ちょっと考古学

一介のアマチュアがやっている気軽な考古学です

全体表示

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全37ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

仁徳陵の陪塚収塚古墳


先日、仁徳陵の「陪塚」(ばいちょう)収塚古墳の前方部の端部が見つかり、同分の輪郭が復元できた、記事が5月29日付けの朝日新聞の朝刊に出ていました。この収塚古墳と深く関わることについて、かつて触れたこと(拙稿「古墳時代考古学の諸問題」『市民の古代第17集』ビレッジプレス社1996年4月所収がありまして、そのことを思い出しましたので、ここで再度提起をして、皆様の率直なご意見・ご感想を伺いたい、と思います。そのきっかけとなりましたのは、『天皇陵を発掘せよ』三一書房1993年2月所収の執筆者の一人藤田友治の一文を読んでからのことでした。そこで藤田は、好事家出会った税所が意図的に目的を持って仁徳陵前方部を掘ったと断定し、確信犯である、との決めつけを行っていることでした。税所が「清掃」したのは、前方部の2段目(図1)であり、本来ならあり得ない場所から石室を見つけているので、好事家として知られる税所にしてはおかしなことだ、素朴な疑問を持ったことです。それで前方部前面にある陪塚を見ると、問題の収塚を初め、源右衛門が前方部の裾線に平行に列んでいる(図2)ことでした。これらの事実を踏まえ、前方部2段目の石室は仁徳陵を作る前にあった前方後円墳のもので、収塚などは、その古墳の陪塚であって、そのためにその古墳に墳丘主軸を揃えたために、前方部端部線に平行になった、とかんがえました。とんでもないような話ですが、そのように考えるのが最も合理的なように思います。
図1
イメージ 1
  図2
イメージ 2




  

中久保氏の講演会

8月23日(土)、新沢千塚側のクリ−ンセンタ-橿原で『激動の5世紀と橿原の遺跡-渡来文化の導入-』』と題して、中久保辰夫氏(大阪大学埋蔵文化財室助教)の講演会があり、その講演を拝聴しました。何度か、過去に訪れたことがある新沢千塚の墳丘を横に見る場所で、懐かしく思いました。その講演の中で中久保氏は、まず「5世紀の東アジア情勢と倭国」と題して、『宋書』にある倭の五王の記事を紹介し、5世紀代の倭国の政治社会を探る手がかりとして、野中古墳に焦点を当て、古市古墳群群の内実について述べられました。その後渡来人と橿原の集落遺跡について、渡来人がもたらしたものなどについて論を進められました。時間不足のためか、論点が今一つ分かりにくかったのですが、所々で余談のように話されていた以下の問題点は興味深いものでした。
①野中古墳に馬具が埋葬されていないのは何故か。
②3つの埋納坑の底部が一致しないため、野中古墳にも埋葬施設が見つかるのではないか。
③渡来人のもたらした土木技術により、大型の古墳を作るのは簡単になったはずなのに、古墳が小さくなっていったのは何故か。
  ①については、その当時馬具はまだ貴重なものであり、何らかの記念のようなもので、子孫に受け継いだ可能性があるのではないか。.文字通り伝世馬具。または、馬には乗っていなかったという事も考えてみるべきであると思いました。
 ②については、その可能性はあるが、図面だけで憶測を広げず、発掘またはトレンチを入れるなどするのがよいのでは。難しいことだが、そういう努力もしてほしいと思います。
  ③については、大きな古墳を作る意味がなくなったなどが考えられますが、また考えを進めてみたいです。
  思いつくままに、感想を述べましたが、これからもっと考えていきたいと思います。
昨日(8月13日)、テレビのニュ−ス番組などでは、奈良県の飛鳥にある都塚古墳の墳丘調査で、これまでに類例の無い、特異なピラミッド状の積み石による段築を持った構造が明らかになり、当古墳がある地域が古代の豪族である蘇我氏の地域であることなどから、蘇我の稲目の墓ではないか、と大きく報道されていました。その有力な根拠として、当古墳の特異な段築が高句麗の有力者の古墳に似ており、当時高句麗と交流が強かった蘇我氏が候補に挙がり、今回の結論に到った、と言うのが論拠のようです。このことについて、少し考えてみたいと思います。  まず、有力な論拠として挙げられている高句麗の古墳について少し調べてみました。例えば、『高句麗の歴史と遺跡』森浩一監修・東潮・田中俊明編著1995年中央公論社)のP170にある高句麗積石塚の所類型とする図に依れば著名な高句麗の将軍塚古墳の平面図断面図が掲載されており、その図をよく見ると、確かに石垣状の列石で作られていて7段あります。しかし、何よりも高句麗の将軍塚は石室が最上段部にあり、他方都塚は最下段部にある、と言う明らかな違いがあります。他方、積石状石垣で段築を持ち、高句麗の将軍塚古墳のように最上段部石室を持つ古墳として思い出されるのは、岡山県北房町(現在の真庭市)にある大谷(おおや)1号墳です。この大谷1号墳では、天井部も含めると5段となります。現在は、発掘調査後保存の為、コンクリ−トで固められていますが、こちらの方がより高句麗との類似正が高いのではないでしょうか。ちなみに、この古墳よりは後の時代に成立した元禄検地帳には、この辺りは、太宰(たいさい)という地名であったことが書かれており、大谷1号墳は吉備太宰の石川王の墓である可能性が高い、と思われます。詳しくは、『終末期古墳と大谷1号墳』(1996年 平井勝・近藤義郎・猪熊兼勝・門脇禎二 司会 葛原克人 大谷1号墳シンポジウム 大谷1号墳シンポジウム実行委員会 参照)この古墳の現在の状況は、http://cms.top-page.jp/p/maniwa/3/4/26/をご覧下さい。都塚古墳より高句麗の古墳に近い、最上段に石室のある古墳が岡山県にあると言うことからまた考えを深めたいと思います。 

開く トラックバック(1)

田中清美氏講演会

 8月9日、台風が接近する中、大阪歴史博物館で行われた田中清美さんの講演会に行ってきました。田中氏は「加美遺跡で見つかった弥生王募の謎にせまる」と題して。Y1・2号墳丘墓について、現時点での知見を詳しく話されました。特に印象に残ったのは、Y1号墓の実年代が明らかにされたことでした。その根拠として、以下の3つの事柄を挙げておられました。
①Y1号墳の北端に埋まっていた柳の木の年輪年代
②土器型式や遺物の年代
③木棺の年輪年代
  その他、周堤に接する墳丘に穴が開いていたが、穴を埋めて墳丘の元の形を確定した、などが興味深く思えました。

考古学講演会のご案内

考古学講演会のお知らせ
私どもの研究会では、この度考古学講演会を行います。私も参加致しますので、ご都合のつく方は、是非ご参加下さい。詳しくは、http://www7.ocn.ne.jp/~kobunken/text/oshirase.htmをご覧になって、お申し込みくださいね。皆様と久しぶりにお目にかかりたい、とぞんじます。宜しくおねがいもうしあげます。

全37ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.
にし
にし
男性 / O型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31

ブログバナー

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
10/31まで秋の行楽キャンペーン実施中

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事