歴史地名は正式ではなくその地域をさす通称である。語源はかつて、北野天満宮の一部であった森が存在し、北側に茶屋街として始まった「上七軒」に対して付けられたと思われる。花街が誕生した年代は不明であるが文献によると上七軒同様、茶屋街から出発し既に存在していたと記録される。江戸中期に最盛期を迎え幾度の取締りを経て、上七軒の傘下に置かれた。明治期には上七軒、五番町の一部となり繁栄を続けてきたが一条通、中立売通に京都電気鉄道(後の京都市電堀川線。俗称で「北野線」とも呼ばれる)[1]の開通と貸座敷取締規定の改正により、1926年(昭和元年)頃に消滅したと思われる。現在、下の森は商店街として賑わいかつての花街の面影は残っていないが裏の路地に入ると、わずかな花街時代の建築物が残っている。
引用:Wikipedia
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我が街
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今日、京都には上七軒、祇園甲部、祇園東、嶋原、先斗町、および宮川町の6つの花街があり、これらを総称して京都の六花街と呼ぶことがある。また、嶋原以外の京都花街組合連合会に加盟する5地区を総称して五花街と呼ぶこともある。2014年3月、京都市は「京都をつなぐ無形文化遺産」に「京・花街の文化」(「五花街」と「島原」の文化)を選定した。
目次[表示]六花街上七軒京都市上京区真盛町から社家長屋町に位置する。 室町時代に北野天満宮の再建の際に残った機材を使って7軒の茶店を建てた。これが「上七軒」の由来で、桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ大いに誉められて以来、また西陣の結びつきで花街としての繁栄を極める。毎年春になると『北野をどり』が上演されて少数ながらにして良い技芸を磨き披露している。
祇園甲部京都で最大の花街で日本国内のみならず海外でも知られている。江戸時代初期に八坂神社の門前で水茶屋を営業したのが始まりで以後、花街として発展し正式に許可された。このときに団子をモチーフにした紋章が作られ、現在も祇園甲部と祇園東の紋章として使われている。江戸末期にはお茶屋が500軒、芸妓、舞妓、娼妓合わせて1000人以上いたという。明治5年、東京奠都で寂れかけた京都を立て直そうと槇村正直が博覧会の余興として都をどりが上演された。振り付けの担当が三世井上八千代(本名 片山春子)が務めた。以後、祇園の舞は井上流一筋となる。祇園は多くの歌人や政治家等の著名人たちによって愛された。
祇園東京都市東山区、四条花見小路上る東側に位置する花街。明治に入り祇園甲部から分離独立し、甲部に対し『祇園乙部』と称された。乙部は主に娼妓数が多かった。
嶋原京都市下京区に位置する花街。正式名称は西新屋敷で6つの町(上之町、中之町、中堂寺町、太夫町、下之町、揚屋町)で構成されている。室町時代に公許された日本で最初の郭が三度の移転を経て嶋原と呼ばれるようになった。昭和時代後期に衰退し、京都花街組合連合会を脱会したため「京都の五花街」には含まれない。
先斗町京都市中京区に位置し、鴨川と木屋町通の間にある花街。もともとは鴨川の州で、江戸時代初期に護岸工事で埋立てられ、新河原町通と呼ばれていた。江戸初期、鴨川の周辺を開発し、そこに茶屋、旅籠などが置かれたのが始まりで、すでに芸妓、娼妓が居住するようになり何度も取り締れていたが、川端二条にあった『二条新地』(にじょうしんち)の出稼ぎ地として認められ、明治初期に独立をした。
宮川町京都市東山区に位置しており、宮川筋二丁目から六丁目までが花街。出雲阿国の歌舞伎踊りの時代から始まり、最初は若衆歌舞伎の小屋と茶屋が立ち並び10代の少年が接待をしていたので「陰間」と呼ばれていた花街だった。その後形態が変わり宝暦年間、正式に認可された。明治、大正、昭和33年3月15日の売春防止法施行までは遊廓であり、今でも遊廓時代の建物が残っている。
