|
岡本俊郎さんとは、私が岡山市教委が行った四御神の古墳発掘調査に
参加し、その後に岡本さんが引き継いだことから、バイト代を持って
来てくれたりということで、話をするようになりました。岡本さんは、
考古学研究部のようなやり方が肌に合わないと思っていたようです。
そのころいつも黒っぽい大きなナップサックを持って、腕時計代わり
の大きな目覚ましをそれに入れていました。それからロシナンテ社の
『地域闘争』という雑誌も入れて、売っていました。1・2度私も買
いました。
岡本さんは、当時一宮の大窪というところに住んでいました。大学から
かなり離れた家がぽつりぽつりとしかない農家の一軒家を何人かの学生
で借りていました。夜7時ともなって、帳がおりた頃には物音一つしな
い静かな農村でした。
当時、谷岡ヤスジの漫画が流行っていて、多くの学生がその口調のまねを
していました。「○○するもんね!」という風に。
和島先生の足を揉みに行っていたとき、夜中の待合室でK先生が単位の話
しをしているとき、専攻生のUの健ちゃんが「いいもんねー。単位が出な
かったら、田舎に帰って、魚屋になるもんねー」と言ったのには、思わず
笑ってしまいました。度胸があるというか、怖いもの知らずというか。
本当に健ちゃんは岡山で出会った彼女を連れて帰って、魚屋になりました。
その一宮の下宿で、岡本さんなどは夜通し話をしたりして、朝6時頃になると、
近くにある火の見櫓に登り、頂上からめいめいがそれぞれの方向に向かい、
大声で漫画ばりに「アサー!」というので、近所の赤ん坊が引きつけを起す
ということで問題になっていました。またある時は、学生が借りている家の
前にキャベツの芯が落ちていて、近所の農家の人が自分とこの畑から盗んだ
ものだということでも問題になったようです。
その一宮の下宿で、岡本さんとは何度か遺跡保存運動の話や考古学の話をした
ことがあります。どこまで行っても平行線でしたが、ときおり見せる寂しげな
目は見た目もよりも線の細い人だと思ったものです。というのは、歩きながら
話していると急に立ち止まって、駅の階段であろうと、どこであろうと座り込む
のです。昨今の若い人にはよく見られますが、当時は珍しいことです。またお酒
を飲んで酔うと、道路のまん中であろうと大の字になって寝るのです。
こんなことがあって、みんなは岡本さんのことを豪傑だと思っている節がありまし
たが、ガリ切りが上手でよく「吉備路通信」などのビラを作っていましたが、プロ
学同風のその文字はやはり繊細なものでした。
岡本さんは岡山から故郷の名古屋に帰り、高校時代から行っていた見晴台遺跡の調査
運動の中心として活躍していました。ところが、交通事故で33才という若さでこの
世をさりました。
十数年前、遺跡見学会で見晴台資料館を訪ね、書棚の隅の見覚えのある一冊の本を取り
出し、裏表紙をめくって見ました。そこには懐かしい字で「岡山大学法文学部史学科
考古学専攻 岡本俊郎」と書かれていました。
月の輪古墳に憧れ、考古学をやるなら和島先生と近藤先生の下でないと駄目だと決意
した高校生が、憧れの大学に入った喜びがそのわずかな文字の中に躍動していました。
聞くところによると、見晴台資料館では最近岡本俊郎といってもわからないと言うこと
です。原始・古代の遺跡をいかに保存し、後世の人々に伝え残していくかという考古学で
見晴台遺跡の調査・保存に、資料館建設に尽力した偉大な若き研究者の功績を伝えられな
いというのは、残念なことです。
|