<また続き>
先日、このイベントについて同業者の某先輩とメールで会話をした。
その会話の中で、先輩からこんな一言があった。
「最近のチームは打ち込みが足りないように感じる」
なるほど。
う〜ん…「打ち込み」。
そういえば某太鼓コンテストの審査員も言ってたなあ。「打ち込みが足りない」って。…
楽器から「音を引き出す技術」は、奏者である以上、どんな音楽ジャンルでも基本中の基本。
プロならばそれこそ「必須項目」である。
楽器から最大限の音を「鳴らすための技術を養うための練習」という意味での「打ち込み」なら、それは確かに必要。
日本の太鼓は他の楽器と比べると、本当の音を「鳴らす」ためには、やはりそれなりに体力を使い痛みを伴う「打ち込み」をしなければいけないのかもしれない。
しかし「打ち込み」という言葉を聞くと、どうしても「体育会的(またはスポ根?)」なイメージが付きまとってしまうのは私だけだろうか。
つまり、気力と体力の続く限り、掌が血だらけになってもひたすら「打ち込み続ける」ような絵に描いたような猛稽古。
もちろん、目指す方向性(演奏スタイル)が「打ち込み系」「パワフルな身体表現」「爆音至上主義」ならそれも必要。
でも、それならばその「打ち込み」は「鳴らすための技術を養うための練習」ではなく、「体力と根性を養うための訓練・鍛練」であると、ハッキリと自覚すべきだ。
私も若い頃は、長時間ひたすら打ち続ける辛い「打ち込み稽古」を誰よりも多く行なったものだ。
それこそ、私より多くそういう稽古を行った者はいないと断言出来る自信がある。
それ程の凄まじい稽古量をこなしたのだ。
(初期の大江戸助六太鼓ワークショップに参加した方ならお判り頂けるかと思うが…)
稽古場で何時間も休まずに打ち続け、どれだけ長い時間打ち続けたかの記録を常に更新し、体中の筋肉痛と血まみれの掌にその「達成感」と「充実感」を味わい、それが上達のための確かな方法と疑わなかったのだ。
しかし独立後…。
そこで養った技術を引っ提げ、意気揚々と様々なジャンルの音楽や文化芸能に「殴り込み」をかけていった若かりし頃。
「楽器の練習法」としてそれ(「打ちこみ稽古」)は、極めて異質な行為であることを思い知らされたのだ。
それは他ジャンルの音楽家との稽古中。
ある局面で、
「そのフレーズはもっと大きな音で」
とオーダーされたので、一番重い桴に持ち替え、筋力任せにフルショット&フルパワーでこれ見よがしに打った。
空気が揺れ、部屋中が振動した。
「辛い打ち込み稽古」の成果、発揮である。
「どうだ!」と言わんばかりの得意満面の若い頃の私。
しかし…
苦笑された上で
「すごい音だね。でも…そうじゃなくてさ。…今のは『やかましい音』だから。もっと『きれいで大きな音』出して欲しいんだけど?」
その時は正直、意味がよくわからなかった。
「大きい音」=「パワー」ではないのか?
それ以外に一体どんな方法があるのか????
あと、こんなこともあった。
太鼓・三味線・尺八をフィーチュアしたバンドを結成して、ある程度活動が軌道に乗るようになった頃。
ライブの打ち上げの場でメンバーと酒を飲みながら、和楽器と洋楽器の融合の難しさについて雑談中、私が
「…でもさ、太鼓って思いっ切り打たないと、本当の良い音がしない楽器なんだよね…」
みたいな発言をしたことがあった。
そんなことも忘れかけた後日、ふとメンバーの一人から、意を決して慎重に言葉を選ぶように
「ああいうことを発言するヒロシは、楽器をまだ全然理解してないと思うよ。」
と、面と向かって言われたのだ。
また別のメンバーからは、
「例えば音量のレベルが10段階あるとして、ヒロシはいつも10なんだよ。」
とも。…
ショックだった。
音の「強弱」や「アクセント」「音量のコントロール」などについては、大江戸助六太鼓時代に、嫌というほどマスターしている「つもり」だった。
その世界では「師範」レベルまで行ったのだ。
でもそれは、「極めて特殊」な当時の「太鼓界」にしか通用しない「強弱」だったのだ。
それ故、当時の私の音は「全部10」と(苦笑)…
つまりそれだけ、太鼓の音は(小さく打ったつもりでも)圧倒的に、暴力的に、とてつもなく「デカイ」ということだったのだ。
洋楽の世界で当時から実力と実績のあった、私が最も一目置いて尊敬していた、プロフェッショナルなミュージシャン達からの言葉だったから、それはものすごく説得力があり、心にズシンと堪えた。
「そうか…オレはこいつを楽器として、全然可愛がってなかったのか…今までゴメン。…」
まだ“青龍-Blue Dragon-”にリペイントされる遥か昔、“黒丸”だった頃の桶胴を見つめながら、深く考えさせられたものだ。
まあとにかく、今まで培ったものが全く通用しない。…
自分の未熟さを思い知った、若かりし頃の話である。
そこからモトフジの太鼓人生「棘の道」の始まり〜。お勉強一からやり直し〜。
その後の私のプレイが、今の奏法の基盤を作ったと言っても過言ではない。
誤解しないでほしいのは、当時の「打ち込み稽古」が無駄であったとは今でも決して思っていない。
その時代に私が表現したい太鼓スタイルにはそれは絶対に必要であった。
また、打法技術が確立していない時代に、そうする以外に、よりベターな方法は無かったのだ。
…何だか話が私の昔話に逸れてきた。
冒頭の先輩とのメールで、私はこんな内容のことを返信した。
「太鼓界の未来」を鑑みて思うに、これからは「ガッツリ打ち込み系」と「そうでない系」があってもいいのではないだろうか?(もちろん、両方が使い分けられれば尚良いのかも知れないが。…)
太鼓をよく知らない一般の多くの方からは、太鼓は「体力自慢の筋肉隆々でないと出来ない芸能」と思われていないだろうか?
だとすると、進化の可能性が大きく断たれてしまっている。
例えば、どこかに太鼓に対するセンスや打楽器の才能に溢れた「原石」のような若者がいたとする。
でもその「原石」の若者が、もしかしたら体力に自信がないというだけで太鼓の世界に入るのを踏みとどまってしまうケースなどもあったではないだろうか?
(実際、そういうケースも最近頻繁に耳にする。)
もうそろそろ「パワー」「迫力」「打ち込み」「圧倒感」「爆音」という太鼓界の「べき論」に疑問を持つ時が来たのではないだろうか?
私はこれからも、まだ誰も踏み込んでいない領域に、積極的に挑戦して行きたい。
まだまだ未成熟な太鼓界。
もっともっと間口を大きく開き、可能性を広げ、柔軟な発想で進んでいかなければいけない…と。
他のジャンルからみて「異常」とも思える行為だからこそ、日本の太鼓独特の稽古法「打ちこみ」には、もしかしたら単に「楽器を奏でる練習」という以外に、身体と精神の鍛錬や仲間と共に困難を乗り越えた時の連帯感、充実感など、それなりに大きな効果があるのかもしれない。
ただ、これから「新たな領域」に踏み込みたいのであれば、「それ」は実は何の武器にもならないということを、太鼓打ち諸氏はしっかり心に留めておいた方が良い。
でないと、私のように痛い目に合うよ。
P.S.
ちなみに「そうでない系」の太鼓グループの好例は、昔からとっくに存在するのだ。
「川田公子とみやらび太鼓」である。
実に素晴らしい。一見の価値あり!
「忝い。」
茂戸藤浩司