Stephenの京の散歩道

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お城巡り

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水戸城


水戸城(みとじょう)は、常陸国茨城郡水戸(現在の茨城県水戸市三の丸)にあった日本の城である。
江戸時代には、徳川御三家の一つ水戸徳川家の居城であった。茨城県指定史跡三の丸にある藩校弘道館は国の特別史跡

概要

水戸市の中心部、水戸駅の北側に隣接する丘陵に築城された連郭式平山城である。北部を流れる那珂川と南部に広がっていた千波湖を天然の堀としていた。本丸の西側に二の丸が配され、さらに西に三の丸が配され、それぞれが空堀で仕切られていた。また、城郭には石垣がなく、全て土塁と空堀で構成されていた。徳川御三家の居城であったにもかかわらず、尾張藩名古屋城紀州藩和歌山城に比べるとかなり質素で、防衛上の重要性がなかったためか城郭と言うよりはむしろ政庁としての性格が強かったようである。
江戸時代のは、二の丸に現在の茨城県立水戸第三高等学校茨城大学教育学部附属小学校附属幼稚園にまたがる形で存在した。三の丸には藩校などがあり、本丸は主に倉庫として使用されていたとされる。本丸を中心として使用していたのは江戸氏の頃とされる。天守は建造されず、3重5階建ての御三階櫓があった。
御三階櫓は明治の解体を免れたが、太平洋戦争時の水戸空襲で焼失し、以後再建されていない。城跡は二の丸・三の丸付近が整備されており、土塁・空堀が現存している。また、三の丸には水戸藩藩校であった弘道館(国の重要文化財、特別史跡)が現存している。また、薬医門(茨城県指定有形文化財)は銅板葺に変更されたものの現存しており、現在は旧本丸にある茨城県立水戸第一高等学校に移築されている。
現在の城跡は文教地区となっており、水戸一高の他、水戸三高、水戸市立水戸第二中学校水戸市立三の丸小学校、茨城大附属小・幼稚園が建っている。三の丸小学校は校門や塀、校舎の多くをレトロ調にしている。
本丸と二の丸、三の丸の間には堀があり橋が掛けられていたが、明治期に二の丸と三の丸の間の堀は道路(県道232号市毛水戸線)として、本丸と二の丸の間の堀は鉄道(JR水郡線)として転用された。

御三階櫓

水戸城の御三階櫓の初代は「三階物見」と呼ばれる三重櫓であり、1764年(明和元年)に焼失した当時は銅板葺であったが、以前は茅葺であり極めて簡素であったという。焼失後、1766年(明和3年)に再建され三階櫓という実質上の天守となった。2代目の御三階櫓は、外観3重内部5階の最上重の入母屋以外の破風のない層塔型で、櫓台はなく、地面に敷かれた礎石の上に建っているものであった。初重下部を石垣の代わりに海鼠壁で覆い、あたかも石垣の上に3重の櫓が建っているかのように見せていた。昭和戦前期までは残っていたが、1945年(昭和20年)の水戸空襲により焼失した。

歴史

馬場・佐竹時代

築城は古く平安時代末期まで遡る。常陸国大掾であった平国香の子孫である馬場資幹により建久年間(1190年 - 1198年)に築かれたとされる。以後、大掾氏(馬場氏)の居城となった。このため、佐竹氏が入城するまで「馬場城」と呼ばれていた。
1416年(応永23年) 室町時代に入り、上杉禅秀の乱で、当主の大掾満幹上杉禅秀側に加担したが、足利幕府側についた江戸通房に敗れた。これにより、代わって江戸氏が新城主となり、その支配は以後7代(約170年間)続いた。以後、江戸氏は度々主家である佐竹氏と対立する。
義宣はそれまでの居城であった太田城から、水戸城を重要な拠点と定めここに本拠を移した。義宣は入城するとすぐに城を大改修し、城名もそれまでの馬場城から水戸城に改めた。ところが、佐竹義宣は1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは曖昧な態度で終始したため、1602年(慶長7年)には徳川家康によって水戸から追放され、出羽国秋田に転居させられた(久保田藩)。
同年に家康は、奥州を睨む好地として五男の武田信吉を15万石で水戸に入城させたが、翌1603年(慶長8年)に嗣子無く没したので、十男の徳川頼宣を20万石で入城させた。

徳川時代

1609年(慶長14年) 頼宣には駿府藩50万石を与え、末子で十一男の徳川頼房下妻城より25万石で入城して以降、廃城まで水戸徳川家の居城となった。頼房は城と城下町を拡充し二の丸に居館を構えた。天守は構えず、破風などの飾りのない三階櫓(内部は5階建て)を二の丸に建造した。また、多聞長屋)も極端に少なく塀を多用したが、この質朴さは水戸徳川家の家風をよく表している。藩校の弘道館は1841年(天保12年)に9代藩主の斉昭によって開かれた(斉昭は翌年の1842年(天保13年)に日本三名園の一つである偕楽園を城の西部に開いている)。
幕末には水戸藩の藩論が分かれ、改革派の天狗党と保守派の諸生党の対立が起きた。1864年(元治元年)、遂に天狗党が筑波山で挙兵し天狗党の乱が起こった。この対立は明治維新まで続き、1868年(明治元年)には水戸城下で戦闘が行われ、弘道館に立て籠もる諸生党を天狗党が攻撃した。この際に城内の多くの建物が焼失した。

近現代

引用:Wikipedia
写真集

江戸城

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。
江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里[出典 2]と、日本最大の面積の城郭になった[出典 3]
徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。
国の特別史跡に指定されている。

歴史・沿革

築城まで

江戸東京)の地に最初に根拠地を置いた武家江戸重継である。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての江戸氏の居館が、後の本丸・二ノ丸辺りの台地上に置かれていたとされる。

築城

15世紀関東の騒乱で江戸氏が没落したのち、扇谷上杉氏上杉持朝の家臣である太田道灌が1457年(長禄元年)に江戸城を築城した。徳川幕府の公文書である『徳川実紀』ではこれが江戸城のはじめとされる。
道灌当時の江戸城については、正宗龍統の『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』や万里集九の『梅花無尽蔵』によってある程度までは推測できる。それによれば、「子城」「中城」「外城」の三重構造となっており、周囲を切岸や水堀が巡らせて門や橋で結んでいたとされる(「子城」は本丸の漢語表現とされる)。『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』によれば道灌は本丸に静勝軒と呼ばれる居宅を設け、背後に閣を築いたという。『梅花無尽蔵』は江戸城の北側に菅原道真が祀られて梅林があったことが記されている[1]
太田道灌時代の面影を残すとされる下道灌濠
天皇陛下傘寿御記念で一般に公開された皇居乾通り道灌濠と桜
道灌が上杉定正に殺害された後、江戸城は上杉氏の所有するところ(江戸城の乱)となり、上杉朝良が隠居城として用いた。ついで1524年(大永4年)、扇谷上杉氏を破った後北条氏北条氏綱の支配下に入る。江戸城の南には品川湊があり、更にその南には六浦金沢)を経て鎌倉に至る水陸交通路があったとされていることから、関東内陸部から利根川荒川を経て品川・鎌倉(更に外洋)に向かうための交通路の掌握のために重要な役割を果たしたと考えられている。
1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原攻め(小田原征伐)の際に開城。秀吉によって後北条氏旧領の関八州を与えられて、駿府静岡)から転居した権大納言である徳川家康が、同年8月1日(1590年8月30日)に公式に入城し、居城とした。このため旧暦の8月1日(八朔)は、江戸時代を通じて祝われることになる。

