である[35]。
協定の内容大日本帝国政府および独逸国政府は共産「インターナショナル」(所謂コミンテルン)の目的が其の執り得る有らゆる手段に依る現存国家の 破壊及爆壓に有ることを認め 共産「インターナショナル」の諸国の国内関係に対する干渉を看過することは其の国内の安寧及び社会の福祉を危殆ならしむるのみならず世界平和全般を脅すものなることを確信し 共産主義的破壊に対する防衛の為協力せんことを欲し左の通協定せり
附属議定書本日共産「インターナショナル」に対する協定に署名するに当り下名の全権委員は左の通協定せり
(イ)両締約国の当該官憲は共産「インターナショナル」の活動に関する情報の交換並びに共産「インターナショナル」に対する啓発及防衛の措置に付緊密に協力すべし
(ロ)両締約国の当該官憲は国外に於て直接又は間接に共産「インターナショナル」の勤務に服し又は其の破壊工作を助長するものに対し現行法の範囲内に於て厳格なる措置を執るべし
(ハ)前記(イ)に定められたる両締約国の当該官憲の協力を容易ならしむる為常設委員会設置せらるべし。共産「インターナショナル」の破壊活動防衛の為必要なる爾余の防衛措置は右委員会に於て考究且協議せらるべし
(以上仮名を平仮名、旧仮名遣いを現代仮名遣いに修正)
秘密附属協定日本陸軍が望んだ軍事的条約は第一条に定められた規定に盛り込まれた。この附属協定は公表されなかった。
(以上、概要)
秘密書簡・秘密了解事項秘密附属協定を補則するため、秘密書簡と秘密了解事項が添付された。日独両国がすでにソビエト連邦と結んだ条約(独ソ中立条約など)は秘密附属協定の第二条の対象外となることなどが定められた。
締結直後の評価防共協定は交渉過程において実効性をもたない骨抜きの条約となり、交渉当事者にも「『背骨無き』同盟」[33]と評価されていた。陸軍以外は協定締結に積極的ではなく、元老西園寺公望は「どうも日独条約はほとんど十が十までドイツに利用されて、日本はむしろ非常な損をしたように思われる」ともらしており、ディルクセンも日本外務省・海軍・財界の態度が冷淡であると報告している。
一方でリッベントロップは、「(同盟へと拡大されるはずであった)防共協定は、イギリス『抜き』、あるいはイギリスと『敵対』してでも広範囲にわたる(ヴェルサイユ条約)改訂政策とその後の領土拡大政策を実行できる」という見通しを得た[36]。リッベントロップはこの協定をソビエト連邦に対して用いることは考えておらず[36]、この点はヒトラーも同意見であった[36]。リッベントロップは「ジブラルタルから横浜まで」に至るユーラシア同盟によってイギリスと敵対する構想を持っていた[37]。
1937年2月には、ディルクセンが日本から勲一等旭日大綬章を受け、その他カナリス、オット、ハック、ラウマーといった交渉関係者にも叙勲が行われた。11月にはノイラートの他、「(協定締結を)終始熱心その促進に務め」たとして、ブロンベルクら国防軍関係者にも儀礼的な叙勲が行われている[38]。
協定の拡大日本はあくまでこの協定をソ連に対抗するものと考えており、イギリスをこの協定に参加させようとしたが、イギリス側に拒否されている[39]。重光葵のように防共をキーワードに国際同盟を構築しようとする者もいたが[40]、大きな動きにはならなかった。
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1930年代の中独合作
1928年、中独関係は、世界恐慌のなどの齟齬が起きたことから1930年から1932年の間は停滞した。
1931年、満州事変で日本が中国軍を一掃し、翌1932年1月3日 には満州を占領。
同年1月28日 には第1次上海事変が勃発する。このときドイツ軍事顧問団が指導した第87・88師団が参戦。
その後、日本軍が熱河省に侵攻し、万里の長城付近で交戦した際には、クリーベルの後任の顧問団長だったゲオルク・ヴェッツェル中将が自ら中国軍を指揮している。
1933年にナチスが政権を取ると、ドイツの対中政策はより具体性を増した。ドイツ国防軍、産業界・商社は、政府の政策が中国貿易の利益を損なうことがないよう希望していた。
その後ナチス・ドイツは、挙国一致での戦争経済推進を政策に掲げ、軍需資源の確保、特に中国で産出されるタングステンとアンチモンを重視したため、これ以降、ドイツの対中国政策が促進された。
2017/5/7(日) 午前 8:36 [ 歴史&環境&公徳心ツアー ]