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1973年5月21日発売
最高 37位
売上 6、7万枚
作詞/千家和也 作曲/都倉俊一
☆山口百恵(やまぐち ももえ)1959年1月17日生まれ
東京都渋谷区恵比寿出身 A型
芸能界で熱烈な百恵ちゃんファンと言えば
ミスターこと長嶋茂雄、ダウンタウンの松本人志
ちびまる子ちゃんのさくらももこ・・・
たのきんのヨッちゃん、ベストテンでセクハラまがいだった久米宏・・・・
また、百恵ちゃんに憧れて歌手になったという
中森明菜、岩崎宏美、三原じゅん子、坂本冬美・・・・
『百恵ちゃん』というタイトルのレコードまで出した笑福亭鶴光に
『百恵をドラマに使う予定は無いんですか?』
と、聞かれた脚本家の倉本聰さんは
『アンタね、さっきから気になってるんだけど百恵、百恵って
呼び捨てにしないでください!そんなに親しくないでしょうが!』
と、激怒!
ちなみに怒った相手は阿久悠先生です。
さらには三浦友和と恋人宣言した際
あまりのショックで暴走族が解散したというエピソードがあるくらい
存在自体がレジェンドだった山口百恵。
特別、ルックスが美人というワケではない。7:3わけのおぼっちゃまヘアーに切れ長の目・・・・。
スタイルも二の腕と太ももが太く
お世辞にもナイスバディとは言えない。
肝心の歌もデビューした頃は1オクターブしか出せず
音域が狭く、作曲家泣かせと業界でボヤかれていたほどだ。
おまけにどこか陰っていて
病院の待合室で名前を呼ばれなければ
いつまでも座って待ってるような女の子だった。
『多くの幸せに恵まれますように・・・』
という願いを込めておじいちゃんが
百恵と命名。
知っての通り、百恵ちゃんは母親が妻子ある男性と不倫して生まれてきた子供。
父親は本妻と別れる事はせず、生活費も入れなかった為
母親は生活保護を受けながら女手一つで百恵ちゃんを育てた。
お母さんの為に
『お家を建てること』
が百恵ちゃんの夢だったという。
その夢を叶えるべく、1972年10月15日スター誕生の予選に出場。
歌った曲は、牧葉ユミの『回転木馬』。
応募者700名の中、1次2次の審査を勝ち抜いて
1972年12月3日の決戦大会にコマを進めると、東宝のスカウトマンから
『百恵ちゃんの足は太いほうですか?』
と、聞かれ
『ハイ、太いです。』
と即答した(笑)。
初々しい14歳の百恵ちゃんに名乗りを挙げたレコード会社の数
ナント20社!(スタ誕歴代2位)
事務所は尊敬する和田アキ子がいるホリプロに決め
1973年5月21日『としごろ』でデビュー。
キャッチコピーは
『大きなソニー、大きな新人』
山口百恵と初めて会った時の事を作詞家の千家和也はこう話している。
『長椅子の一番奥まった隅っこに女の子がひとり、ちょこんと座っていた。
傍らに学生カバン、紺のセーラー服に白いリボン
白いソックス、白いズック靴。
スタジオ見学者か関係者の娘さんかと思っていたら
やがてカン高い声で早口でまくしたてる
都倉俊一と酒井ディレクターがやってきて
『この子、電話で話した例の子』
と、片隅に座っていたセーラー服の女の子を僕の前に連れてきた。
『どうも』
『初めまして』
それが山口百恵との出会いだった。
『ちょっと声を聞いてみてよ』
都倉さんが彼女を連れてピアノに向かう
やがてスピーカーから彼女の声が流れてきた。
『要は、あんたが見たまま、聞いたまま、感じたままを詞にしてもらいたい』
これが僕に出された注文で、あとの要求はほとんどない。
僕が受けた印象どおり、清純で清潔でちょっぴり感傷的で
繊細な女の子の詞ができあがった。
当たるであろうという僕たちスタッフの予感
ヒットさせるというレコード会社やプロダクションの意気込み
賭けた情熱は全て裏切られた。』
千家さんが言うほど百恵ちゃんは売れなかったワケではない。
新人として一応目安とされていた5万枚を超えたんですから。
期待の大きさからすれば答えは小さすぎた。
あれだけの素材を持ってした結果としては納得できない!
関係者はみんなそう思ったそうです。 ちなみに森昌子のデビュー曲『せんせい』はオリコン3位。
桜田淳子の『天使も夢みる』はオリコン12位だったのに比べると百恵ちゃんの37位は
納得がいかないですね・・・。
その後、桜田淳子と森昌子とともに
『花の中三トリオ』
を組んで大人気に!
