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水泥南古墳

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水泥南古墳

巨勢谷の中では、一番南側にあるのが水泥南古墳です。前回紹介しました塚穴古墳から約100mほどし

か離れていません。墳丘は円墳と考えられていますが、図1を見てわかりますように西・北・東の一番外

の等高線が直線になっていることから、方墳の可能性もあります。径30mぐらいの円墳もしくは方墳と

いうことになります。

石室と石棺

この古墳の石室は、図2のようになっています。図2の上から2番目は、側面図で奥壁から見て左側の側

面図になりますが、玄室は底石4石で3段にきちっと積んでいるのがわかります。それに対して右側面(

図の一番下)は、左側面のように綺麗に目地が通っていませんので、石室を作るとき、まず最初に左側面

が作られたことがわかります。これまでの巨勢谷の古墳の玄室は長さに対して幅が半分ぐらいの狭長な石

室が特徴でしたが、この古墳ではその特徴はなくなっています。また他の古墳では、羨道部の天井が入り

口に向かって高くなっているのですが、その伝統もこの古墳では見られません。

新宮山古墳では、盆地内の古墳としては一番速く玄室の奥壁と前壁が内側に傾くという形態を取り入れま

したが、その伝統については、この古墳ではしっかり守られています。この古墳以降、盆地内の横穴式石

室の多くが同じように内傾するものになり、盆地内の画一化が一段と鮮明になります。

この古墳には2つの家型石棺が納められていますが、石棺の石材が違っています。玄室の中央、奥にあ

る石棺は基質が白色〜淡黄色で黒色の流紋岩質溶結凝灰岩の礫を多量に含む流紋岩質凝灰角礫岩です。二

上山の下部ドンズルボー層中にある岩石で、牡丹洞東方の石切場から切り出されたものと推定されます。

手前の羨道部側にある家型石棺は、基質が淡黄土色で黒色もしくは灰色の流紋岩礫を多量に含む流紋岩質

火山礫凝灰岩質溶結凝灰岩で、高砂市の伊保山の石だと考えられます。

手前の石棺の前後の小口部分の突起には、蓮華文が彫られているので、この古墳は有名です。

この古墳の石材と石棺の分析をされた奥田尚先生から直接うかがったのですが、石室の床面から蓮華文を

彫り込んだ時にできた破片が見つかったとのことでした。この石棺を作った石工がこの古墳まで来て、棺

を納める時に蓮華文を彫ったということです。

石棺を切り出した石工が古墳まで来るのはこのような特殊な場合だけでなく、一般的であったようです。

私は見ていないのですが、阿蘇ピンク石の石棺を熊本から大阪湾まで運ぶ実験があり、その時運ばれた石

棺を見た人から聞きますと、石棺はかなり傷がついて傷んでいたようです。

ですから石切場では、大まかな形に削りだして搬送し、目的の古墳に到着してから石切場の石工によって

再度最終的な仕上げがなされたとようです。

この古墳は、7世紀の前半ぐらいの古墳と考えられています。一方巨勢谷には7世紀半ば頃に巨勢氏の氏

寺である巨勢寺が築かれ、その遺構も見つかっています。

この巨勢寺の関係と蓮華文、氏寺を築いたされる巨勢徳太の活躍期間などから、この古墳の被葬者は巨勢

の徳太が高いと考えられています。

高松塚古墳の赤色顔料

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高松塚古墳の床石に赤色顔料

昨日のテレビで、現在石室解体中の高松塚古墳のニュースが流れました。本日6月22日の朝日新聞朝刊の33面にも写真入

りの記事が掲載されています。それによると南壁が置かれていた床面に3点の古代の赤色顔料が見つかったとのことです。

築造の時に壁画を描くための赤色顔料をこぼしたとのこことです。かつての分析で、この赤色顔料は硫化水銀(水銀朱)とベ

ンガラ(酸化第2鉄)の2種類であることがわかっています。また方位を示す朱雀が見つかっていないことから、それに使わ

れた可能性もあるとのことです。

今回のように今後の調査によって、さまざまな事実がわかってくるものと思います。

どこの石材か

今回の報道で、私の関心はもっぱらどこの石材を使っているのか、ということでした。二上山のものであるのは、すでにわか

っているのですが、問題は二上山のどの石切場の石材か、ということです。それでいくつかのニュースの画面で出る映像を必

死で見ていました。

考古学では、よく二上山白色凝灰岩という表現をしますが、それ自体間違いではないのですが、非常に大雑把なくくり方で

す。

図は奥田尚先生の「鉱産資源の採取と加工」1996年に掲げられた図に加筆したものです。

