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女子気合注入歌

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思わず気合が入る曲を中心にレビューしてマス!
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2005年8月31日発売
2週連続第1位
売上 42、3万枚
作詞/矢沢あい 作曲/HYDE

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☆中島美嘉(なかしま みか) 1983年2月19日生まれ
鹿児島県日置市出身 A型

『小さい時からコンプレックスだったんですよ、声が・・・・。

みんなの前で声を出すのがイヤでイヤで。

だから授業中も発言できないし、音楽の時間も歌わなかった。』

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中学2年の時に転向した鹿児島市内の中学でイジメに逢い登校拒否。

当時の担任だった先生は中島の家に何度も足を運び、学校に出てくるよう説得したが

『出ません!イヤです!』

と、最後迄自分の態度を変えず

卒業式は校長室でたった1人だけの卒業式となった。

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卒業後は高校へは行かず、アルバイトをしながら友達4人と共同生活。

この時は歌手ではなくモデルをしており、モデルのオーディションを受ける為の

事務所に所属していた。

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そこで教えていた濱洋一が中島の声を聴いて

『歌をやった方が良いんじゃない?』

とアドバイス。これが歌手になるキッカケになったという。

濱は歌の付いていない自分の曲を中島に歌わせ

そのデモ・テープをレコード会社に送った。

後日、中島は何も知らされないまま『歌』と『演技』のオーディションを受け

ナント、3000人の応募の中から見事選ばれ

ドラマ『傷だらけのラブ・ソング』のヒロイン役と

主題歌の『STARS』を歌う歌手として

同時デビューを果たした。

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デビュー曲の『STARS』は最高3位、売上げ46、9万枚の大ヒットを記録。

今の所、これが全シングルの中で最も売れた曲である。

その後も『WILL』、『雪の華』、『愛してる』等、多くのヒット曲を連発。

レコード大賞新人賞をはじめ多くの賞を取り、紅白歌合戦にも出場を果たした。

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そんな中島美嘉は、友人を介して中学の時の担任だった先生に電話を掛けてこう言った

『席を取ったのでライブを見に来てほしい』

ライブを見に行った先生は

『オレがやって来たことは間違いじゃなかった・・・』

と、感動したという。

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2010年3月、6枚目となるアルバム『STAR』をリリースした直後

『耳菅開放症(じかんかいほうしょう)』

を患い音楽活動を休止。

この病気は高地に行くと気圧の関係で耳が聞こえなくなった時に

よくツバを飲むと聞こえるようになったりするが

その耳と鼻と口がつながっている所を『耳菅』という。

この『耳菅』は普段は塞がっているが、そこが開いたままになってしまう事を

『耳菅開放症(じかんかいほうしょう)』というんだとか。

症状はめまいがしたり、音程が聞き取りにくくなったり・・・・

ヒドイと音がズレて聞こえる、さらに自分の出してる声の大きさがわからないという

ミュージシャンにとっては致命的とも言える病気にかかったが

3年を費やして見事復帰!

現在はアルバムもリリースしてツアーもこなしている。

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そんな中島美嘉が初めてオリコン・チャートで1位を獲得した曲が

自ら主演もした映画『NANA』の主題歌『グラマラス・スカイ』。

作詞は漫画の原作者である矢沢あい。

ペンネームは敬愛する矢沢永吉から取ったものだ。

作曲はラルク・エン・シエルのHYDE。曲のプロデューサーも兼ねており

自分でも歌っている。

どうしても中島美嘉と言えばバラードのイメージが強いが

気合注入のロック・ナンバーも

超カッコイイ!のだ。

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アルバム発売1986年11月1日
最高23位
売上 1、9万枚
作詞/柴山俊之 作曲/高橋ヨシロウ

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☆アン・ルイス 1965年6月5日生まれ
兵庫県宝塚市出身 

父親がアメリカ海軍の軍人で母親が日本人のハーフ。

本牧にあった米海軍の住宅地ベイサイドコートで育ったアンちゃんは

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子役からグラビアアイドルを経て1971年『白い週末』でデビュー。

6枚目のシングル『グッド・バイ・マイ・ラブ』が23、8万枚の大ヒット!