江戸時代

天下普請前
家康が入城した当初は、道灌築城時のままの姿を残した比較的小規模で質素な城であったため、徳川家は開幕までにそれまでの本丸・二ノ丸に加え、西ノ丸・三ノ丸・吹上・北ノ丸を増築。また道三堀や平川の江戸前島中央部(外濠川)への移設、それに伴う残土により、現在の西の丸下の半分以上の埋め立てを行い、同時に街造りも行っている。ただし、当初は豊臣政権の大名としての徳川家本拠としての改築であり、関ヶ原の戦いによる家康の政権掌握以前と以後ではその意味合いは異なっていたと考えられている。
慶長期天下普請
などであった。
  • 1607年(慶長12年)には関東奥羽信越の諸大名に命じて天守台および石塁などを修築し、このときは高虎はまた設計を行い、関東諸大名は5手に分れて、80万石で石を寄せ、20万石で天守の石垣を築き、奥羽、信越の伊達政宗上杉景勝蒲生秀行佐竹義宣堀秀治溝口秀勝村上義明などは堀普請を行った。この年に慶長度天守が完成。
  • 1611年(慶長16年)、西ノ丸石垣工事を東国大名に課役し、将軍徳川秀忠はしばしばこれを巡視した。
  • 1614年(慶長19年)、石壁の修築を行い、夏から冬にかけて工事を進めた。これらによって諸大名は著しく疲弊した。
元和期天下普請
  • 1618年(元和4年)に紅葉山東照宮を造営し、また神田川の開削を行う。
  • 1620年(元和6年)、東国大名に内桜田門から清水門までの石垣と各枡形の修築を行わせる。
  • 1622年(元和8年)には本丸拡張工事を行ない、それに併せて天守台・御殿を修築し同年には元和度天守が完成する。また1624年(寛永元年)、隠居所として西ノ丸殿舎の改造が行なわれた。
寛永期天下普請
  • 1628年(寛永5年)から翌年にかけて本丸・西丸工事と西ノ丸下・外濠・旧平河の石垣工事、また各所の城門工事が行われる。
  • 1635年(寛永12年)、二ノ丸拡張工事が行なわれた。
  • 1636年(寛永13年)には石垣担当6組62大名、濠担当7組58大名の合計120家による飯田橋から四谷、赤坂を経て溜池までを掘り抜き、石垣・城門を築く外郭の修築工事が行なわれる。1637年(寛永14年)には天守台・御殿を修築し、翌年には寛永度天守が完成する。
最後に1660年(万治3年)より神田川御茶ノ水の拡幅工事が行なわれ、一連の天下普請は終了する。
本丸・二ノ丸・三ノ丸に加え、西ノ丸・西ノ丸下・吹上・北ノ丸の周囲16kmにおよぶ区画を本城とし、現在の千代田区と港区新宿区の境に一部が残る外堀と、駿河台を掘削して造った神田川とを総構えとする大城郭に発展した。その地積は本丸は10万5000余町歩、西ノ丸は8万1000町歩、吹上御苑は10万3000余町歩、内濠の周囲は40町、外濠の周囲は73町となり、城上に20基の櫓、5重の天守を設けた。
以後、200年以上にわたり江戸城は江戸幕府の中枢として機能した。
  • 1657年(明暦3年) 明暦の大火により天守を含めた城構の多くを焼失。町の復興を優先し、また経済的な理由から天守は再建されなかった。

近現代

  • 1868年慶応4年)4月4日、江戸城は明治新政府軍に明け渡され、10月13日に東京城(とうけいじょう)に改名された。
  • 1869年(明治2年) 東京奠都皇城と称される。
  • 1873年(明治6年) 皇居として使用していた西ノ丸御殿が焼失。
  • 1888年(明治21年) 明治宮殿の完成によって宮城(きゅうじょう)と称される。
  • 1923年(大正12年)9月1日 関東大震災で残っていた建造物は大きな被害を受け、和田倉門(櫓門)は復旧されなかった。他の被害を受けた門は、上の櫓部分を解体して改修された。
  • 1945年(昭和20年) 空襲で大手門が焼失。
  • 1948年(昭和23年) 皇居と改称された。
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(21番)に選定された。

縄張

本丸と西ノ丸が独立している、一城別郭の形式である。武蔵野台地の東端にある地形を活用しており、特に山の手側は谷戸を基に濠を穿ったので曲面の多い構造をしている。逆に下町は埋立地なので、直線的に区画された水路や街並みを見ることができる。
石垣を多く見ることができるが、これらは天下普請の時にはるばる伊豆半島から切り出され船で送られたものである[2]。それまでは他の関東の城と同じく土塁のみの城であった。関東で石垣を多用した近世城郭は江戸城と小田原城しかない。それでも外郭や西ノ丸、吹上などは土塁が用いられているが、特に吹上の土塁は雄大である。
江戸城総構え
嘉永2年(1849年)配置図
1)本丸大奥 2) 中奥 3)表 4)二ノ丸御殿 5)二ノ丸 6)紅葉山 7)西ノ丸 8)吹上 9) 北ノ丸 10)11)三ノ丸 12)西ノ丸下 13)大手前 14)大名小路
江戸城中心部の航空写真。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成

