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スイスアルプスのトーマ湖に端を発し、ボーデン湖に入りドイツ・フランスの国境を北に向かう、ストラスブールを越えてカールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、デュイスブルクなどを通過しオランダ国内へと入ったあと2分岐し、ワール川とレク川となりロッテルダム付近で北海に注いでいる。
全長1,233キロ。そのうちドイツを流れるのは698キロである。ドイツにとっては特に重要な川であり、ライン流域を主軸のひとつとしてドイツ史は展開していった。また、ドイツ語の名詞には男性名詞と女性名詞があるが、河川のほとんどは女性名詞であるのに対し、ライン川、マイン川、ネッカー川などごく少数の川だけは男性形であらわされる。そのこともあって、ドイツ人はこの川を「父なる川」と呼んでいる。ドナウ川とともに、外国の船が自由に航行する国際河川の一つ。
下流地域は川幅が広く流れが穏やかなため、水運が盛んである。バーゼルから河口までのライン川流域圏はブルーバナナ(「太平洋ベルト」の西欧版)の一部を成す。また、産業革命の中心地のひとつとなったルール工業地帯もライン川とルール川に挟まれる形で位置しており、その充実した内陸水路と豊富な地下資源によって発達した。
地理ライン川は、源流域、アルペンライン、ボーデン湖、高ライン、上ライン、中ライン、下ラインといったいくつかの地域に分けられる。
源流域〜高ライントーマ湖から流れ出るライン源流はフォルデルライン(前方ライン)と呼ばれ、70km下流のライヘナウで、南のラインヴァルトホルン山から流れてくるもう一つの源流、ヒンターライン(後方ライン)と合流する。ここまでがライン川の源流域といえる。トーマ湖からライヘナウまでの70kmで標高差は1700mあり、ここまでの流れは非常に激しい。ここまでは全域がスイスのグラウビュンデン州に属する。
ライヘナウで合流してからはラインはほぼ北に流れ、グラウビュンデン州の州都・クールあたりで北へと向きを変える。クールからはザンクト・ガレン州とグラウビュンデン州の州境をなしながらバート・ラガッツを通り、やがて東岸はリヒテンシュタイン公国となる。リヒテンシュタインの首都ファドゥーツを抜け、オーストリア領フォアアールベルク州とスイス領ザンクト・ガレン州の国境を一部なした後、ボーデン湖へと流れ込む。ここまでのラインをアルペンラインと称する。
ボーデン湖は、広い上湖と小さな下湖に二つに分かれている。上湖は東をオーストリアのフォアアールベルク州、北をドイツのバイエルン州とバーデン・ヴュルテンベルク州、南をスイスのザンクト・ガレン州とトゥールガウ州に囲まれている。湖畔にはドイツ領のフリードリヒスハーフェンやリンダウ、オーストリア領のブレゲンツといった都市が点在する。上湖の西端にはドイツ領のコンスタンツ市があり、ここで細い水路となって西へと流れだし、まもなく下湖へと流れ込む。コンスタンツは水路の南岸にあり、この地域だけドイツ領がライン南岸へと張り出す格好となっている。
いったんボーデン湖に流れ込んだライン川は下湖西端のシュタインから流れ出し、バーゼルへと向かう。バーゼルまでの区間を高ラインという。この区間のほとんどは北岸がドイツ領のバーデン・ヴュルテンベルク州に属し、南のスイスは上流からトゥールガウ州、チューリヒ州、アールガウ州、バーゼル農村州に属し、ほとんど両国間の間の国境をなすが、スイスのシャフハウゼン州だけはラインの北岸に位置し、スイスが北岸に大きく食い込んでいる。この区間の中央部に位置するスイスのシャフハウゼンには、ライン本流唯一の滝であるライン滝がある。このライン滝より下流は海まですべて船舶の航行が可能であり、シャフハウゼンはライン滝による荷物の積み替え港として繁栄した都市である。
上ラインバーゼルで、ライン川は再び向きを北へと変える。バーゼルからは流れも穏やかになると同時に水量も増え、ここから河口までは3000t級の船の往来ができる。そのため、バーゼルはスイス唯一の国際貿易港となっており、スイスの貿易のかなりの部分がこの港を通して行われる。バーゼルはスイス有数の大都市であるがスイス領の北端であり、市街の一部はドイツ領およびフランス領にもかかっている。
バーゼルからはライン川はフランス領のアルザスとドイツのバーデン=ヴュルテンベルク州との間の国境をなす。この地域はライン地溝帯と呼ばれる構造平野となっており、西のヴォージュ山脈と東のシュヴァルツヴァルトにはさまれた細長い平野の中をライン川は北流していく。バーゼルの少し北で、ライン川はアルザス大運河と接続する。このアルザス大運河はライン川の西に並行して北流し、マルヌ・ライン運河へと接続してパリなどセーヌ川水系水運とつながる。またこの運河はミュルーズでローヌ・ライン運河と接続し、ローヌ川水系へと接続してリヨンや地中海とつながっている。アルザスの住民はドイツ系のアルザス人であり、ライン両岸にドイツ系民族が居住していることになるが、アルザス地方は17世紀以降数度の転変はあったものの、基本的にはフランス領となっている。フランス領のライン沿岸のほぼ中央にストラスブールがあるが、ここは19世紀の河道の直線化によってライン河畔へと広がった[1]フランス領のライン最大の都市であり、フランスのラインへの窓口となっている。カールスルーエの少し南でフランス領は終わりをつげ、ここからは西岸はラインラント=プファルツ州となり、ドイツ領内をラインは流れることとなる。ドイツ領ライン西岸はラインラントと呼ばれ、基本的にはドイツに属するもののフランスとドイツの間で争奪が繰り返された土地である。シュパイアーを過ぎ、マンハイムでは、東から流れてくるネッカー川をあわせる。マンハイムを中心としてシュパイアー周辺までは、ライン=ネッカー広域連合と呼ばれる大都市圏を形成している。マンハイムからヴォルムスを過ぎ、ラインラント=プファルツ州都のマインツでライン川はマイン川と合流する。ここまでが上ラインと呼ばれる。マイン川をさかのぼると、1992年に開通したライン・マイン・ドナウ運河によってドナウ川へと水路がつながっており、この三河川を使用すれば北海から黒海まで河川のみで行くことも可能である。ライン南岸にあるマインツの対岸はヘッセン州州都のヴィースバーデンであり、この2都市は二重都市となっている。このマインツ・ヴィースバーデンから東のフランクフルト・アム・マインまではフランクフルト・ライン=マイン広域連合と呼ばれる大都市圏となっている。
中ライン〜下ラインマインツからボンまでは中ラインと呼ばれる。この地域は丘陵に囲まれた中を流れ、特にマインツ盆地の終わるリューデスハイムおよびビンゲンからモーゼル川の合流するコブレンツまでの間は「ロマンチック・ラインとよばれ、風光明媚なことで知られている。このロマンチック・ラインの区間には、ネコ城など多くの古城があり、また中ほどには難所として知られたローレライがある。この風景を楽しむため、マインツからヴィースバーデン、リューデスハイム、コブレンツ、ボン、そしてケルンまでの185㎞の間にはライン川下りの遊覧船が運航されており、多くの観光客を集めている。遊覧船の起点はマインツであるが、風光明媚な区間であるリューデスハイムからコブレンツまでを利用する観光客も多い。
ボンから下流になると行政的にはノルトライン=ヴェストファーレン州に属するようになる。丘陵は姿を消し、広々とした平野の中を流れるようになる。ここから河口までを下ラインと呼ぶ。この下流域には、ケルン、レーヴァークーゼン、デュッセルドルフを中心とするルール地方の諸都市といった大都市が集中し、工業地帯となっている。なかでもルール地方西端でラインに面するデュースブルクはルールの玄関口となっており、ヨーロッパ最大の内陸港となっている。
