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條ウル神古墳

巨大な石室と異形の石棺

5年前の平成14年、御所市の條ウル神古墳の石室と石棺が公開され、現地説明会が行われました。私は

現説に参加していませんので、写真を掲載することはできません。いくつかのサイトで、当日の様子や石

室、石棺の写真と説明が掲載されていますので、そちらの方を参照して下さい。

この古墳の玄室は、長さ約7m・入り口部幅約2.8m・奥壁部幅約2.4m・高さ約3.6mの逆羽子

板の形をした大きなものです。このような逆羽子板の形をした石室は、茨木市の耳原(みのはら)古墳も

そうです。見た目以上に遠近法で、大きな石室に見えます。また羨道部は、入り口部分ははっきりしませ

んが、長さ約8m・幅約2m・高さ約1.7mというものです。

両袖式の石室で、玄室の右側壁(奥壁から見て)は基底石4石で4段にさらに上に小さな石で1段の微調

整があります。奥壁は、大きな石で3段に積んでいます。玄室の天井石は4石で、羨道部の天井石は、3

石です。石の積み方から見れば、右側壁から作られたと考えられます。

そして奥壁上段が内傾しているのに対して、前壁・見上げ石は垂直に立ち上がっています。これがこの石

室の特徴であり、時期を示すものとも考えられます。

玄室内には、巨大な刳抜式の家型石棺があります。石棺蓋の小口部分にそれぞれ1個ずつ、側面に3個ず

つの縄掛突起をもっています。1133というタイプで、珍しいもので、静岡県に同じ形の石棺があるぐ

らいです。

石棺の突起をよく見ると、方形の各角すべてが面取りがなされています。これも時期が新しくなることを

示していると考えられます。

写真からの判断ですが、石棺の石材は二上山下部ドンズルボー層中に含まれる流紋岩質凝灰角礫岩で、お

そらく二上山の牡丹洞東方の石切場から切り出されたものと思います。

この古墳の石室は非常に巨大なものですが、非常に細長い玄室が特徴で、さらに二上山の石材を使った石

棺を持っていることから、巨勢氏のお墓である可能性が高いものです。

また墳丘も前方後円墳の可能性がたかいものです。今後の調査によって、副葬品や土器が明らかになり、

古墳の時期や被葬者の姿がより鮮明になるものと思います。

水泥南古墳

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水泥南古墳

巨勢谷の中では、一番南側にあるのが水泥南古墳です。前回紹介しました塚穴古墳から約100mほどし

か離れていません。墳丘は円墳と考えられていますが、図1を見てわかりますように西・北・東の一番外

の等高線が直線になっていることから、方墳の可能性もあります。径30mぐらいの円墳もしくは方墳と

いうことになります。

石室と石棺

この古墳の石室は、図2のようになっています。図2の上から2番目は、側面図で奥壁から見て左側の側

面図になりますが、玄室は底石4石で3段にきちっと積んでいるのがわかります。それに対して右側面(

図の一番下)は、左側面のように綺麗に目地が通っていませんので、石室を作るとき、まず最初に左側面

が作られたことがわかります。これまでの巨勢谷の古墳の玄室は長さに対して幅が半分ぐらいの狭長な石

室が特徴でしたが、この古墳ではその特徴はなくなっています。また他の古墳では、羨道部の天井が入り

口に向かって高くなっているのですが、その伝統もこの古墳では見られません。

新宮山古墳では、盆地内の古墳としては一番速く玄室の奥壁と前壁が内側に傾くという形態を取り入れま

したが、その伝統については、この古墳ではしっかり守られています。この古墳以降、盆地内の横穴式石

室の多くが同じように内傾するものになり、盆地内の画一化が一段と鮮明になります。

この古墳には2つの家型石棺が納められていますが、石棺の石材が違っています。玄室の中央、奥にあ

る石棺は基質が白色〜淡黄色で黒色の流紋岩質溶結凝灰岩の礫を多量に含む流紋岩質凝灰角礫岩です。二

上山の下部ドンズルボー層中にある岩石で、牡丹洞東方の石切場から切り出されたものと推定されます。

手前の羨道部側にある家型石棺は、基質が淡黄土色で黒色もしくは灰色の流紋岩礫を多量に含む流紋岩質

火山礫凝灰岩質溶結凝灰岩で、高砂市の伊保山の石だと考えられます。

手前の石棺の前後の小口部分の突起には、蓮華文が彫られているので、この古墳は有名です。

この古墳の石材と石棺の分析をされた奥田尚先生から直接うかがったのですが、石室の床面から蓮華文を

彫り込んだ時にできた破片が見つかったとのことでした。この石棺を作った石工がこの古墳まで来て、棺

