Stephenの京の散歩道

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関ケ原合戦の人間関係

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秀吉は晩年には五大老と五奉行の制度を整え、諸大名に実子の豊臣秀頼に対する臣従を誓わせて慶長3年(1598年)8月18日に伏見城で死去する。ここで両派の対立は顕在化し、秀吉死後10日後の28日には、五大老の毛利輝元と浅野長政を除く四奉行の間で起請文を交すという、徒党を組むことを禁じた遺命破りが早速行われている[11]。また五大老の徳川家康は、島津領の太閤蔵入地の解除や福原直高(三成の妹婿)の知行地半減など太閤蔵入地支配を通じた文治派による専制・集権体制の解体をはかる[10]。また、禁止されている大名同士の婚儀や加増を取り仕切り、影響力と他の大名との連携を強める。これに対して、同じく五大老の前田利家は家康を厳しく糾弾。一時は伏見(徳川側)と大坂(前田側)が武力衝突する寸前まで行った。最終的には誓書を交換するなどして対立は避けられたが、この際に武断派諸大名や婚儀の相手となった大名がこぞって徳川邸に参集し、豊臣家内部は早くも分裂の様相を呈し始めていた。
引用:Wikipedia

このように武断派の七将(赤文字)は徳川側・前田側に分かれています。すでに文治派との対立は顕在化していたのですがどうして彼らはそれぞれの側についたのでしょうか?下図は七将を出身地、秀吉への仕官の時期、秀吉との血縁、妻や子女の相手、性格の観点から分析してみた結果です。
自身が徳川家との姻戚関係を結んでいない大名は「前田派」、結んでいる者は「徳川派」についている傾向があります。例外は「加藤清正」で継室に家康の養女をもらっているが「前田派」についています。これはあくまでも私の推測の域をでませんが、「忠義の士」と言われる「加藤清正」その豊臣家への忠誠心が故に「前田派」についたのではないかと推測します。

翌年の閏3月に利家が死去すると、武断派の加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興加藤嘉明浅野幸長七将[12]により、文治派の筆頭である五奉行の石田三成に対する襲撃が実行された。なお、七将は常に家康の同意を仰ぎ、七将の行動はあくまでも家康に容認された範囲に限られていた[13]。三成は伏見城内の自己の屋敷に立て籠もり難を逃れたものの、家康の仲介で事件の責任を取らされることになり、奉行職を解任され居城の佐和山城に蟄居となる。この時、三成が家康の屋敷に逃げ込んだとされるのは根拠のない俗説。[14][15]。三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正統性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価されている[16]
引用:Wikipedia

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秀吉の死後、家康は五大老の毛利輝元と浅野長政を除く四奉行の間で起請文を交すという、徒党を組むことを禁じた遺命破りを早速破ります。つまり島津領の太閤蔵入地の解除や福原直高(三成の妹婿)の知行地半減など太閤蔵入地支配を通じた文治派による専制・集権体制の解体をはかるり、禁止されている大名同士の婚儀や加増を取り仕切り、影響力と他の大名との連携を強めようとします。同じく五大老の前田利家は家康を厳しく糾弾し、一時は伏見(徳川側)と大坂(前田側)が武力衝突する寸前まで行きました。この際に文治派、武断派にそれぞれに属する武将はどのように行動したのでしょうか?その観点から東軍西軍の人間関係を考察してみた。

徳川邸に参集した大名
福島正則黒田孝高、黒田長政池田輝政蜂須賀家政藤堂高虎山内一豊有馬則頼、有馬豊氏京極高次京極高知脇坂安治伊達政宗新庄直頼、新庄直忠大谷吉継森忠政堀秀治金森長近最上義光田中吉政など。
前田邸に参集した大名
毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、加藤清正織田秀信織田秀雄増田長盛細川忠興加藤嘉明浅野幸長長束正家前田玄以佐竹義宣小西行長長宗我部盛親立花宗茂鍋島直茂有馬晴信松浦鎮信など。
上記の様に文治派武断派共にこの時点では徳川、前田派に分かれていることがわかります。
しかし、前田利家没後は武断派は東軍として関ケ原の戦いを迎えます。
武断派、特に加藤清正、細川忠興、加藤嘉明、浅野幸長の4将がこの時点で前田派であった理由を4将と前田利家との人間関係の観点からさらに考察を進めたい。