当時は素朴で可愛い娘さんでした。

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ちなみに3枚目のシングル『ハッピー・ヨコハマ』のバックで踊っていた

スクールメイツが後のキャンディーズで

キャンディーズとしてデビューしてからも親交は続き、衣装もデザインしていた。

一番有名なのが通称デビル衣装と言われた

『やさしい悪魔』の網タイツにレオタード!

清純派アイドルだったキャンディーズがよくこれをOKしたなと

今見てもビックリ&奇抜かつセクシーな衣装だった。

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1980年、『セクシャル・バイオレットNo1』の桑名正博と結婚。

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翌年、長男の美勇士(ミュージックのみゅうじ)を出産。

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約1年半の休養から復帰するにあたって彼女が楽曲を依頼したのは何と

あの山口百恵!

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『再び頑張ろうとしているアンの為に書く

ただし、これっきりよ!』

さらに作曲はジュリーこと沢田研二!

アンちゃん、実はタイガース時代からジュリーの熱烈な大ファンで

かつてはジュリーと同じ『渡辺プロダクション』に所属していた事もあるほど。

今では絶対あり得ない百恵ちゃんとジュリーが作った

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『ラ・セゾン』は大ヒット!
(最高3位 売上 35、4万枚)

休養明けで登場したアンちゃんは髪を金髪に染め、ド派手な衣装を着て

バンドスタイルで歌うロック・ボーカリストに変貌!

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ちなみに『ラ・セゾン』はあの『六本木心中』(29、6万枚)よりも売れていて

アン・ルイスのシングルの中で売上げNo1!

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すっかりイケイケ姉ちゃんに生まれ変わったアンちゃんは

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『歌謡ロックの女王』

と呼ばれ、『六本木心中』、『あゝ無情』、『天使よ故郷を見よ』等ヒットを連発!

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カッコ良くて、キャッチーで歌いやすいサウンドは当時どこのカラオケに行っても

女子が定番のレパートリーとして歌っていた。

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しかしながら私生活ではすれ違いが多く、結婚4年目にして離婚。

元々破天荒な性格で、音楽と酒と遊びでほとんど家に帰らなかった桑名と

音楽活動に没頭していたアンちゃん。

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離婚の原因となったのは

『ヒットを連発するアンとヒット曲が続かなかった桑名の

嫉妬による暴力だった』

と、後に息子の美勇士君が語っていました。

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授業参観は来ないのが当たり前で親の代わりにマネージャーが来る。

『お前ん家、金持ちなんだから毎日スゲーもん食ってんだろう!』

と、友達からよくからかわれたが

食事はいつもマクドナルドのハンバーガーだったそうだ。

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子供をマンションに残したまま夜遊びや、年下のミュージシャンとのデート等

『育児も満足にできない遊び好きの女』

と、バッシングを受け

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『小学校に上がり反抗期を迎えた子供の

教育に自信が持てなくなった』

という理由で、中学に上がると同時に息子を桑名家に戻している。

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その翌年、自ら『パニック障害』である事を告白。

音楽活動を休止、治療に専念する為アメリカに帰国したアンちゃんは

二度と表舞台に出る事は無かったが

2009年、フジの『独占!金曜日の告白SP』に10数年ぶりに出演。

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『現在もパニック障害の影響で人前で歌うライブが出来ない』

『日本に行く事はもうないと思う』

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そんな中、元ダンナの桑名正博が脳幹出血で

2012年10月26日心不全の為死去。

再婚した桑名の妻に気を使ってか、アンちゃんは葬儀にも出席しなかった。

現在はロサンゼルスで1人暮らしをしており、趣味だったアクセサリーや

ペットグッズ等を販売するブランドを立ち上げ、順調に軌道にのっているとの事。

そして2013年4月、名前の通りミュージシャンになった

美勇士君が近況をコメント。

『今はアン・ルイスとは思えない

つつましい暮らしをしています。

決意は固く、残念ですが完全引退です』

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股をおっ広げて腰をグラインドさせド派手な衣装で歌う姿は

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もう二度と見れないんですね・・・・。

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僕はそんなアンちゃんの

『ハニー・ドリッパ−』が一番好きです。

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ちなみに『バイビ〜』という言葉は

アンちゃんが最初に使い始めたんですよ!