を納める時に蓮華文を彫ったということです。

石棺を切り出した石工が古墳まで来るのはこのような特殊な場合だけでなく、一般的であったようです。

私は見ていないのですが、阿蘇ピンク石の石棺を熊本から大阪湾まで運ぶ実験があり、その時運ばれた石

棺を見た人から聞きますと、石棺はかなり傷がついて傷んでいたようです。

ですから石切場では、大まかな形に削りだして搬送し、目的の古墳に到着してから石切場の石工によって

再度最終的な仕上げがなされたとようです。

この古墳は、7世紀の前半ぐらいの古墳と考えられています。一方巨勢谷には7世紀半ば頃に巨勢氏の氏

寺である巨勢寺が築かれ、その遺構も見つかっています。

この巨勢寺の関係と蓮華文、氏寺を築いたされる巨勢徳太の活躍期間などから、この古墳の被葬者は巨勢

の徳太が高いと考えられています。

水泥塚穴古墳

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今木双墓

 巨勢谷を南下して、谷の一番奥にある水泥の地は、そこから重坂峠を越えると、五条から紀伊に行き、また薬水を越えると

吉野川に出て、川沿いに上流に行くと吉野離宮に着くという交通の要衝地にあります。

 この水泥の地について、『大和誌』では今木双墓(ならびばか)があると紹介し、蘇我蝦夷と入鹿親子の墓としています。

この記述が水泥塚穴古墳と水泥南古墳という2つの古墳のことを指すのか、それとも水泥南古墳の中にある2つの石棺のこと

を指すのかは不明ですが、ここの古墳が古くから注目されていたことは重要なことです。

塚穴古墳石室

塚穴古墳の墳丘は羨道部分側が大きく削られ、墳丘の形や規模はわかっていません。図のような石室が保存されています。両

袖式の石室で、奥壁から見て玄室右側面の底石3石・3段、奥壁2段という作り方をして、玄室の天井が高く、玄室の奥壁と

前壁が垂直になっているのが特徴です。市尾墓山古墳・宮塚古墳・権現堂古墳・新宮山古墳の玄室側壁の規模と形態がほぼ同

じであるのに対して、この塚穴古墳の石室は違っています。

また土地の所有者が物を置くために羨道部を掘った際に、土管が約20本出てきました。現在もこの内の完形品2本と破片3

個が保存されています(図2)。この土管は羨道部だけに埋められた排水施設です。

巨勢谷の古墳の中では異質の石室をもつ塚穴古墳ですが、玄室の奥壁と前壁が垂直に立つ例は盆地内でもいくつかあります。

一つはほぼ同じ規模で、多分同じ造墓工人が作ったと思われるのが桜井市茅原にある狐塚古墳です。狐塚古墳の玄室奥には、

組合式の家型石棺があります(写真3)。この家型石棺の石材は、二上山の上部ドンズルボー層中にある流紋岩質火山礫凝灰

岩で、ドンズルボー西方の石切場から切り出されたものと考えられています。

同じように奥壁と前壁が垂直に立ち上がり、さらに玄室が高くなったものとしては、桜井市の越塚古墳と平群町の烏土塚古墳

があります。この2つの古墳の石室形態がよく似ていて、さらに両方ともに組合式の家型石棺を持っていることでも共通して

います。

このように玄室の奥壁と前壁が垂直に立つタイプは、6世紀の中頃から後半にかけてのものと考えられています。

このタイプの石室の後、6世紀の終末になると、盆地内の大型石室は一斉に大きな変化をします。

塚穴古墳も6世紀の後半だと考えられますが、従来7世紀の前半の古墳とされていました。それは先に紹介しました土管の年

代観によるものです。図2をよく見ますとわかりますように丸筒瓦を合わせたもので、内面には丸瓦と同じように布目があり

ます。丸瓦の技術の転用であることがわかり、7世紀代前期の技術であることがわかります。これが塚穴古墳の年代を考える

根拠になりました。

ただ図を見てもわかりますように、形も不揃いで、製作技法にもそれぞれ違いがあり、この古墳のために作られた土管ではな

く、寄せ集められたものであることがわかります。

それと土管の出土場所が羨道部にのみ限定されているので、古墳自体は石室形態からもわかるように、6世紀の後半に作ら

れ、7世紀前半に追葬が行われた時に土管が排水溝として埋められたと考えるのがよいようです。

この古墳の主も巨勢氏であると思いますが、連綿と続いてきた巨勢氏のお墓とは少し違います。盆地内の平群や三輪方面の勢

力と強い結びつきがあることを考慮して、文献資料を細かく分析するとわかるかもしれません。

新宮山古墳

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新宮山古墳は前方後円墳

 巨勢谷の中ほどの丘陵をぬって、條ウル神古墳がある集落に抜ける道があります。その道沿いの丘陵上

