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久しぶりの書き込みとなります。無料で使わせて頂いているので、文句は言えないのですが、
このYAHOOブログは書き込みはしやすいのですが、重さの関係もあるのでしょうが、字数制限が
あり、欄も小さくて、書き込みがしにくいという難点があります。それで最近はもっぱらミクシィー
の方に書いていました。http://mixi.jp/show_friend.pl?id=655681
先日、枚方で文化財の復元をやっているOさんという方からメールとお電話をいただき、樟葉宮
の伝承地とその周辺をご案内していただく機会がありました。
樟葉宮とは
『日本書紀』の継体紀によれば、大伴金村や巨勢男人が越前まで行き、継体に天皇に即位するよう
にお願いに行きましたが、金村や男人の真意を疑った継体はその申し出を辞退します。一方継体は、
その裏で、日頃から知っている河内の馬飼荒籠に密使を送り、大伴・巨勢・物部の大連や大臣の真意を
探らせます。馬飼の荒籠からの連絡を聞いた継体は、即座に決断をし、すぐに河内の樟葉にやって来ま
す。現在の枚方市の楠葉と考えられているところです。
樟葉にやって来た継体に対し、再度大連・大臣は即位を懇願しますが、継体は断りの儀礼を行って、
即位を断りますが、大連・大臣の熱意に押され即位したとあります。この即位をした地が樟葉宮とい
うことになっています。
枚方市の交野天神社の中に、この樟葉宮伝承地があり石碑(写真)が建っています。またそこには貴船
神社が移築されています。今のところ、この地が樟葉の宮であったかどうかは、遺跡も遺物も見つかって
いませんので、わかりません。
樟葉宮を考えていく上で
興味深いことは、継体紀にある樟葉宮で即位した記事の部分は、『日本書紀』の編集段階で日本人によ
て書き加えられたことが明らかになっています。わざわざその部分を加えているのです。
この事実から、継体は請われて樟葉にやって来たのではなく、河内馬飼荒籠と連絡をとって、侵出して
きて、拠点としたのが樟葉であったと考えられます。そのような視点から考え直すと、樟葉宮はいわゆる
宮殿ではなく、侵略の最前線基地ととらえるなおす必要があるようです。
実際に樟葉に行き、さらにそのすぐ北の男山に行きました。この山には有名な石清水八幡宮がありま
す。ここの展望台から見ると、目の前には北から桂川、宇治川、木津川が合流している模様が手に取るよ
うにわかります(写真)。この地を掌握すれば、淀川はもちろんのこと、この3大河川も管理することが
できます。
そしてこの河川の対岸には、サントリーの山崎工場が見えます。山崎の津があったところです。
今城塚古墳の東南部に筑紫津神社という神社があり、古代の港があったと考えられています。古代歌謡の
催馬楽には、難波の海から大小の船が漕ぎ上って、筑紫津まで、もう少し頑張れば、山崎まで上れるとい
う内容のものが残っています。
またこの筑紫津にそうように、淀川右岸には古代山陽道が通り、山崎まで行って、淀川を渡り、男山の
麓をかすめるよう通っていました。さらに男山の東側には、ほぼ南北に古山陰道が通っていました。この
道を北にとれば丹波へ、南に行くと大和へ入ることができます。
この地は、山陽道と山陰道が交わるところでもあったのです。水路も陸路も掌握できる土地であったとい
うことです。
このような地勢を見ますと、継体は近江から宇治川(写真)を一挙に下って、この地を確保したと想像
することができます。
まだ樟葉宮は見つかってはいませんが、このような視点からとらえなおす必要があるのではないでしょう
か。
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1週間に1度ぐらいの割合で、(もったいなくも)ジョギングがてら樟葉の宮へお参りに行っています。行くとある日は鶯が鳴き、ある日は烏が歓迎(?)してくれます。ここで継体天皇が何らかの行動を起こしたのかと考えると、なにかしら敬虔な気持ちになります。神宮に参拝するのと同じ儀礼でお参りをしています。
2008/7/24(木) 午後 10:40 [ HN ]
面白く読ませていただきました。交野天神社の落ち着いた雰囲気がなにより好きです。
2009/2/22(日) 午後 2:20 [ taira,i ]