音選街

音楽を中心に勝手にレビューしてます

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1976年8月25日発売
最高4位
売上 60、5万枚
作詞/阿久悠 作曲/都倉俊一

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今年の24時間テレビでやった『阿久悠物語』(視聴率25、6%)は

久々にCM明けが待ち遠しくなるドラマだった

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阿久先生の奥さんとの馴れ初めや、親友上村一夫の存在

新聞記事のスクラップや単語カードに書かれた言葉の山から

インスピレーションをフル回転させて作品を生み出すシーン等

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今まで知らなかった事が描かれ、何より一番驚いたのが

詞を原稿用紙に書く時に使っていたのが

ぺんてるのサインペン!

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高級万年筆ではなく100円のサインペンだった事に

卵を割ったら黄身が2つ出てきたような感動であった!

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生涯手掛けた作品は5000曲以上!

誰もが知ってる歌謡曲や演歌の他に

最強の気合マーチ『宇宙戦艦ヤマト』や

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『これが二人の結婚式だ』

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息子さんも同じ名前だった『ウルトラマンタロウ』に

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『レオーーーーッ!』もそう

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そして僕の時代は酒井ゆきえがお姉さんだった『ピンポンパン体操』等

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意外に大きく関わっていた阿久作品の数々!

そして何と言っても先生が残した

最大の奇蹟と軌跡と言えば!

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ピンク・レディー!

その全盛期の凄さと言ったら、『おニャン子』、『モー娘』、『AKB』の全てをあわせた所で

波平の毛先にも及ばない

日本歌謡界史上最強のユニット!

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☆ミー(ねもと みつよ)1958年3月9日生まれ
静岡県葵区出身 165cm A型

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☆ケイ(ますだ けいこ)1957年9月2日生まれ
静岡県葵区出身 162cm O型

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将来は『役者』さんになりたかったミーちゃんと

歌手になりたかったケイちゃんが出会ったのは中学生の時

当時バスケット部だったケイちゃんは練習中に体育館で滑って

『骨髄分離すべり症』という大怪我を負ったにもかかわらず

我慢して練習に出続けた結果

歩けなくなるほどに悪化!

結局バスケット部は退部するハメになり

必修で取っていた演劇部へ入部

その演劇部を作ったのがミーちゃんだった

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『ケイはバスケット部の有名選手で華のあるステキな人でした。

私はどこにいるのか全然わからないような子で・・・・』

『渡り廊下の所で“増田さん”って誰かに呼ばれて振り返ったらそれがミーで

『私、根本美鶴代っていうんだけど、今、演劇クラブで一緒だったよね』

って自己紹介されたんです。

その時のミーは髪が長くて三つ編みをしていて本を抱えていたんです。

物静かで顔は真っ白で本当に童話から抜け出してきたような女の子でした。

私はショートカットで男の子みたいな友達しかいなかった中で

本当に女の子らしい女の子が目の前に現れたと思いました』

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2人は文化祭で『松屋町筋』という大阪のおもちゃ問屋の話しに出て来る

姉妹役を好演!一緒に練習しているうちに仲良くなり

『歌手と役者で道は違うけど、目指す世界は一緒だね!』

と、意気投合!

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そんなある日

『役者になる為のステップ』

と、ミーちゃんが『スター誕生』に出場!

『見かけは物静かだったミーが『スタ誕』の予選会が静岡に来た時

1人で応募して受けてたんですよ!

それが学校中に広まって

『えっ!あの根本美鶴代が?』

みたいな感じになって、みんなビックリしてたんです

誰より私が一番驚きました(笑)』

後にケイちゃんと出る前に『スタ誕』に出ていたミーちゃん

天地真理の『虹をわたって』を歌って

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予選を突破しテレビに出たものの、合格こそできませんでしたが、これがキッカケで

『歌もひょっとしてイケるかも?』

と、役者から歌手志望へ変更!

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『これからのアイドルは踊りもできないと』

と、SBS学園(静岡放送が運営するカルチャースクール)の

モダンバレエ教室に通い

一方のケイちゃんはモダンバレエの先生が『骨髄分離すべり症』を克服したという話しを聞いて

リハビリ目的も兼ねてミーちゃんとレッスンに参加

その後2人はそろって私立常葉学園高等部へ進学

高校2年の時、ヤマハの『チャレンジ・オン・ステージ』に応募

ケイちゃんは『ジョニーへの伝言』を歌い

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ミーちゃんは『アルプスの少女』

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こっちじゃなくて、こっちです

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を歌って予選突破!

