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8月23日(土)、新沢千塚側のクリ−ンセンタ-橿原で『激動の5世紀と橿原の遺跡-渡来文化の導入-』』と題して、中久保辰夫氏(大阪大学埋蔵文化財室助教)の講演会があり、その講演を拝聴しました。何度か、過去に訪れたことがある新沢千塚の墳丘を横に見る場所で、懐かしく思いました。その講演の中で中久保氏は、まず「5世紀の東アジア情勢と倭国」と題して、『宋書』にある倭の五王の記事を紹介し、5世紀代の倭国の政治社会を探る手がかりとして、野中古墳に焦点を当て、古市古墳群群の内実について述べられました。その後渡来人と橿原の集落遺跡について、渡来人がもたらしたものなどについて論を進められました。時間不足のためか、論点が今一つ分かりにくかったのですが、所々で余談のように話されていた以下の問題点は興味深いものでした。
①野中古墳に馬具が埋葬されていないのは何故か。 ②3つの埋納坑の底部が一致しないため、野中古墳にも埋葬施設が見つかるのではないか。 ③渡来人のもたらした土木技術により、大型の古墳を作るのは簡単になったはずなのに、古墳が小さくなっていったのは何故か。 ①については、その当時馬具はまだ貴重なものであり、何らかの記念のようなもので、子孫に受け継いだ可能性があるのではないか。.文字通り伝世馬具。または、馬には乗っていなかったという事も考えてみるべきであると思いました。 ②については、その可能性はあるが、図面だけで憶測を広げず、発掘またはトレンチを入れるなどするのがよいのでは。難しいことだが、そういう努力もしてほしいと思います。 ③については、大きな古墳を作る意味がなくなったなどが考えられますが、また考えを進めてみたいです。 思いつくままに、感想を述べましたが、これからもっと考えていきたいと思います。
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