内郭

本丸
本丸御殿を擁する江戸城並びに徳川家、江戸幕府の中心。関東入国時に本丸と二ノ丸の間にあった空堀を埋めている。その後、本丸御殿の拡張の為に、元和の改修時に北に2段あった出丸の1つを、明暦の大火後に残るもう1つの出丸と二ノ丸の間にあった東照宮を廃して規模を拡張している。寛永期に残存していた出丸は的場曲輪として、弓・鉄砲の調練が行なわれていた(『江戸図屏風』)。二ノ丸との間にある白鳥濠は嘗ては両者を大きく隔てていたが、拡張に伴いその面積を大きく縮小させている。
二ノ丸
二ノ丸庭園
本丸と同じく入国時に三ノ丸の間にあった空堀を埋めている。元は本丸の帯曲輪の様な存在であったが寛永期に拡張されて二ノ丸御殿が造られる。内部は石垣で複数に区画がなされており、下乗門から本丸へ向かうには中之門を、二ノ丸御殿へ向かうには銅門を、西ノ丸方面には寺沢門を通る必要があった。大正時代に二ノ丸と三ノ丸の間にあった堀が埋め立てられている。
三ノ丸
入国時は外郭とされ、日比谷入江と接していた。平川を濠に見立てて、堤防を兼ねた土塁には舟入用にいくつか木戸が設けられていた。
以後は屋敷地とされていたが、二ノ丸拡張の煽りを受けて敷地が大幅に減少した結果、内郭に組み込まれ小さな御殿と勘定所以外は空地となり登城大名の家臣の控え場になる。また、この時に大手門が二ノ丸から三ノ丸に移転している。
西ノ丸
皇居正門石橋と伏見櫓
『聞書集』、『霊岩夜話』、『参考落穂集』などによれば、天正年間に徳川家康が入城した頃は、この地は丘原であり、田圃があり、春になれば桃、桜、ツツジなどが咲き、遊覧の地であったという。
1592年(文禄元年)から翌年にかけて、西ノ丸は創建された。創建された当時は、新城、新丸、御隠居城、御隠居曲輪などといった。西ノ丸大手門の内側は西ノ丸内では特に的場曲輪と呼ばれている。西には山里丸があり、徳川家光が小堀政一へ命じて園池茶室を造らせて新山里と呼んだ。その西に山里馬場があり、後門が坂下門である。かつては通行が許され、この門を通り紅葉山下をへて半蔵門に至った。
紅葉山
本丸と西丸の間にある高地で、江戸城内で最も高い場所。かつては日枝神社が祭られており、開幕前には庶民が間を抜けて参拝することができたが、後の拡張で城域に取り込まれたために移転している。その後は東照宮各将軍の霊廟が造営され、また麓には具足蔵・鉄砲蔵・屏風蔵・書物蔵があった。
北ノ丸
吹上
西ノ丸下
入国時はほぼ日比谷入江だった場所。海と繋がっていた頃は荷揚げ場や人寄場、天海の屋敷の他に本多忠勝や里見氏の屋敷があったが、継続して埋め立てが行われ海から切り離されて以降は主に幕閣に連なる譜代大名の屋敷地となる[3]。初期には奥の道三堀と接する一帯には和田倉という蔵地が置かれ、蔵がなくなって以降も和田倉門の名が後世に残った。また西側には、東側には馬場があり、隣接する門は馬場先門と呼ばれたが、この門は1668年(寛文8年)まで不明門であった。

外郭

大手前・大名小路
開幕前は侍衆・町人が混在している居住地であったが、開幕後は大名屋敷地となる。大名屋敷の他には大手前には一ツ橋家の屋敷や春屋・小普請屋敷北町奉行所が、大名小路には評定所や南町奉行所があった。
総構

建築物

江戸城配置図(内郭)
江戸城配置図(外郭)

天守

太田道灌築城以降の象徴的建物は、静勝軒という寄棟造の多重の御殿建築(3重とも)で、江戸時代に佐倉城へ銅櫓として移築されたが、明治維新後に解体された。佐倉城の銅櫓は二重櫓で2重目屋根が方形造錣屋根のようになっていた。
徳川家康の改築以降、本丸の天守慶長度1607年)・元和度1623年)・寛永度1638年)と三度築かれている。どの天守も鯱や破風の飾り板を金の延板で飾っていた[4]
1657年に寛永度天守が焼失した後、ただちに再建が計画され、現在も残る御影石の天守台が前田綱紀によって築かれた(高さは6間に縮小)。計画図も作成されたが、保科正之の「天守は織田信長岐阜城に築いたのが始まりであって、城の守りには必要ではない」という意見と江戸市街の復興を優先する方針により中止された。後に新井白石らにより再建が計画され図面や模型の作成も行われたが、これも実現しなかった。以後は、本丸の富士見櫓を実質の天守としていた。
また、これ以降諸藩では再建も含め天守の建造を控えるようになり、事実上の天守であっても「御三階櫓」と称するなど遠慮の姿勢を示すようになる。
慶長度天守
天守台は白い御影石が用いられ(『慶長見聞集』)、1606年(慶長11年)にまず自然石6間、切石2間の高さ8間の天守台が黒田長政によって築かれた。翌慶長12年に、自然石と切石の間に自然石2間が追加され高さ10間、20間四方となる(『当代記』)。位置は現在の本丸中央西寄にあり、天守台とその北面に接する小天守台、本丸西面の石垣と西側二重櫓をつなぐようにして天守曲輪があった(『慶長江戸絵図』)[5]。ただし当時の本丸は現在の南側3分の2程度であったため、当時の地勢では北西にあることになる。
天守は同年中に竣工し、1階平面の規模は

中津城

中津城(なかつじょう)は、豊前国中津(現在の大分県中津市二ノ丁)にあった日本の城黒田孝高(如水)が築城し、細川忠興が完成させた。江戸時代の大半は、奥平氏居城としていた(中津藩も参照)。

構造

周防灘豊前海)に臨む中津川山国川派川)河口の地に築城された梯郭式の平城である。堀には海水が引き込まれているため、水城(海城)ともされ、今治城高松城と並ぶ日本三大水城の一つに数えられる。本丸を中心として、北に二の丸、南に三ノ丸があり、全体ではほぼ直角三角形をなしていたため扇形に例えて「扇城(せんじょう)」とも呼ばれていた。櫓の棟数は22基、門は8棟。総構には、6箇所の虎口が開けられた。
中津城は、冬至の日には、朝日は宇佐神宮の方角から上り、夕日は英彦山の方角に落ちる場所に築城されている。また、吉富町にある八幡古表神社薦神社とを結ぶ直線上に位置する。鬼門である北東には、闇無浜神社(くらなしはま)がある。

天守

天守の存在については不明である。江戸時代の絵図には天守は描かれていない一方、黒田孝高(如水)の手紙には「天守に銭を積んで蓄えた」とあり、天守の存在をうかがわせる記録もある。江戸時代後期の「中津城下図」には、中津川沿岸の本丸鉄門脇に三重櫓が描かれているのみである。

堀・石垣

中津城に残る黒田孝高(如水)が普請した石垣は、天正16年(1588年)に普請された現存する近世城郭の石垣としては九州最古のものである。本丸上段北面石垣(模擬天守北面下)は、黒田氏の石垣に細川氏が石垣を継いだ境が見られる。また、本丸南の堀と石垣は、中津市によって修復、復元されている。ここにも黒田・細川時代の石垣改修の跡を見ることができる。

城下町

扇状の旧城下町には、今でも築城した黒田官兵衛に因んだ「姫路町」や「京町」等の町名が残る。
河口側から。2009年12月中旬?

