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考古学との出会い

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8.大学に入って

大学の入学式の後、2日間はオリエンテーションがあり、たくさんのクラブ紹介が

ありました。ところがいくら探せども、考古学のクラブがありません。それで子供

の頃、柔道を習い、叔父から空手を教えてもらっていたので、武道をやることにし

ました。火木土の夜は町の道院(道場)へ行き、授業が多かったので、結構忙しい毎

日でした。

考古学同好会
このように朝から晩まで忙しい毎日を過ごしていた4月も終わり頃の土曜日、学生会館前

の電柱に「考古学同好会 説明会」というポスターを見ました。

慌てて学生会館に入り、二階への踊り場で同じポスターを貼ってる人に場所をたずね

て、部屋を聞きました。ポスターを貼っていて、部屋を教えてくれたのが、服部孝廣

君でした。めざす部屋に入ると、机が一つあり、そこにぽつんと小柄なむさ苦しい、

漫画の「男おいどん」の主人公にそっくりな人が座っていました。ほとんど何の説明も

なく、広げているノートに名前と住所を書けと言うことで、それを書いて次回の集まり

日を聞いて帰りました。それが、専攻生の佐藤敬二郎君でした。

次の週に集まりがあり、専攻生の但馬秀三さん、小山文生さん、堤諭吉さん、それから

佐藤敬二郎君、新入の馬場君と熊谷さんと私というものでした。それぞれの自己紹介と

親友生歓迎の古墳めぐりの日程を教えてもらいました。その日の集まりを終えて、堤さん

と佐藤君と私の3人は、大学の近くにある津島遺跡と神宮寺山古墳を見に行きました。

それから堤さんの下宿に行って、いろいろと話をしたりしました。

新入生歓迎の古墳めぐりは、造山古墳を中心としたもので、その当時は千足古墳の中に

はしごで入れました。今から考えると、どうしてもっと克明に石材、特に横穴式石室の

壁体を見ていなかったのか、と悔やまれます。

その後、服部孝廣君が大学裏の松風荘というアパートの3畳一間を学習会用に借り、そこ

で小林行雄『日本考古学概説』の輪読会を毎週するようになりました。大体は参加してい

ましたが、正直面白くなく、あまり熱心には参加しませんでした。

 先輩の堤さんが特に面倒を見てくれ、初めて考古学研究室の演習室につれて行ってくれ

たのも堤さんでした。確か日曜日の午後で、演習室にいる専攻生に紹介してくれたりしま

した。その時、丹前を着て眼鏡をかけ、眼光が鋭い人が入ってきました。

 その入ってきた人の顔を見て、すぐに近藤先生とわかりました。本でしか、文章でしか

お目にかかったことがありませんでしたが、その文章にぴったりだったからです。

その時は簡単な挨拶をしただけです。

堤さんには、倉敷考古館にも連れて行ってもらい、間壁忠彦先生と葭子先生にも紹介して

頂きました。

また論文「埴輪の起源」の抜刷もいただき、むさぼるように読みました。私には高校時

代と同じように同好会からゼロからやり直さなければならないのか、という暗鬱たる気持

ちがあり、堤さんには個人的にいろいろと連れて行っていただきましたが、同好会にはあ

まり参加せず、ほとんどの日曜日は自分で弁当を作って、一人で古墳や遺跡をまわって、

遺物を採集したり、記録したりしていました。

前期の試験が終わり、テスト休みとなり、大学祭になりました。それで同好会の会報『

きび』に投稿するように言われ、その休みを利用して、高校時代に調べていた保久良神社

のことを書きました。研究室では、近藤先生が私の拙文を読んで「おい、佐原と田辺の論文を批判しているえらい元気のよい1年生が入って来てるぞ!」と笑っていたそうです。

和島先生との出会い
『きび』が出てまもなく、堤さんから連絡があり、和島誠一先生が呼んでいるとの連絡が

あり、先生の研究室まで行きました。見覚えのある笑顔の先生で、いろいろとお話をして

くれたり、質問されたりしました。要はどのような研究をしたいのか、と言うことでした。

私は、畿内の銅鐸が中国から来た銅鏡や銅製品を鋳直したものだという小林説に疑問を持