河口域ルールを過ぎるとライン川は西へと向きを変え、オランダに入る。オランダ領に入るとすぐ、ライン川はいくつもの支流に分かれ、網の目のようにオランダ南部に水路を広げる。もっとも大きな支流はワール川であり、その他北のアイセル湖へと流れ込むアイセル川、ネーデルライン川が三大支流である。ネーデルライン川はさらにクロメ・ライン川、レク川、ニューウェ・マース川など多くの支流に分かれる。ワール川もまたいくつもの支流に分かれ、南から流れてきたマース川の支流と合流・分離を繰り返す。河口近くのゼーラント州付近のライン川はしばしば大氾濫を起こし、また北海の高潮でも大被害を受けることが多くあったが、1953年の大洪水を機にライン川・マース川・スヘルデ川の三角州地域の河口をすべて塞いでしまう、デルタ計画と呼ばれる大治水工事が1958年に開始され、1986年に完成した。この計画によって、主要港であるロッテルダム並びにアントウェルペンを除くすべての河口が堤防または可動堰によって有事には閉塞が可能になり、両主要港沿岸の堤防は大幅にかさ上げされた[2]。1986年に完成した。河口近くにはロッテルダムがあり、ユーロポートはラインの河川水運と北海や大西洋の海運の結節点として、ヨーロッパ最大の港となっている。
![]() 歴史古代古くはライン川を境界として、西岸はケルト人、東岸はゲルマン人が主に居住していた。しかしユリウス・カエサルのガリア侵攻によって西岸はローマ帝国領となり、ライン川はローマとゲルマンの境界となった。彼を継いだローマ皇帝アウグストゥスはライン東岸へと侵攻したものの、9年にトイトブルク森の戦いにおいてローマ軍は敗北し、帝国の前哨線はライン川へと戻り、以降ローマ領が流域北部においては東岸に広がることはなかった。しかし、流域南部においては83年にドミティアヌス帝がリメス・ゲルマニクスの建設を打ち出し、マイン川からドナウ川へとつながる長城が建設された。これによってライン中・上流域ではリメスが前進し、ライン両岸がローマ帝国領に入った。ローマ帝国はライン西岸に国境警備のための砦や駐屯地として都市を数多く建設し、これらの都市にはローマ文化が定着した。ケルン、コブレンツ、マインツなどはこの都市が元となって現在まで存続した都市である。こうした都市は川の対岸のゲルマン人たちとの交易を経済基盤としていた。各駐屯地の軍によってライン川の河川航行も安全を保障され、ライン川は交易路としても利用されるようになっていた。
中世しかしやがてローマ帝国は衰えを見せ始め、4世紀に入ると東岸のゲルマン人がローマ国境を越え、次々と西岸へと侵入した。ゲルマン民族の大移動である。これにより西岸もゲルマン化されていき、やがてライン川周辺地域を中心として、フランク王国が勢力を拡大していく。また、フランク王国の勢力拡大とともにこの地域には政治的安定が戻り、ライン河口地域に住むフリース人たちが活発な商業活動を展開するようになった。フリース人の本拠はライン川の分流であるレク川に面するドレスタットであり、ここからライン川をさかのぼってケルンやマインツ、ウォルムスへと交易に赴くだけでなく、北海やバルト海方面にも交易を広げていた[4]。フランク王国はカール大帝の時代に最盛期を迎えるも、その孫の代に分裂し、843年のヴェルダン条約によってライン川西岸は中部フランク王国のロタール1世に、東岸は東フランク王国のルートヴィヒ2世に与えられ、ライン川は再び国境となった。ロタール1世が855年に死去すると、中部フランク王国はさらに3分割され、ライン川西岸はロタール2世のロタリンギアに与えられた。しかしロタール2世も869年に死去すると、870年のメルセン条約によってロタリンギアは東フランク王国と西フランク王国によって東西に分割され、ライン川西岸も東フランク王国領となった。このフランク王国分裂に伴う政治的空白に乗じる形で各地に進攻したのがヴァイキングで、ライン川にも河口を中心に、コブレンツあたりまでさかのぼって襲撃を繰り返した。この襲撃の主な目標になったドレスタットは幾度も略奪され、863年の襲撃によって歴史から姿を消した[5]。
東フランク王国はやがて神聖ローマ帝国となるが、同国においては諸侯が大きな力を持ち、ライン沿岸にも多くの諸侯が割拠した。諸侯だけでなく、マインツやケルン、トリーアなどの大司教、司教といった聖界諸侯もこの地域には多数存在し、いずれも各地に城郭を建て、関所を設けてライン川を通航する商船から通行税を取り立てて財源とした。また、このころから商業の復活によりライン河畔においても再び都市が各地に立地するようになり、旧ローマ帝国を起源とする都市だけでなく、新たな都市が次々と建設された。これらの都市はライン交易を基盤として力を蓄え、1254年にコンラート4世が没してホーエンシュタウフェン朝が断絶し、大空位時代が始まると、マインツとヴォルムスとの同盟を基軸としてライン川沿いの諸都市が同盟を締結し、ライン都市同盟が同年成立した。この同盟は加盟都市60以上を数えたものの、周辺諸侯の圧力により1257年に消滅した。14世紀に入ると、北海・バルト海方面で強力な都市同盟を築いていたハンザ同盟が下流域の諸都市に加盟を呼び掛け、流域有数の都市であるケルンなど多くの都市が同盟に加盟した。この都市同盟の流れをくみ、ライン上流部へと進出してきたのがスイス誓約同盟である。誓約同盟ははじめアルプス山中で勢力を築いていたものの、1351年にチューリヒが加盟したのを皮切りにライン沿岸へと勢力を広げ、1415年にはアールガウを占領下に置き、1501年にはシャフハウゼンとバーゼルの加盟を認めて[6]、ライン上流部を勢力下におさめた。
一方西方の西フランク王国はやがてフランス王国となり、徐々に中央集権化を強めて強国となっていく。この過程でフランスは諸侯の乱立するライン川沿岸へと徐々に東進し、勢力を強めていった。そうしたなかで、フランスの国境をライン川へと求める、いわゆる自然国境説がフランスで有力となっていき、以後フランスの多くの為政者がライン川沿岸にフランス国境を伸ばすことを狙うようになっていった。一方、ライン河口域においてはネーデルラント諸州が北海・バルト海交易を握って経済力を強めていたが、カルヴァン派の強いこの地方はカトリック支配の強化を狙う領主のスペイン王国と対立し、1568年に八十年戦争が勃発する。この戦いの中でネーデルラントはネーデルラント連邦共和国として独立し、17世紀には黄金時代を迎えた。
17世紀前半に入ると、ルイ13世と宰相リシュリューのもとでフランスは三十年戦争に参戦して、1648年のヴェストファーレン条約によってライン沿岸のアルザス南部を獲得し、ラインへの橋頭堡を手に入れる。この動きは次のフランス国王ルイ14世にも引き継がれ、大同盟戦争の講和条約である1697年のレイスウェイク条約によって、フランスは要衝ストラスブールおよびアルザス北部を獲得し、以降アルザス地域はドイツ語圏であるにもかかわらず、基本的にはフランス領として推移していくこととなる。またこれにより、一部ではあるがライン川はフランスの国境となった。
近代その後100年ほどは大きな動きはなかったものの、フランス革命が勃発し、1792年にフランス革命戦争がはじまると様相は一変した。フランスはまず南ネーデルラントへ侵攻し、1794年には南ネーデルラントとラインラントをほぼ占領した。さらに1795年にはオランダを占領してバタヴィア共和国を建国させ、ライン川以南を割譲させた。同年にはバーゼルの和約によってプロイセン王国もフランスと講和し、ラインラント西岸の諸小国はフランス共和国へと併合された。以後20年ほどは自然国境説の通り、ライン川がフランスの国境となっていた。この状況は1797年のカンポ・フォルミオの和約ならびに1801年のリュネヴィルの和約によって追認されたが、この時にライン西岸の領土を失った大諸侯の領土をライン東岸において保障することが定められ、1803年の帝国代表者会議主要決議によって聖界諸侯の領土の没収(世俗化)と帝国騎士など群小の領主の陪臣化がおこなわれ、このときに沿岸の群小諸侯の領土はかなりが吸収・整理され、ある程度の大きさの諸公国へとまとめられていった。1806年にはフランスの圧力のもと、ライン東岸の諸公国が連合してライン同盟が設立され、ライン両岸はフランスの影響下に置かれることとなった。しかし、1813年にライプツィヒの戦いにフランスが敗れるとともにライン同盟は空中分解し、結局1815年のウィーン会議によって国境はフランス革命以前の線にまで戻り、フランスはアルザスこそ確保したもののラインラントとネーデルラントを手放した。ライン両岸には、新しくゆるやかな連合体であるドイツ連邦が成立し、ラインラントは新たにプロイセンの領土となった。