今は死語ですけど・・・・



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2005年5月25日発売
最高38位
売上 8千枚
作詞作曲/JIMMY HARRY、中ノ森文子

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中ノ森文子(なかのもり あやこ)

1985年4月4日生まれ 福岡県田川市出身 O型

中ノ森バンドのリーダー兼ボーカルのAYAKOは幼い頃から歌が好きで

『高校を卒業したら東京へ行く!』

と、中学に入学する前から歌手になる決心をし

田川市内のミュージック・スクールを自分で見つけ本格的にレッスンを始める。

観月ありさ、安室奈美恵、MAX、SPEED、DA PUMP等が所属していた事務所

『ヴィジョン・ファクトリー』が主催していた新人発掘オーディション

『第2回スターライト・オーディション2000』に出場。

1万人の応募の中から見事グランプリを獲得!

14歳で単身上京。

まだ中学生だったAYAKOは学校に通う傍らボーカル、ダンス、楽器

そしてなぜか空手(笑)のレッスンに励んでいた。

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しかし5年経っても中々デビューできず、バンド結成を提案。

事務所に頼んでメンバーのオーディションを行った。

後のメンバの1人となるベースのYUCCOは二次審査で

『オーディション3日前に、課題4曲分の音源が送られてきてビックリした』

YUCCOは譜面も時間も無い中、耳コピで猛練習したとか。

選ばれたメンバー全員が音楽院やミュージック・スクール等、音楽専門校出身者という

エリート集団であったが、実際はAYAKOをデビューされる為に作られた

『寄せ集めバンド』

互いに遠慮し、バンドとしての結束も図られないまま

2005年2月23日に『ラズベリーパイ』でデビュー。

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この曲は同じ事務所の国仲涼子が主演したドラマ

『みんな昔は子供だった』の挿入歌になった他に4つのタイアップが付くという

鳴り物入りのデビューだったが

最高38位、売上1、8万枚とパッとせず。

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2005年、観月ありさ主演のドラマ『鬼嫁日記』の主題歌『Oh My Darlin’』がスマッシュヒット。

その年の日本レコード大賞新人賞を受賞し

ファースト・アルバム

『OH MY DARLIN〜GIRLS HAVING FUN〜』をリリース。

この時が絶頂期だった。

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その後は出すシングルが1万枚を切るという低空飛行を続ける中

AYAKOの三浦大知やロンブーの淳との交際が発覚!

ファンもメンバーも冷めてしまった。

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もともとAYAKOの為のバンドであるがゆえに

ライブではAYAKOが目立つように演奏は控えめで

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昔からのファンを優遇するあまり新しいファンが反発し

観客動員数も減っていった。

バンドなのに楽曲の作詞がAYAKOで作曲は全て外注。

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メンバーは渡された譜面をただ演奏するだけの単なるバックバンドだった。

本物のガールズバンドを目指していたメンバーだったが

すっかりやる気が無くなり

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ギターのTOMOEが脱退!

可愛いかったのに!

