Stephenの京の散歩道

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京の史跡探訪

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本能寺の変

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本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天下統一を目前にした織田信長が家臣の明智光秀の謀反によって宿泊していた本能寺を急襲されて死亡した事件。信長だけでなく、信長の嫡男であり織田家当主でもあった織田信忠も二条城で明智方の攻撃を受けて死亡したため、織田政権内に後継者争いが勃発し、織田氏の没落と羽柴秀吉による豊臣政権樹立の契機となった。
光秀が反旗を翻した原因については、21世紀に入っても様々な人々が多種多様な仮説を発表している。

経緯

明智光秀は、甲州征伐から帰還したのち、天正10年(1582年)5月15日より安土城において武田氏との戦いで長年労のあった徳川家康の接待役を務めた。しかしながら、17日に光秀は接待役を途中解任されて居城・坂本城に帰され、羽柴秀吉援護の出陣を命ぜられた。解任の理由は、15日に秀吉から応援の要請が届いたためであった。26日には別の居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。愛宕権現に参篭し、28日・29日に「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会(愛宕百韻)を催した。この句が、光秀の謀反の決意を示すものとの解釈があるが、句の解釈は種々ある。(下記動機と首謀者に関するその他の考察の項参照)
一方、信長は29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発った。同日、京・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。信長の嫡男・織田信忠はこれより8日前の5月21日にすでに京に滞在しており、妙覚寺に入っていた。信忠は徳川家康とともに大坂・堺へ向かう予定だったが、信長が出陣を控えているためにこれを遠慮した。翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。信長はかつては妙覚寺を寄宿先としていたが、1580年以降はかつての宿所であった本能寺を寄宿先に戻し[4]、代わりに信忠が妙覚寺を寄宿先として使用するようになった。
本能寺は無防備な寺ではなく、1580年(天正8年)年2月には本堂を改築し、堀・土居・石垣・厩を新設するなど、防御面にも優れた城塞としての改造を施されていた。2007年に本能寺跡の発掘調査が行われると、本能寺の変と同時期のものと見られる大量の焼け瓦と、護岸の石垣を施した堀の遺構が見つかっている。河内将芳は、「信長が本能寺に、信忠が妙覚寺に、それぞれいることが判明しなければ、光秀は襲撃を決行しなかっただろう」という見解を述べている。