19世紀中ごろになると、資源と水運に恵まれたライン中流域、とくにプロイセン領となっていたルール地方が石炭の埋蔵を利用して大工業地帯となった。1833年にドイツ関税同盟が成立すると、中流域各国の関税障壁が撤廃され、おりからの産業革命
引用:Wikipedia
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地理
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マイン川(Main)は、ドイツを流れる河川の1つである。バイエルン州に水源があり、ドイツ国内を東からフランケン地方を抜けて西に横断し、ヘッセン州のマインツでライン川に合流する。全長は524キロ。ライン川右岸の支流中、最長の川である(マース川を除く全支流中ではモーゼル川に次いで2番目)。
流路は、中央ヨーロッパの大きな河川としては珍しく東から西に向かって流れる。川筋に沿ってフランケンの中低山地、歴史的な小都市、ヴュルツブルクの独特なシルエット、フランケンワインの産地が点在する。河口のすぐ上流には、多くの橋が架かり、フランクフルトの中心街を結んでいる。
マインツ旧市街の向かい側、ヴィースバーデンのマインツ=コストハイム地区でライン川に合流する。
概要この他のドイツを流れるマイン川よりも長い川、たとえばドナウ川、ライン川、エルベ川、オーダー川、モーゼル川は、いずれも水源または河口がドイツの国外にあり、純粋な国内河川ではない。このため、マイン川は「ドイツ国内最長の川」と呼ばれることがある。この呼称は間違いではないものの、注意が必要である。ヴェーザー川は、一般にヴェラ川とフルダ川が合流した後の452kmを指し、マイン川の長さ524kmには及ばない。しかし、ヴェラ川もフルダ川もどちらもドイツ国内を水源としドイツ国内を流れる川である。より長いヴェラ川を計算に入れると湧水地点から河口までは、長さ744kmの国内河川となる。一方、マイン川は、同様に、より長い経路となるレグニッツ川およびペグニッツ川を合計しても、その総距離は567kmであり、ヴェラ川 - ヴェーザー川には及ばない。
マイン川とその支流の流域面積は、27,292 km²で、フランケン地方の広い地域、バーデン地方北東部、ヘッセン南部が含まれる。南部はドナウ川の流域となっている。両者の境界はヨーロッパの主要分水界である。白マイン川の数百m南にはフィヒテルナーブ川の水源がある。この川はナーブ川を経てドナウ川に注ぎ、黒海へと下って行く。
マイン川の平均水流は195 m³/s(フランクフルト水位計)で、アーレ川 (590 m³/s)、モーゼル川 (290 m³/s)に次ぎ、ライン川支流中3位の流量である。
マイン川は、バンベルクから388 kmが航行可能[1]で、さらにライン・マイン・ドナウ運河でエルランゲン・ニュルンベルクを経由し、分水嶺を越えて、ケールハイムでドナウ川に接続している。特に、フランクフルト周辺のライン=マイン産業集中地域には多くの大規模な河川港がある。
マイン川に沿って、マイン遊歩道やマイン自転車道が走っている。
名前「マイン」という名前はケルト語起源である。この川は、Moin または Moginと呼ばれていた。紀元前1世紀にやって来たローマ人は、たとえば大プリニウスの『博物誌』やタキトゥスのゲルマニアには、ラテン語化した Moenus という名前で、記述している。似たような名前の川は、アイルランド(Maoin)やイギリス(Meon、ラテン語でmaionus)にある。名前の起源には多くの説がある。一つは、インド・ヨーロッパ語族の古語で「水」を意味する mei に由来するというものである。同様の例としては、「沼地」を意味するラトヴィア語の maina、リトアニア語の maivaがある。別の説は、壁や柵を意味するというものである。ラテン語で moenia は「円形の壁」を意味する。中世には、多くは Moyn または Moyne と記録されている。Meynという名前が初めて表れるのは14世紀である。
流路マイン川は緩やかに蛇行を繰り返しながら東から西に向かって、オーバーフランケン、ウンターフランケン、ヘッセン南部を流れ下り、バイロイト(赤マイン川)、クルムバッハ、バンベルク、シュヴァインフルト、ヴュルツブルク、アシャッフェンブルク、フランクフルト・アム・マインといった都市を通って、マインツ近郊のマインシュピッツェでライン川に注ぐ。マイン川は特にウンターフランケンでは人口密集地を流れるが、アシャッフェンブルクから河口までのウンターマイン平野はほぼ完全に産業集中地帯および交通路ライン=マイン地域を形成している。
以下、流路を上図で色分けした5つの部分に分けて詳述する。
源流マイン川には、2本の短い源流、白マイン川と赤マイン川がある。
長さ41kmの白マイン川は、マイン川右岸、すなわち北側の源流である。この川は、バイロイトから北東に直線距離で20km、フィヒテルベルク北西のフィヒテル山地に湧出する。標高1,024mのオクゼンコプフ山の東斜面、海抜887mの地点に花崗岩で造られた水源がある。標高679mに位置するビショフスグリュンが、白マイン川が初めて通過する町である。
白マイン川の水源地域は白みがかった花崗岩から成っており、このため水が白っぽく見えることから、この名が付いた。
全長73kmの赤マイン川はマイン川左岸、すなわち南側の源流である。この川は、バイロイトの南10km、クロイセンの西5kmのフレンキシェ・アルプに湧出する。その水源(木製の筒なのだが)は、ヘルラスロイト(クロイセンの一地区)からわずか2km北西のリンデンハルトの森の中にある。この生まれたての川が流れる堆積岩でできたローム質の土壌が水に赤い色を付け、川の名前の由来となった。
ヘルラスロイトが赤マイン川が初めて出会う小集落で、クロイセンは初めて出会うより大きな町である。赤マイン川はこの後、オーバーフランケンの中心都市で、リヒャルト・ワーグナー祝祭音楽祭で世界的に知られるバイロイトまで北に向かって流れる。川筋は何度も蛇行しながら、狭い谷を北西に向かって進む。
2つの源流は、クルムバッハの西の外れにあるシュタイネンハウゼン城付近で合流する。ここがマイン川の出発点である。ただし、他の多くの川と同じく、川の距離のカウントはここが出発点ではなく、ここがゴールとなる(ライン川などは例外的な川である)。マイン川の里程は河口から遡って計測、表示される。
オーバーマイン水源からバンベルクまではオーバーマインラントと呼ばれる。2つの源流がクルムバッハのシュタイネンハウゼン城付近で合流して誕生したマイン川は、フレンキシェ・アルプ北辺の狭い谷を西に向かって流れる。源流沿いのバイロイトやクルムバッハを別にして、マイン川はこの行程で初めて、よく保存された歴史的なたたずまいを持ついくつもの小都市に出会う。カロリング朝の城をもつブルククンシュタットや町の防衛施設の一部が遺るリヒテンフェルスなどである。
ブルククンシュタットで左岸から合流してくる支流は、名前をヴァイスマイン川 (Weismain)という。白マイン川(Weißer MainまたはWeißmain)と混同しやすく注意が必要である。
