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今木双墓
巨勢谷を南下して、谷の一番奥にある水泥の地は、そこから重坂峠を越えると、五条から紀伊に行き、また薬水を越えると
吉野川に出て、川沿いに上流に行くと吉野離宮に着くという交通の要衝地にあります。
この水泥の地について、『大和誌』では今木双墓(ならびばか)があると紹介し、蘇我蝦夷と入鹿親子の墓としています。
この記述が水泥塚穴古墳と水泥南古墳という2つの古墳のことを指すのか、それとも水泥南古墳の中にある2つの石棺のこと
を指すのかは不明ですが、ここの古墳が古くから注目されていたことは重要なことです。
塚穴古墳石室
塚穴古墳の墳丘は羨道部分側が大きく削られ、墳丘の形や規模はわかっていません。図のような石室が保存されています。両
袖式の石室で、奥壁から見て玄室右側面の底石3石・3段、奥壁2段という作り方をして、玄室の天井が高く、玄室の奥壁と
前壁が垂直になっているのが特徴です。市尾墓山古墳・宮塚古墳・権現堂古墳・新宮山古墳の玄室側壁の規模と形態がほぼ同
じであるのに対して、この塚穴古墳の石室は違っています。
また土地の所有者が物を置くために羨道部を掘った際に、土管が約20本出てきました。現在もこの内の完形品2本と破片3
個が保存されています(図2)。この土管は羨道部だけに埋められた排水施設です。
巨勢谷の古墳の中では異質の石室をもつ塚穴古墳ですが、玄室の奥壁と前壁が垂直に立つ例は盆地内でもいくつかあります。
一つはほぼ同じ規模で、多分同じ造墓工人が作ったと思われるのが桜井市茅原にある狐塚古墳です。狐塚古墳の玄室奥には、
組合式の家型石棺があります(写真3)。この家型石棺の石材は、二上山の上部ドンズルボー層中にある流紋岩質火山礫凝灰
岩で、ドンズルボー西方の石切場から切り出されたものと考えられています。
同じように奥壁と前壁が垂直に立ち上がり、さらに玄室が高くなったものとしては、桜井市の越塚古墳と平群町の烏土塚古墳
があります。この2つの古墳の石室形態がよく似ていて、さらに両方ともに組合式の家型石棺を持っていることでも共通して
います。
このように玄室の奥壁と前壁が垂直に立つタイプは、6世紀の中頃から後半にかけてのものと考えられています。
このタイプの石室の後、6世紀の終末になると、盆地内の大型石室は一斉に大きな変化をします。
塚穴古墳も6世紀の後半だと考えられますが、従来7世紀の前半の古墳とされていました。それは先に紹介しました土管の年
代観によるものです。図2をよく見ますとわかりますように丸筒瓦を合わせたもので、内面には丸瓦と同じように布目があり
ます。丸瓦の技術の転用であることがわかり、7世紀代前期の技術であることがわかります。これが塚穴古墳の年代を考える
根拠になりました。
ただ図を見てもわかりますように、形も不揃いで、製作技法にもそれぞれ違いがあり、この古墳のために作られた土管ではな
く、寄せ集められたものであることがわかります。
それと土管の出土場所が羨道部にのみ限定されているので、古墳自体は石室形態からもわかるように、6世紀の後半に作ら
れ、7世紀前半に追葬が行われた時に土管が排水溝として埋められたと考えるのがよいようです。
この古墳の主も巨勢氏であると思いますが、連綿と続いてきた巨勢氏のお墓とは少し違います。盆地内の平群や三輪方面の勢
力と強い結びつきがあることを考慮して、文献資料を細かく分析するとわかるかもしれません。
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