っているので、それぞれの化学的分析データーを取って、本当にそうなのかを調べてみた

いと思っていますと怖いもの知らずで言いました。

 先生は笑顔のままで、いずれ青銅器資料を収集するとしても、これまでの研究状況を見

る必要があります、とおっしゃって京都大学の青銅器分析の本や『周禮』、新しく購入し

た『History of Bronze』などたくさんの本を貸してくれました。これを○○までに読んで、

問題点を整理しておくようにとのことでした。その後は、先生が原田大六を民主科学者協

議会に紹介し、公にデビューするきっかけになったことなどをお話し頂きました。

というのも、当時原田大六の『邪馬台国論争』が出ていて、その中で「友人の和島誠一を

拙宅に招いて、テストしてみた」という件があり、先生とはどのような関係かわからなか

ったからです。よくよく聞くと、原田にとっては先生は原田がメジャーな研究者となる大

恩人であるということがわかりました。一方だけの言い分を聞いてもわからない、また活

字になっているからと言って、信用してはいけないと思ったものです。

この頃先生は、体調が悪く、入退院を繰り返していました。それで飛び飛びで、ご指導を

受けると言うことになりました。『History of Bronze』の重要部分の翻訳と問題点をレポー

トにして出しなさいと言われ、それを出してからまもなく先生は、長期の入院生活を余儀

なくされました。

部室の確保
2年になろうとするころ、当時学園紛争で休止状態のサークルが多く、そのひとつ現代

思想研究会の部屋が空いており、そこを暫定的に借りることができました。武道の方もあ

る程度見通しが立ち、同時にその武道自身に疑問を持つようになっていました。師範の小

池光孝先生には、本当にお世話になり、かわいがってもらいましたが、一端芽生えた疑問

はどうしてもぬぐえません。その分、同好会の方に少しずつ力を入れていくようになりま

した。

考古学研究部誕生
ちょうど新入生が入ってくる季節で、新入生歓迎合宿を造山古墳北側にある三須丘

陵で行い、そこの分布調査をやることにしました。宣伝もかなり力を入れ、土曜日の午後

はほとんど、現思研の部屋に居て、ビラを見て訊ねてくる新入生、他学年の学生に説明を

しました。

その結果、一挙に30名以上の同好会になり、三須丘陵合宿も成功し、合宿後は毎週日曜

日は分布調査を行いました。これによって、ますます会員は増えました。これを背景に

6月に学生会総会で、クラブ昇格の議案を提出し、佐藤君と堤さんと私が出席し、無事ク

ラブ昇格を果たすことが出来ました。そしてこの年の秋には、はれて待望の部室をもらう

ことになりました。

それまで毎週のように行っていた分布調査のデーターを集め、3つの班でやっていたため

、観察の粗密や精度の違いが生じるので、堤さんと二人だけでテスト休みを利用して、す

べてのデーターを再確認する調査を行いました。墳丘と報告されているものは本当にそう

なのか、見落としの墳丘はないのか、などなどです。この二人だけの調査は、本当に楽し

かったものです。人がいない三須丘陵を二人で大声を上げて、国際学連の歌やワルシャワ

労働歌などの革命歌を歌いながらの調査は、今でも懐かしく思い出します。貧乏学生の私

たちは、いつもお腹がすいていました。それでこの分布調査の時も、弁当は持って行って

いるのですが、どうしてもお腹がすきます。そして周りを見渡しますと、綺麗な橙色が

鈴生りです。柿の季節です。われわれは、野生のもので、実が大きくてよく熟れた木を見

つけることにしました。ちょうど手頃な木があり、早速二人でがぶりとかぶりつきました。

その刹那、二人同時にプファーという音と共に吐き出しました。そう、渋柿だったのです。

それで木の根本の周辺をよく見ると、噛んだ痕がある柿がゴロゴロと落ちています。

それからは、柿を見つけてもすぐには食べずに、木の根本をよく見てから実を取るという

ことを覚えました。合宿中には、蝮を食べたり、木の実を食べたり、タラの芽を食べたり、

何が食べられるかを学んだのもこのときでした。

クラブでは、地図のトレースをしたり、土器の実測図を作ったりで、本当に楽しいサーク

ル活動になりました。

7.岡大へ