リヒテンフェルスと川沿いの次の町であるバート・シュタッフェルシュタインとの間の左岸の丘陵上にドイツ・バロック様式の最も重要な建築物の一つである十四聖人聖堂が建っている。この建物はバルタザール・ノイマン設計の建築である。マイン川流域の、特にヴュルツブルク周辺にはノイマンの作品がしばしば現れる。十四聖人聖堂のマイン川を挟んだ真向かい、右岸沿いの丘陵に11世紀に創設されたベネディクト会のバンツ修道院の豪壮な建築がある。
バート・シュタッフェルシュタインは、その上流地域の極端に豊かな文化財の他にも、歴史的な町並みや17世紀から建設された大規模な木組み建築を見ることができる。また、標高540mのシュタッフェルベルクは、その岩だらけの山頂平面部分に石器時代から人が住んでいたことが知られており、紀元前30年に放棄されたケルトの都市とギリシアの地理学者クラウディオス・プトレマイオスが記録している Menosgadaがここであると推定されている。
バート・シュタッフェルシュタインを過ぎると川は南に向きを変える。多くの川がマインに注ぎ込み氾濫原を形成する。ブライテンギュスバッハ付近で右岸からイッツ川が注ぎ込むと、その数km後には、マイン川沿いの文化的白眉バンベルクへ至る。
無傷で遺されたものとしてはドイツ最大の旧市街を有するこの都市は、1993年にユネスコ世界遺産に登録され、一般に知られている。そびえ立つ巨大なロマネスク建築の大聖堂を中心に、都市を形成する核となる建築が、マイン川の支流であるレグニッツ川の両岸と中州に点在して広がっている。その中でも15世紀に建てられた旧市庁舎は、レグニッツ川の真ん中に建てられているほどである。レグニッツ川は、この街の郊外でマイン川に合流する。
マイン川は、しかし、この都市の中心部を流れているのではなく、街の北郊を流れている。マイン川にとってバンベルクが重要なのは、その歴史的・文化的背景の重要性のみではなく、ここにライン・マイン・ドナウ運河の北端が通じていることにある。この運河は、かなりの距離をレグニッツ川と共有しておりビシュベルク付近でマイン川に接続する共通の河口を有している。この河口近くのマイン川の河岸には、新しい港が設けられている。
マイン川とドナウ川の間の運河は、1843年にはすでにルートヴィヒ運河が開通していた。この運河もやはりバンベルクでマイン川に接続していたのだが、運河の川筋に沿って曳舟道があり、幅の狭い運河を馬が船を引いて往き来していた。この運河は、技術的に時代遅れになっていたことや第二次世界大戦で被害を受けたことから、1950年に廃止された。近代的な運河掘削の計画は1920年からすでにあった。1960年にバンベルク側で工事が始まり、1972年に、まずはニュルンベルクまでの区間が開通した。これにより、人口100万人を数えるニュルンベルク工業地域がマイン川の内陸航行システムに結びつくこととなり、交通状況の改善を印象づけた。1992年に運河は、ドナウ川沿岸のケルハイムまで完成し、両河川間の交通が接続された。
船での交通が可能となったマイン川は、バンベルクから西に向かって流れてゆく。シュヴァインフルトまでの間は、比較的直線的な行程である。ここでも、城下町エルトマン、木組み建築とマルクト広場が印象的なツァイル、マリアブルクハウゼン修道院の町ハースフルトといったロマンティックな小都市が沿岸に並ぶ。リムバッハ(エルトマン市内)とツァイルには、それぞれ有名な巡礼教会がある。マイン川の右岸はハース山地、左岸はシュタイガーヴァルトである。ハースフルトから約20kmでシュヴァインフルトに到着し、ここから『マインドライエック』(マインの三角)と呼ばれる区間に入る。
マインドライエックマイン川の行程には、それぞれマインドライエック(マインの三角)、マインフィーアエック(マインの四角)と呼ばれる、目立った特徴がある。マインドライエックとは、シュヴァインフルト、オクゼンフルト、ゲミュンデン・アム・マイン間のマイン川を指す。この区間を地図で見ると、頂点を下に、上に開いた逆三角形を描いているのが分かる。
シュヴァインフルト付近まで東から西に流れてきた川は、南に流れの向きを変える。三角形の一番南のポイントはマルクトブライトとオクゼンフルトの間である。この間、マイン川は数km西に向かい、再び北向きに、これまでと逆行するかのように進路を変える。ゲミュンデン・アム・マインからは再び西向きに流れる。
マインドライエックは、特にワインづくりで有名である。フランケンワインの生産地の多くが、マインドライエックに直接面しているか、あるいはその周辺に位置している。
マインドライエックの起点であるシュヴァインフルトは、かつての帝国自由都市で、後にボールベアリング生産の中心地となった。このため、第二次世界大戦中には激しい空爆を受けた(ダブル・ストライク作戦と呼ばれる)。シュヴァインフルトの最も重要な保護文化財である旧ラートハウス(1572年建造)は、南ドイツのルネサンス建築中、最もすばらしいものの一つである。
シュヴァインフルトの数km下流の左岸にグラーフェンラインフェルト原子力発電所がある。この発電所の、それぞれ143mの高さがある2本の冷却塔は、数kmの範囲のどこからでも目に付くランドマークである。
ここから20kmほど下った蛇行部の頂点にフォルカハがある。この町は、ワインづくりと、町はずれにある「ブドウ畑のマリア巡礼教会」で有名な小都市である。マイン川は、ゆったりと蛇行し、山を取り囲むように流れている。ここにあったフォーゲルブルク城はかつて、河川の航行を取り仕切っていた。蛇行部は途中から船の航行に便利なように運河が設けられショートカットされている。これによってできた運河と本流に挟まれた島を、ワイン島と呼ぶ。
10kmほど下った左岸に、ベネディクト会ミュンスターシュヴァルツァハ修道院の修道院教会がある。それに続いて右岸に現れるのが、市壁を含め中世風の佇まいを残すワイン町デッテルベルクである。歴史的なワイン取引の町キツィンゲン(中世のマイン川の橋、ファルター塔)、小都市マルクトブライト(ルネサンス様式のラートハウス、バロック様式のワイン商人の館)、豪奢なオクゼンフルト(ゴシック様式のラートハウス、一部が遺された1519年製のマイン川の橋)が、マインドライエックの南の頂点部分、すなわちマイン川の行程中最も南に並ぶ。
この後すぐ下流がマインドライエックの変曲点である。ヴィンターハウゼン、ゾンマーハウゼンを過ぎると、ヴュルツブルクである。ヴュルツブルクは、フランケン地方で2番目に大きな都市で、世界遺産に数えられる歴史的な街並み、ロマネスク様式の大聖堂、マリエンベルク城塞、バロック様式のレジデンツなど建築文化史上国際的にも重要な建造物群を有している。衛星都市であるファイツヘーヒハイムには、有名なロココ庭園やヴュルツブルクの司教領主の夏の離宮がある。これらの城館施設は、既述のバルタザール・ノイマンの作品である。
マインドライエックの西側の行程は人口密度の低い地域である。ヴュルツブルクと北西の角までの間には、カールシュタットと、2、3の小都市があるだけである。ゲミュンデン・アム・マインから、マインフィーアエックに入る。
マインフィーアエックマインフィーアエック(マインの四角)は、マインドライエックに隣接する。北に開いた四角形の角には、ゲミュンデン・アム・マイン、ヴェルトハイム、ミルテンベルク、アシャッフェンブルクがそれぞれ相当する。マイン川は、シュペッサルト山地の南部を約100kmにわたって取り囲んでいる。
ゲミュンデン・アム・マインで、シュペッサルト山地がマイン川の行く手に立ちはだかり、川は南西に向きを変える。ロール・アム・マインでロール川が合流する辺りから狭く森の豊かな渓谷を南に向かって流れてゆく。ローテンフェルス城の上流側に同名のごく小さな町がある。この町、ローテンフェルスは人口約1,000人の、バイエルン州で最も小さな市である。マインフィーアエックの南東角に、2つの小都市、マルクトハイデンフェルトとヴェルトハイムがある。この両都市の間でマイン川は小さな尾根の周りを回るように蛇行する。この蛇行の開始点と終了点の間はわずか数百mだが、9kmの行程を要する。この蛇行は “Himmelreich”(「神の国」)と呼ばれている。