図を見てわかりますように、一口に二上山白色凝灰岩といっても、北側から見て田尻峠北にある穴虫、田尻峠西側にあるドン

ズルボー西方、それから南下って牡丹洞、その東にある牡丹洞東方(加筆部分)、そこから南東に下って鹿谷寺跡北方、その

東にある岩屋峠西方など6ヶ所が確認されています。これらの石切場よりは小規模ですが穴虫の石切場から東にある高山の石

切場(図にありません)を加えると7ヶ所が確認され、それぞれの石材には際だった特徴があり、区分が可能です。

火砕流が堆積してできた凝灰岩のような岩石では、含まれている岩石片や鉱物が平均的に一律に分布しているのではないの

で、石材の前面を細かく観察しないとわかりません。ましてやテレビなどの映像では、決めがたいものです。

これまで見てきた印象から言いますと、牡丹洞東方の石材の可能性が高いのではないか、ということです。

写真は牡丹洞東方の石材です。基質が白色〜淡黄土色、黒色の亜円礫を大量に含んでいます。この黒色の岩石をこれまでは、

松脂岩としていましたが、近年の研究では流紋岩質溶結凝灰岩とされています。そして灰色の流紋岩亜円〜円礫を含み、白色

の軽石を多量に含んでいます。

この岩石は、下部ドンズルボー層中に含まれる流紋岩質火山礫凝灰岩〜流紋岩質凝灰角礫岩です。

高松塚古墳の石槨石材の詳細な報告がなされるものと思いますが、今回の顔料の件やその他のこと追って報告されるのを楽し

みにしたいと思います。

阿蘇ピンク石

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阿蘇山の火砕流噴火

地質学の研究から阿蘇火砕流の噴火は約30万年前〜7万年前までそれぞれ間の時期をおいて、4回あっ

たことが明らかになっています。これらを古い順にAso-1,Aso-2,Aso-3,Aso-4火砕流と呼んでいます。

火砕流というのは、火山噴火の時にマグマとともに火口付近にあった岩石などを含んで一挙に流れ出すも

のです。阿蘇山の最後のAso-4と呼ばれる火砕流は、中九州のみに留まらず一部は瀬戸内海を渡って、山

口県の宇部にまで到達しているものがあり、その規模の大きさと量は驚くべきものです。

これらの火砕流が堆積したとき、層が厚い場合、堆積してすぐに冷却することはなく、高温を保っている

部分は、火砕流に含まれる鉱物などが溶け出します。これを溶結と呼んでいます。

ガラスを高温で熱した時、真っ赤な液状になり、ガラスどうしがくっつきあうのと同じような現象です。

実際には、軽石やスコリアが溶けて球体になり、さらに層の重みが加わるために、扁平の円盤状になりま

す。このような状態のものを溶結凝灰岩と呼んでいます。

阿蘇ピンク石と呼ばれる岩石は、Aso-4火砕流堆積物の中にあるもので、弱い溶結部分とその下層にある

強い溶結部分の脱ガラス化している部分です。

脱ガラス化とは、火砕流堆積物に含まれる天然ガラスが冷却中に結晶質になり、溶結凝灰岩ではこの作用

を受けると、基質(鉱物や岩石以外の全体部分)が明灰色〜白色〜ピンク色などに変化することがわかっ

ています。

阿蘇ピンク石は、通常の阿蘇溶結凝灰岩が灰色〜黒色をしているのに対して、かなり限定された特殊な条

件で生まれた石であることがわかっています。

同じような条件があるところでは、阿蘇ピンク石があるのですが、石棺に使われる阿蘇ピンク石は熊本県

の宇土半島の付け根にある馬門(まかど)という地域で採石されたものです。馬門には現在でも赤石神社

とよばれる小さな丘があり、この丘の壁面には今でも真っ赤な露頭を見ることができます。これは石棺な

どを削りだした痕だと考えられています。

写真は数年前に馬門を訪れた際に、かつて採石をしていたところでいただいたものです。

赤石神社に登る階段は、岩盤を削って作ったものですから、階段ごとにいろいろな色があるのがわかりま

す。朱色のような真っ赤なもの、黄色みがかったもの、灰色っぽいものなどです。

阿蘇山ピンク石石棺


これまでに見つかっている阿蘇ピンク石石棺は次のようなものです。


1.岡山県築山古墳     (舟形 竪穴式石槨)
2.奈良県野神古墳     (舟形 竪穴式石槨)
3.奈良県金谷ミロク谷   (舟形 古墳不明)
4.奈良県兜塚古墳     (舟形 竪穴式石槨)  
5.奈良県鑵子塚古墳    (不明      )×
6.大阪府峰ヶ塚古墳    (不明 竪穴式石槨?)×
7.大阪府長持山古墳の2号棺(舟形 直葬)
8.奈良県慶雲寺石棺     (舟形 古墳不明)
9.奈良県東乗鞍古墳     (家形 横穴式石室)
10.滋賀県甲山古墳      (家形 横穴式石室)
11.滋賀県円山古墳     (家型 横穴式石室)
12.今城塚古墳       (不明 横穴式石室?)
13.奈良県植山古墳     (家形 横穴式石室)×

