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前回、北花内大塚古墳のことを書きました。そしてこの古墳が記・紀にある飯豊皇女のお墓
である可能性が高いことも、述べました。飯豊皇女については、記・紀、特に『日本書紀』を
読むと、非常に興味深いことが書いています。
清寧紀
清寧紀に、飯豊皇女が突如出てきます。それは角刺宮で男性と接したが、何ともなく、以後
男性との交わりを断った、というものです。そして同じく清寧紀には、有名な億計・弘計の2
兄弟を播磨で発見し、子供がなかった清寧の跡継ぎとして、この2兄弟に皇位を継がせること
にした、と書いています。
ところが、この兄弟は互いに譲り合ったため、姉の飯豊皇女が角刺宮で臨時で皇位について
政を行った、と次の顕宗即以前紀には書かれています。そして飯豊皇女が亡くなった後、弟の
弘計が顕宗として即位した、と言うものです。
この件は、非常に不思議な話しで、そもそも顕宗・仁賢は2兄弟ではなく、一人の人物であ
ろう、という研究者さえいるほど、やっかいな説話です。
『日本書紀』の画期的研究
ところが、このような顕宗・仁賢架空説や飯豊皇女即位架空説は成り立ちません。私の知って
いるアマチュアの研究者の中にも、継体架空説を唱える人がいます。実は、このような架空説な
どは、根本的に成立しないのです。
それはこのブログでも紹介しました森 博達先生の一連の研究、特に『日本書紀の謎を解く』
(中公新書)によって、どのような人によって、いつ頃『日本書紀』が述作されたかが明らかに
なったからです。この研究によって、『日本書紀』は第1巻から書き始められたのではなく、
巻14の雄略天皇紀から書き始められたことが明らかになりました。それも日本語を理解しない
当時の中国語(唐代北方音)による中国人によってです。これらの正式中国語で書かれた紀の各巻
を森先生は、α群と呼んでいます。これらのα群が書き終えられた後、日本人によって、巻1から
13までが書かれました。これらはβ群と呼ばれています。
森先生の中国音韻と古代中国語文に基づく一連の研究は、日本の文献史学において画期的なも
ので、文字通りノーベル賞にも匹敵する価値あるものです。
さて、清寧紀は雄略の子供である清寧のことについて書いたものですから、α群に属します。
日本語が理解できない中国人が綴ったものですから、当然何らかの記録資料がないと、架空で
書ける訳がないのです。そして飯豊皇女が即位したこと、顕宗・仁賢がいたことは史実と考え
なければなりません。
もしこれを否定しようとすれば、中国音韻論と古代中国語文に基づいて、自ら分析をして、
森説が成立しないという、根拠を示さなければなりません。
森説が正しいと思われるのは、別の研究で雄略紀から記されている暦法がことなり、暦法からも
α群とβ群が整然と分かれていることが明らかになっているからです。
飯豊皇女について
では、飯豊皇女について考えてみましょう。そのためには、まず雄略から考えなければなりま
せん。履中と葛城の黒媛の間に市辺押磐皇子が生まれます。雄略は、この市辺押磐皇子を謀殺し
ます。そしてまた葛城の円大臣を焼き殺し、その娘である韓比売を略奪婚し、円大臣の葛城の
土地や民も手中にします。雄略とこの韓比売の間に生まれたのが、清寧です。
清寧は、このことから半分は葛城系と言ってもよいのです。飯豊皇女は、先の市辺押磐の妹と
言う説と子供という説があります。顕宗即位前期では、飯豊は市辺押磐の子供となっており、
問題の顕宗・仁賢の姉と言うことになっています。ところが履中紀や『古事記』では、飯豊は
履中の子供で、市辺押磐と兄妹ということになっています。
このこともβ群がα群より後に書かれたことを如実に物語っています。なぜなら日本書紀が最初
から順次書かれたものであれば、履中紀が書かれ、それより少し後に清寧紀・顕宗即位前紀が書か
れるはずで、このような錯綜した状況に気づくはずです。
このように見てきますと、雄略以降は雄略によって壊滅的打撃を受けた葛城の勢力が清寧に跡継
ぎをさせ、実態は葛城の飯豊皇女が実権を持ち、その間に播磨から2兄妹を呼び寄せ、即位させた
ことがわかります。そして雄略系の勢力は、中心の座から追い落とされたことになります。
考古学から見た事実
雄略から仁賢までは、およそ5世紀の半ば頃から後半にあたります。雄略が宮を置いた泊瀬の
朝倉は奈良盆地東南部に当たり、葛城は盆地西側になります。5世紀の半ば頃、盆地西側の葛城
地域と東側では、同じ鉄製品でも明確に違う形態をとります。それが後半になると、葛城系のもの
に盆地全体が、「統一」されたようになります。
このことは「考古文化 第27号」で「葛城南部の古墳が語るもの」として書きました。飯豊皇
女即位の問題は、考古学的にも傍証が得られると思っています。
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