歴史

  • 天正15年(1587年) - 黒田孝高(如水)が、豊臣秀吉より豊前国6郡12万3000石(一説には16万石・その後の検地で18万石となる)を与えられる。当初、馬ヶ岳城に入城した。
  • 天正16年(1588年) - 黒田孝高(如水)は、領地の中心である山国川河口に中津城の築城を始めた。
  • 同年-熊本の一揆征伐で黒田孝高(如水)が中津城を留守の間に、嫡男の長政は、敵対していた城井鎮房(宇都宮鎮房)を中津城内に引き入れて、惨殺する。
  • 慶長5年(1600年) - 黒田家は関ヶ原の戦い時に、徳川方につき、中津城から西軍の所領を攻めた。長政の戦功により筑前52万石に加増、名島城に転封となり築城が中断される。
  • 同年 - 細川忠興が豊前国と豊後国2郡39万石で入封。大修築を開始する。
  • 慶長7年(1602年) - 小倉城築城に着手し、忠興は小倉城を主城、居城とする。修築中の中津城の城主は細川興秋になる。
  • 元和7年(1621年) - 扇形の縄張りに拡張され、中津城が完成。
  • 寛永9年(1632年) - 細川家熊本藩転封に伴い、小笠原長次が8万石で入封し事実上中津藩が成立。以後、中津城は中津藩藩主家の居城となる。
  • 享保2年(1717年) - 奥平昌成が10万石で入封。明治維新まで奥平家の居城となった。
  • 安政3年(1856年) - 海防強化のため、海から城への入口に当たる山国川河口(現在は支流の中津川河口)の三百間突堤に砲台を建設。
  • 文久3年(1863年) - 本丸に松の御殿を新築する。この御殿は小倉県、福岡県、大分県の中津支庁舎として転用された。
  • 明治2年1869年 - 版籍奉還によって府藩県三治制下における中津藩の藩庁が置かれる。
  • 明治3年(1870年) - 中津藩士福沢諭吉の進言により御殿を残し、その他建造物を破却する。
  • 明治4年(1871年) - 廃藩置県により中津県の県庁が置かれる。同年、小倉県に併合され中津支庁が置かれる。
  • 明治10年(1877年) - 西南戦争の際、西郷隆盛挙兵に呼応した増田宋太郎率いる中津隊の襲撃により中津支庁舎であった御殿が焼失する。
  • 昭和39年(1964年) - 旧藩主奥平家が中心となり、市民らの寄付を合わせて模擬天守が建造される。
  • 平成19年(2007年) - 模擬天守等の建築物を所有する中津勧業が、土地、建物を、中津市や民間企業に売却する方針を示す。
  • 平成22年(2010年)10月4日 - 中津勧業が模擬天守等の建物を埼玉県の企業千雅に売却することを決定[1][2]
  • 平成23年(2012年)5月 - 千雅が管理運営を一般社団法人中津城に移管する。
  • 平成26年(2014年) - 築城主である黒田如水を題材にした大河ドラマ軍師官兵衛』の制作決定に伴い、中津市の全面協力において城内を再整備。現在も続いている。城内に如水の石像としては初めて「黒田如水石像」が建立された。

模擬天守

昭和39年(1964年)、本丸上段の北東隅櫓跡(薬研堀端)に観光開発を目的に建てられた。
奥平昌信が中心となって構想し、小倉城名古屋城などの天守外観の復興に携わった、東京工業大学教授の藤岡通夫が設計を手がけた。 鉄筋コンクリート構造で、外観は萩城天守をモデルとして外壁仕上げは下見板張りを模し、外観5重内部5階(5重5階)構造で高さは23メートルある。
模擬天守は中津城(奥平家歴史資料館)として一般公開されており、奥平家歴代の当主の甲冑、奥平忠昌徳川家康から拝領した白鳥鞘の鑓(しらとりざやのやり)、長篠の戦いを描いた長篠合戦図大掛軸、武田信玄から拝領した陣羽織、徳川家康からの軍法事書など古文書類が展示されている。
同時に、模擬天守南に望楼型の二重櫓も建てられているが、かつてこの場所には南東隅櫓があり、層塔型で多門櫓を続櫓として付属させている姿が写る古写真がある。

売却問題

模擬天守等の城跡の建築物は、奥平家子孫の奥平政幸が代表取締役を務める中津勧業が、また、城址の土地は隣接する奥平政幸が代表役員を務める奥平神社が、それぞれ所有していたが、年々維持費が入場料を上回り赤字となっていることから、2007年7月、土地、建物(展示物、奥平神社は除く)を、中津市か民間企業に売却する方針であることを明らかにした。中津勧業は、当初3億円の売却価格を中津市の希望通り1億5000万円に引き下げたが、中津市が「1億3900万円までしか出せない」と譲らなかったため、2010年7月に不動産会社を通じインターネット上で一般に売却することにした[3]
2010年10月4日、中津勧業は株主総会で、模擬天守などの建物を埼玉県で福祉事業を営む株式会社千雅に売却することを報告し、承認された。 なお、売却されるのは建物だけで、土地や展示物は有料で貸与される。中津城は従来通り観光施設(奥平家歴史資料館)として一般公開されている[1][2]

利用情報

模擬天守(奥平家歴史資料館)
入館料金
  • 大人は高校生以上が400円
  • 子供は中学生以下まで200円
  • 20名以上の団体は1人当たり、個人入館料から大人は100円、子供は50円割引く
(※中津市民の入館料は住所を証明できるものを窓口で提示することで50円割引きとなる)
入館料無料の者
  • 未就学の乳幼児
  • 77歳以上の者
  • 身体障害者手帳・精神障害者保健福祉手帳・療育手帳を所持する者、およびその介護者(窓口に手帳を提示する必要がある)
  • 旧奥平中津藩士の子孫(窓口で証明できるものを提示する必要がある)[4]
開門時間
  • 午前9時から午後5時
休館日
  • 年中無休
所在地
  • 〒871-0050 大分県中津市二ノ丁本丸

イベント

  • 3月 - 中津城人間ひな飾り(天守閣前に大型ひな壇を設置し、その年中津市で結婚したカップルを御内裏様・御雛様とし、市民参加のお祭りとなっている。)
  • 5月 - 中津城たにし祭り(奥平家が武運長久した長篠の戦に由来したお祭り。火縄銃演武や甲冑行列が開催される。)
  • 10月 - 中津城観世能(江戸時代、徳川家康に愛された観世流の能を開催する。)
  • 11月 - 中津城写生大会(中津市内の幼稚園保育所の園児・小中学校の児童生徒を対象に、中津城を写生する)
その他、中津藩出身で慶応義塾大学を創設した福沢諭吉に因み、中津市の高等学校から、慶応義塾大学に進学した方には、奨学金が付与される。

アクセス

引用:Wikipedia
写真集

府内城

府内城(ふないじょう)は、豊後国府内(現在の大分県大分市)にあった日本の城である。大分城(おおいたじょう)とも呼ばれる。

概要

府内城は、大分市街の中心に位置する梯郭式平城である。安土桃山時代後期、府内に12万石で入封した福原直高が府内の荷落に築城を始めたが、福原氏改易され、早川長政の府内領再封を経て、関ヶ原の戦いの後に3万5千石で入封した竹中重利が完成させた。
江戸時代には府内藩2万1000石の藩庁が置かれていたが、明治初期に本丸・東丸・西丸の建造物以外は破却され、堀の一部が埋め立てられた。さらに第二次世界大戦時の大分空襲により櫓が数棟焼失した。
現在、城跡は大分城址公園となっている。本丸跡北西隅に人質櫓(二重櫓)と西丸に宗門櫓(平櫓)が現存し、大分県の史跡に指定されている[1][2]。また、3棟の二重櫓と大手門、土塀、廊下橋が復元されており、三の丸跡には、大分県庁大分市役所などがある。
西丸跡には1966年大分文化会館が建てられたが、2013年10月に閉館した。跡地の利用方法は未定で、城址公園も含めて今後検討される[3]。なお、大分市は1993年に、大分文化会館を解体した後の構想として、中期的に発掘調査、城内整備を行った後、長期的には天守閣再建を含めた府内城の復元を行うとする府内城整備基本構想を策定しているが、経済情勢の変化等のために実現の目途は立っていない[4]