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表向きは学業に専念するという理由だが

嫌なら辞めてもらって結構。代わりはいくらでもいる

という事務所の姿勢にイヤ気がさしたからという。

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公式サイトからはTOMOEの記載や日記が全て削除され

他のメンバーが書いた日記であっても

少しでもTOMOEについて触れている日記は全て削除された。

その後のテレビや雑誌のインタビューではTOMOEに関するコメントはNGであり

デビューも4人組でデビューしたという事で略歴に表記され

TOMOEの存在は完全に消去させられてしまったのである。

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そんな中で作られたサード・アルバム。事実上これがラストアルバムとなったが

全14曲中10曲がカバーで、全くやる気のないとんでもないシロモノであった。

そんな中、AYAKOが喉の手術でバンドが活動休止になると

ここぞとばかりに突然の解散。

しかもメンバーひとりひとりが個別に解散を報告するという

異例の解散宣言を出して

2008年6月30日に『中ノ森バンド』は遂に解散したのである。

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ひとつひとつの素材は最高だったのに、入れた鍋が悪くて

美味しい料理が出来なかったバンド。そんな『中ノ森バンド』の

気合注入歌と言えば『WHATEVER』

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多感期な女の子の気持ちをストレートに詰め込んだ曲で

『自分のスタイルを貫いて行こうよ!』

と、歌うAYAKOのハスキーボイスと

全員音楽学校出身の演奏力は伊達じゃない。

まさに応援歌的元気ソング!

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当時日本に1台しか無いという撮影用カメラで撮られたPVは

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当時まだ夢を追いかけていた彼女達の

表情がキラキラ光っていて

美しいの一言です。

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こういう曲をもっと『中ノ森バンド』がやるべきだったと

今さらながら思う次第です。

そしたら絶対売れてました。

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ボーカルの中ノ森文子も可愛いのですが

キーボードのSHINAMONこと(三島亜紀子)も

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メチャクチャ可愛いです!

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1999年8月4日発売
最高4位
売上50、9万枚
作詞/赤羽奈津代 作曲/鈴木秋則

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夏と言えば高校野球!

野球と言えば、センチメンタル・バスのこの曲が聞きたくなる!

バンドは1998年9月19日にデビュー。

名前の由来は

『人間のメンタルな部分に訴えかける音楽をつくり

その楽曲に賛同してくれる人々を

自分達のバスに乗せたい』

という意味で結構マジメ(笑)。

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メンバーは黒夢のツアーでキーボードを弾いていた事もあるアキノリと

ボンバヘッドが可愛いNATSUのユニット。

ちなみにジャケットに映っているのは横浜スタジアムでは無く

僕の地元のローカルな保土ヶ谷球場!

オープニングでは『巨人の星』のSEを取り入れるという斬新なアイディアで

聞けば思わず体が動き出すアップテンポ&ノリノリナンバー!

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まさに気合注入歌です!!

ハイテンションであっという間の2分31秒!

しかしながらヒット曲はこの一発だけで

2000年12月31日にとっとと解散。

解散の理由は

『2人の仲があまり良く無く互いに迷惑をかけあっていて

ズレが生じてしまった』

華麗なる一発屋ですが体よりもデカいギターを弾きまくる

NATSUの可愛いさは卒倒モンです!

♪♪♪♪♪

39度の(ドン!)

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炎天下の夢!(ドドン!)

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プレイボール!プレイゲーム!

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『せーの』で走り出す〜

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デートならデーゲーム〜

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遊びたい年頃なんて訳じゃないけど〜

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そんなNATSUは2013年に餓鬼レンジャーのポチョムキンと結婚!

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一番右の人です!

マジか!!!


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1985年4月21日発売
最高4位
売上 37、8万枚
作詞作曲/高橋研

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☆中村あゆみ(なかむら あゆみ)1966年6月28日生まれ
大阪府八尾市出身 O型

今でも現役でライオンみたいなブロンドヘアーを振り乱し

精力的にミュージシャン活動を読けてる中村あゆみ。

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若かりし頃はシブがき隊、少年隊、石川秀美、奥居香等が同級生だった

明大中野の定時制(中退)に通いながら昼間はOLや道路工事で汗を流し

てっきり歌手になる為にレッスンに明け暮れていたのかと思ったら

ところがどっこい!

遊びまくっていた!

しかもタダで!