ヤマハの本社で行われた本選では2人そろって優勝!

『月謝は無料で良いから是非来てほしい』

特待生待遇で2人はヤマハのボーカル・スクールで本格的なレッスンを開始

最初はお互いがソロ歌手として別々にデビューするつもりだったのが

講師の山崎朗先生から

『2人は凄く仲が良いからデュエットを組んだらどう?

芸能界って怖いところだから2人の方が心強いでしょ』

と言われ

『あ、いいかも!じゃぁそうします!』

あっさり快諾!

この山崎先生の言葉がなければ、ピンク・レディーは世に生まれなかったかもしれないのだ

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ちなみに山崎先生は歌手として『ポプコン』第4回、5回と連続で入賞を果たし

デビュー前の八神純子や葛城ユキと一緒に『第5回世界歌謡祭』にも出場

歌手としてデビューするもパッとせず

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その後はヤマハのボーカルスクール浜松支店の初代講師となり

最初の教え子がミーちゃんとケイちゃんだった

2人はクッキーという名前で1974年の『ポプコン』東海大会に出場

残念ながら決勝で敗れて本選には出られなかったものの

その時課題曲で歌った『恋のレッスン』が東海地方のレコード店のみで

限定発売されたというから驚きである!

当然幻の超お宝激レア物件となっておりましたが

2006年に結成30周年記念で発売された

『ピンク・レディー・プラチナ・ボックス』

ここに初収録され、音源は聞く事ができますが

ファンでないと買えないこのお値段・・・・

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さて、ヤマハからデビューする事が既に約束されてはいたものの

いつまで待ってもデビュー曲も日にちも決まらず

『日を追うごとに、ヤマハからデビューは無理かもしれない・・・・』

と、不安を感じた2人は

フジテレビの『君こそスターだ!』に応募

予選を突破し、自信満々で本選に出場するもまさかの落選!

卒業までに進路も決めなければならず切羽詰まった2人は

最後の砦だった『スタ誕』を受ける事に決めるも、予選会が静岡に来るのを待ってる時間はなく

『東京の予選会に出してほしい』

と、プロデューサーに直訴!

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これが認められて『よみうりホール』で行われていた予選会に出られる事に!

後が無い2人は『君こそスターだ!』で敗れた敗戦原因を研究

他の人が流行りの曲を歌う中、誰も知らない曲を歌えば

オリジナルと比べることができないと、楽曲はボーカルスクールの先輩だった

ピーマンの『部屋を出て下さい』に決定

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ちなみにピーマンのメンバーだった叶正子は後にサーカスを組んで再デビューしてます

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おそろいのオーバーオールにパフォーマンスも少なめにして

地味さと素朴さを全面に出した『田舎娘作戦』で予選を突破!

1976年1月11日、後に日本歌謡界の歴史を次々と塗り替える2人が

満を持して『スター誕生』に登場!

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審査員だった都倉俊一は

『ハーモニーもぴったり合ってるし、動きも様になっていて

ケチのつけようがないけれど

どこかまとまり過ぎていて面白味に欠ける』

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他の審査員からも

『出来上がりすぎ』

『素人っぽさがない』

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等と辛口の評価だったが、会場審査で合格!

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その後行われた決戦大会では8社のプラカードが上がり

レコード会社はビクター、事務所はT&Cに決めて

1976年の4月に上京!

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最初に用意されたグループ名は白い風船!

2人共静岡出身という事で他に挙がっていた候補が

茶ばたけ、みかんばこ、ちゃっきり娘(笑)

デビュー曲を依頼された阿久悠と都倉俊一はグループ名もフォーク路線も

『つまらない』

と、真向から否定

『彼女たちに新しい可能性は感じなかったし

阿久さんも最初は乗り気じゃなかった』

グループ名は都倉が昨晩飲んだというカクテルの名前から

ピンク・レディーに変更

デビュー曲のタイトルは阿久先生が用意した候補の中から都倉が選んだ

『ペッパー警部』に決定!