歴史・沿革

築城以前

府内城という名称は、大分市中心部が中世に府内と呼ばれていたことにちなむ。府内には、古代には豊後国国衙が置かれ、鎌倉時代から戦国時代にかけては豊後国の守護職・守護大名であった大友氏の拠点であった。
中世には、現在の大分駅東方(府内城から見ると南東方)に、大友氏館と呼ばれる守護館が築かれ、南方の上野丘陵には上原館と呼ばれる堀や土塁を備えた防衛拠点が置かれていた。しかし、2度ほど府内への侵攻を受けた際には、大友氏方はいずれも府内を捨てて近隣の高崎山城などへ拠点を移している。1586年天正14年)の島津氏侵攻の折りには、大友氏館などを含む府内の中心部は焼き払われたが、後に代官として府内に入った早川長政は館を改修して移り住んだと伝えられている[5]

安土桃山時代・江戸時代

  • 1597年(慶長2年) - 12万石を得て臼杵より転封した、豊臣秀吉家臣の福原直高は、堅固な城郭を求めて大分川河口付近に築城を開始する。この地は大友氏の時代に船の荷役を行っていた場所で「荷落」という地名であったが、縁起を担ぎ地名を「荷揚」に改め、名を荷揚城としたという。
  • 1599年(慶長4年) - 4月、荷揚城完成。5月、豊臣秀吉の死後、石田三成派の直高は徳川家康により6万石に減封の上、再び臼杵に転封され、直高入封前に府内代官であった早川長政が入城する。
  • 1601年(慶長6年) - 関ヶ原の戦いで西軍に付いた長政が改易となり、竹中重利が3万5千石で入城する。直高の時代に築城された荷揚城の大改修を開始する。
  • 1602年(慶長7年) - 天守、諸櫓、山里曲輪、内堀が完成。
  • 1605年(慶長10年) - 外堀が完成。
  • 1607年(慶長12年) - 笠和口、堀川口、塩九升口の各門が完成し、大改修が概ね終了する。
  • 1634年寛永11年) - 重利の子・重義長崎奉行時代の不正のため、切腹。2代で改易となる。代わって、日根野吉明が2万石で入城する。
  • 1656年明暦2年) - 吉明が嗣子なく没し日根野氏は廃絶。臼杵藩稲葉信通が城代となる。
  • 1658年万治元年) - 大分郡2万石を領する松平忠昭が高松陣屋より入城する。以後、明治維新まで大給松平氏が居城する。
  • 1743年寛保3年) - 大火により天守を含む大部分の建造物が焼失する。以後、天守は再建されなかった。

近現代

  • 1872年(明治5年) - 城内に大分県庁が置かれる。
  • 1919年大正8年) - 県庁の拡張工事のため内堀の一部が埋め立てられる。
  • 1945年昭和20年) - 大分空襲により櫓数棟が焼失する。
  • 1963年(昭和38年) - 大分県の史跡に指定される。
  • 1965年(昭和40年) - 東丸着到櫓・二重櫓、西丸二重櫓、大手門を復元。
  • 1996年平成8年) - 西丸と山里曲輪を結ぶ廊下橋を復元。
  • 2006年(平成18年)4月6日 - 日本100名城(94番)に選定。

藩主の変遷

竹中氏(1601年〜1634年)[編集]

豊後高田より入封
  1. 1601年1615年 竹中重利
  2. 1615年1634年 竹中重義

日根野氏(1634年〜1656年)[編集]

下野壬生より入封
  1. 1634年1656年 日根野吉明

天領1656年1658年[編集]

大給松平氏(1658年〜1871年)[編集]

  1. 1658年1676年 松平忠昭
  2. 1676年1705年 松平近陳
  3. 1705年1725年 松平近禎
  4. 1725年1745年 松平近貞

構造

北東隅に本丸を配し、東丸、西丸、山里曲輪が配されている。侍町である三の丸が北西から南東に大きく広がり本丸等を囲んでいる。それぞれの曲輪は堀で仕切られ、渡櫓・廊下橋で連結されていた。

建造物

櫓は白漆喰を塗籠めたもので、連子格子の窓、袴型の石落としを標準で持っていた。層塔型で地階(地下)を持っており二重櫓は城内から三重に見えた。東丸には、最上階が天守と同形式の高欄と火灯窓を持った三重櫓が建っていた。

天守

天守の構造は不明である。1605年(慶長10年)旧暦11月に描かれた『府内絵図』の天守台部分には、「天守・四重・上重二間・三間。高 水ヨリ上棟瓦マテ・十六間半」また天守台を表す内側の線に沿って、南北面の線に「八間」、東西面の線に「七間」と書き込まれている。正保城絵図には「天守ノ廣サ下ノ重七間八間」と書き込みがある。天守南側と西側に多聞櫓形式の取付櫓(付櫓)があり、西側は二重櫓、南側は東大門と連結していた。
正保城絵図等では層塔型の白い四重天守が描かれ、北野隆は『豊後国府内城焼失付普請之覚』に描かれた天守の姿を参考に城漆喰塗籠の層塔型天守を推定している[6]。一方で、府内城天守が建造された時代は層塔型天守が現れる時代より前の1602年であるので、小野英治や三ツ股正明は望楼型天守の可能性を指摘している[7] [8]。層塔型に描かれた絵図があることについては、簡略化されて描かれたもの[7]、望楼型天守を層塔型に改築した[9]、との指摘がある。
小野は、『府内絵図』の上重二間・三間の書き込みについて縦書きの右行は東西であることを指摘して「二間」を東西梁間、「三間」を南北桁行とし、下ノ重南北面(平側)の8間に対して上ノ重の南北面は2間の妻側であるとして層塔型でない可能性を指摘している[8]
1656年(明暦2年)旧暦5月15日に書かれた『御城諸道具改帳』では、「上ノ重・二重目・三重目・下ノ重」とあり、三ツ股はこの文書内の記述に注目して「下ノ重」を大入母屋造としてその上部に小規模な3重の楼閣を載せる望楼型天守を推定している[7]