引用:Wikipedia

加藤清正
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細川忠興
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加藤嘉明
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浅野幸長
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武断派

武断派(ぶだんは)は、豊臣政権内部における派閥の1つ。

概要

豊臣秀吉配下の武将のうち、豊臣政権で軍務を担った諸将を指す。武断派の武将としては加藤清正福島正則らが挙げられる。
武断派に対し、政務を担った武将を総称して文治派と呼ぶ。

文治派との対立

武断派の諸将はそれぞれ合戦で大きな戦功を挙げ、秀吉の天下統一に大いに貢献したが、統一事業が進むにつれて合戦の機会は減少、次第に不遇を託つようになる。代わって豊臣政権の中枢で権勢を振るったのは、政務を担う文治派であった。特に文治派の代表格である石田三成は合戦の最前線で戦う機会が少なかった為、そのことに反発心を抱く武将も少なくなかった。
この二派の対立は、秀吉の死後に顕在化し、武断派は徳川家康への接近を図る。前田利家は二派の調停に努めるが間もなく病死、これにより対立を止める者がいなくなり、武断派の武将7名が三成の屋敷を襲撃する事件を起こす(石田三成襲撃事件)。この事件は関ヶ原の戦いの遠因の一つとなった。

引用:Wikipedia

文治派

文治派(ぶんちは)とは、豊臣政権内部における派閥の1つ。

概要

豊臣秀吉配下の武将のうち、豊臣政権で政務を担った諸将を指す。文治派の武将としては石田三成大谷吉継小西行長らが挙げられる。
文治派に対し、軍務を担った武将を総称して武断派と呼ぶ。

武断派との対立

秀吉の死後、権勢を拡大する徳川家康に対して三成は挙兵、関ヶ原の戦いが勃発する。この時、武断派の諸将は家康方に荷担し、三成方と戦った。
この背景には、豊臣政権下の文治派と武断派の対立が存在する。秀吉が統一政権を形成するにつれ、政務を担う文治派の権限は次第に拡大していった。反面、統一の完成は合戦の減少を意味し、軍功を上げることで勢力を拡大してきた武断派の不遇が進むことになった。また、合戦の最前線に居続けた武断派に比べて、文治派の武将は後方の比較的安全な場所にいたので、それに対して反発を抱く武断派の武将も少なくなかった。こうした二派の対立が、関ヶ原における対立に繋がるのである。
しかし、その多くが家康方に組した武断派に対し、文治派の中にも家康方と通じた武将が少なからずいた。文治派の代表格と見なされ、関ヶ原の戦いでも西軍として戦った大谷吉継は、三成との友情から西軍に属したが、当初は家康に接近していた。また五奉行のうち増田長盛前田玄以は、三成方に組しながら家康に内通していた。

