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倭国と密接な関係の百済
『日本書紀』にも百済に関する記事が多く出てきます。継体紀を読んでいて、継体紀の紀年に大いなる
疑問を持ちました。そこで年代を考える上で、頻出する百済の記事を細かく検討すれば、その疑問も明ら
かになるのではないか、と考えました。
ところで百済の歴史といえば、『三国史記』が挙げられます。ところが『三国史記』はかなり後の12
世紀の成立ということと、大部分が中国史書を下敷きにしていることから、かなりの史料批判が必要だと
言われています。今回再度『三国史記』の百済本紀を通読して、その史料性格上の問題点を具体的に記し
ておこうと考えました。朝鮮半島の歴史や文献資料に精通されている方にとっては、もはや常識の部類に
属するとは思いますが、私自身の研究ノートという意味も込めて、提出しておきたいと思います。
百済本紀の問題点
百済本紀には始祖伝承から説き起こされていますが、客観的にその実在が確かめられるのは、『晋書』
帝紀に登場する百済王余句からです。(以下読み下しは西)
咸安二年(372年)六月、使いを遣わして、百済王余句を鎮東将軍・領楽浪太守とする。
とあります。これが初めて中国史書に登場する百済王です。この百済王余句は、『三国史記』にある近尚
古王のことであろうとおおむね考えられています。
余句以降の百済王で、中国史書と『三国史記』の王と合わない王が多少ありますが、決定的なものは余
慶(蓋鹵王)の後の牟都です。『南斉書』の百済伝の前文は欠落していますが、その部分は『册府元亀』
にあり、それを見ますと
〔建元〕二年(480年)三月、百済王牟都使いを遣わして貢献す。
そして牟都を使持節・都督百齋諸軍事・鎮東大将軍に除正しています。
また『南斉書』の百済伝には、牟都の次代の牟大の遣使記事があり、除正時の詔勅で牟都のことについて
ふれています(左の写真 赤線部分)
〔永明〕八年(490年)正月、・・・中略・・・太(牟大)を亡祖父牟都を襲いて
百済王と策命す。
とあります。ここの部分は地の文ではなく、詔勅ですから錯誤や書写間違いが起こりにくいところです。
ところが『三国史記』では、東城王(牟大)の項で分注の形で興味深いことが書かれています。(右の
写真 赤線部分)まず『南斉書』の上記の記事を引用し、
而して、三韓古記には牟都が王為るのことなし。また案ずるに牟大は蓋鹵王の孫にして、蓋鹵第二子の昆支子なりて、その祖を牟都とは言わず。則ち(南)斎書の載する所、疑わざるべからず。
として、『南斉書』の記述を採らず、『三韓古記』の方を採用するとしています。
これまで見てきましたように、この『三国史記』の記事は間違いであることがわかります。
ですから『三国史記』、少なくとも百済本紀は安易に使うことはできず、中国史書や『日本書紀』の記事
との徹底した対照を行い、かなり厳密な史料批判が必要であるということを示しています。
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うーむ。
このブログの記事はどれもすばらしいですね(笑)。
2007/7/25(水) 午後 8:38
過分なお言葉をいただき、恐縮です。ただただ自分で調べて、疑問なところ、おかしいと思うところを書きつづっているだけです。
2007/7/26(木) 午前 9:35
三国史記 (百済本紀)
397年 夏五月 王は倭国と友好関係を結び、太子の腆支を人質として倭に送った。
402年 五月 使者を倭国につかわして、大きな珠を求めた。
403年 春二月 倭国の使者が来たので、王は彼を迎えて慰労し、特に厚く遇した。
405年 腆支太子は倭国において訃報を聞き、哭泣しながら帰国する事を請うた。倭王は、兵士百名を伴わせて、護送した。
418年 夏 使者を倭国につかわし、白綿を十反を送った。
428年 倭国からの使者が来たが、随行者が五十名であった。
608年 隋が文林郎裴清を倭国へ使者として送ったが、わが国の南路を経由した。
653年 秋八月、王は倭国と修交した。
662年 七月 扶余豊は、高句麗と倭国に使者を派遣して援兵を乞う。唐新羅連合軍は百済遺民軍の救援にきた倭軍の軍船400艘を白江に焼く。
百済復興は失敗に終わり、倭軍は自国へ退却、扶餘豊は行方不明となる。
2014/7/26(土) 午前 4:24 [ 壮年老い易く学成り難き ]