引用:Wikipedia
写真集

熊本城

熊本城(くまもとじょう)は、現在の熊本県熊本市中央区にある日本の城である。別名、銀杏城(ぎんなんじょう)。

概要

大天守・小天守
熊本市北区植木町の中心から南に伸びる舌状台地(京町台地)の尖端、茶臼山丘陵一帯に築かれた平山城。現在の地名では中央区の本丸、二の丸、宮内、古城、古京町、千葉城町に当たる。
中世に千葉城、隈本城が築かれ、安土桃山時代末期から江戸時代初期にかけて加藤清正がこれを取り込み、現在のような姿の熊本城を築いた。日本三名城の一つとされ、「清正流(せいしょうりゅう)」と呼ばれる石垣の上に御殿、大小天守、五階櫓などが詰め込んだように建てられ、一大名の城としては「日本一」であるとの評価がある[1]
細川氏の居城となった後も盛んに改築が行われ、明治時代の初めまでは大半の建物が撤去されずに現存していたが、熊本鎮台が置かれた後に建物や石垣、曲輪の撤去や改変が行われ、西南戦争で一部の建物を残して天守を含む御殿や櫓など主要な建物を焼失した。現在は、宇土櫓や東竹之丸の櫓群が残る(建物が失われる経緯は、同項の歴史(明治時代以降)を参照のこと。)。石垣普請の名手とされる清正が築いた石垣は、1889年(明治22年)の熊本地震で石垣の一部が崩落し、改修された部分があるものの、ほぼ江戸期の改築による変遷の痕跡をとどめ、城跡は特別史跡に指定されている。昭和時代中期には大小天守と一部の櫓が外観復元され、近年では、櫓や御殿などの主要な建物を木構造で復元する事業が行われている。
サクラの名所としても知られており、日本さくら名所100選に選定されている。

熊本城の管理者

  • 熊本城が所在する熊本城公園の敷地は国の土地であり、財務省九州財務局の管轄下にある。敷地は熊本市に無償貸与され、熊本市が管理及び整備を担っている。園内に所在する文化財のうち特別史跡熊本城跡、重要文化財熊本城諸櫓及び近く指定を予定されている公有の地域については、文化財保護法に基づき熊本市が管理団体に指定されている。天然記念物藤崎台のクスノキ群の指定地域については熊本県が直接管理を行っている[2]。また園内にはこの他に県有施設および市有施設が所在しているが、各施設の敷地は県および市が管理を行っている。
  • 1951年10月、文化財保護法第113条の規定に基づき、熊本市が特別史跡熊本城跡の管理団体に指定された。
  • 1959年7月および1962年3月、文化財保護法第32条の2の規定に基づき、熊本市が重要文化財熊本城(13棟)の管理団体に指定された[3]

歴史・沿革

千葉城・隈本城時代

清正の重臣・大木舎人が写生し、文久年間にさらに模写されたという肖像
文明年間(1469年 - 1487年)に肥後守護菊池氏の一族・出田秀信が千葉城(ちばじょう、現在の千葉城町)を築いたのが始まりである。
その後、出田氏の力が衰え、大永・享禄年間(1521年 - 1531年)に菊池氏は代わりに託麻・飽田・山本・玉名4郡に所領を持つ鹿子木親員(寂心)に隈本城(くまもとじょう、現在の古城町)を築かせて入れた。寂心は藤崎八旛宮の遷宮を行い、1529年(享禄2年)に後奈良天皇綸旨1542年(天文11年)には勅額の下賜を得ている。1550年(天文19年)、豊後守護大友義鑑が家臣の謀反により殺されると、義鑑の弟で菊池氏を嗣ぎ、かつ義鑑と敵対していた守護菊池義武が隈本城に入り、寂心の孫・鹿子木鎮有はこれを迎え入れた。しかし、義鑑の子・大友義鎮により追われ、以後は大友氏に協力した城親冬が居城とした。
1587年(天正15年)、豊臣秀吉の九州征伐に際し、薩摩島津氏に属していた親冬の孫・城久基は城を明け渡し筑後国に移った。秀吉の御伽衆大村由己の『九州御動座記』には「此所は肥後の府中なり、城十郎太郎(久基)と云者相踏候、数年相拵たる名城なり」と記す。また、秀吉が一柳直末に送った朱印状の中で「肥後は然るべき国に候間、羽柴陸奥守(佐々成政)おかせられ候、熊本名城に候間、居城として御普請仰せ付けられ候」と述べている。
新たに肥後の領主となり隈本城に入った佐々成政は、秀吉の指示に反して検地を強行し、肥後国人一揆を引き起こす。この時隈本城は国人衆による猛攻を受けたが、城代の神保氏張が死守して落城は免れている。1588年(天正16年)、成政は切腹を命じられ、加藤清正が肥後北半国19万5,000石の領主となり隈本城に入った。

熊本城時代

江戸期の熊本城
加藤清正は、1591年(天正19年)から千葉城・隈本城のあった茶臼山丘陵一帯に城郭を築きはじめる。1600年(慶長5年)頃には天守が完成、関ヶ原の戦いの行賞で清正は肥後一国52万石の領主となる。1606年(慶長11年)には城の完成を祝い、翌年「隈本」を「熊本」と改めた。これが現在の熊本城である。1610年(慶長15年)から、通路によって南北に分断されていた本丸に通路をまたぐ形で本丸御殿の建築が行われた。これにより天守に上がるには、本丸御殿下の地下通路を通らなければならないようになった。
1632年(寛永9年)、清正の子・加藤忠広改易により豊前小倉城主だった細川忠利が肥後54万石の領主となり熊本城に入った。このとき忠利は天守に上り清正を祀る廟所がある本妙寺の方角に向かって遙拝したと伝えられる。忠利は城の長塀の南、坪井川を渡った所に花畑屋敷を造営し、以後歴代藩主はここを日常の居所とした。
加藤家の治世末期には、藩財政の疲弊やお家騒動により、城の修理もままならない状況であった。細川家が肥後入部時には、熊本城は現在の本丸周辺のみ整備されていて二の丸の一部と三の丸の大半は未開発であった。 このため細川忠利は入部後、直ちに熊本城の修繕を幕府に申し出ている。この修繕は建築物の修理に留まらず、本丸の増築(二様の石垣に跡が見られる)・二の丸の整備にもおよんで居る。更に上級家臣の下屋敷地や中級家臣用地として順次現三の丸や壺川地域(江戸中期まで三の丸扱いされていた)の開発が進められ、最後に西端の段山(現在の段山町周辺)の郭が完成したのは明治維新まで30年を切った天保年間である。この時点で城内の櫓は焼失した森本櫓を除き62を数えていた。熊本城は細川氏の治世下で江戸時代を通じて拡張され続けていた。