引用:Wikipedia

豊臣家中の対立

天下統一を達成した豊臣政権の内部においては、主に豊臣政権の成立に軍事面で寄与して文禄・慶長の役でも前線で戦った「武断派」と呼ばれるグループと、内政・経済兵站(へいたん)・宗教管理など、戦場以外の分野で活躍していた「文治派」の対立抗争が存在したが、これらの対立は以下のような豊臣政権そのものの政治的矛盾に端を発するものであった[8]
  1. 豊臣政権の中央集権的な全国統治政策
    1. 外様大名の領国への豊臣奉行による太閤検地の実施。
    2. 外様大名領への太閤蔵入地の設定。特に文禄・慶長の役の過程で新たに設定された太閤蔵入地へは文治派系列のものが代官として送り込まれる傾向が強かった[9][10]
    3. 大名の有力家臣への知行宛行(伊集院忠棟鍋島直茂など)と内政干渉。
  2. 秀次事件による豊臣家及び豊臣家臣団の確執・連座を免れた大名と家康との接近。
秀吉本人や実弟の豊臣秀長などの存在により表面化は避けられていた。だが、天正19年(1591年)の秀長の死、文禄・慶長の役の遂行方針や賞罰をめぐる対立により、両派の溝は深刻なものとなっていた。
秀吉は晩年には五大老と五奉行の制度を整え、諸大名に実子の豊臣秀頼に対する臣従を誓わせて慶長3年(1598年)8月18日に伏見城で死去する。ここで両派の対立は顕在化し、秀吉死後10日後の28日には、五大老の毛利輝元と浅野長政を除く四奉行の間で起請文を交すという、徒党を組むことを禁じた遺命破りが早速行われている[11]。また五大老の徳川家康は、島津領の太閤蔵入地の解除や福原直高(三成の妹婿)の知行地半減など太閤蔵入地支配を通じた文治派による専制・集権体制の解体をはかる[10]。また、禁止されている大名同士の婚儀や加増を取り仕切り、影響力と他の大名との連携を強める。これに対して、同じく五大老の前田利家は家康を厳しく糾弾。一時は伏見(徳川側)と大坂(前田側)が武力衝突する寸前まで行った。最終的には誓書を交換するなどして対立は避けられたが、この際に武断派諸大名や婚儀の相手となった大名がこぞって徳川邸に参集し、豊臣家内部は早くも分裂の様相を呈し始めていた。
翌年の閏3月に利家が死去すると、武断派の加藤清正・福島正則・黒田長政・池田輝政・細川忠興加藤嘉明浅野幸長七将[12]により、文治派の筆頭である五奉行の石田三成に対する襲撃が実行された。なお、七将は常に家康の同意を仰ぎ、七将の行動はあくまでも家康に容認された範囲に限られていた[13]。三成は伏見城内の自己の屋敷に立て籠もり難を逃れたものの、家康の仲介で事件の責任を取らされることになり、奉行職を解任され居城の佐和山城に蟄居となる。この時、三成が家康の屋敷に逃げ込んだとされるのは根拠のない俗説。[14][15]。三成を失脚させ、最も中立的と見られている北政所の仲裁を受けたことにより、結論の客観性(正統性)が得られ、家康の評価も相対的に高まったと評価されている[16]

引用:Wikipedia

では、この事件の際に両邸に終結した武将が本戦でどのような行動をとったのか分類してみよう。

徳川邸に参集した大名
福島正則 東軍 本隊
黒田孝高 東軍 中津在城
黒田長政 東軍 本隊
池田輝政 東軍 本隊
蜂須賀家政 西軍より高野山に追放中
藤堂高虎 東軍 本隊
山内一豊 東軍 本隊
有馬則頼 東軍 本隊
有馬豊氏 東軍 本隊
京極高次 東軍 大津城守備隊
京極高知 東軍 本隊
脇坂安治 西軍 本体(裏切)
伊達政宗 東軍上杉攻撃隊
新庄直頼 西軍伊賀上野城攻撃隊
新庄直忠 西軍
大谷吉継 西軍本隊
森忠政 東軍 海津在城
堀秀治 東軍 春日山在城
金森長近 東軍 本隊
最上義光 東軍 上杉攻撃隊
田中吉政 東軍 本隊

前田邸に参集した大名
毛利輝元 西軍 大阪城在城
上杉景勝 西軍 会津城在城
宇喜多秀家 西軍 本隊
加藤清正 東軍 熊本城在城
織田秀信 西軍 岐阜城守備隊
織田秀雄 西軍 大野城在城
増田長盛 西軍 大阪城在城(内応)
細川忠興 東軍 本隊
加藤嘉明 東軍 本隊
浅野幸長 東軍 本隊
長束正家 西軍 本隊
前田玄以 西軍 亀山在城(中立)
佐竹義宣 西軍 水戸在城
小西行長 西軍 本隊
長宗我部盛親 西軍 本隊
立花宗茂 西軍 大津城攻撃隊
鍋島直茂 西軍 大津城攻撃隊
有馬晴信 西軍 宇土城攻撃(裏切)
松浦鎮信 東軍 平戸在城

両邸に集まったそれぞれの大名に後に陣営を変更している大名が存在する。
つまり前田利家には従うが、石田三成もしくは毛利輝元には従えないと判断した武将がいたのでしょうか?
その点について考察を進めていきたい。

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