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先日、仁徳陵の「陪塚」(ばいちょう)収塚古墳の前方部の端部が見つかり、同分の輪郭が復元できた、記事が5月29日付けの朝日新聞の朝刊に出ていました。この収塚古墳と深く関わることについて、かつて触れたこと(拙稿「古墳時代考古学の諸問題」『市民の古代第17集』ビレッジプレス社1996年4月所収がありまして、そのことを思い出しましたので、ここで再度提起をして、皆様の率直なご意見・ご感想を伺いたい、と思います。そのきっかけとなりましたのは、『天皇陵を発掘せよ』三一書房1993年2月所収の執筆者の一人藤田友治の一文を読んでからのことでした。そこで藤田は、好事家出会った税所が意図的に目的を持って仁徳陵前方部を掘ったと断定し、確信犯である、との決めつけを行っていることでした。税所が「清掃」したのは、前方部の2段目(図1)であり、本来ならあり得ない場所から石室を見つけているので、好事家として知られる税所にしてはおかしなことだ、素朴な疑問を持ったことです。それで前方部前面にある陪塚を見ると、問題の収塚を初め、源右衛門が前方部の裾線に平行に列んでいる(図2)ことでした。これらの事実を踏まえ、前方部2段目の石室は仁徳陵を作る前にあった前方後円墳のもので、収塚などは、その古墳の陪塚であって、そのためにその古墳に墳丘主軸を揃えたために、前方部端部線に平行になった、とかんがえました。とんでもないような話ですが、そのように考えるのが最も合理的なように思います。
図1
図2
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2015年06月21日
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