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オレは数年前から、「和太鼓」という呼ばれ方に何だか妙な違和感を覚えるようになった。 日本の太鼓だから「和」の「太鼓」で、「和太鼓」。 至極当然。 当たり前といえば当たり前。 特に何のことは無いのかもしれない。 太鼓の世界にいた頃は全然何とも思わなかったが、西洋音楽の業界に足を突っ込むようになった頃からこの「妙な違和感」は芽生え始めた。 例えば、洋楽の業界では「タイコ」といえば、それは我々が演奏する「太鼓」ではなくドラムセットのことを指す。 まだ馴れない頃は、本番当日のサウンド・チェックの時などに、PAスタッフさんから 「じゃ、タイコからお願いしま〜す」 と言われると、オレとドラマーが2人同時に、 「は〜い♪」 「は〜い♪」 と、ハモってしまったことが何度もある。 「いや、すいません。ワダイコは後ほどで…」 そうか、この業界ではドラムスのことを「タイコ」と呼び、太鼓は「ワダイコ」と呼ばれるのか。…うんうん、なるほど。 いや、待て。… どうも納得できない。 ここは日本なんだから、そっちが「洋ダイコ」じゃねーのかよっ?! まあ考えてみたら、呼び名については我が国で生まれた「酒」のことをわざわざ「日本酒」と呼ぶのもおかしいし、本来の製法(原料)の酒をわざわざ「純米酒」などと呼ぶに到っては、まったく本末転倒もいいところだ。 おっと、話しが脱線しそうだ。… まあ百歩譲って、集団で叩くと言う意味で、太鼓グループのことを「和太鼓」(人と人との「和」を大切に…とか?)と呼ぶのはアリかもしれないけど、だったらオレは「流離のソロ太鼓打ち」なので、少なくともオレは「太鼓」奏者である。 ただオレもTPOに応じて、相手に判りやすく伝える手段として「和太鼓」と言って説明することもある。 でも、いつも何だか西洋文化に対して媚びてるようなムズ痒い感覚が走るのだ。 (これってたぶんオレだけだと思うが。…) 何より「和太鼓」より「太鼓」の方が潔いと思わないかなあ? 英語表記でも、現在では「TAIKO」で通用するんだし。 今でもCDのクレジットなどで「和太鼓 茂戸藤浩司」と書かれることがあるが、これも仕方の無いことなのだろうか? オレがこんなこと言ったところで「負け犬の遠吠え」か。… そう言えば、太鼓打ち仲間のみなさん。 過去「和太鼓」って言って「ワダアキコ」と聞き違いされたこと、何回くらいある? オレは過去、ラジオで1回あるよ(笑)。 2010年2月3日 記。
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タイコラム
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最近、太鼓のコンサートやコンテストなどを観ていて、ちょっと気になることがある。 それは、「掛け声」の重要性が年々少なくなってきていることだ。 一見、顔を真っ赤にして首に血管が立つほど一生懸命に声を発しているようにも見えるのだが、肚(はら)に力が入ってないため、基本的に声量が小さいので太鼓の轟音の中に埋もれてしまっている。 声がしっかり出ていないことが何故いけないのか? 今回はそんな話をしたいと思う。 太鼓を打っているときの「掛け声」には、主に三つの効果がある。 一つ目は、気分を高揚させる演出効果。 太鼓の音に負けない大きな威勢の良い掛け声を発することにより、打つ(演じる)者も観る者も気分が高揚する。 また、演奏中の山場=クライマックスでの盛り上がりや、演奏が進むにつれ体力的にキツくなってきた時などに仲間同士で檄を飛ばしあったり、気分を鼓舞させて「祭り情緒」を演出するための効果としても重要である。 二つ目は、音楽的効果。 日本の芸能は古くから曲中で「間」を合わせるための役割としてや、曲のフィニッシュ(打ち納め)に於いて「息」を合わせるための役割として声を発する。 近年では、掛け声もをひとつの「楽器」として捉え、ラップやケチャのようにリズムを奏でる奏者やグループも増えている。 そして三つ目が今回のテーマ。 腹圧を高め、「軸」を安定させるための効果。 「腰を入れろ」 「臍下丹田に力を込めろ」 「肚から声を出せ」 太鼓に限らず、日本の武道や古典芸能、所作を学ぶ場面に於いて昔からよく言われるフレーズだが、太鼓打ち諸君はこの意味を考えたことはあるだろうか。 