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考古学との出会い

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檀上重光先生との再会

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高校時代の恩恵

 高校1年生の時、田能遺跡の発掘調査の記事が連日載っていました。

それまで、将来エジプト考古学かインカ文明の研究をしたいと思っていた

私には日本の考古学にはまったく関心がありませんでしたが、さすがに連日

掲載の記事には関心を引かれ、岩見昭三君と大月(現 三木)静子さんと発掘

現場に行ったことは、このブログにも書きました。発掘現場を見たときの何とも

言いようのない感動に襲われ、1日も考古学のことが頭から離れない状態になって

しまいました。

 この田能遺跡の記事を書いていたのが、当時神戸新聞の学芸部におられた檀上先生

です。以来壇上先生の記事は欠かさず読む習慣がついてしまいました。檀上先生の記事

のお陰で、近藤先生が調査されている吉島古墳や養久山墳墓群のことを知るきっかけにも

なりました。また先生が書かれた『祖先の足跡』は、いつも手にしていて、書かれている

遺跡を訪れるに大変役に立ちました。

そうしているときにどうしても檀上先生に会いたくなり、あまり前後のことを考えず、すぐ

行動する私は、何の連絡もせず突然神戸新聞社に檀上先生をお訪ねしました。

そのあたりの事情は、 http://blogs.yahoo.co.jp/hirotak24/1533067.html に書きました。

以来何度か檀上先生を訪ねることになりました。先生には本当にお世話になり、ある時は

小林行雄先生に紹介してあげようかと言われ、滅相もないことで丁重にお断りしました。

また京大に行って、考古学を学ぶようにと何度もおすすめいただきましたが、自分の学力

と照らして、これまた滅相もないことで、断念しましました。

 その後岡大に進学して以降は、檀上先生とはお目にかかっていませんでした。

不思議な出会い

 3年前、大阪府立弥生博物館で弥生時代研究者の業績についての連続講演会が行われました。

その一つが小林行雄先生についての思い出で、檀上先生の講演でした。

 この檀上先生の講演会に私ども研究会の中岡敬善さんが参加され、講演会後先生にお目にか

かったようです。何十年も前の先生の本を若い中岡さんが持っていたので、先生も大変驚くと

ともに大層お喜びになったようです。その後、中岡さんが当日のお礼を兼ねて、私どもの会報

「考古文化」を先生に送りました。早速先生からお手紙をいただき、「アマチュアの会と言って

いますが、とてもレベルが高く驚きました。ついてはこのような会にこそ私の考古学関係の蔵書

を寄贈したい」との私たちには過分なそして有り難いお申し出がありました。

 それで中岡さんと私は、先生のお宅に寄せていただくことになりました。

もう40年以上も前のことで、先生はたくさんの人に会われているので、お忘れになっていると

思ったので、高校時代に使っていたノートを持参しました。その中には先生から教えていただいた

須磨浦公園のサヌカイト石鏃分布地のメモを書いているものです。

 40年ぶりにお目にかかり、この度の寄贈の件のお礼と当時のことをお話しすると、先生は懐かし

そうに私のノートをご覧になり、思い出されたようです。奥様もご一緒にお話に加わって、本当に

楽しいひとときでした。何でも『祖先の足跡』の題名は、奥様の命名だそうです。

人間の出会いの不思議を実感しています。

40年ぶりの古墳

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 今度の1月22日に行います「尼崎・伊丹の古墳めぐり」の下見会を昨年末の12月