本能寺

6月1日の夕方、光秀は1万3000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣した。『川角太閤記』によれば、明智光秀はそれより前の5月29日に鉄砲の矢玉など百の荷物を運ぶ輜重隊を先行させて西国へ出発させたが、1日午後4時に森成利(森蘭丸)より信長が閲兵を行うという指示を受けたと物頭たちに説明して、午後六時頃、「本能寺にお泊りになられる御公儀様(信長)に中国遠征における閲兵を受けるため」と称して東に進路を取り、重臣斎藤利三に命じて老ノ坂を下り左(東)の洛中に全軍を3手に分けて進軍をさせた。『当代記』によれば、桂川手前でおよそ1万の軍勢を残し、斎藤利三勢およそ3000を渡河させ洛中に向けたとされる[注釈 2]。明智軍に従軍した武士による『本城惣右衛門覚書』『日本史』には、家臣たちは相手が誰であるか知らされておらず、御公儀様(信長)の命令で徳川家康を討ち取ると考えたとされる。
翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言したという話が有名であるが、これは『明智軍記』によるもので俗説とされる。江戸時代の頼山陽の『日本外史』には、亀山城出陣の際に「信長の閲兵を受けるのだ」として桂川渡河後に信長襲撃の意図を全軍に明らかにしたとある。他の各史料に登場する話でも、5名の重臣(明智秀満、明智光忠、藤田行政、斎藤利三、溝尾茂朝)だけしか直前まで知らなかったとの説明が多く、『信長公記』では密事が漏れて信長に注進する者が現れないように安田国継(天野源右衛門)を先行させて疑わしい者を20〜30人は斬ったとされ、桂川でも「今日よりして天下様に御成りなされ候」とだけ告げている。
なお、大軍であるため信忠襲撃には別隊が京へ続くもう一つの山道「明智越え」を使ったと言う伝承もある。6月2日明方(4時ごろとする説あり)、明智軍は本能寺を完全に包囲した。
馬の嘶きや物音に目覚めた信長が、小姓森成利(蘭丸)に尋ねて様子をうかがわせたところ、御小姓衆は最初下々の者の喧嘩だと思っていたが、「本能寺はすでに敵勢に包囲されており多くの旗が見えていた。紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と成利(蘭丸)は報告し、信長は光秀が謀反に及んだことを知った。信長公記では信長「これは謀反か?如何たる者の企てぞ?」森乱(蘭丸)「明智が者と見え申し候」信長「是非に及ばず」と言い放ったと記述されている。信長は初め弓を持って表で戦ったが、弦が切れたので、次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念。女衆に逃げるよう指示して、殿中の奥深くに篭り、内より納戸を締めた。信長は成利に火を放たせ、自刃した。『川角太閤記』では、この討ち入りが終わったのが午前8時前とする。
御小姓衆の必死の抵抗により、明智光秀の軍はついに信長の首を手に入れる事が出来なかった。後の中国大返しの際に羽柴秀吉は多くの武将に対して「上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候」との虚報を伝え広めたが、明智光秀が信長と信忠の首を手に出来ずに生存説を否定できなかったために、本能寺の変以後、信長配下や同盟国の武将が明智光秀の天下取りの誘いに乗らなかったのであるという説がある。
西山本門寺(静岡県富士宮市)には「信長公首塚」が代々言い伝えられている。
明智側はその後も信長の首と遺骸の捜索を続けたが、結局、発見されなかった。日本の木造の大きな建物が焼け落ちた膨大な残骸の中からは当時の調査能力では特定の人物の遺骸は見つけられなかったであろうと、未発見の原因を説明する指摘もある。異説として、信長が帰依していたと称する阿弥陀寺(上立売大宮)縁起によれば、住職・清玉が裏の生垣から割入って密かに運び出し、荼毘に付したとされる。この縁で阿弥陀寺(上京区鶴山町に移転)には、「織田信長公本廟」が現存する。当時の本能寺には堀と土居が張り巡らされていたので、この話には疑問が残り、この縁起「信長公阿弥陀寺由緒之記録」は古い記録が焼けたため享保16年に記憶を頼りに作り直したと称するもので史料価値は高くはないという説もあるが、『信長公記』には女性の脱出は許されたと類推できる箇所があり、僧侶にも通常の無縁の原理が認められ往来を許された可能性はある。また別の異説として、作家安部龍太郎と歴史家山口稔によれば、西山本門寺寺伝に本能寺の変の時に信長の供をしていた原宗安(志摩守)が本因坊算砂の指示で信長の首を寺に運んで供養したという記載があるという。
一方、本能寺から200mほどの教会からは、フランシスコ・パシオ司祭らイエズス会宣教師達が一部始終を見ていた。彼らからの情報を書き記した『イエズス会日本年報』のルイス・フロイス書簡では、「(午前3時頃と言われる)明智の(少数の)兵たちは怪しまれること無く難なく寺に侵入して、信長が厠から出て手と顔を清めていたところを背後から弓矢を放って背中に命中させた。信長は矢を引き抜くと、鎌のような武器を振り回しながら明智軍の兵達に対して応戦していたが、明智軍の鉄砲隊が放った弾が左肩に命中した。直後に障子の戸を閉じた(火を放ち自害した)」という内容になっている。

妙覚寺・二条御所

光秀謀反の報を受けた信忠は本能寺に救援に向かおうとして妙覚寺を出たが、本能寺門前に屋敷のあった村井貞勝ら父子3名が駆け付けて、「既に本能寺は焼け落ちました。敵はここにも攻めかかってくるでしょう。隣りの二条御所(二条城)はここより守りが堅く、立てこもるのに都合がいいでしょう」と言われ、これに従って二条御所に入った。御所に入ってからの会話では「ひとまず安土に逃げるべき」など様々な意見が出たが、信忠は「敵はこのような謀反を起こした程だから、まさか簡単に逃がしはしないだろう。雑兵の手にかかっては後々までとやかく言われて無念である。ここで腹を切ろう」と言い、御所に残った。
明智軍は本能寺を落とした後に御所を包囲した。信忠たちは二条御所の主である誠仁親王を脱出させた。その後、信忠らは明智軍を相手にわずかな軍勢で防戦。信忠自身も傷を負いながら敵を切り倒し、一時間以上戦い続け、三度も明智軍を退却させた。思わぬ苦戦に、明智軍は二条御所の隣にある近衛前久邸へ押し入り、屋根から二条御所内の信忠軍を銃矢で狙い打った。信忠側の人数は次第に少なくなり、とうとう明智軍は御所内に侵入して放火した。信忠は切腹するから遺骸は縁の下に隠せと指示し、鎌田新介に介錯をするように命じた。信忠は自刃し、鎌田は指示に従って首を隠して脱出した。こうして二条御所は落城した。
妙覚寺には、信忠と共に信長の弟・織田長益(後の織田有楽斎)も滞在していて、信忠とともに二条御所に移ったが、信忠が自刃し、斎藤利治が火を放ちよく防いでいる間の落城前に逃げ出し(『三河物語』)、安土城を経て岐阜へと逃れた。『武家事紀』によると、長益も周りに薪を積ませて自決の準備をさせていたが、周囲に敵兵がいないのに気付いてここで死ぬのは犬死と思い脱出したとする。信忠が自害したのに対し、長益は自害せずに逃げ出したため、そのことを京の民衆に「織田の源五は人ではないよ お腹召させておいて われは安土へ逃げる源五 六月二日に大水出て 織田の源なる名を流す」と皮肉られたと言われている。
また、信忠が二条御所で奮戦した際、黒人の家臣・弥助も戦ったという。弥助はもともと、宣教師との謁見の際に信長の要望で献上された黒人の奴隷である。弥助は、この戦いの後捕まったものの殺されずに生き延びたが、その後の消息は不明である。