明治時代

明治初期(1874年)の熊本城、富重利平の撮影による
幕末の熊本藩には学校党・実学党・敬神党の3つの勢力があったが、維新後の1870年(明治3年)進歩的な実学党が政権を握り、「戦国の余物」「無用の贅物」であるとして熊本城の解体を新政府に願い出た。これは諸藩の改革を促進したい新政府の意向を受けたもので、願い出は聞き届けられた。しかし、作業開始当日になって解体の方針は凍結されることになった。藩知事細川護久の主導で進められた方針に対し、前藩知事で保守派の細川韶邦が不満であるなど、藩内に意見の相違があったためといわれる。代わりに、城内は天守を含めて一般に公開されることとなった。
軍都熊本の名前もあるが、終戦前は陸軍が使用していた。熊本空襲では一部(将校集会所)[4]を除き、焼失を免れた。
1871年鎮西鎮台が設置された。二の丸を中心に1875年歩兵第13連隊、1925年、熊本陸軍教導学校、1943年、熊本予備士官学校ができた。またその近くの現在監物台樹木園の場所に熊本陸軍幼年学校ができた。(1897年9月1日-1927年3月31日)。この施設は軍縮により廃止、その後清水町に再建された。二の丸と古城の間は、江戸時代は大名屋敷であったが、明治4年、鎮西鎮台病院、その後陸軍病院となり、それは1945年より国立熊本病院、その後国立病院機構熊本医療センターとなっている。1871年(明治4年)廃藩置県後は熊本県の県庁が二ノ丸に置かれ、同年に花畑邸鎮西鎮台(後に熊本鎮台に改められた)が置かれた。
この時の熊本鎮台司令であった桐野利秋は老朽化した櫓、多重櫓の破却を指示し、特に西出丸は石垣を取り崩し、郭自体を破却している。西南戦争前には天守・本丸御殿を中心とした本丸主要部のみ保存されていた。
1876年(明治9年)の神風連の乱のときには反乱士族が鎮台司令官種田政明などを襲い城内の砲兵営を制圧したが、1日で鎮圧されている。
西南戦争では政府軍の重要拠点であると同時に西郷軍の重要攻略目標となる。西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日午前11時40分から午後3時まで原因不明の出火で大小天守などの建物(同時に30日間の米、城下の民家約千軒)を焼失した。現時点で西南戦争での焼失が確認されているのは以下の建造物である。大天守・小天守・本丸御殿・本丸東三階櫓・月見櫓・小広間櫓・小広間西三階櫓・長局櫓・耕作櫓門・三之櫓門・東櫓門。焼失を免れた建造物は現存のものを除くと西竹之丸脇五階櫓・飯田丸三階櫓・札櫓門・六間櫓・書物櫓・堀預り櫓が確認されているが、西南戦争後から大正期までに陸軍により順次破却されている。
政府軍と西郷軍の間には田原坂(たばるざか)の戦いを含む激しい攻防が行われたが、熊本城は司令官谷干城の指揮の下、4000人の籠城で、西郷軍14000人の攻撃に耐え、ついに撃退に成功した。なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったという。
1884年 城内に午砲台が設置され、空砲による報時業務が始まる(1941年廃止)。
1888年(明治21年)には、熊本鎮台を母体とする陸軍第6師団の司令部が天守台に置かれた。

昭和以降

1933年昭和8年)「熊本城」(種別:城郭 - 宇土櫓、監物櫓など計13棟)として旧・国宝保存法に基づく国宝(現行法の重要文化財に相当)に指定される[5]
本丸御殿(木造復元)
1933年(昭和8年)「熊本城跡」として国の史跡に指定される。
1945年(昭和20年)7月1日、市街地の20%を焼失した熊本大空襲など度々空襲に襲われるも、奇跡的に焼失を免れる。戦後は、古城に熊本県立第一高等学校が移転した。戦災を受けた熊本大学医学部基礎教室が一時的に二の丸の兵舎を利用した(1945年12月-1962年3月)[6]。また、その北、古京町無番地輜重隊跡に1946年3月から化学及血清療法研究所京町研究所があったが、1973年閉鎖した。
1946年(昭和21年)米軍が城内に施設を作った際、車両通行の妨げになるとして、竹之丸門を破却される。
1955年(昭和30年)「熊本城跡」として国の特別史跡に指定される。
1960年(昭和35年)の熊本国体開催と築城350年を期に、熊本市は一般からの寄付も募り1億8000万円の費用をかけ外観復元で大小天守と平櫓、塀などを再建し、本丸一帯を公園として整備し入場を有料化した。天守は鉄筋コンクリート造りで、内部は熊本市立熊本博物館の分館として史料等が展示され、最上階は展望スペースとなっている。
1962年から1968年にかけて再び二の丸の兵舎を利用して熊本県立第二高等学校ができたが、のち移転し、現在は芝生の市民の憩の広場になっている。 また、文化面として、熊本県立美術館熊本市立熊本博物館旧細川刑部邸藤崎台県営野球場農林水産省立の監物台樹木園加藤神社、各種官庁が入る合同庁舎、野球場の前には明治時代の招魂社があり、その後は熊本県護国神社になり現在に至っている。その近くに終戦前に、陸軍監獄(刑務所)もあった。[7]
戦後、御幸坂の西に米軍によるカマボコ型の兵舎ができた。その後に熊本で行なわれた第15回国民体育大会(1960年)のために、プールが作られ、駐車場ができ、2011年3月5日には観光施設桜の馬場 城彩苑(さくらのばば じょうさいえん)が、九州新幹線全線開業直前に出来上がった。
2006年平成18年)4月6日、日本100名城(92番)に選定された。
2007年(平成19年)築城400年に際して、本丸御殿をはじめ、西出丸の塀、戌亥櫓、元太鼓櫓、奉行丸の塀、未申櫓、南大手門などの建造物を数年かけて復元された[8]。なお、いまだ復元工事中や、工事未着手の建物もいくつかある。
熊本城の西方、堀を隔てて二の丸広場が広がる。以前は兵舎などがあったが、現在は撤廃され、通常は市民が自由に入っていい芝生の憩の広場で、また、時にはそこで種々の催し物がある。公称38,400 ㎡。

構造

熊本城の空中写真。1975年。上方が北。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
主要部のステレオ写真はこちら
長塀と坪井川
城郭の形式は、梯郭式平山城。広さは約98万平方メートル、周囲は約5.3キロメートルある。南西の古城と北東の千葉城を取り込み、それらを出丸としている。
南東を流れる白川を外堀に見立て、これに合流していた坪井川井芹川を切り離して内堀としているため城内にある水堀は飯田丸の西にある備前堀1つのみである。本丸は丘陵の東の最も高い部分に造り全面石垣積みとし、西へゆるやかに下る二の丸・三の丸は重点箇所のみに石垣を築き、経費を抑えた。搦手口のある北は他の方面に比べ、内郭に近接しているので一般的に弱点とされるが、断崖と空堀(現在は道路)に仕切られており突破は困難である。これに対し西は開けており、多少なりとも傾斜も緩い。そのため、西出丸・二の丸・三の丸で区画し防備を固めているが、城郭西端の先に独立した小丘として段山(だにやま)がある。兵力の関係で総構えを放棄した西南戦争ではこの段山を巡る戦いが行われた。