14.天王寺 熊野権現礼拝石  石棺ではない

×印は現在見ることが出来ません。3のミロク谷と石棺ではありませんが14の礼拝石は鮮やかな朱色か

らピンク色で、阿蘇ピンク石とはどんなものかを目に焼き付けるにはよいものです。 

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水泥塚穴古墳

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今木双墓

 巨勢谷を南下して、谷の一番奥にある水泥の地は、そこから重坂峠を越えると、五条から紀伊に行き、また薬水を越えると

吉野川に出て、川沿いに上流に行くと吉野離宮に着くという交通の要衝地にあります。

 この水泥の地について、『大和誌』では今木双墓(ならびばか)があると紹介し、蘇我蝦夷と入鹿親子の墓としています。

この記述が水泥塚穴古墳と水泥南古墳という2つの古墳のことを指すのか、それとも水泥南古墳の中にある2つの石棺のこと

を指すのかは不明ですが、ここの古墳が古くから注目されていたことは重要なことです。

塚穴古墳石室

塚穴古墳の墳丘は羨道部分側が大きく削られ、墳丘の形や規模はわかっていません。図のような石室が保存されています。両

袖式の石室で、奥壁から見て玄室右側面の底石3石・3段、奥壁2段という作り方をして、玄室の天井が高く、玄室の奥壁と

前壁が垂直になっているのが特徴です。市尾墓山古墳・宮塚古墳・権現堂古墳・新宮山古墳の玄室側壁の規模と形態がほぼ同

じであるのに対して、この塚穴古墳の石室は違っています。

また土地の所有者が物を置くために羨道部を掘った際に、土管が約20本出てきました。現在もこの内の完形品2本と破片3

個が保存されています(図2)。この土管は羨道部だけに埋められた排水施設です。

巨勢谷の古墳の中では異質の石室をもつ塚穴古墳ですが、玄室の奥壁と前壁が垂直に立つ例は盆地内でもいくつかあります。

一つはほぼ同じ規模で、多分同じ造墓工人が作ったと思われるのが桜井市茅原にある狐塚古墳です。狐塚古墳の玄室奥には、

組合式の家型石棺があります(写真3)。この家型石棺の石材は、二上山の上部ドンズルボー層中にある流紋岩質火山礫凝灰

岩で、ドンズルボー西方の石切場から切り出されたものと考えられています。

同じように奥壁と前壁が垂直に立ち上がり、さらに玄室が高くなったものとしては、桜井市の越塚古墳と平群町の烏土塚古墳

があります。この2つの古墳の石室形態がよく似ていて、さらに両方ともに組合式の家型石棺を持っていることでも共通して

います。

このように玄室の奥壁と前壁が垂直に立つタイプは、6世紀の中頃から後半にかけてのものと考えられています。

このタイプの石室の後、6世紀の終末になると、盆地内の大型石室は一斉に大きな変化をします。

塚穴古墳も6世紀の後半だと考えられますが、従来7世紀の前半の古墳とされていました。それは先に紹介しました土管の年

代観によるものです。図2をよく見ますとわかりますように丸筒瓦を合わせたもので、内面には丸瓦と同じように布目があり

ます。丸瓦の技術の転用であることがわかり、7世紀代前期の技術であることがわかります。これが塚穴古墳の年代を考える

根拠になりました。

ただ図を見てもわかりますように、形も不揃いで、製作技法にもそれぞれ違いがあり、この古墳のために作られた土管ではな

く、寄せ集められたものであることがわかります。

それと土管の出土場所が羨道部にのみ限定されているので、古墳自体は石室形態からもわかるように、6世紀の後半に作ら

れ、7世紀前半に追葬が行われた時に土管が排水溝として埋められたと考えるのがよいようです。

この古墳の主も巨勢氏であると思いますが、連綿と続いてきた巨勢氏のお墓とは少し違います。盆地内の平群や三輪方面の勢

力と強い結びつきがあることを考慮して、文献資料を細かく分析するとわかるかもしれません。

新宮山古墳