さぁこれから!って時に父親が突然現れ
百恵ちゃんに無断で事務所から金を借りまくり
ウソの移籍話しを持ちかけては移籍金をダマし取り
挙句の果てには母親から親権を奪おうと裁判まで起こすという
ゾウリムシにも劣るとんでもない父親だった。
マスコミは『出生の秘密』と題して今ではあり得ない
百恵ちゃんの戸籍謄本を無修正で全面掲載するという
暴挙を平気でやっており
『山口百恵は愛人の子』
と、書き立てられた週刊誌は飛ぶように売れた。
『私には父はいない。あの人が地球上に存在していたとしても
私はあの人の存在そのものを否定する。
あの人は毎日夜になれば帰ってくるという人ではなかった。
帰ってくるというよりは
やってくると言ったほうがふさわしい人だった。』
『金銭で血縁を切る!』
この騒動に決着を付けるべく百恵ちゃんはお金を渡し
親子の縁を切ったんです。
『そのことに対して私はいささかの後悔もしていない』
辛い家庭環境の百恵ちゃんでしたが、実はセールス面でも意外とパッとしなかったんです。
『秋桜』、『プレイバックPART2』、『いい日旅立ち』等、記憶に残るヒット曲を
次々と連発してたものの、全33枚のシングル中でオリコン1位になったのは
『冬の色』、『横須賀ストーリー』『パールカラーにゆれて』、『夢先案内人』の4曲だけ。
アルバムに至っては22枚中
オリコンで1位を取った事は一度も無いのだ。
さらに賞レースも不遇の極みで、昔は権威のあった日本レコード大賞では
『ひと夏の経験』で大衆賞、『秋桜(コスモス)』で歌唱賞
『プレイバックPART2』と『しなやかに歌って』で金賞、引退が決まった80年に
特別大衆賞と、どーでもいい賞ばっかりもらっていて
肝心のレコード大賞や『最優秀』と名のつくものは一度ももらってないのだ!
『芸能界を辞めて2、3年も経つと、忘れられて寂しくなってくる。
その時、芸能界に戻ってきたら
敗北!。』
どんなアイドルよりも伝説色が強い百恵ちゃんの最大の魅力は
記録よりも記憶に残る歌手だからなんでしょうね・・・。
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昨年、百恵ちゃんのCDを購入してから、クルマのなかで良く聴いています。
一番好きな曲は、「ひと夏の経験」かなぁ。
水着姿、結構あるんですね。
うっすらビーチクが見える写真がたまらないです。
2014/3/18(火) 午前 0:56 [ マカロニ ]
今の若者はユーチューブで百恵ちゃんを見ても、何が凄いのか
わからないと聞きます。百恵ちゃんがもし、紅白に出るとなったら
その騒ぎは東京五輪決定の比ではなく、連日テレビは百恵ちゃんの特番を流し続け
百恵ちゃんにあやかった商品がこれでもか!と発売され
国内生産は倍増し家電売り場では録画用のレコーダーが姿を消すでしょう。
観覧希望が殺到した為、会場は新国立競技場に変更。
『この方が応援に駆け付けてくれました!』
と、淳子と昌子がやって来て『花の中三トリオ』復活!
『プレイバックPART2』『絶体絶命』『ロックンロール・ウイドウ』
を歌ってトリで再び『さよならの向こう側』を熱唱。
視聴率は80%を超え、ネットでの視聴回数は日本記録を上回る
5000万回を記録!サーバーがダウンし、見られなかった若者は
生まれて初めてNHKに再放送をするようにと電話をするであろう・・・
と、今時のヤングマンに説明してやると、少しは納得してくれます(笑)。
2014/3/18(火) 午前 7:07 [ しろしです。 ]
そう言えば、お子さんも芸能界でしたっけ??思い出せませんが。
2014/3/18(火) 午前 8:21 [ マカロニ ]
長男の祐太郎君はロック・バンド『PEAKY SALT』を結成。
3枚のシングルと2枚のアルバムを発表して2010年に活動を休止。
松山千春の自伝を舞台化した『旅立ち』の舞台で千春役を演じて話題に。
弟の三浦貴大君は16本以上の映画に出ている俳優さんで
日本アカデミー賞新人賞をとった事もある実力派。
ちなみに渡辺謙さんと友和さんは大親友で
昔から家族ぐるみのつきあいだったそうで
謙さんの娘の杏さんと貴大君は幼馴染。
『杏ちゃん』、『貴ちゃん』と今でも呼び合う
仲なんだそうです。友和さんに百恵ちゃんに謙さん嫁の南果歩・・・
もの凄い組み合わせの家族です。
2014/3/18(火) 午前 11:47 [ しろしです。 ]
今では山口百恵という存在があった、という事自体レジェンドですね。記録よりも記憶に残るアイドルとしては百恵ちゃん、キャンディーズが双璧でしょう。
2018/2/13(火) 午前 8:24
おっしゃる通りです!記録より記憶!(道場)六三郎より清六ですよ(笑)
2018/2/17(土) 午前 6:56 [ しろしです。 ]