11日に行ったことは、既に書きました。その中で水堂古墳は、40年ぶりに訪れたこ

ともお話をしました。まさかその当時は、40年後にこのような形で再びこの古墳を訪れ

ようとは、想像すらしておりませんでした。

 当時の思い出がつぎつぎと蘇ってくるとともに、今回の引越のお陰で思わぬものが出て

きましたので、書くことにしました。私事なのでやめようかとも思いましたが、何らかの

形で残しておくのもよいかと思い、書くことにしました。

兵庫県尼崎市の田能遺跡

 日本考古学を勉強しようと思ったきっかけは、1965年の田能遺跡の発掘現場に行った

ことは、前のブログに書きました。そしてそれが縁で、高校の地歴同好会に入ることになり、

クラブに昇格し、部長にならざるをえなかった経緯も述べました。クラブ活動を活性化させ

るために、夏休みに始まった田能遺跡の第6次調査に参加しました。

 今でこそ阪急六甲の駅から園田の駅までは、電車の便もよく、わずかな時間ですが、当時は

阪急六甲までまずバスで行き、そこから各駅停車に乗って、園田まで行き、そこからまたバス

に乗って、確か坪ノ口のバス停で降り、少し歩いて現場まで行くというものでした。

片道1時間半ぐらいかかったと記憶しています。発掘中に村川行弘先生や石野博信先生から伺

った周辺の遺跡も時間があるときには、できるだけまわることにしました。

それが水堂古墳だったのです。他にも上の島遺跡など多くの遺跡をまわりました。行動はいつも

岩見昭三君と二人でした。当時は考古学のことを何も知らず、ただただ見て回って、ノートに

書いていくというものでした。

田能遺跡の保存案コンクール

 田能遺跡の発掘に参加した後は、尼崎・西宮・芦屋・神戸などの遺跡を見てまわることが多く

なりました。私は理系のコースにいましたが、壇上重光先生のお薦めがあり、一度ならず考古学

に進むために文系に変わろうかと何度も考えました。いろいろと経緯があって、結局は理系に残

ることにしました。

 そんな折、顧問の田中久夫先生に呼ばれました。毎日新聞が田能遺跡をどう保存すればよいか、

という論文のコンクールがあるので、応募してみないかというお話でした。締切日を聞くと、あと

数日しかありません。急遽、岩見昭三君・戎野美明き君・楠元哲夫君と4人で1時間ぐらい討議

をしました。そして家に帰って、家族には何も話さないで、徹夜で論文を書き上げました。

 次の日にその原稿を持って、学校に行き、田中先生や他の3人に見てもらい、それでよいという

ことで、締切まであと1日しかないので、慌てて市電に乗って、神戸の中央郵便局まで投函しに行き

ました。

 その後すっかり応募したことは忘れていましたが、夏休みのある日、書いた論文がそのまま載って

いると尼崎の知り合いから連絡をもらいました。しばらくして毎日新聞社から、投稿した論文が特選

入賞したので、表彰式を行うという連絡がありました。尼崎の商工会議所で授賞式が行われ、友人と

一緒に参加し、楯と賞状そして入賞金をいただきました。また授賞式後には、パーティーがあり、そ

ようなものに出るのは初めての経験でした。入賞金は結構な金額でしたので、後輩達が続けて考古学

をやってほしいと願って、三角平板購入に充てました。

 私にとっては、この論文はもう専門的に考古学をやることはできないという思いを込めたものであ

り、また一緒に苦労をして部活動をやってきた仲間達との活動の記念碑です。

 