ヴェルトハイムでタウバー川がマイン川に合流する。この町の中世の街並みと城址は、ロマンティックな小都市に恵まれたマイン渓谷の中でも、最も見事な街の一つである。ヴェルトハイムからマイン川は蛇行しながら西に向かう。この辺りでは、マイン川がバイエルン州とバーデン=ヴュルテンベルク州の州境をなしている。マイン川左岸のヴェルトハイムはバーデンに属していたため、右岸のクロイツヴェルトハイムはバイエルン州だが、主要部分の旧市街はバーデン=ヴュルテンベルク州に属している。
この付近の風景は、マインフィーアエックの東側に似ている。城を戴く2つの小都市シュタットプロツェルテンとフロイデンベルク、この地域では最も古い都市のドルフプロツェルテンの他にはほとんど町はなく、シュペッサルト山地南部の森に覆われた山のために川は蛇行を繰り返しながらのたうつように進んで行く。
マインフィーアエックの南西の角は、ムト川の河口に面したミルテンベルクである。この歴史的小都市は、その石切場で知られている。フランケンフルトやマインツの大規模な中世の教会は、ミルテンベルクのブンテル砂岩で造られている。マイン川の船舶交通を利用してこの石切場から建設現場まで運ばれたのであった。
この町の下流で川は方向を北に転じ、右手にシュペッサルト山地、左手にオーデンヴァルトの両中低山地に挟まれた狭い谷を抜けて行く。クリンゲンベルク・アム・マインやオーベルンブルク・アム・マインといった、よく保存された旧市街を有する小都市がここに点在する。マイン川沿いの人口密度は明らかに増大して行く。ここまで来れば、ライン=マイン産業密集地域は間近である。
最後にアシャッフェンブルクに到着する。この、かつてのマインツ選帝侯の宮廷都市は、すでにフランクフルト・アム・マインを中心とするドイツ第2の大都市圏の一部である。アシャッフェンブルクの象徴的建造物であるルネサンス様式の城館ヨハンニスブルク城がマイン川を睥睨している。
ウンターマインアシャッフェンブルクから河口まで、言い換えればヘッセン州のマイン川は、完全に大都会の中を流れる。数kmにわたって河岸に建物がない区間などほとんどない。
アシャッフェンブルクから下流のマイン川は緩やかに何度も蛇行しながら北西に向かう。ヘッセン州は左岸の、カロリング朝のアインハルト・バジリカが遺る大変に古い都市https://ja.wikip
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ドナウ川(ドナウがわ、ラテン語:Danubius、スロヴァキア語:Dunaj、セルボクロアチア語:Dunav, ドイツ語: Donau, ハンガリー語 Duna, ブルガリア語: Дунав, ルーマニア語: Dunăre、英語、フランス語: Danube)は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。
概要ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。全長は2,850 km。
川の名現在の名ドナウ(ドイツ語)と各国語でそれに相当する名前は、ラテン語の Danubiusダーヌビウス に由来する。これはローマ神話のある河神の名である。スキタイ語、あるいはケルト語からの借用語がもとになっていると考えられている。
語頭 Danu はインド・ヨーロッパ祖語で「川」を意味する「*dānu」という単語より来ている。ケルト神話のダヌ(Danu)、インド神話の水の女神ダヌ(Danu)など、印欧語族の神話にはこの語が残っている。黒海周辺にはドン川、ドニエプル川、ドネツ川、ドニエストル川など、同様の単語から派生したと見られる川の名が多数ある。
語尾 au は古ゲルマン語で流れを意味する ouwe に由来し、ドイツ語名称に1763年以降使われている。ドイツ語では以前は Tonach, その後は Donaw の名が使われ、現在に至る。日本語表記は、ドナウ川、ダニューブ川。
下流域は古代ギリシャ語では「イストロス川」と呼ばれた。これはケルト語の ys に由来する。
地理上流ドナウの源流は下記のとおり、ドイツのシュヴァルツヴァルト地方にあるフルトヴァンゲンの郊外にある。ここから流れ出す川はブレク川と呼ばれ、南東に48㎞下流のドナウエッシンゲンの街で、北から流れてきたブリガッハ川と合流し、ここからドナウの名を与えられる。ドナウ川はここから北東に流れ続け、シュヴァーベン山地を抜けてウルムやインゴルシュタットを通過し、フランケン山地を抜けた後、ケールハイムではライン・マイン・ドナウ運河と接続する。その後、レーゲンスブルクでレーゲン川をあわせると同時に南東へと向きを変える。その下流でミュンヘンから流れてきたイーザル川を合わせたのち、パッサウで北からのイルツ川、南からのイン川と合流する。
パッサウの下流からはオーストリア領内に入る。リンツを抜けた後、メルク修道院を起点として、30㎞ほどヴァッハウ渓谷と呼ばれる景勝地が続く。この渓谷には古城や修道院が点在し、またオーストリア最大のワインの産地でもあるため、ブドウ畑の中に城や僧院のたたずむ美しい光景が観光客の人気を集めており、また世界遺産にも指定されている。この渓谷を抜けるとウィーン盆地へと入り、しばらく下流に、オーストリアの首都ウィーンが存在する。ウィーンはハプスブルグ帝国の居城として長くドナウ上流地域の中心であった町であり、また市民生活もドナウ川と密接に結びついていた。「美しく青きドナウ」など、ドナウを主題としてウィーンで作曲された曲も数多く存在する。一方でウィーンはドナウ川の氾濫にも長く悩まされてきた街だが、19世紀後半の河川改修工事によってドナウ川の氾濫は抑えられた。ドナウ川はウィーンの街を抜けて、その下流で小カルパティア山脈を越える、いわゆる「ハンガリーの門」と呼ばれる狭隘部を通過する。ここまでがドナウ川の上流部とされる。
中流「ハンガリーの門」の名の通り、ここから下流はハンガリーに属するものと古来されてきた。現在でも、ドナウ川はここでオーストリアから、スロバキアとハンガリーの国境をなすようになる。この門のすぐ下流に、スロバキアの首都ブラチスラヴァが存在する。「門」で隔てられているとはいえ、ブラチスラヴァとウィーンの距離は60㎞にすぎず、オーストリア・ハンガリー帝国時代までは密接な交流があった。またブダがオスマン帝国に占領されていた17・18世紀には、ブラチスラヴァはポジョニと呼ばれ、ハンガリーの首都となっていた。ブラチスラヴァ下流では、かつて大規模ダムの建設計画があったものの、環境保護運動により中止となった(後述)。
スロバキア・ハンガリー国境はエステルゴムで終わりをつげ、ここからはハンガリー領内に入る。エステルゴムはハンガリー国王イシュトヴァーン1世が戴冠した歴史ある都市であり、ドナウ河畔には町のシンボルであるエステルゴム大聖堂が立っている。エステルゴムのすぐ下流、ドナウベンドと呼ばれる地域でドナウ川は東西から南北に流れを変え、ハンガリーの中央部を縦断する。ドナウ川が流れる各国の中でも、国土の中央部を貫流するのはハンガリーのみである。ハンガリーにおいてドナウ川は南北をつなぐ交通の軸でもあり、また東西を分断する障壁ともなっている。ブダペストには多くの橋が架けられているが、それを除くとハンガリー国内にドナウ川を越える橋はほとんどない。ドナウ川を境として、ハンガリーはやや富んで小村が多く、やや都市化の進む西部と、プスタと呼ばれる大平原が広がり、大村落が多く農業を依然中心とする東部とに二分されている。ただ、人口分布や富においては東西に大きな差はなく、かなり均質なものとなっている[2]。ここではハンガリー大平原を貫流することとなり、穏やかな流れが続く。ハンガリーの首都、ブダペストは「ドナウの真珠」とも呼ばれる美しい都市であるが、かつて西岸のブダと東岸のペシュトの二つの街だったものが合併したもので、そのためドナウ川は街の中央部を流れることとなっている。ブダとペシュトの間には、1849年にセーチェーニ鎖橋がかけられて以降、何本かの橋が架けられているが、なかでもセーチェーニ鎖橋はその美しさでブダペストのシンボルの一つとなっている。ハンガリー領の南端近くのドナウ沿岸にはモハーチの街があるが、ここは1526年にモハーチの戦いが起き、ハンガリーがオスマンに敗れた古戦場である。