楠元君は働きながら勉強し、その後同志社に入りました。森先生の下で勉強したいと

いう希望が叶いました。私は希望していた学部を変えて、もう入らなければならない

ということと、南の絶海の孤島生まれですので、何か北への憧れがあり、北大受験の

手続きをしました。ある日、ぼんやりとバスに乗っていると、「西とちがうんか。」

と声をかけられました。見ると、中学の時の道満先生です。「大学はどうなってんねん。」

と聞かれ、私はこれまでの経緯を話し、北大を受ける予定だと言いました。そうすると、

道満先生は、「何でそんな遠いとこへ行くんや。学部が違っても、おまえが心から尊敬

している近藤先生の岡大にせえへんねん。」とぴしりと言われました。道満先生も岡大

の出身で、中学2年の私たちに月の輪古墳の話をしてくれたことをその時になって、初めて

知りました。

いろいろな人もいるでしょうが、私たちの世代と前後する世代の考古少年にとっては、

近藤義郎という先生は、文字通りアイドルだったのです。私は、道満先生のアドバイスで

いぶかる両親を尻目に、早速岡大の手続きをし、岡大に入学することになりました。

今から振り返ってみると、このように進むことは実は13才、中学2年4月の最初の社会

の授業の時に決まっていたのです。

6.高校3年生

同好会がクラブになってから、楠元君も来るようになりました。そしてまったく嫌い

だった考古学にも少しずつ興味を持ち出しました。古文が好きであった楠元君が、さ

らに考古学に入るきっかけとなったのは、原田大六の『奴国王の環境』と出会ったこと

でした。そこには文献と考古学との融合が解かれていたからです。そのころから魏志

倭人伝にある狗邪韓国について、いろいろと調べていました。後に大学での卒論では、

文献を土台としたものと記憶しています。楠元君の追悼論集では、なぜそのような論文

を書いたのか、わからないという趣旨の追悼文がありますが、高校時代から温めてきた

テーマに一つの区切りをつけたと私は理解しています。

3年生になると、受験勉強になるので2年の秋から春休みまでは、楠元君・岩見君・大和

君とは、いろいろな古墳や遺跡の踏査を行いました。

3年生になって、養久山墳墓群の記事が神戸新聞の一面に載りました。その新聞記事を囲ん

で、田中先生・野中先生・楠元君の4人で何度も職員室で話し込みました。ある時は、夜

7時を過ぎても議論に熱中し、守衛のおじさんに叱られたこともあります。

6月のある時、田中先生に呼ばれました。なんでも毎日新聞が田能遺跡の保存案の論文を

募集しているので、応募しないかという話でした。締切り期日を見ると、もうすぐです。

何人かで問題点を話合い、徹夜して論文を書き上げ、普通に投函しても間に合わないので、

放課後すぐに神戸の中央郵便局まで行って、投函しました。

理系に進学する私にとっては、考古学との決別という思いで徹夜して書いたものです。

その思いが通じたのでしょうか、その論文は最優秀特別賞に選ばれ、尼崎市商工会議書で

授与式とパーティーがありました。また当時としてはかなり高額な賞金までいただいたので

それで三角平板を買い、クラブに寄贈しました。

大学の受験となり、岩見君は大阪市大の経済、大和君は信州大学の教育に入り、楠元君は

関大に通りましたが、それを蹴って就職をしました。私は見事に落ち、浪人生活を送ること

になりました。

地歴研究部誕生

田能遺跡の発掘に参加して、活字の上ではなく、実際に遺跡を踏破したり、

黒川古文化研究所の講座に参加したり、芦屋市の教育委員会の岩本昭三先生

に教えを請いに行ったりと、さまざまな活動をしました。

黒川古文化研究所で、梅原末治先生の講演を2回拝聴したのはよい思い出です。

かなり後になって、近藤先生にその話をすると、私の世代で梅原先生の話を聞

いたことがあるということにたいそう驚かれていました。

部員もさらに増え、活動実績も蓄積されましたので、生徒会でクラブ昇格が承認

されました。このような活動の中で、神戸の保久良神社に足繁くかよい、これまでに

採集された土器の実測図を作ることにしました。その作業をやっているときに、

大月さんが人物の顔を描いた土版を見つけました。なんだろうかとみんなで話合いま

したが、まったくわからず、神戸新聞の学芸部で考古学の記事を書いている檀上重光