’71年から72年にかけて、まだ学園紛争の余韻が残り、多くの

学生が政治に関心がありました。考古学の専攻生の中にも平安博物館

事件などもあり、政治的なことと自分が学んでいる考古学とをどのよ

うに結びつければよいのか、というバランスに悩んでいました。黙々

と考古学を学んでいる人もいましたが。

ある時、史的唯物論の学習会を大学の合宿施設で行いました。まだ寒

い時期であったことを覚えています。そこに専攻生のIさんが参加して

来ました。いろいろと論議が進むうちに、寡黙なIさんがおもむろに

口を開いて、「『経哲手稿』によれば、上部構造と・・・」と話し出し

ました。私はあっけにとられて、自分のやっている考古学のことで話し

出すと思っていましたので、あまりにも現実離れした、それも『手稿』

という断片の中のさらに一部を取り上げるので、そのような取り上げ方

は間違いですと思わず言いました。その後、二三の応答がありましたが、

その日の学習会は終わり、みんな眠りました。

そのことがきっかけで、Iさんとはよく話すようになりました。奈良県の

梅林で有名なIさんは、ぬいぐるみの熊さんのような風貌で、おっとりと

した誰からも好かれる人でした。岡本俊郎さんとは、よく行動をともにし

ていました。Iさんの下宿も京山の近くでしたので、何度か下宿に訪ね、

話しをしたものです。私が『吉備』に書いた「保久良」を読んでいて、

「西さんは、高地性集落を追っかけているのですね。」と話しかけてこら

れ、私はあわてて「Iさんは先輩なのですから、西と呼んで下さい。」と

言っても最後まで、さん付けでした。

ある日Iさんの下宿を訪ねると、一生懸命に土器の実測図をトランプ大の

カードに切っています。それで「Iさん、何をしているのですか?」と訊

ねると、暗い顔をしたIさんが「この土器の順番を覚えんと、あかんねん

」と悲壮な顔で言います。そして「西さんはすぐに土器を覚えるけど、僕は

あかんねん」とさらに落ち込んだ表情になります。どう励ましてよいかも

わからず、その日はトランプの土器の各部の特徴を話しながら、別れました。

そのころ私は研究部に行かず、別のことをやれとの指示があり、やむなく授

業が終わって、かなりたってから考古学研究室に行くことが多くなっていました。

廊下の電灯も消え、中ほどの扉を開いた演習室からの明かりが廊下の一部を

明るく照らし出していました。誰かいるので演習室に行き、入りました。

何人かの専攻生とIさんが長机の周りに座って、土器の実測をしています。

入っていくと、Iさんが横に座れと言うので横に座って、実測を見ていました。

すると、すっとK先生が入ってきました。一人一人と話しをしながら、最後に

大きな声で、「これでI君もはれて卒業だね」と少し皮肉の入った口調で言い

ました。Iさんは固まったように何も言わず、ただ黙々と実測をしています。

私も仕方がないので、その手伝いをします。K先生が去った後には、何とも

いえない安堵感、脱力感が漂います。もう8時になろうとしている時間です。

こんな時間まで出てくる先生が文系にいるとは、思いもよりませんでした。

それから数日して、また演習室を訪ねると、相変わらずIさんが実測をして

います。顔を見て安心したのか、Iさんは途端に饒舌になりました。そして

入り口の気配を探りながら、大きな声で「おーい、K、聞いてんのか、何で

こんなことせなあかんねん!」と何度か叫びます。

他の専攻生は笑っていましたが、私はその様子を見て、何か悲しい思いにな

りました。その後、すぐにIさんは故郷の奈良へと帰られました。

当時の学生は、自分がよって立つ基盤をがむしゃらに模索していました。そ

れは、ある信条であったり、マルクスの片言節句であったりなどでした。

自分がよって立つ基盤が、それ以外の離れた世界にあると考えるのは空想

であることに気づかなかったのです。考古学を自分なりに学ぶ中でこそ、

自分があるということを、ともすれば忘れがちでした。

その最たるものが私ですが。

数年前、K先生はIさんを含む何人かの教え子を関西に訪ね、会ったようです。

私も久しぶりに心から好きなIさんに会ってみたいと思うようになっています。

15.若杉泰子先生

若杉泰子先生とは、前に書きましたM本の紹介で会いました。先生は仏文科の

助手をされており、中国問題に関心が深く、M井やM本と交流があったようです。

初めてお目にかかって、中国問題だけでなく、私が考古学に興味を持っていると

わかると俄然身をの乗り出して、M本を無視して話し出しました。それ以来よく

連絡があり、考古学研究室を訪ねた折、先生の研究室は同じ学部で上階にあった

ので、よくお訪ねしました。春成先生と若杉先生はいつも夜遅くまで研究室で研

究されていたので、ほとんどいつ訪ねてもおられました。そして夕飯をごちそうに

なりました。キャンティーのワインを飲んだのも、先生のところでです。私がワイ

ン好きになったきっかけを与えてくれました。

’71年の秋、会員拡大と宣伝をかねて中国映画の「赤軍女性中隊(中国題 紅色

娘子軍」を大学で上映しました。確かこのときは、200名以上、いやもっとの参

加者があったと思います。上映した山口共同映画社の人が驚いたぐらいですから。

これまでにない経験にM本は興奮していました。