花街のをどり
このほか、祇園甲部、上七軒、先斗町、宮川町では秋にも趣向を変えて踊りの会を開催している (祇園甲部「温習会」、上七軒「寿会」、先斗町「水明会」、宮川町「みずゑ会」)。 また「おおきに財団」主催の「五花街合同公演」が毎年6月中旬に上演される。
引用:Wikipedia
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室町時代に北野天満宮の再建の際に残った資材を使って7軒の茶店を建てた。これが「上七軒」の由来で、桃山時代に豊臣秀吉が北野で大茶会を開いた折に茶店側は団子を献上したところ大いに誉められて以来、また西陣の結びつきで花街としての繁栄を極める。
目次[表示]歴史江戸時代までの経過明治以後上七軒は戦前まではお茶屋50軒、芸妓、舞妓あわせて60名で娼妓も3名いたが第二次世界大戦でお茶屋の大半が転廃業し、1945年ごろに再開。そのころはお茶屋35軒、芸妓50名ぐらい(舞妓は襟替え等で含まれていない)いたが西陣織産業の衰退により減少し、芸妓数も20名以下に落ち込んで、歌舞会所属の舞踊学校で習っている優秀な生徒に対し組合が北野をどりへの出演を要請していた時期もあった。その中で芸妓が生まれている。
その間、お茶屋『吉田家』の娘であるひろ子が戦後で初の舞妓として店出しをしたが、後に襟替えをし、舞妓はしばらくは消滅した。しかし1981年3月、石川県出身の梅ぎくが久々の舞妓として店出し、多くの関係者に祝福を受け、彼女の後に次々と舞妓が誕生していく。1990年代前期、歌舞会は雑誌、テレビなどで舞妓募集を呼びかけ、事実7名の舞妓が生まれたが、伝統を重んじる一部の反対により頓挫した。しかし、近年インターネットがきっかけで舞妓に志願する女性の数が再び増加してきている。2015年現在、舞妓は8名である。その他にOLや薬剤師、大学卒業生から芸妓への転身を遂げた女性もおり、世間に話題を提供した。
お茶屋、芸舞妓の増減が激しい上七軒だが、室町時代から続く伝統を大事にしながら新しい方向へ歩みだしている。2001年、上七軒一帯は上京北野景観整備地区に指定され、2010年3月25日、明治30年代建築の歌舞練場が大規模改修工事を終え、4月中旬に公演されていた北野をどりを58年振りに繰り上げ、杮落とし公演として他の花街よりも早く上演された。
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関連項目主な行事引用:Wikipedia
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赤山禅院(せきざんぜんいん)は、京都市左京区修学院にある天台宗の寺院。延暦寺の別院(塔頭)の一つ。本尊は泰山府君(赤山大明神)。京都御所から見て表鬼門の方角(東北)に当たるため、方除けの神として、古来信仰を集めた。拝殿の屋根の上には、御所の東北角・猿ヶ辻の猿と対応して、御幣と鈴を持った猿が安置されている。
比叡山延暦寺の千日回峰行においては、そのうち100日の間、比叡山から雲母坂を登降する「赤山苦行」と称する荒行がある。これは、赤山大明神に対して花を供するために、毎日、比叡山中の行者道に倍する山道を高下するものである。
目次[表示]歴史開創は、仁和4年(888年)。「赤山」の名は、入唐僧円仁に由来する。円仁は、登州で滞在した赤山法華院に因んだ禅院の建立を発願したが、果たせないままに没した。その遺言により安慧が、赤山大明神(泰山府君)を勧請して建立したのが、赤山禅院である。しかし、安慧は貞観10年(868年)に没しており、仁和4年(888年)の創建には疑問が残る。
ギャラリー所在地京都府京都市左京区修学院開根坊町18
アクセス引用:Wikipedia
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