石垣

清正は特に石垣造りを得意とし、熊本城では、始め緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用している。熊本城で使用されている武者返しは慶長の役の際に朝鮮に築かれ、難攻不落と呼ばれた蔚山倭城(うるさんわじょう)に使用した築城技術を元にしたものである。上益城郡山都町(旧・矢部町)にある通潤橋は、江戸時代末期にこの熊本城の武者返しの石垣をモデルに架けられた。江戸幕府の仮想敵であった薩摩藩に対する備えとして建造されているため、南側が非常に堅固(その分北側がかなり手薄)な構造になっている。この構造が西南戦争で薩摩軍の包囲戦をしのぐことができた要因の一つとなっている。熊本市役所前の石垣は、長さとしては日本最長である。

天守

左より小天守、宇土櫓、大天守
天守は、連結式望楼型、大天守は3重6階地下1階、「一の天守」とも呼ばれる。小天守は3重4階地下1階、「二の天守」とも呼ばれ、「御上(おうえ)」という夫人のための建物である。 大天守は、一般に5重の天守として見られているが、2重目にあたる部分と4重にあたる部分のものは屋根ではなくとするので、正確には3重6階地下1階の天守である。萩城天守と同じように天守台から少し張り出す「張出造(はりだしづくり)」で、張り出し部分には石落しが設けられていた。現在、観光出口となっている付櫓は元は階段櫓でそのまま多聞櫓が本丸御殿へ繋がっていた。又更に、闇り櫓門、地蔵櫓門の3階部分を通じて数寄屋丸五階櫓、数寄屋丸櫓門へと外から一度も見られること無く西出丸へ出ることが出来た。 ちなみに、城の北東に清正が建立した豊国廟跡(立田山中腹)と、城の南西の妙解寺跡(花岡山麓)にある細川家の霊廟の2つを結ぶ直線上に天守があるという。 本丸御殿は、南北に分かれた本丸にまたがって建つため、闇り通路(くらがり通路)と呼ばれる地下通路がある。この通路が御殿への正式な入り口ともなるという類を見ない建物である。
小天守の天守台は大天守に被さるように造られており大天守の天守台石垣の勾配より急角度であり、また天守台と建築物の間には、名古屋城天守と同様に60センチメートル程の「忍び返し」という鉄串が刺してあり、再建とはいえ各所に大天守との建築時期の相違を確認できるという。これには、以下の説がある。
大天守が1601年に竣工し、10年後、文禄・慶長の役で中断されたのちに増築された[9]
1594年ごろに計画した際、櫓が重なり合って景観のバランスが悪いということから[10]、現在の位置に変更され、細部でも意匠が異なっている。
『肥後宇土軍記』によると関ヶ原の戦いの翌年、加藤清正は宇土城の縄張に不満のあるところを改修し、竣工後には自身の隠居城とすべく定めたが、この時宇土城の天守を解体して熊本城へ運び、3層だったことから小天守と名付け、城内へ移築したと記されている。
大天守北側は、創建時には小天守がなく城の北東入り口である不開門(あかずもん)より本丸西隣の平左衛門丸へと続く通路であった。再建天守の観光入り口の橋下を望むと旧通路の階段が門扉も枡形もなく、直に小天守入り口に続く構造を確認することができる。現在は非公開だが、この階段を下ると裏五階櫓跡と小天守の間に旧通路をふさぐように石垣が築かれている。石垣下部には、高さ1メートル程の石門という通り道があり、不開門へと続く北帯曲輪へ出ることができた。石門は堀や帯郭の清掃のための通用口として利用されていたが、過去には抜け穴や水抜き穴との説があった。[1]。また、石門を抜けた左手にも同じ造りの石垣があり、こちらは宇土櫓へと続く犬走りへ出ることができた。

建物は、漆喰壁に柿渋塗りの下見板張りの黒い外観が特徴である。天守以外の櫓や門の屋根には反りが少なく破風には直線かむくりが付けられている。多重櫓はすべて望楼型である。

五階櫓

五階櫓(ごかいやぐら)は、3重5階の三重櫓である。往時には現存する宇土櫓のほかに、裏五階櫓、数寄屋丸五階櫓、飯田丸五階櫓、西竹之丸脇五階櫓の4基、本丸東五階櫓は後に三階櫓に改築されたが、大小天守を除く合わせて6基の五階櫓があった[11]。これらの五階櫓は他城の天守の規模に相当した。これらは慶長年間に毛利藩が作成した熊本城略図に記載のない櫓(数寄屋丸五階櫓、西竹之丸脇五階櫓、本丸東五階櫓)もあり、一国一城令後に肥後藩領内にあった南関・佐敷・内牧城の天守を移築したものではないかとの説がある。
宇土櫓
宇土櫓(現存)
飯田丸五階櫓と櫓台の2段石垣
宇土櫓
五階櫓の中でも「三の天守」とも呼ばれる宇土櫓(うとやぐら)は、3重5階地下1階で、熊本城では大小天守を除いて最大の櫓である。高さ約19メートルあり、近世以前に建造された天守や櫓との比較では姫路城松本城松江城に次いで4番目の高さである。破風はむくりを持ち、諸櫓と同じ仕様で造られているが、最上階に外廻縁を持つ。清正の創建した初代天守ではないかという見方もある。宇土城の天守を移築したものと伝えられ、明和9年(1772年)に森本一端が記した『肥後国誌』(下巻)によって通説化したが[12]、昭和2年(1927年)の解体修理の際には移築の痕跡が見られず、城戸久などがこの説を否定した[13]。また、平成元年(1989年)の修理の際、2重目と3重目で建築方法の違いと3階部分の増設が判明している。
宇土櫓に関して記された最も古い文献である別井三郎兵衛の『御城分間』寛文6年(1666年)には「御天守西ノ御丸 五階御矢蔵」とあり、同じ寛文年間に作成された熊本城絵図には「平左衛門丸五階櫓」との記載がある。平左衛門丸には加藤平左衛門の屋敷があり、小西氏の家臣であった者の管理をする施設も併設されていたため、平左衛門丸に建てられていた櫓には「宇土三階櫓(平左衛門丸二重櫓)」などのように「宇土」を冠していたことが享保から延享期成立の『肥後録』にある。熊本城の諸櫓の再建に携わっている熊本大学の北野隆教授は宇土櫓も同様の由来で名づけられたとしている[14]
西竹之丸脇五階櫓
西竹之丸脇五階櫓(にしたけのまるわきごかいやぐら)は別名「独立櫓」ともいわれる[15] 。現在の櫓台の石垣は郭から孤立しており入口がないが、往時は、札櫓門を通じて塩櫓・飯田丸三階櫓と繋がっていた。防衛面で見ると竹之丸から飯田丸へのS字型の連続枡形虎口中心部にあり、通路を櫓の南・西・北面に通し飯田丸三階櫓と挟撃し札櫓門で侵入を防ぐ南側の重要拠点であった。西南戦争の罹災を免れていたが、その戦後にまとめて陸軍により破却されている。
飯田丸五階櫓
飯田丸五階櫓(いいだまるごかいやぐら)は、飯田丸の南西隅にあった櫓である。櫓台の石垣は2段に築かれており、かつては1段目にL字型の要人櫓を配し、より立体的に攻撃できるようになっていた。なお、石垣は

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