このときは、一般の参加者も多く、バレエ教室の先生が生徒を連れて参加するなど

大きな催しになりました。

若杉先生も非常に協力してくれて、喜んでおられました。それは先生は働きながら、

夜に早稲田に学び、その後京都大学の大学院に入ったということが背景にあったか

らです。働きながらの夜に大学に行っていたときの先生の唯一の楽しみが仕事場の

行き帰り、大学の行き帰りというわずかな自由時間の電車の中で、大好きなオペラ

の楽譜を見て、軽く口ずさみながら、その場面を思い出すことだったと話してくれ

ました。その話しをされたときの先生の頬には赤みがさし、目がキラキラと輝くの

は、若かりし頃の学問に燃えながら密かな楽しみに心ときめかす少女そのものでした。

先生とは、ご飯をごちそうになりながら、いろいろな話しをしました。どういうわけか

先生には特に目をかけていただき、前にも書きましたが風邪を引いたときに、わざわざ

下宿まで薬をもって来ていただいたり、活動家とはかくあるべきとのご丁寧な手紙をい

ただいたりしました。

その後先生はお家を買われ、三鷹からお母さんを呼ばれていましたが、確か春休み

に急逝されました。神戸に帰っていた私は、その少し後に聞き、あわてて先生の家に

お供えを持って行きました。同じように世話になった学生活動家が何人もいましたが、

誰一人として、線香の1本もあげようとしないのには驚きました。

当時の活動家の中には、そのようなことに関わらずに毅然とした態度を取るのがすごい

ことだという風潮がありました。そんな人間に限って、一人の人間も集めることもでき

ず、運動もできないのです。

そして私はそのような人間が一番嫌いです。

岡本俊郎さんとは、私が岡山市教委が行った四御神の古墳発掘調査に

参加し、その後に岡本さんが引き継いだことから、バイト代を持って

来てくれたりということで、話をするようになりました。岡本さんは、

考古学研究部のようなやり方が肌に合わないと思っていたようです。

そのころいつも黒っぽい大きなナップサックを持って、腕時計代わり

の大きな目覚ましをそれに入れていました。それからロシナンテ社の

『地域闘争』という雑誌も入れて、売っていました。1・2度私も買

いました。

岡本さんは、当時一宮の大窪というところに住んでいました。大学から

かなり離れた家がぽつりぽつりとしかない農家の一軒家を何人かの学生

で借りていました。夜7時ともなって、帳がおりた頃には物音一つしな

い静かな農村でした。

当時、谷岡ヤスジの漫画が流行っていて、多くの学生がその口調のまねを

していました。「○○するもんね!」という風に。

和島先生の足を揉みに行っていたとき、夜中の待合室でK先生が単位の話

しをしているとき、専攻生のUの健ちゃんが「いいもんねー。単位が出な

かったら、田舎に帰って、魚屋になるもんねー」と言ったのには、思わず

笑ってしまいました。度胸があるというか、怖いもの知らずというか。

本当に健ちゃんは岡山で出会った彼女を連れて帰って、魚屋になりました。

その一宮の下宿で、岡本さんなどは夜通し話をしたりして、朝6時頃になると、

近くにある火の見櫓に登り、頂上からめいめいがそれぞれの方向に向かい、

大声で漫画ばりに「アサー!」というので、近所の赤ん坊が引きつけを起す

ということで問題になっていました。またある時は、学生が借りている家の

前にキャベツの芯が落ちていて、近所の農家の人が自分とこの畑から盗んだ

ものだということでも問題になったようです。

その一宮の下宿で、岡本さんとは何度か遺跡保存運動の話や考古学の話をした

ことがあります。どこまで行っても平行線でしたが、ときおり見せる寂しげな

目は見た目もよりも線の細い人だと思ったものです。というのは、歩きながら

話していると急に立ち止まって、駅の階段であろうと、どこであろうと座り込む

のです。昨今の若い人にはよく見られますが、当時は珍しいことです。またお酒

を飲んで酔うと、道路のまん中であろうと大の字になって寝るのです。

こんなことがあって、みんなは岡本さんのことを豪傑だと思っている節がありまし

たが、ガリ切りが上手でよく「吉備路通信」などのビラを作っていましたが、プロ

学同風のその文字はやはり繊細なものでした。

岡本さんは岡山から故郷の名古屋に帰り、高校時代から行っていた見晴台遺跡の調査

運動の中心として活躍していました。ところが、交通事故で33才という若さでこの

世をさりました。

十数年前、遺跡見学会で見晴台資料館を訪ね、書棚の隅の見覚えのある一冊の本を取り

出し、裏表紙をめくって見ました。そこには懐かしい字で「岡山大学法文学部史学科

考古学専攻 岡本俊郎」と書かれていました。

月の輪古墳に憧れ、考古学をやるなら和島先生と近藤先生の下でないと駄目だと決意

した高校生が、憧れの大学に入った喜びがそのわずかな文字の中に躍動していました。

聞くところによると、見晴台資料館では最近岡本俊郎といってもわからないと言うこと

です。原始・古代の遺跡をいかに保存し、後世の人々に伝え残していくかという考古学で

見晴台遺跡の調査・保存に、資料館建設に尽力した偉大な若き研究者の功績を伝えられな

いというのは、残念なことです。

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