に新宮山古墳はあります。この古墳は、1979年の県指定史跡に伴う墳丘測量と石室の実測調査が行わ

れました。その結果、径25m以上の円墳とされています。ただ河上邦彦先生だけは、前方後円墳の可能

性を指摘し、前方後円墳とすれば墳長40mほどになるとの重要な指摘をされています。

 では、公表されている新宮山古墳の墳丘実測図を見てみましよう(図1)。円丘部が正円ではなく横長

の楕円に近いものになっていますが、これは図からもわかるようにいくつかの大きな土取作業や長年の土

の崩落によって、元の形が崩れたものと想像出来ます。問題は矢印部分です。円部から右側にかけて舌状

の隆起部分があり、さらにそれより右側は平坦面であり、なおかつこの平坦面の側面部分、図では上下の

部分は平坦面に平行した等高線が右に伸びているが明瞭にわかります。

 円丘部から伸びる舌状の隆起は、市尾墓山古墳でも説明しましたように、竪穴式石槨に棺や遺体を運ぶ

ための掘り割り墓道を埋葬終了後に埋め戻したものです。埋葬施設が横穴式石室に変わりますと、閉塞石

や板石あるいは木戸などで通常は入り口部は塞がれていますが、追葬時には開いて使うことが出来ますの

で、墳丘にはこのような掘り割り墓道はまったく必要がないのですが、竪穴式石槨を作っていたときの習

慣が色濃く残っているということです。このことから市尾墓山古墳は、埋葬形態が竪穴式石槨から横穴式

石室に変わったばかりの古墳であるということになります。

 同じように掘り割り墓道の痕跡と前方部がありますので、新宮山古墳はこれまで言われていたように円

墳ではなく、前方後円墳であるということができます。ただ前方部の前面が削り取られて、崖になってい

ますので、正確な大きさや規模はわかりません。

 私どもの会が行っています「古墳めぐり」では、現地に行った際、前方後円墳であるという根拠と説明


をし、参加された方々には実際に墳丘に上がっていただいて、見ていただきました。

新宮山古墳が前方後円墳であるということは、かなり大きな意味を持っていると私は考えています。

石室

石室は、図2のようになります。両袖式の石室で、側面の規模と形は、墓山古墳・宮塚古墳・権現堂古墳

とピッタリ合います。また羨道部の天井石が入り口向かって上がっているのがわかります。継体と関係が

深い古墳の特徴がここにも表れています。そして石室に使われている石材の大きさがかなり大きくなり、

玄室側面は底石4石・3段、奥壁と見上げ石が内傾した「ハ」の字型になっていることが注目されます。

内傾した「ハ」の字型は、近江の古墳の特徴で、新宮山古墳の時期になって出てきたことがわかります。

石棺

玄室内の奥に組合せ式の箱式石棺、手前側に刳抜式の家型石棺があります。奥にある方がこの古墳の中心

人物と考えられますが、家型石棺の方が格が上であり、もともと2棺置くことが想定され、奥棺の方を後

で追葬したという河上先生の推定が正しいと私も思っています。

奥棺の箱式石棺は、写真3のようにかなり大きな結晶片岩の板石で作られており、内面には赤色顔料が塗

布されています。この人物も紀ノ川河口域と深い繋がりをもつ人物と考えられます。通常の箱式石棺より

はるかに大きな石棺ですので、並の力を持った人物ではないことがわかります。

家型石棺の石材は、基質が淡黄色の流紋岩質火山礫凝灰岩質溶結凝灰岩で、高砂市の伊保山の石です。

巨勢谷では、初めて播磨系の石棺が登場した例です。

この家型石棺に葬られた人物は、墓山古墳→宮塚古墳と続く巨勢氏の系譜を引き継いだ人物で、出土物が

ないので断定はできませんが、おそらく大臣クラスの人物であったと考えられます。

権現堂古墳

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巨勢氏のお墓

 市尾墓山古墳、市尾宮塚古墳と同じように巨勢氏のお墓と考えられる古墳がまだあります。墓山古墳・

宮塚古墳から巨勢谷に入り、谷の中程にある新宮山古墳(これも巨勢氏のお墓ですが、別に述べます)を

さらに南下し、巨勢寺跡の東側の丘陵に問題の権現堂古墳があります。

権現堂古墳の墳丘

図1からもわかりますように、権現堂古墳の墳丘は神社を造る時にかなり削平されたようで、普通なら墳

丘の真ん中にあるはずの石室ですが、石室の南側には墳丘はまったく残っていません。石室を中心に墳丘

を復元すると、径約30mほどの円墳だと考えられます。

 ただ市尾墓山古墳と宮塚古墳を考えると、前方後円墳の可能性も捨てきれないと河上邦彦先生は指摘し

ています。私自身もかつて前方後円墳の可能性も考え、さまざまな復元案を考えてみましたが、どうして

も前方部にあたる位置が推定出来ず、悩んだことがあります。