ハンガリーを抜けると、クロアチアとセルビア(ヴォイヴォディナ自治州)の国境をなす。ここで西から流れてきたドラーヴァ川をあわせ、ヴコヴァルで流れを再び大きく東西に変えたのちにセルビア国内に入る。ヴォイヴォディナの州都であるノヴィ・サドを通ったのち、セルビアの首都ベオグラードでスロベニアから流れてきたサヴァ川を合わせる。ハンガリーから続く平原地帯はベオグラードのやや下流で終わり、やがてセルビアとルーマニアの国境となる。ここはドナウ川がカルパティア山脈を越える地点であり、その部分には急流で知られる鉄門がある。ここは長い間難所として知られてきたが、現在ではダムの建設によって水位が上がり、穏やかな流れとなっている。また、鉄門ダムには3つの水力発電所が建設され、合計240万kwの電力を生み出している[3]。ここまでがドナウの中流域である。
下流鉄門のすぐ下流にあるドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンで、ドナウは再び平原へと流れ出て緩やかな流れとなる。その後は下流域となり、ワラキア平原をブルガリアとルーマニアの国境をなしながら500kmにわたって流れていく。ドナウ川の屈曲部、ブルガリアの西端に近いヴィディンとルーマニアのカラファトの間には、2013年に新ヨーロッパ橋が開通し、それまでフェリーで行き来していた両都市を結ぶこととなった。この地域で最も大きな町は、南岸にあるブルガリアのルセである。ルセと、対岸のルーマニアのジュルジュとは「ルセ・ジュルジュ友好記念橋」によって結ばれている。この橋は、2013年に新ヨーロッパ橋が開通するまではブルガリアとルーマニアとを結ぶ唯一の橋だった。ドナウ北岸のワラキア平原は、西部のオルテニア、東部のムンテニアとも、灌漑が広く行われ、またドナウ河岸の湿原の耕地転換が進められてきた。
ブルガリア領シリストラの北岸で、ドナウは大きく北へ流れを変えてルーマニア領内へと入る。シリストラの対岸はルーマニアのカララシであり、両市はフェリーで結ばれている。この辺りから東の、ドナウ川と黒海に挟まれた地域はドブロジャと呼ばれる。カララシからやや北東に位置する東岸のチェルナヴォダで、ドナウ-黒海運河と接続する。チェルナヴォダは交通の要衝であり、西岸のフェテシュティと1895年にカロル1世橋で結ばれて以降、ドナウ-黒海運河のほか、首都ブカレストと黒海沿岸の貿易港コンスタンツァを結ぶ道路・鉄道・水運すべてがこの町を通る。その後、ブライラの街を通ったのち、ガラツィの町で再びドナウは東に向かい、ウクライナとルーマニアの国境をなす。この地域ではドナウ川は北のキリア分流、中央のスリナ分流、南の聖ゲオルゲ分流とに分かれる。キリア分流が最も水量が多く、上流の水の70%が流れ込む。スリナ分流には10%、聖ゲオルゲ分流には20%前後が流れ込む[4]。ウクライナ・ルーマニア国境は北のキリア分流であり、ウクライナ領の北岸にはイズマイールの町がある。また、南の聖ゲオルゲ分流沿いにはトゥルチャの街がある。この地域はドナウ・デルタと呼ばれる広大な河口デルタ地帯となっている。そして、スリナ分流は黒海沿岸の町スリナで黒海へと注ぎ込む。
歴史古代ギリシア人は河口から鉄門までのドナウ川を知っており、イストロス川と呼んだ。ローマ帝国もほぼ同じ地域まで進出し、ヒステール川と呼んだ。 ローマ帝国時代には、ほとんど源流から河口までの全域が、蛮族に対する帝国の北方の防衛線の役割を果たした。ウィーン、ブダペスト、ベオグラード、ソフィアといった各国の首都はこの時期の最重要基地に起源を持つ。ドロベタ=トゥルヌ・セヴェリンの近郊には、105年にローマ帝国によって築かれた、ドナウ下流初の橋梁であるトラヤヌス橋の遺構が今も一部残存している。この橋は、皇帝トラヤヌスのダキア戦争時に、ドナウ北岸のダキアへ侵攻するために建設されたもので、翌106年にダキアはローマ帝国に占領され、属州ダキアとなった。ドナウの両岸がローマ帝国の支配下に置かれていたのはこの属州ダキア(現在のルーマニア西部)のみであり、残りはドナウ川をそのまま国境としていた。271年、属州ダキアは放棄され、ローマ帝国は川の南岸へと引き上げた。ローマのダキア統治は165年間と、比較的短いものであったが、この地方はすでにローマ化されており、現在でもルーマニア人はラテン系民族となっている。
中世から近世375年、フン族によって圧迫された西ゴート族がドナウ川を渡り、ここにゲルマン民族の大移動がはじまった。これによりドナウ川はローマ帝国の北部国境としての意味を失い、ゴート族をはじめ、ゲルマン諸民族やフン族などがつぎつぎとドナウ南岸へと押し寄せた。ローマ帝国東西分裂後は、下流は東ローマ帝国の北部国境となったものの、やがてブルガール人がこの地域を奪取し、第一次ブルガリア帝国をたてた。中流部のハンガリー平原にはアヴァール人やマジャール人などの遊牧民族が押し寄せ、やがてマジャール人によるハンガリー王国が成立してその領域となった。上流域は神聖ローマ帝国領となり、この地におかれたオーストリア辺境伯領がやがて強大化していった。やがてオスマン帝国が強大化して下流域を版図に組み入れ、中流域も1526年のモハーチの戦いによってハンガリー王国が大部分の領土を喪失すると、大部分がオスマン帝国領となった。さらに上流域のウィーンにも1529年(第一次ウィーン包囲)と1683年(第二次ウィーン包囲)の2度にわたって押し寄せるなど、この時期のドナウ川中下流域はオスマン帝国の重要な交通路となっていた。
近代第二次ウィーン包囲の失敗による1699年のカルロヴィッツ条約によって中流域はオーストリアに割譲され、18世紀には大まかに上流・中流部がハプスブルク家のオーストリア領に、下流部がオスマン帝国領となった。19世紀にはいると上流・中流部のオーストリア領では民族自決の動きが強まり、1848年にはウィーン三月革命が勃発するなど体制が動揺を続けた。またこのころ、ドイツにおいて統一の動きが高まる中、オーストリア皇帝を戴く「大ドイツ主義」か、プロイセン王を戴く「小ドイツ主義」かで対立が深まり、1866年の普墺戦争により大ドイツ派のオーストリアは敗れ、最上流部は1870年にドイツ帝国に吸収されることとなった。一方、統一ドイツから排除されたオーストリアは東欧・ドナウ志向を強め、1867年にはオーストリア帝国はアウスグライヒをマジャール人と結んでオーストリア=ハンガリー帝国(二重帝国)へと改組された。ドナウ川は二重帝国を結びつける大動脈となり、このことからこのころのハプスブルク帝国をドナウ帝国と呼ぶこともある。この時期には民族自決の動きが盛んになる中、二重帝国制をさらに改組し諸民族が同等の権利を持つ連邦国家、ドナウ連邦の構想がなされた。
また、この時期は産業革命の進展する時期であり、二重帝国内においては新しく登場した機械や技術を利用してドナウ川の開発・改修がすすめられた。1862年の春の洪水をきっかけにウィーン周辺で行われた河川改修工事は流路の変更を伴う大規模なものであり、10年後に完成したのちはウィーン盆地内の流路は非常に安定したものとなり、また流路の直線化によって得られた土地や水路の拡張・安定化はウィーンやオーストリア経済に多大な恩恵をもたらした[5]。この河川改修工事はハンガリー内においても大規模に行われ、ドナウの流れは直線的に改修され、洪水も激減した。この河川改修により、それまで春などの増水期にはあちこちに湿原のできていたハンガリー平原は乾燥化が進み、各所に乾燥した草原が広がるようになった一方、水利の向上によって農地が拡大し、ハンガリーは農産物の一大輸出国として繁栄した。この繁栄を受けてハンガリーの首都であるブダとペストも急速に成長した。1849年にはブダとペストの間にはじめてセーチェーニ鎖橋が架けられ、1873年にはブダとペストが合併してブダペスト市が誕生し、ハンガリーの中心として栄えた。