『これだ!と、ピンときました。阿久さんも気に入っていたらしく

アンダーラインが引いてありました』

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『今までのアイドルが歌わなかったようなアップテンポで

インパクトの強い曲にしよう』

『世間を裏切る大胆な路線、あの子達が売れるのはそれしかない!』

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2人に用意されたのは手足が大胆に露出し、キラキラ光るスパンコールのついた

超ミニの衣装!

プライベートでもミニスカートかホットパンツで過ごす事を徹底させたという。

『大当たりか大ゴケか・・・』

振り付けを担当したのはあまりの怖さに泣き出すアイドルが続出する為

レッスン中断が日常茶飯事だったという土居甫!

『彼女たちの魅力を一言で言うならば、あの大地をがっしりと踏みしめている

太い腿(あし)がいい

野育ちの土の匂いがぷんぷんして、彼女たちの腿(あし)には表情があった

図太くってしたたかでそれでいて可愛い

僕が長い間待ち続けていた素材にめぐり会ったような気がした』

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子供の頃、パンツが見えるんじゃないかとテレビの下から覗きこんだあの

大股パカパカダンス!

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『股を開いたり閉じたりするあのステップ、あれが意外に難しくて』

股を開きながら同時に両肩を上下に動かし、さらに両手をヒラヒラさせるあの仕草

実はガニ股の警部が泥棒を追いかけるシーンをイメージしたもので

マイクは拳銃の代わりと、中指1本で持たせられ

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イントロでは拳銃のようにクルクル回転させるという難技な振り付けに

さすがのピンク・レディーもマスターするのに1ヶ月かかったという

『お前ら出来ないのならとっとと静岡に帰れ!!』

『夜中に下宿の部屋でドタバタするワケにもいかないので

街灯の下で一生懸命練習しました』

デビュー前

ビクター上層部から股を広げるポーズを止めるよう申し出があったが

土居はガンとして受け付けなかった!

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1976年8月25日、ピンク・レディーは『ペッパー警部』でデビュー!

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♪ペッパ〜けいぶ!!邪魔をしない〜でぇえ♪

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♪ペッパ〜けいぶ!!私たち、これから、いいところぉ〜♪

デビュー当時は歌番組よりも11PM等の深夜番組の出演が多かったピンク・レディー

歌い終わるや否や

『テレビで若い娘が大股を開くとは何事だ!』

『キャバレーのショーじゃないんだぞ!』

『恥じを知れ恥を!』

等のクレームがTV局に殺到!

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これにより2人が股を広げる時だけアングルを後ろ姿や

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望遠に切り替えるといった苦肉の策がとられていた

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レコード会社も売れるワケがないと、全く期待しておらず

宣伝もプロモーション活動もほとんど無く

『ペッパー警部』の初回プレスは

たったの3000枚!

『そもそも2月にスカウトして8月25日にデビューさせるなんて

突貫工事もいいところ

当時の新人賞レースに間に合わせるには、じっくり準備して

翌年の3月か4月にデビューさせるのが常識でしたから』

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1976年9月6日にオリコン99位に初登場した『ペッパー警部』は

翌週には103位と圏外へランクダウン

日本歌謡史上最強デュオと言われたピンク・レディーも

最初は泣かず飛ばずのスタートだった

ところがその後、チャートがジワジワと上がりはじめ

リリースから3ヶ月も経っていたにもかかわらず

初のトップ10入り!

作り手も、仕掛ける側も、歌っていたピンク・レディーでさえも予想しなかった

ブームに火をつけたのは

子供達だった!!

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♪ペッパ〜けいぶ!!邪魔をしない〜でぇえ♪

テレビを見てピンク・レディーのマネをする子供達が急増!

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特に女の子はレコードを買い、歌と振り付けを熱心に覚えた

そのおかげか『ペッパー警部』は1977年1月に4位迄浮上!

同じ『スタ誕』出身の百恵ちゃん(6、7万枚)も

淳子ちゃん(12、1万枚)も

昌子ちゃん(51、4万枚)も成しえなかった

デビュー曲にしていきなり60、5万枚という大ヒット!

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♪私たち、これから、いいところぉ〜♪

イロモノ、一発屋で終わると笑われていた

ピンク・レディー怒涛の快進撃は

次回!!


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