先生に相談することにしました。何の予約もなく、突然訪れたにもかかわらず、檀上先

生はいろいろと手配をしてくれたり、遺跡のことなどを詳しく教えて頂きました。その後

何回か檀上先生ところにお邪魔して、考古学に進むようにとおすすめがありました。

クラブに正式になってから、楠元君も顔を出すようになり、あれだけ嫌っていた考古学

に積極的に参加するようになりました。芦屋の八十塚古墳群や岩が平などを踏破し、実測

したり、写真を撮ったりしました。

またクラブではマルクス主義について関心が高まり、『フォイエルバッハ論』などの輪読

会を行ったりしていました。

高校2年も終わり頃になって、最終的に進むコースを提出しなければなりませんでした。

私はもともと理科系コースにいましたが、どうしても考古学に進みたくて、親とも何度も

話合いましたが、結局3年は理系に進み、考古学の道を断念せざるを得ませんでした。

考古学を前面に出して、新入生もかなり増えました。夏休みは入る前に、顧問の

田中先生に早速紹介状を書いてもらいました。田中先生と同じように関学、関大

の大学院と進まれた石野博信先生宛のものです。

夏休み入って、岩見君と新入生のNとH、同好会のメンバーではありませんでした

が参加したいという同級の津留誠君などと一緒に、田能の現場を訪れました。

早速石野先生にお目にかかり、団長の村川弘行先生に紹介していただき、津留君と

私は北から4つめのDというグリッドを担当することになりました。初日は、津留

君と私の二人だけで、かなり面を下げて、平安から鎌倉にかけての溝が出てきました。

この溝を全掘することになりましたが、どこまで掘ってよいのかわからず、怖いので

適当にVの字に掘っていたところ、石野先生が来られて、土色の変化をよく見て、壁面

に垂直になるように移植ゴテを使うようにと実際に教えてもらいました。それでも怖い

のでなかなか進まず、U字型に掘ってその日の作業を終わりました。その後石野先生が

一人で黙々とその溝を掘っていました。その後ろ姿をみて、申し訳ないなーと思い、

また先生の優しさに感動したものです。

次の日、早めに行ってみると、なんと綺麗に溝が仕上がっていました。

それからは少し土の色の変化にも目が慣れてきて、思い切って掘れるようになってきました。

田能遺跡の場合は、川の氾濫が多く、砂層も入り交じり、なおかつ土層の色がよく似ていて

ピットかどうか判断するのも難しいものです。途中から大阪市大の考古学研究部のメンバー

も参加し、私のグリッドは大槻さんと道中さん、隣は中村さんが担当し、一緒に掘ることに

なりました。こうなると少し難しいところでも、すぐに話し合えるし、作業もかなり楽しく

なりました。そうしたある日、R大のHさんが突然同じブロックにやってきました。非常に

馴れ馴れしい人で、どうも考古学の専攻生らしい人です。古墳から弥生の面になると、土器が

どんどん出てきます。するとHさんが突然、「おい、何様式や?」と訊ねます。それが毎回

続くので、発掘から帰った夜は『奈良県の考古学』にある唐古編年の土器の図をノートに書

き写して覚える日々が続きました。発掘の途中からは、Hさんの質問から質問が来るのが楽

しみで、仕方なくなりました。答えが出るようになると、Hさんの質問も少なくなりました。

この発掘には、約1ヶ月間参加しました。毎回参加したのは、岩見君と津留君と私、その次に

新入生のNとH、理屈っぽいWは一度か二度しか参加していないのに、臆面もなく発掘参加

感想を書いて、同好会誌に載せていました。

この発掘によって、ますます考古学が面白くなり、特に土器について興味が湧いてきました。

同時にどうして土器の順番がわかるのか、本当に編年は正しいのかという素朴な疑問が残り

ました。また田能では木棺に入った人骨がかなり検出され、弥生から古墳時代へは、具体的に

どのようにして変化したのか、ということに興味の焦点がいきました。

また一月間に、多くの考古学関係者を間近にみることが出来、関西の雰囲気はどこかなじめない

とうっすらと思うようにもなっていました。

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