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新しい会報が出ました

考古文化第48号 発行

私ども研究会の会報「考古文化第48号」が出ました。

発行が遅れてご迷惑をおかけしましたが、何とか無事発行出来ました。

今号の内容は

西 博孝「継体紀と考古学2」 武烈と丹波/継体の登場/漢文の特質/邪馬台国問題/なぜ樟葉に継体
               は進出してきたのか

吉野 修「古墳めぐりの記録ー大和の大型群集墳を歩くー」
 はじめに/行燈山古墳(崇神天皇陵)/櫛山古墳/竜王山古墳群/おわりに

中岡敬善「縄掛突起をもつ竪穴式石槨の天井石について」
 はじめに/縄掛突起をもつ石槨天井石の分類と分布/佐紀陵山古墳の竪穴式石槨と「屋根形石」/花崗 岩類の石棺/小結

です。

まず、吉野さんのものは今年2月26に私どもの会で行いました第28回古墳めぐりの記録と報告です。

古墳めぐり当日のレジュメにある資料と新たに解説のための資料が加えられた貴重なものです。古墳めぐ

りに参加された方々は、この報告によって更に認識が深まるものと思います。また当日の資料にも掲載さ

れていました柿本人麻呂の万葉集2215番の人麻呂の妻の亡骸を引手山に葬ったという歌を再度紹介

し、この引手山が地理的に見て竜王山に当たることから、竜王山古墳群は中央政権下の下級官僚の墓域で

はないか、との指摘をしています。

 中岡論文は、御所市にある室宮山古墳をはじめとして、縄掛突起をもつ天井石の古墳の集成を行ってい

ます。このような試みは多分初めてのことだと思います。そしてこれらの古墳の時期と天井石の石材と石

棺から、変遷を想定し、そこに含まれている意味を汲み取ろうとする意欲的なものです。

 拙稿は現在連載中のもので、その第二弾です。継体紀原文をできるだけ詳細に分析して、そのような経

過で書かれたのか、ということをある程度明らかにしました。

今回は特に継体が請われて畿内に来たのではなく、文献の分析から侵出してきたという論拠を示しまし

た。これらの作業の過程で、日本書紀を書いた日本人述作者が『三国志』を読んでいることが明らかにな

り、簡単ではありますが、「邪馬台国」問題についてもふれることにしました。

ご興味がある方には、ご覧になって頂きたいと思います。 

池田市の鉢塚古墳

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池田市の鉢塚古墳

 昨日10月8日、古墳めぐりの下見会で講師担当の吉野修さんの案内で、私どもスタッフと一緒に、池

田市内の古墳を見てきました。次回めぐる古墳の一つに鉢塚古墳があります。池田市鉢塚2丁目の丘陵山

麓にあるこの古墳は、巨大な石室として考古学の世界では知られています。古くは、1934年(昭和9

年)に梅原末治氏によって調査され、1962年(昭和37年)には富田好久氏らによって、測量調査が

行われています。墳丘は以前から上円下方墳ではないか、と考えられていましたが、近年の関西大学の周

濠調査によって、周濠は円形に巡るようだとのことですから、2段築成の円墳の可能性が高くなりまし

た。

 直径約40m・高さ約9mで周濠幅10mの規模となります。

石室規模

 南に開口する横穴式石室は、玄室長6.48m・幅3.5m・高さ5.2mです。羨道部は、長さ8.