私が太鼓を学びはじめた頃は、これらの言葉は何だか漠然としていて理解できなかったが、ある日これらがとても重要なキーワードであることに気が付いた。 「腰を入れろ」とは、安定した「軸」を作り重心を安定させろということ。 逆に「腰が入ってない」状態とは、軸がずれて重心がぶれてしまっている状態のこと。 こんな状態では、太鼓演奏に於いて十分な力が長時間にわたり持続出来るわけがないし、身体を自由に使いこなすことも不可能だ。 「臍下丹田」とは、へその少し下辺り。 私が提唱する「茂戸藤流太鼓術」でいうところの「エンジン」に相当する。 私はこの「エンジン」からすべての力が発揮されるイメージを持って太鼓を打つように指導している。 声の練習をする時もここに桴を突き当てて、声を発した瞬間に桴が弾き返されるまで稽古する。 そして「肚から声を出せ」… 試合前の空手の選手が一声「押忍!」と気合を入れたり、剣道の選手が試合中ずっと声を発している光景を見かけることがあるが、あれは腹圧をかけて「軸」を安定させるために無意識に行っている行為として、ちゃんと意味がある。 流派や打法に限らず、太鼓の演奏に一番重要なのは「軸」。 これは昔は武道に於いて、現代ではあらゆるスポーツに於いても揺るぎない事実であるはずだ。 身体の「軸」を意識して腹圧を高めていれば自然に身体の重心が安定し、無駄な力を使わずに十分な能力が発揮できるというのが「茂戸藤流太鼓術」の基本的考え。 要はこれらの言葉は、「腹圧を高め、いつでも「軸」を意識しろ」という昔からの日本人の教えだったのだ。 さて、ここで腹圧を高め軸を安定させるために、非常に優れたアイテムを紹介しよう。 これが今回のタイトルにある「晒(さらし)」。 我々関東近辺の太鼓のコスチューム(衣裳)といえば、昔は絆纏(はんてん)に半股引(はんだこ)、鉢巻(はちまき)に晒(さらし)が基本だった。 本番前には長さが一反もある晒を足の付け根(骨盤の下端)からみぞおちまで何重にもぐるぐると巻き、半股引を穿いたうえに絆纏を羽織って、帯をこれまた「これでもか」というくらいギュッとキツく締める。 こうすることによって、本番前の気分が引き締まるのと同時に腹圧が高められ、自然と「軸」が安定したのだ。 声を出すのに於いても、腹圧が高まった状態なので自然におなか(臍下丹田)を意識して声を発することが出来る。 実に機能的で理にかなったコスチューム(衣裳)だ。 しかもきちんと粋に着こなせば、その「凛」としたカッコよさと舞台映えは他の追随を許さない。 太鼓打ち諸君。 今こそ「晒」を見直してみては如何だろうか? 2010年2月2日 記 追記。…
私の「最強の弟子」高田延彦さんが最後に叩いた2007年の大晦日(於:さいたまスーパーアリーナ「やれんのか2007」)は、それまで高田さんの太鼓の衣裳として世の中に定着した褌(ふんどし)を捨て、本人の強い希望で晒を巻いての「江戸前スタイル」衣裳で本番に挑んだ。 これがまた身体の軸が見事に安定し、過去最高の太鼓パフォーマンスだったのだ。 一流アスリート(格闘家)の本能が、自然と日本の古くからの知恵を選んだのかもしれない。… |
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太鼓打ちのプロになるには、今のところ何の資格も必要ない。 近年、プロ太鼓打ちの増殖が絶えないように思うが、これはある意味良いことなのかも知れない。 ただこのご時世、太鼓界にも「デフレ・スパイラル」が起こりつつある。 ギャランティーが安くても、ありえないような悪条件でも、楽器を雨風に晒されても、太鼓のイメージをデフォルメされて茶化されても文句を言わず、とにかく一本でも多く仕事を取ることを競い合う風潮。 まあ、若手が経験のためにやるならそれも「アリ」かとも思うが、こんなことではいつまでたっても太鼓のステイタスが上がらない。 ちょっと困ったもんだ。 この世界にもちゃんと「棲み分け」が出来ていれば問題ないのだが、まだまだ「ジャンル」としての成熟度が足りない気がする。 例えば、ある日ある人が「ハンバーグ」を食べたかったとして、その欲求を満たすために高級ホテルのレストランへ行くか、老舗の洋食屋へ行くか、ファミレスへ行くか、ファストフードで済ませるかなどのいくつかの選択肢があるとする。 その人はその時の予算やTPOに応じて、色々と選べばいい。 (過去のブログ「下町の洋食屋」参照) でもファストフードくらいの予算で高級レストランの味を求める人はいないし、ファミレスのハンバーグを提供して老舗洋食屋の値段を要求する店もないはず(もしあれば明らかにぼったくりだ)。 ところが「太鼓」は一般の方から観て、まだ「どれも一緒なんじゃないの?」レベル。 「こないだ雇った××(プロ太鼓打ち)は○○円でやってくれたから、モトフジもそのくらいの予算でプレゼンしろ」と。 老舗洋食屋がコンビニフードと金額を比べられても…というわけだ。 また、一口に「太鼓」と言っても、実は「太鼓」の中にもたくさんのジャンルが存在することを世の中の多くの人は知らない。 例えば「ギタリスト」には、ロックからクラシック、ジャズ、ブルーズ、スパニッシュ、フォーク、カントリーなど様々なジャンルがあり、それぞれが楽器も違ければ奏法テクニックも異なる。 当然ながら、結果として出てくる「音楽」が全く違う。 多くのリスナーは、その曲の予備知識が無くても、一聴してその曲(アーティスト)がどの「ジャンル」に属するかを無意識に認識出来る。 ところが太鼓打ちは「伝統・お祭り・郷土芸能系」も「新興・町興し系」も「舞台芸能系」も「邪道・新ジャンル系」も全部一緒くた。 時にはプロアマの区別さえ曖昧な始末だ。 ちょっと前に(純邦楽の世界だけで)、若手の津軽三味線や太鼓の奏者が「ブーム」と囁かれた時期があったが、こんなの「ブーム」とは言わないよ。 一般的には何も認識も識別もされてないのだから。 オレは約20年前、太鼓界に小さな「革命」を起こした(と自負している)。 批判や圧力に屈せず、太鼓を西洋音楽の世界に引っ張り出したのだ。 特に若い世代の、太鼓に対する漠然とした「敷居の高い」先入観を取っ払うことは出来たと思う。 これからまだ増えるであろうプロ太鼓打ちを目指す若者達や、太鼓に夢見るアマチュア太鼓打ち達のために、数少ない我々「リアル・プロ太鼓打ち」がクリアしてない次のステージが、まだまだたくさん控えている。… 「忝い。」
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「モトフジさんって、元々は何なんですか?」 はじめてこう訊かれた時は、その質問の意図すらわからなかった。 でも、ライブの終演後などことあるごとに、時折同じ質問をれていくうち、ようやく理解した。 つまり… 「モトフジさんって、今はワダイコやられてますけど、元々はドラムか、それとも何か他のパーカッションやられてたんでしょ?」 要はこう訊きたいらしい。 もちろん、胸を張って、「“生粋の太鼓打ち”ですが…何か?」と、いつも答える。 本当にそうなのだからしょうがない。 子供の頃、盆踊りの櫓(やぐら)から育った、文字通りの「叩き上げ」だ。 ところが。 大抵の方は「ほぉ〜 …そうだったんですか。」と、さも意外そうなリアクションをされる。 それは、オレのプレイ(特に太鼓セットの時?)が、所謂世間一般でいうところの「ワダイコ」らしくないように見えるからなのかも知れない。 こういう質問をされる方々は、ほとんどが我が国の太鼓のことをあまり良く知らない、太鼓に関する「素人さん」。 そういう方からは、そのように勘違いされるのも無理はない。 悪気は全然ないし、オレもそんなことでいちいち腹を立てたりなんかしない。 所謂「ワダイコ」のイメージからすれば、オレの奏法スタイルはかなり大きく逸脱しているように見えないことも無いし。 ハチマキもフンドシもしてないし、ピアスとかいっぱいしてるしね(苦笑)。 これが同業者(太鼓打ち)が見れば、一目瞭然のはず。 根本的に下半身の使い方=「かまえ」も桴の握りも太鼓打ちのそれだし、太鼓特有の音の出し方や、ステージに立った「サマ」、間の取り方、独特なフォーム(型・振り付け)などは、他の打楽器奏者にはそう簡単に一朝一夕で真似出来るものではないことは熟知しているから。 ドラムやパーカションのプレイヤー側から見ても同様。 太鼓にしては手数が多く速い方だとも言われるが、ドラマーやパーカッショニストのトッププレイヤーに比べたら、オレの手数や速さなんて足元にも及ばないよ。 ヴィニー・カリウタやデイヴ・ウィックルのプレイなんて見せられた日にゃ、オレには一生かかったって真似すら出来ない。 