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若杉泰子先生とは、前に書きましたM本の紹介で会いました。先生は仏文科の
助手をされており、中国問題に関心が深く、M井やM本と交流があったようです。
初めてお目にかかって、中国問題だけでなく、私が考古学に興味を持っていると
わかると俄然身をの乗り出して、M本を無視して話し出しました。それ以来よく
連絡があり、考古学研究室を訪ねた折、先生の研究室は同じ学部で上階にあった
ので、よくお訪ねしました。春成先生と若杉先生はいつも夜遅くまで研究室で研
究されていたので、ほとんどいつ訪ねてもおられました。そして夕飯をごちそうに
なりました。キャンティーのワインを飲んだのも、先生のところでです。私がワイ
ン好きになったきっかけを与えてくれました。
’71年の秋、会員拡大と宣伝をかねて中国映画の「赤軍女性中隊(中国題 紅色
娘子軍」を大学で上映しました。確かこのときは、200名以上、いやもっとの参
加者があったと思います。上映した山口共同映画社の人が驚いたぐらいですから。
これまでにない経験にM本は興奮していました。
このときは、一般の参加者も多く、バレエ教室の先生が生徒を連れて参加するなど
大きな催しになりました。
若杉先生も非常に協力してくれて、喜んでおられました。それは先生は働きながら、
夜に早稲田に学び、その後京都大学の大学院に入ったということが背景にあったか
らです。働きながらの夜に大学に行っていたときの先生の唯一の楽しみが仕事場の
行き帰り、大学の行き帰りというわずかな自由時間の電車の中で、大好きなオペラ
の楽譜を見て、軽く口ずさみながら、その場面を思い出すことだったと話してくれ
ました。その話しをされたときの先生の頬には赤みがさし、目がキラキラと輝くの
は、若かりし頃の学問に燃えながら密かな楽しみに心ときめかす少女そのものでした。
先生とは、ご飯をごちそうになりながら、いろいろな話しをしました。どういうわけか
先生には特に目をかけていただき、前にも書きましたが風邪を引いたときに、わざわざ
下宿まで薬をもって来ていただいたり、活動家とはかくあるべきとのご丁寧な手紙をい
ただいたりしました。
その後先生はお家を買われ、三鷹からお母さんを呼ばれていましたが、確か春休み
に急逝されました。神戸に帰っていた私は、その少し後に聞き、あわてて先生の家に
お供えを持って行きました。同じように世話になった学生活動家が何人もいましたが、
誰一人として、線香の1本もあげようとしないのには驚きました。
当時の活動家の中には、そのようなことに関わらずに毅然とした態度を取るのがすごい
ことだという風潮がありました。そんな人間に限って、一人の人間も集めることもでき
ず、運動もできないのです。
そして私はそのような人間が一番嫌いです。
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