4m・幅1.8m・高さ2.4mです。

玄室の高さは、大阪府下で最大規模であり、石室規模でも京都府の蛇塚、奈良県の石舞台古墳に次ぐ巨大

石室です。

 玄室側面は、最下段に大型石材を4石配して、6段積みとなっていて、4段目から強い持ち送りを行い

ドーム状になっています。天井石は3枚です。

 奥壁も6段積みです。

 羨道部は、6ないし7石を配し、天井部は4枚です。

現在石室内には十三重塔があり、国指定重要文化財です。

遺物がないので、細かな時期はわかりませんが、石室の構造から6世紀末葉のものと考えられています。

石棺石材

 倉敷考古館の間壁忠彦先生の研究では、この古墳には「二上山白石の石棺石材?」があると書かれてい

たのを記憶していて、以前見に行ったときに探しましたがわかりませんでした。今回それらしき石材を見

つけましたので、書いておきます。

一つは、玄室入り口部分の側壁に充填されるようにおいてある長径20cmぐらいの石です。基質は白色

〜灰白色で、最大長径3mm大の濃灰色〜青灰色の流紋岩の亜円礫を大量に含み、長径1mm以下の軽石

を大量に含んでいます。黒色の流紋岩質容結凝灰岩を含んでいないことや岩相から、二上山上部ドンズル

ボー層中の流紋岩質火山礫凝灰岩と考えられます。二上山ドンズルボー西方の石材によく似ています。

同じ石材で、羨道部入り口にあるものは溝が彫られており、組み合わせ式石棺の一部と思われます(一番最後の写真)。

もう一つは、玄室入り口にあり、基質が淡黄土色で、黒色の流紋岩礫様のものが含まれているので、「竜

山石」と呼ばれている流紋岩質火山礫凝灰岩質溶結凝灰岩と思われます。ただし、この石はルーペで細か

く見ていないので、そうだとは断定出来ませんが、印象的には播磨系石材と思われます。これも石棺材の

可能性があります。

少なくとも二上山系の石材は間違いないと思われますので、石棺石材を壁体に使った古墳例として、貴重

な考古資料と言えます。
 

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樟葉の宮はどこか?

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 久しぶりの書き込みとなります。無料で使わせて頂いているので、文句は言えないのですが、