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新宮山古墳は前方後円墳

 巨勢谷の中ほどの丘陵をぬって、條ウル神古墳がある集落に抜ける道があります。その道沿いの丘陵上

に新宮山古墳はあります。この古墳は、1979年の県指定史跡に伴う墳丘測量と石室の実測調査が行わ

れました。その結果、径25m以上の円墳とされています。ただ河上邦彦先生だけは、前方後円墳の可能

性を指摘し、前方後円墳とすれば墳長40mほどになるとの重要な指摘をされています。

 では、公表されている新宮山古墳の墳丘実測図を見てみましよう(図1)。円丘部が正円ではなく横長

の楕円に近いものになっていますが、これは図からもわかるようにいくつかの大きな土取作業や長年の土

の崩落によって、元の形が崩れたものと想像出来ます。問題は矢印部分です。円部から右側にかけて舌状

の隆起部分があり、さらにそれより右側は平坦面であり、なおかつこの平坦面の側面部分、図では上下の

部分は平坦面に平行した等高線が右に伸びているが明瞭にわかります。

 円丘部から伸びる舌状の隆起は、市尾墓山古墳でも説明しましたように、竪穴式石槨に棺や遺体を運ぶ

ための掘り割り墓道を埋葬終了後に埋め戻したものです。埋葬施設が横穴式石室に変わりますと、閉塞石

や板石あるいは木戸などで通常は入り口部は塞がれていますが、追葬時には開いて使うことが出来ますの

で、墳丘にはこのような掘り割り墓道はまったく必要がないのですが、竪穴式石槨を作っていたときの習

慣が色濃く残っているということです。このことから市尾墓山古墳は、埋葬形態が竪穴式石槨から横穴式

石室に変わったばかりの古墳であるということになります。

 同じように掘り割り墓道の痕跡と前方部がありますので、新宮山古墳はこれまで言われていたように円

墳ではなく、前方後円墳であるということができます。ただ前方部の前面が削り取られて、崖になってい

ますので、正確な大きさや規模はわかりません。

 私どもの会が行っています「古墳めぐり」では、現地に行った際、前方後円墳であるという根拠と説明


をし、参加された方々には実際に墳丘に上がっていただいて、見ていただきました。

新宮山古墳が前方後円墳であるということは、かなり大きな意味を持っていると私は考えています。

石室

石室は、図2のようになります。両袖式の石室で、側面の規模と形は、墓山古墳・宮塚古墳・権現堂古墳

とピッタリ合います。また羨道部の天井石が入り口向かって上がっているのがわかります。継体と関係が

深い古墳の特徴がここにも表れています。そして石室に使われている石材の大きさがかなり大きくなり、

玄室側面は底石4石・3段、奥壁と見上げ石が内傾した「ハ」の字型になっていることが注目されます。

内傾した「ハ」の字型は、近江の古墳の特徴で、新宮山古墳の時期になって出てきたことがわかります。

石棺

玄室内の奥に組合せ式の箱式石棺、手前側に刳抜式の家型石棺があります。奥にある方がこの古墳の中心

人物と考えられますが、家型石棺の方が格が上であり、もともと2棺置くことが想定され、奥棺の方を後

で追葬したという河上先生の推定が正しいと私も思っています。

奥棺の箱式石棺は、写真3のようにかなり大きな結晶片岩の板石で作られており、内面には赤色顔料が塗

布されています。この人物も紀ノ川河口域と深い繋がりをもつ人物と考えられます。通常の箱式石棺より

はるかに大きな石棺ですので、並の力を持った人物ではないことがわかります。

家型石棺の石材は、基質が淡黄色の流紋岩質火山礫凝灰岩質溶結凝灰岩で、高砂市の伊保山の石です。

巨勢谷では、初めて播磨系の石棺が登場した例です。

この家型石棺に葬られた人物は、墓山古墳→宮塚古墳と続く巨勢氏の系譜を引き継いだ人物で、出土物が

ないので断定はできませんが、おそらく大臣クラスの人物であったと考えられます。


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