オレもかつてはドラムを少々かじったことがあるが、今はもうここまで長年太鼓打ちやってると、あの細いスティックできちんと音を出すことすら困難なのだ(現在オレの使用する桴は太鼓打ちの中ではかなり軽い方だが)。 ハードロックの曲などプレイしようもんなら、たった一曲でもマジで太鼓より疲れるし、スティックが細ければもっと手が回る(速いテンポで細かいフレーズが打てる)かというと、それがまったくそうではない。 足(キック&ハット)とのコンビネーションも、当然イメージどおりにはいかない。 ただ、太鼓打ちが放つ腰の入ったフル・ショット一発の説得力や、打つ姿の美しさ、絶対的音量&音圧は、ドラマーには到底真似出来ない。 …そう。当たり前だ。 世界中のどの楽器も、高いレベルで演奏するには片手間で出来るほど甘くないってこと。 色々な種類の楽器をトップレベルの水準でプレイする「天才」と呼ばれるミュージシャンも中には存在するが、そういう人は陰できちんとそれなりの年月をかけて「血の滲むような努力」をしているはず。 オレは不器用だから、これからも一生「生粋の太鼓打ち」であることに変りはないし、そのことに誇りを持ち続けたい。 (まあ“生粋”と呼ぶには少々「異端」ではあるが…) ドラムやパーカッションでは逆立ちしても真似出来ないこと。 太鼓にはまだまだたくさんの魅力が内包されている。 仲間達よ、これからも一緒に探していこうではないか! 未だ確立されていない「未開拓」で「青い」ジャンルだからこそ、ワクワクするくらい楽しい。 またそろそろ革命をおこさないとね。 えっ?!昔オレが出した某バンド時代のCD?リード・ヴォーカルを担当してた件? …すいません、若気の至りです。忘れて下さい。・・・
2010年1月26日 記。
追記:そういえば、今これ書いてて思い出したエピソードがある。 昔オレに名刺(思いっきりベタなワダイコ衣裳着た写真入り)を差し出した「和太鼓○○代表」みたいな方が、上記の「モトフジさんって元々は〜…」の残念な質問をしてきたことがあった。 すっかり名前も忘れてしまったが、新橋の“SOMEDAY”でオレに資料まで見せて得意げに自分の太鼓について語ってくれた、アナタです。 そういう輩はオレは基本的に認めないし、信用できない。 太鼓を見る目(センス)が無さすぎる。 「アジアの音」でも何でもいいけど。 |
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太鼓打ちにはプロとアマチュアが存在する。 これについてよく勘違いされる方がいるが、プロとアマチュアは「平等」である。 一旦ステージに上がってしまえば、尚更だ。 「プロの方が立場が上」「アマチュアはプロの下」と思っている方は、一体何を持ってそう主張するのだろうか?
演奏技術?
たしかに、技術面だけ見るとプロの方が平均してレベルが高いかもしれないが、それだけのこと。過去の実績? それだけでメシ食ってるかどうか? 弟子が大勢いるから? しかも個人レベルで見れば、下手するとそんじょそこらの「自称プロ」が逆立ちしても敵わないような素晴らしいポテンシャルを持ち、志も高いアマチュア太鼓打ちは何人も存在する。 また、カルチャーセンターのおさらい会レベルの演奏で、あろうことか入場料まで取ってコンサートを開催してしまうアマチュア太鼓打ちも、近年は実在する。 まあ、やるのは勝手だけどね…。 では、太鼓奏者に於ける「プロ」と「アマチュア」の区別とは? オレの見解はこうだ。…
技術レベルが高くて当たり前なのが「プロ」。
双方とも、胸を張ってこうあるべきだと思うのだが、如何だろうか?そうでなくても許されるのが、「アマチュア」。 観客を楽しませるために太鼓を打ち、そこに責任を持つのが「プロ」。 純粋に自分(または仲間同士)が楽しむために太鼓を打つのが「アマチュア」。 ギャランティーをきっちり頂き、その額に恥じない演奏を提供するのが「プロ」。 生活の主となる収入源を持ち、太鼓は趣味・ボランティアに徹底するのが「アマチュア」。 お互いに「プライド」さえ持っていれば、心からリスペクトし合えると思うのだが。… いずれにしろ、どちらも同じ「太鼓打ち」であることに変わりはない。 オレは、アマチュア太鼓打ちのみなさんもオレと同じく太鼓を愛する「仲間」だと思っている。
2010年1月22日 記。
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