このYAHOOブログは書き込みはしやすいのですが、重さの関係もあるのでしょうが、字数制限が

あり、欄も小さくて、書き込みがしにくいという難点があります。それで最近はもっぱらミクシィー

の方に書いていました。http://mixi.jp/show_friend.pl?id=655681

 先日、枚方で文化財の復元をやっているOさんという方からメールとお電話をいただき、樟葉宮

の伝承地とその周辺をご案内していただく機会がありました。

樟葉宮とは

 『日本書紀』の継体紀によれば、大伴金村や巨勢男人が越前まで行き、継体に天皇に即位するよう

にお願いに行きましたが、金村や男人の真意を疑った継体はその申し出を辞退します。一方継体は、

その裏で、日頃から知っている河内の馬飼荒籠に密使を送り、大伴・巨勢・物部の大連や大臣の真意を

探らせます。馬飼の荒籠からの連絡を聞いた継体は、即座に決断をし、すぐに河内の樟葉にやって来ま

す。現在の枚方市の楠葉と考えられているところです。

 樟葉にやって来た継体に対し、再度大連・大臣は即位を懇願しますが、継体は断りの儀礼を行って、

即位を断りますが、大連・大臣の熱意に押され即位したとあります。この即位をした地が樟葉宮とい

うことになっています。

 枚方市の交野天神社の中に、この樟葉宮伝承地があり石碑(写真)が建っています。またそこには貴船

神社が移築されています。今のところ、この地が樟葉の宮であったかどうかは、遺跡も遺物も見つかって

いませんので、わかりません。

樟葉宮を考えていく上で

 興味深いことは、継体紀にある樟葉宮で即位した記事の部分は、『日本書紀』の編集段階で日本人によ

て書き加えられたことが明らかになっています。わざわざその部分を加えているのです。

 この事実から、継体は請われて樟葉にやって来たのではなく、河内馬飼荒籠と連絡をとって、侵出して

きて、拠点としたのが樟葉であったと考えられます。そのような視点から考え直すと、樟葉宮はいわゆる

宮殿ではなく、侵略の最前線基地ととらえるなおす必要があるようです。

 実際に樟葉に行き、さらにそのすぐ北の男山に行きました。この山には有名な石清水八幡宮がありま

す。ここの展望台から見ると、目の前には北から桂川、宇治川、木津川が合流している模様が手に取るよ

うにわかります(写真)。この地を掌握すれば、淀川はもちろんのこと、この3大河川も管理することが

できます。

 そしてこの河川の対岸には、サントリーの山崎工場が見えます。山崎の津があったところです。

今城塚古墳の東南部に筑紫津神社という神社があり、古代の港があったと考えられています。古代歌謡の

催馬楽には、難波の海から大小の船が漕ぎ上って、筑紫津まで、もう少し頑張れば、山崎まで上れるとい

う内容のものが残っています。

 またこの筑紫津にそうように、淀川右岸には古代山陽道が通り、山崎まで行って、淀川を渡り、男山の

麓をかすめるよう通っていました。さらに男山の東側には、ほぼ南北に古山陰道が通っていました。この

道を北にとれば丹波へ、南に行くと大和へ入ることができます。

この地は、山陽道と山陰道が交わるところでもあったのです。水路も陸路も掌握できる土地であったとい

うことです。

 このような地勢を見ますと、継体は近江から宇治川(写真)を一挙に下って、この地を確保したと想像

することができます。

まだ樟葉宮は見つかってはいませんが、このような視点からとらえなおす必要があるのではないでしょう

か。





 

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西條52号弥生墳丘墓

 前方後円墳の原型と考えられる兵庫県加古川市の西條52号弥生墳丘墓の写真を

ミクシーにアップしました。前方後円墳の形や埋葬がどのようにして出来上がったのか、

ということを考える上で、非常に重要な遺跡ですが、既に消滅しました。

これほど重要な遺跡にもかかわらず、インターネットで調べても、ほとんどわかりません。

未公開の写真も含めて、貴重な情報をミクシーに書きましたので、ミクシーに参加されている

方は、是非ご覧下さい。  ↓  ↓  ↓

 http://mixi.jp/view_diary.pl?id=187716075&owner_id=655681

です。

考古文化 第46号

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会報46号が出ました

私どもの会報「考古文化」第46号が出ました。

吉野修「庭鳥塚古墳の現地説明会の感想」

中岡敬善「野神古墳を考える−阿蘇ピンク石製石棺と馬具による築造時期の検討−」

拙稿「継体紀と考古学 1」

という内容です。

吉野論文は、昨年大阪府羽曳野市で発掘された庭鳥塚古墳の現地説明会をもとに、

三角縁神獣鏡などの副葬品、特に筒形銅器の分布と時期などの詳細な検討から、

同古墳の築造時期と被葬者像を絞っていくとい労作です。筒形銅器の時期やそれを

副葬する古墳の集成がなされているのは、今後も使える貴重な資料です。

中岡論文は、阿蘇ピンク石石棺と縄掛突起をもつ天井石がある奈良市京終の野神古墳

に関する考察です。阿蘇ピンク石石棺の変遷を基礎に、また縄掛突起の天井石をもつ

古墳の集成を行っています。さらに同古墳出土とされる馬具についても、詳細な検討を

行い、同古墳の築造時期をかなり絞り込んでいます。これまでの定説を踏まえ、さらに

踏み込んだ考察で、力作です。

拙稿は、昨年9月大阪・本年4月東京で行いました講演会の内容を成文化した連載ものです。

継体紀の分析と考古資料を対比して、当時の状況を克明に復元しようというもので、これま

での文献史学や考古学の定説とは、かなり違うものです。どちらの説が妥当かは、読んで頂い

た人に判断してほいしいと思います。

いずれの論文も非常に示唆的で、ご興味のある方には読んで頂きたいと思います。

私ども考古文化研究会のHPにございます「考古文化の会」会員になって頂きますと、会報購読

ができますので、よろしくお願い致します。


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