その後、再度出土土器や出土品を見直した結果、権現堂古墳は前方後円墳ではないとの結論になりまし

た。その理由は、後の方で述べたいと思います。

石室

現在、図2の石室が残っています。石室図の左側、奥壁に当たる部分は残っておらず、現在真ん中の石棺

だけが残っています。この刳抜式家型石棺の石材は、二上山下部ドンズルボー層中に属する流紋岩質凝灰

角礫岩で、二上山牡丹洞東方から切り出されたものと考えられます。この石棺の身の底には、刳り抜いた

枕がしつらえられています。四国の「鷲ノ山」の石棺にも同じように刳り抜いた枕が作られることが多い

のですが、もっとも多いのは肥後を中心とした石棺によく見られるもので、この点でも権現堂の現存棺と

市尾墓山古墳の石棺が九州の石工集団もしくはその後裔によって作られたと考えられます。


また石室調査中にもう一つの石棺蓋の破片が見つかり、それは奥壁側、一番奥にあったものと推定されま

した。

この推定された石棺の蓋の小口部分の破片がこの古墳の近くにあるのを見つけました。石材は、現存棺と

同じで、二上山牡丹洞東方の石切場の石です。

現存する真ん中の石棺蓋の上部平坦面が35cmで、幅が125cmです。奥壁にあったと考えられる蓋

の平坦面が22cmと小さく、時期が下がるに連れて、平坦面の幅が広くなる傾向があるということを参

考にすれば、この点からもこの石棺が一番最初に据えられた、つまり一番奥にあったという推定を補強す

るものです。

それからもう一つ、結晶片岩の板石の破片が羨道部近くで見つかっているのですが、玄室の空間が少なす

ぎるので、主軸に直交する形で、結晶片岩の箱式石棺があったと推定されています。


出土土器と遺物

盗掘や削平があったわりには、時期を知ることができる良好な土器資料が検出されています。これらの須

恵器を見てみますと、MT15(陶器山15)型式・TK10(高蔵10)型式の古段階・TK10型式

の新段階の少なくとも3つの時期のものです。3つの埋葬がありますので、それに照応しているようで

す。

遺物としては、挂甲の小札・金銅製の馬具片・鉄鏃などが出ています。市尾墓山古墳の出土物とは違っ

て、武器・武具類があるのが特徴です。市尾墓山古墳や宮塚古墳の被葬者が文官であったのと対称的に

、権現堂古墳の被葬者は武人の可能性が高いということになります。

前方後円墳でない理由

権現堂古墳の時期がMT15型式に始まることは既に見てきました。ということは市尾墓山古墳とほぼ同

じぐらいの時期になります。そしてこの古墳は、市尾墓山古墳と宮塚古墳の間にほぼすっぽりと入ること

になります。

河上邦彦先生は、この権現堂古墳の箱式石棺の被葬者として巨勢奈率哥(奇)麻をあげています。巨勢奈

率哥麻は、欽明紀5年3月に百済からの使者として初めて出てくる名前です。奈率とは、百済の官位で六

品なります。同じ欽明紀に、紀臣奈率弥麻沙という人物について、紀臣が韓(から)の婦人と結婚して生

まれた子供で、百済に留まって奈率になったと説明しています。また他の場合も同じとも書いています。

このことから巨勢奈率哥麻も、巨勢氏が百済の地で現地の女性と結婚して生まれた人物と考えることがで

きます。

箱式石棺の石材である結晶片岩は、三波川変成帯に産出する岩石で、大和盆地では産出しない石です。も

っとも近いところで、紀ノ川流域と四国の吉野川流域です。権現堂古墳の石材は、紀ノ川流域の石材と考

えるのがよいようです。

大和盆地から海に出るには、一つは大和川を下るというのがありますが、当時の大和川は今とは違って、

かつて河内湖であった大阪市域に注いでいました。ところが古墳時代後期には、この河内湖は土砂の堆積

により埋まっていましたので、さらにそこから大阪湾までを進む必要がありました。

それで一番よく使われたのが、巨勢谷を南下して、紀ノ川流域に出て、そこから舟で瀬戸内海に出るとい

うルートです。

現在、近畿の人々は海外に行くのに泉州沖にある関西国際空港を使います。奥田尚先生は、このような事

情を踏まえて、古墳時代の紀ノ川流域、特に河口域は当時の関西国際空港だったとおっしゃっています。

とてもわかりやす例えです。巨勢氏は、地の利を活かして、紀ノ川河口域から九州さらに朝鮮半島へと出

て行ったと考えられます。また紀ノ川河口域の有力者と同族関係を結んでいたと考えられます。その結果

が権現堂古墳の箱式石棺だということになります。

またすでに述べましたように、この権現堂古墳は武人の可能性が高く、その身分を示すものとして、円墳

であると考えられます。


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