討死、自害した人物

本能寺

織田信長
森成利 (蘭丸) - 森可成三男
森長隆 (坊丸) - 森可成四男
森長氏 (力丸) - 森可成五男
小河愛平
高橋虎松
金森義入
菅谷角蔵
魚住勝七
武田喜太郎
大塚又一郎
狩野又九郎
薄田輿五郎
今川孫二郎
落合小八郎
伊藤彦作
久々利亀
種田亀
山田弥太郎
飯河宮松
祖父江孫
柏原鍋兄弟
一雲斎針阿弥
平尾久助
大塚孫三
湯浅直宗
小倉松寿
矢代勝介
伴太郎左衛門
伴正林
村田吉五
松野一忠


二条御所

織田信忠 - 信長長男
津田又十郎 - 信長弟
津田源三郎 - 信長五男
津田勘七- 一門衆
津田小藤次 - 一門衆
斎藤利治 - 道三末子
村井貞勝
猪子兵助
福富秀勝
野々村正成
篠川兵庫
下石頼重
下方弥三郎
毛利良勝
毛利岩 - 良勝の子
赤座永兼
団忠正
坂井越中守
櫻木傳七
逆川甚兵衛
服部小藤太
小沢六郎三郎
服部六兵衛
水野九蔵
山口小弁
山口半四郎
塙伝三郎
河野善四郎
寺田善右衛門
村井作右衛門 - 貞勝長男
村井清次 - 貞勝二男
村井新右衛門 - 貞勝弟
菅屋長頼
菅屋勝次郎 - 長頼の子
平古種吉 - 長頼の家臣
津田元嘉
永井新太郎
春日源八郎
種村彦次郎
桑原助六
桑原九蔵
村瀬虎
佐々清蔵 - 岳星院の夫
石田孫左衛門
宮田彦次郎
浅井清蔵
高橋藤
小河源四郎

One of best view point Daimonji

I would like to introduce to you one of a best view point of Daimonji fire festival

Gozan no Okuribi , more commonly known as Daimonji, is a festival in Kyoto, Japan. It is the culmination of the O-Bon festival on August 16, in which five giant bonfires are lit on mountains surrounding the city. It signifies the moment when the spirits of deceased family members, who are said to visit this world during O-Bon, are believed to be returning to the spirit world?thus the name Okuribi (roughly, "send-off fire").
Daimonji , the character meaning "large" or "great:" on Daimonji-Yama/Higashi-Yama, Nyoigatake at 8:00PM

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首途神社

首途神社

智恵光院通今出川上ル

平治の乱で敗れ鞍馬寺に幽閉されていた遮那王(後の源義経)が金売吉次の手招きで奥州の覇者、藤原秀衡を頼るべく鞍馬寺を脱出し、当地にあった八幡宮に旅の無事を祈願した。一行はその後苦難の旅を続け無事に奥州の平和郷、平泉に到着するのである。

google mapで当地から平泉金色堂まで徒歩でルート検索すると日本海経由のルートで6日と21時間と表示される。

奇しくも兄頼朝に朝敵とされ都落ちし再び平泉を目指したルートにほぼ一致すると最短ルートを取ったのか、偶然なのか真実はもうすこし調べてみる必要がある。

彼の墓所は次の通り二箇所ある。

宮城県栗原市判官森(伝胴塚)
神奈川県藤沢市白旗神社(伝首塚)

今もバラバラに葬られておられます。

その天才的な軍略は幼少期に正統な武士教育を受けてい無い故と非難される事もあるが、「判官贔屓」という言葉の通り今も多くの人々から慕われる魅力を持った武将である。

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鞍馬寺

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首途神社

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黄瀬川 頼朝、義経対面岩

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腰越状

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衣川館(義経自刃の地)

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首洗い井戸

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胴塚

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鵯越の逆落とし

聚楽第本丸跡 その2

聚楽第本丸跡 その2

本丸跡の遺構を調査しているのですが智恵光院通出水上ル、パン工房窯くらさんの前から北を見ると微かに土地が高くなっていきます。このあたりが本丸南端付近と想像します。

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本丸東堀は大宮通中立売に東堀跡の碑がありますので、この辺りが本丸東限と想像します。

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