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近年とみに新聞の記事で「卑弥呼の墓と考えられる箸墓古墳」などの
表題を目にするようになっています。あたかもそれが既定事実として、
学界で決まっているかのような印象を多くの人は受けるでしょう。
考古学者のなかで、箸墓(箸中山)古墳が卑弥呼の墓であると考えて
いる研究者は多いようです。
そこでこの問題を考えてみたいと思います。箸墓古墳が卑弥呼の墓と
されるまず第一の根拠は、その年代が3世紀の中頃もしくは後半という
築造年代の問題です。この時期を決めた根拠は、三角縁神獣鏡の紀年銘
鏡が『三国志』の魏志倭人伝に書かれている銅鏡百枚にあたるというもの
でした。
ところが既に述べましたように、紀年銘鏡は魏王朝が作って下賜するような
代物ではなく、その書かれている年代すら怪しいものであることは述べました。
次に根拠としているのは、卑弥呼が葬られた墓は魏志倭人伝には「径百余歩」
とされ、1歩は300歩で1里とされているので、約1.45mとなり、百
余歩は、145m強という円になるというもので、箸墓古墳の後円部とほぼ
同じと考えられるというものです。
しかし、それに対する反論として箸墓古墳は前方後円墳で、後円部径だけを
示すのはおかしく、何故全長を示さないのかというものがあります。
この反論に対しては、もともと箸墓は後円部だけが先に作られて埋葬がおこな
われ、後で前方部が付けられたと考えるものです。
この2点目の論拠について考えてみましょう。
最も論拠となる年代問題は、『三国志』の記事から想定したものでした。しかし
それは成り立たないことがわかりました。それで再度『三国志』を見てみましょう。
文帝紀には、次のように有名な文帝の詔があります。
冬 十 月 甲 子 , 表 首 陽 山 東 為 壽 陵 , 作 終 制 曰 : 「 禮 , 國 君 即 位 為 椑 ,椑 音 扶 歷 反 .存 不 忘 亡 也 .[一]昔 堯 葬 穀 林 , 通 樹 之 , 禹 葬 會 稽 , 農 不 易 畝 ,[二]故 葬 於 山 林 , 則 合 乎 山 林 . 封 樹 之 制 , 非 上 古 也 , 吾 無 取 焉 . 壽 陵 因 山 為 體 , 無 為 封 樹 , 無 立 寢 殿 , 造 園 邑 , 通 神 道 . 夫 葬 也 者 , 藏 也 , 欲 人 之 不 得 見 也 . 骨 無 痛 痒 之 知 , 非 棲 神 之 宅 , 禮 不 墓 祭 , 欲 存 亡 之 不 黷 也 , 為 棺 槨 足 以 朽 骨 , 衣 衾 足 以 朽 肉 而 已 . 故 吾 營 此 丘 墟 不 食 之 地 , 欲 使 易 代 之 後 不 知 其 處 . 無 施 葦 炭 , 無 藏 金 銀 銅 鐵 , 一 以 瓦 器 , 合 古 塗 車 、 芻 靈 之 義 . 棺 但 漆 際 會 三 過 , 飯 含 無 以 珠 玉 , 無 施 珠 襦 玉 匣 , 諸 愚 俗 所 為 也 . 季 孫 以 璵 璠 斂 , 孔 子 歷 級 而 救 之 , 譬 之 暴 骸 中 原 . 宋 公 厚 葬 , 君 子 謂 華 元 、 樂 莒 不 臣 , 以 為 棄 君 於 惡 . 漢 文 帝 之 不 發 , 霸 陵 無 求 也 ; 光 武 之 掘 , 原 陵 封 樹 也 . 霸 陵 之 完 , 功 在 釋 之 ; 原 陵 之 掘 , 罪 在 明 帝 . 是 釋 之 忠 以 利 君 , 明 帝 愛 以 害 親 也 . 忠 臣 孝 子 , 宜 思 仲 尼 、 丘 明 、 釋 之 之 言 , 鑒 華 元 、 樂 莒 、 明 帝 之 戒 , 存 於 所 以 安 君 定 親 , 使 魂 靈
要するにここでは、大きな墳丘を作らず、副葬品も少なくしなけらばならないと文帝自
らが説いています。これは魏の基本的な制度でした。魏からは倭国に使いが来て、卑弥呼
のお墓も見ています。魏王朝の册封体制下に入った倭国で、主人である帝よりも大きな
墳丘を築くということがあり得たでしょうか。鏡の時は『三国志』をもとに考え、墳丘
の時は、『三国志』を無視していると考えざるを得ません。
よく知られているように韓伝・倭人伝だけは異様に短い単位の里で書かれていますので、
ここの径百余歩も30m前後と考えるべきものです。そうしますと、魏王朝下のものと
してふさわしいと考えられます。
次に箸墓は当初円墳として作られ、後に前方部が付加されたという説はどうでしょうか。
これには根拠となる考古資料が1点だけあります。それは播磨の養久山1号墳です。
報告書によれば、後円部に二段にめぐる列石があり、上の段の列石で前方部と接する
部分の列石が抜き取られた痕跡が見つかり、抜き取った後に前方部を付加したのでは
ないかと説明がされています。
堅田直先生の墳丘に関する優れた考察によれば、土盛りをした墳丘は土を押し固める
だけでは不十分で、墳丘築造後数年放置をして、墳丘を固めないと、墓壙が掘削でき
ず、崩壊してしまうという指摘があります。
このように考えますと養久山1号墳も後円部に二重の列石をめぐらした前方後円墳と
して完成した後、数年放置され、いよいよ埋葬の時期を迎えたものと考えられます。
埋葬については、近年近藤義郎先生が明らかにされているように、前方部から遺体が
運ばれ、前方部と後円部が接する部分を断ち割り、掘り割り墓道を通って、墓壙の底部
に到着するという考えです。
つまり掘り割り墓道を築く時に前方部に面した列石は、はずされます。これが養久山1
号で検出されたものと考えられます。
つまり円墳を作って埋葬し、その後に前方部を作った古墳というのは、実はこれまでに
見つかっていないのです。
現に箸墓古墳の周溝も後円部と前方部が同時期に作られたことは、発掘調査によって認
められています。
そして魏志倭人伝では、倭人のお墓の習俗として「棺あるも槨無し」と書いています。
これは倭人一般だけで、王は別とも考えられますが、一応倭人習俗の一般として考え
てみます。
そうしますと、箸墓古墳の北側の大池からかなり厚い板石で表面に赤色顔料を塗った
ものが見つかっています。この石は、大阪府柏原市の芝山南西部にあるカンラン石・
輝石・玄武岩質安山岩で竪穴式石槨の石材であることがわかっています。このことから
箸墓古墳は竪穴式石槨であることはほぼ間違いないと考えられ、先の倭人伝の記述にも
若干抵触する部分があります。
他にも考古学的な反証がありますが、このような考古資料と文献資料の状況が明確に
ある中で、箸墓が卑弥呼の墓であると断定できる状況はまずあり得ないと思います。
扇情的なキャッチフレーズも結構ですが、このあたりからきっとした論議を積み重ねて
いかないと駄目ではないでしょうか。
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