『どこのディスコでも店長さんクラスと仲良くなってフリーパス。

そこでご飯も食べれるし、友達も集まってくるし

お金を使わないで遊ぶ環境をつくる才能は天才的だったと思う』

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毎晩ディスコで夜通し踊って飲んでの繰り返し。

歌手になるどころか、音楽なんかまともに聞いた事も無く

デビューするまでレコードは1枚も持っていなかった。

そんな彼女に声をかけたのが当時のマネージャーの石岡和子である。

ある日、彼氏とサーフィンをして帰ってくると

自宅に空き巣が入って部屋がメチャクチャに荒らされていた。

どうしていいかわからず、石岡に相談。

『そこは危ないから!』

と、石岡の母親がやってる飲み屋に連れて行かれ

ご飯を食べさせてもらっていると

そこへお客としてやって来たのが高橋研だった。

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彼はアルフィーの『メリーアン』をはじめアルフィーの一連のヒット曲の作詞を手掛け

後におニャン子、矢沢永吉、小泉今日子等にも楽曲を提供するプロデューサーである。

彼女のカラオケを聞いた高橋研はその場でこう言った。

『キミは絶対にロックが歌える!

オレにプロデュースさせてくれ!』

この出会いがキッカケとなって中村あゆみは高橋研のレッスンを受け

佐野元春の『SOMEDAY』、『ガラスのジェネレーション』の2曲を吹き込んだ

デモ・テープを送りまくり、手が上がったのが当時のレコード会社ハミング・バードだった。

高橋研の作詞作曲で1984年、歌手になるつもり等全く無かった中村あゆみは

ファースト・シングル『ミッドナイト・キッズ』でデビューを果たす。

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残念ながらこの曲はオリコン・チャート200位にも入らず全く売れなかったが

サード・シングルとなった『翼の折れたエンジェル』が

日清のカップヌードルのCMソングに起用され大ヒット!

一気に全国区になった。

♪もし・・俺がヒーローだったら

悲しみを近づけやしないのに・・・♪

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『うちの親がよく言ってたんですよ・・・

芸能界には“人さらいがいる”って・・・(笑)

だからアイドルは絶対無理だと思ってた』

彼女にとって最大のヒット曲となったこの曲は、同世代(特にヤンキー)から絶大な支持を受けた。

当時を振り返って彼女は言う。

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『あの時代、センセーショナルというか・・・・

やっぱりああいう汚れた声の女の子はいなかったと思うのね。

毒が強いというか。冷静に振り返って、客観的に

18歳の中村あゆみを見てみると

たしかに売れるだろうと思いますよね。

かなり尖っていた部分もあるし

インパクトがあったと思います。』

楽曲そのものは昔からあった曲で、ライブ・ハウスではデビュー直後から

ひんぱんに歌われていた曲。

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たまたま客ウケが良く、評判になった為、シングルとしてリリースしただけで

CMの為に書かれた曲ではなかったのだ。

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また、この曲を収録したアルバム『BE TRUE』も40万枚を超える大ヒット!

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モノクロのジャケットが天女のように美しい!

しかし!!

『翼の折れたエンジェル』のインパクトがあまりにも強かったせいか

それ以降は良い曲にもかかわらず、これといったヒットに恵まれず

人気は徐々に低迷・・・・・。

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とうとうデビュー当時から世話になった高橋研の元を離れ

作詞作曲も自ら手がけ、楽曲をリリースするも

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セールスはパッとせず事務所も転々とするようになる。

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1997年、何を思ったのか名前を『晏由美(あゆみ)』と改名。

高級エステサロンIBCを共同経営。

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そこの社長と結婚し、長女莉珠(りず)ちゃんを出産。

幸せに暮らしているのかな・・・と思ったら

離婚してまた音楽業界に戻ってきた。

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しかもだ!

驚いたのはその容姿!!

デビュー当時のイモっぽさが無くなって

完全にイケイケ姉ちゃんに大変身!!

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あの変わらぬハスキーボイスで、堂々と『翼の折れたエンジェル』を歌ってるではナイカ!

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とても47歳には見えない!!

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今度しくじったら次はヌードだな・・・・。

ごっくん!


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