一方、下流部においてはオスマン帝国の勢力が衰える中、オスマン支配下の各民族の独立運動が盛んになっていった。1817年にはミロシュ・オブレノヴィッチを公としてオスマン宗主権下のセルビア公国が成立した。1829年には、露土戦争に勝利したロシアがアドリアノープル条約でドナウ・デルタを領有し、ドナウへと進出する足掛かりを得た。しかし、クリミア戦争の講和条約である1856年のパリ条約において、ロシアは南ベッサラビアおよびドナウ・デルタを失い、一時この地方から後退する。またこの条約においてはドナウ川の国際河川化がすすめられ、各国への自由航行が保障された。1859年にはオスマン宗主権下のワラキア公国とモルダヴィア公国が連合し、1861年にルーマニア公国が成立。セルビア・ルーマニア両公国は1877年の露土戦争でロシア側に立ってオスマンに宣戦し、その結果サン・ステファノ条約によって両公国は完全独立を承認され、セルビア王国およびルーマニア王国が成立。ブルガリアも大ブルガリア公国としてオスマン宗主権下ではあるが大幅な自治を認められ、オスマン帝国はソナウ沿岸への影響力をほぼ消失した。しかしこの条約はロシアに非常に有利なものであったため各国の反発を招き、翌1878年のベルリン条約によって、セルビアはそのまま独立を認められたものの、ブルガリアの領土は大きく削減され、オスマンの宗主権も拡大した。この結果はブルガリアの不満を招き、後年大ブルガリア主義の台頭を呼んでバルカン半島の不安定化の一因となった。またルーマニアも、黒海に面するドブロジャの領有を認められた代わりに、ロシアに南ベッサラビア(ブジャク)地方の割譲を余儀なくされた。ドブロジャはルーマニア人の多いこれまでの領土とはやや異質な土地であり、またドナウ南岸のシリストラ要塞および南ドブロジャはブルガリアに与えられたため、この条約はルーマニアにも不満を残した。これによりロシア帝国は再びドナウ沿岸に領土を持つこととなった。
しばらく安定していたドナウ沿岸の国境線は、1913年の第2次バルカン戦争において再び変化する。この戦争においてブルガリア王国が敗北したため、ブルガリアはシリストラおよび南ドブロジャをルーマニアに割譲した。しかしブルガリアはこの地の奪還を悲願とし、以後30年以上、南ドブロジャはバルカン半島の火種であり続けた。
現代第一次世界大戦によってドナウ全域は戦火へと巻き込まれ、中央同盟国のドイツ・オーストリア・ブルガリアと、協商国側のロシア・セルビア・ルーマニアとの間で激しい戦闘が起きた。結局1919年に中央同盟は敗北し、ブルガリアはヌイイ条約によって南ドブロジャをルーマニアに割譲。ルーマニアはソヴィエト連邦からベッサラビアも獲得しており、大ルーマニアが誕生した。オーストリア・ハンガリー二重帝国は解体し、旧二重帝国領のドナウ沿岸にはオーストリア共和国、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラヴィア王国の4つの新独立国が誕生した。しかし分割された国境線をめぐって争いが絶えなかったうえ、それまで統合されていた広大な領域が分割されたために経済圏が崩壊し、ドナウ連邦の考え方はほぼ消滅してしまった。結局この経済・政治的広域圏崩壊の衝撃から立ち直ることができないまま、不安定な国際情勢が続き、結局1938年のアンシュルスによってオーストリアがドイツに併合されたのを皮切りに、沿岸諸国は次々とナチス・ドイツの軍門に下っていくこととなった。第二次世界大戦後、ルーマニアはベッサラビアをソヴィエト連邦に、南ドブロジャをブルガリアに割譲した。第二次世界大戦後には上流域の一部を除くほとんどが共産主義化し、ソヴィエト連邦の影響下におかれ、西側諸国の航行は困難となった。1972年には鉄門にダムが建設され、下流域と上中流域との航行がやっと可能になった。冷戦終結後、東欧革命によって政治的障害がなくなると、ドナウ川流域の交流は再び盛んとなった。東欧革命は沿岸諸国内の動揺をもたらし、1991年にはクロアチアがユーゴスラビアから、モルドバとウクライナがソヴィエト連邦から独立し、1993年にはビロード離婚によってチェコスロバキアが解体し、スロバキア共和国が成立。現在のドナウ沿岸の国境線が確定した。
国際関係 |
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ケルン (ドイツ語: Köln [kœln] (
ケルンは1世紀にローマのコロニアとしてウビイの領域に創建された[3]。ゲルマニア・インフェリオルの州都として462年にフランク王国によって占領されるまで、地域の軍の司令部が置かれていた。中世、東西ヨーロッパを結ぶ重要な交易路の一つとして繁栄した。ケルンはハンザ同盟の主要なメンバーの一員で、中世やルネサンス期にはアルプス以北では最大の都市であった。
第二次世界大戦までケルンは他にもフランスやまたイギリスの支配を幾度か経験している。第二次世界大戦中、ドイツの都市の中でも最も多くの空襲を受けた都市の一つでイギリス空軍(RAF)によって34,711トンの爆弾が都市に落とされた[4] 。空襲によりケルンの人口は主に住民の避難によって95%減少し、市街のほとんどが破壊された。出来るだけ多くの歴史的建築物を復元することを意図して、再建の結果として非常に混じり合った独特の都市景観を呈している。
ケルンはラインラントの主要な文化の中心で30以上の博物館と100以上の美術館を擁している。古代ローマの遺跡から、現代の絵画や彫刻など展示も幅広い。ケルンメッセではアートケルンやimmケルン、ゲームズコム、フォトキナなど多くの見本市が開催されている。
地勢ライン川の河畔に位置しており、陸上、水上交通の要所である。重工業が発展する一方で、オーデコロンの生産地でもある。近隣の都市としては、約25キロ南にボン、10キロ北にレーヴァークーゼン、35キロ北にデュッセルドルフが位置する。空港はケルン・ボン空港を西ドイツの首都だったボンと共用している。
歴史古代紀元前39年、ローマとの合意に基づき、親ローマのゲルマニア人部族ウビイイ族がライン川の西岸に入植した。その入植地オッピドゥム・ウビオールム(ラテン語: Oppidum Ubiorum, ウビイイ人の町)またはアラ・ウビオールム(ラテン語: Ara Ubiorum)は、ローマ軍宿営地となり、ゲルマニア州におけるローマの拠点となった。
紀元50年、皇帝クラウディウスの妻アグリッピナは、自分の出生地オッピドゥム・ウビオールムをローマ植民市(コロニア)に格上げするよう、要望した。こうしてコロニア・クラウディア・アラ・アグリッピネンシス(ラテン語: Colonia Claudia Ara Agrippinensium)またはコロニア・アグリッピネンシス(ラテン語: Colonia Agrippinensis)がおかれた。後にこの地名はアグリッピネンシスの部分は省略されるようになりコロニアと呼ばれ現名の語源となった。
アウグスタ・トレヴェロ−ルム(ラテン語: Augusta Treverorum、現トリーア)に次ぎ、ローマ帝国のゲルマニア支配の拠点として重要な地位を占めたケルンには、多くのローマ遺跡が見られる。80年には水道橋が建設された。1世紀末には、アグリッピネンシスは属州下ゲルマニアの首都となった。この当時の人口は4万5千人ほどであった。
355年から、サリー・フランク族(フランク族に属するサリ族)が10年の間ケルンを包囲した。455年リプアリウス・フランク族は最終的にケルンを落とし、これを首都とした。481年、クロヴィス1世がフランク族を統一し、メロヴィング朝フランク王国が成立、首都はトゥルナカム(ラテン語: Tornacum, 現トゥルネー)。
中世大司教座の置かれたケルン一帯は、ケルン大司教に帰属する宗教領邦となった。大司教座附属学校がおかれたケルンは、政治のみならず文化の中心となる。特にドミニコ会がおいたケルン大司教管区の神学大学ではアルベルトゥス・マグヌスやマイスター・エックハルトなど中世の重要な思想家が講義した。マイスター・エックハルトによってケルンはドイツ神秘主義思想の発展に大きくかかわることとなる。 13世紀に入ると、都市の市民と、ケルン大司教の間でたびたび緊張が生じるようになった。1288年にケルンが自由都市の資格を得ると、ケルン大司教はケルンからボンへ住居を移し、1821年までケルンに帰ってこなかった。
近世三十年戦争後、一時期衰微をみたケルンであったが、その後次第に復興し、19世紀にはケルン大聖堂の増築と完成を見るに到る。ケルン大聖堂の完成の大きな要因はヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテにより招来されたゴシック様式の見直し、いわゆるゴシック・リヴァイヴァルである。しかしこの動きは必ずしも宗教的権力の強化を意味しない。フランス革命後の世俗化傾向は、選帝侯制度の廃止のみならず、宗教領邦としてのケルン大司教座領の廃止に帰着する。以後ケルンは、ライン川流域の一世俗都市として、商業の中心地として繁栄していく。
近代1848年、エンゲルスとマルクスはケルンで急進的な新聞『新ライン新聞』(Neue Rheinische Zeitung) を発刊した。1880年にケルン大聖堂が完成した。第一次世界大戦の後、1926年までイギリス陸軍ライン軍団に占領された。ヴェルサイユ条約でラインラントの非武装化が定められたため、1917年からケルン市長になったコンラート・アデナウアーは古い城壁を取り払って緑地帯にし、ケルン大学を再建、フォードやシトロエンなど外国企業を誘致し、メッセやドイツ最初のアウトバーンを建設してケルンをドイツ一の産業都市として振興した。
現代第二次世界大戦に際しては、激しい空爆を受けてケルン市内の9割の建造物が破壊された。1945年3月からは市内に立て篭もって抵抗を続けるドイツ軍とアメリカ合衆国軍との間で激しい市街戦となり、3月5日陥落した。しかし、ケルン大聖堂だけは奇跡的にも完全には崩壊せず、絶望の淵に陥っていた市民に希望を持たせた。その後ケルンは復興を果たし、今日へと至る。
観光名所ケルン市内中央部は、第二次大戦の空爆と市街戦によりほとんどの建物が破壊されたため、市街地は1950年代に戦前の通りの名や建物を受け継いで再興された。いくつかの戦前の建物も残っており、市内の名所となっている。
宗教ケルンではラインラント地方と同様に歴史的にローマ・カトリック教会が多数派であり、住民の約41.6%がローマ・カトリック教徒である。 残りの17.5 %がラインラント福音主義教会に属し、10%がイスラム教徒、30%がその他の宗教、無宗教である。ドイツの他の大都市と同様に、ローマ・カトリック教会大聖堂があるケルンにおいてもキリスト教離れが進行し、宗教多元化状況が生じており、もはやキリスト教は絶対的な存在ではない。ラインラント地方のベルギッシュラントの一部とニーダーラインの一部の都市デュースブルクとメールスはラインラント福音主義教会が多数派である。なお、ケルンで福音主義信徒が市民権を完全な形で認められたのは1797年であった。
文化学術スポーツ
美術
その他姉妹都市 |
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リューデスハイム・アム・ライン(Rüdesheim am Rhein)は、ユネスコの世界遺産であるライン渓谷中流上部にあるワイン醸造の町である。ドイツ・ヘッセン州ダルムシュタット行政管区ラインガウ=タウヌス郡にある。公式の名称はリューデスハイム・アム・ライン(Rüdesheim am Rhein)であり、それによってリューデスハイム・アン・デア・ナーエ(Rüdesheim an der Nahe)と区別される。
歴史この地域には、最初ケルト人が定住していたが、紀元後にはウビー族、マッティアチ族が取って代わった。1世紀になるとローマ人がタウヌスまで進出した。ローマ人はビンゲン・アム・ラインに砦を築き、その対岸、すなわち現在のリューデスハイム付近にはリーメスへ向かう道の途中に橋頭堡を築いた。その後、ローマ人はアラマンニ人に追われ、民族移動時代の到来とともにフランク人がやって来た。考古学の成果によれば、この頃のガラスが発見されているので、その頃からリューデスハイムではワイン造りが行われていた事が示唆される。フランク語のHaufendorf(「木立の村」といった意味)という町名は現代の地図にも載っている地名である。
リューデスハイムの名は1074年の文献に初めて登場する。その生計は主にワイン製造と筏による水運業によっていた。
1818年1月1日、リューデスハイムは町の権利を取得した。
プロイセンが1867年にナッサウ公国を併合して、その地域がいくつかの郡(kreis)に分割されると、リューデスハイムは新設されたラインガウ郡の郡庁所在地となった。その後、1977年に行われたヘッセン州の自治体再編の際にラインガウ郡はウンタータウヌス郡と合併してラインガウ=タウヌス郡となり、この時リューデスハイムは郡庁所在地の地位をバド=シュヴァルバッハに引き渡さねばならなかった。しかしながら、リューデスハイムの知名度は高いため、車のナンバープレートに表示される地名はRÜDのまま変更されなかった。
ニーダーヴァルト記念碑は1877年に建造がはじまり、1883年に完成した。この愛国的な記念碑は町を見下ろす高台にあり、完成当初はラック式鉄道を利用して多くの観光客が訪れたが、現在ではロープウェイによってこの高台まで上がる事が出来る。観光業は水運業に代わる収入源として成長しつつある。
1970年には、「Rudesheim liegt nicht an der Themse」(リューデスハイムはテムズ川にはない)と題したシングル曲がリリースされた。この曲はイギリスの歌手David Garrickによるもので、この曲は大ヒットした。
文化と観光博物館
建築物
ハイキング道ヴィースバーデン から ラーンシュタインを経てボンへ至る「Rheinsteig」というハイキング道があり、リューデスハイム市街地や修道院・ニーダーヴァルト記念碑を通過している。別の道として「Riesling-Route」という道がある。この道はライン川沿いにリューデスハイムのワイン畑を通ってヴィースバーデン へ向かう。
伝統よく知られた古い伝統としては「Weinkönigin」(ワインの女王)とその王女たちである。毎年夏にリューデスハイムのワイン祭りが開かれ、そのハイライトとしてワイン女王とその王女たちの戴冠式が開かれる。ワイン女王とその王女たちはリューデスハイムの町とワインを象徴している。
カッツェネルンボーゲン伯の事業として、ワイン畑は1399年には既にリューデスハイムに存在していたようである。
リューデスハイムはドイツのワイン生産地域の中部に当たる。主に生産されているのはリースリングという品種のブドウで、このブドウから高品質の白ワインが作られる。ドイツ製ワインの90%は白ワインである。リューデスハイムのワイン店で、リューデスハイムのリースリングを使ったワインを含むいくつかの地場ワインを試飲する事が出来る。
定期的なイベント
引用:Wikipedia
写真集
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