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大学の入学式の後、2日間はオリエンテーションがあり、たくさんのクラブ紹介が
ありました。ところがいくら探せども、考古学のクラブがありません。それで子供
の頃、柔道を習い、叔父から空手を教えてもらっていたので、武道をやることにし
ました。火木土の夜は町の道院(道場)へ行き、授業が多かったので、結構忙しい毎
日でした。
考古学同好会
このように朝から晩まで忙しい毎日を過ごしていた4月も終わり頃の土曜日、学生会館前
の電柱に「考古学同好会 説明会」というポスターを見ました。
慌てて学生会館に入り、二階への踊り場で同じポスターを貼ってる人に場所をたずね
て、部屋を聞きました。ポスターを貼っていて、部屋を教えてくれたのが、服部孝廣
君でした。めざす部屋に入ると、机が一つあり、そこにぽつんと小柄なむさ苦しい、
漫画の「男おいどん」の主人公にそっくりな人が座っていました。ほとんど何の説明も
なく、広げているノートに名前と住所を書けと言うことで、それを書いて次回の集まり
日を聞いて帰りました。それが、専攻生の佐藤敬二郎君でした。
次の週に集まりがあり、専攻生の但馬秀三さん、小山文生さん、堤諭吉さん、それから
佐藤敬二郎君、新入の馬場君と熊谷さんと私というものでした。それぞれの自己紹介と
親友生歓迎の古墳めぐりの日程を教えてもらいました。その日の集まりを終えて、堤さん
と佐藤君と私の3人は、大学の近くにある津島遺跡と神宮寺山古墳を見に行きました。
それから堤さんの下宿に行って、いろいろと話をしたりしました。
新入生歓迎の古墳めぐりは、造山古墳を中心としたもので、その当時は千足古墳の中に
はしごで入れました。今から考えると、どうしてもっと克明に石材、特に横穴式石室の
壁体を見ていなかったのか、と悔やまれます。
その後、服部孝廣君が大学裏の松風荘というアパートの3畳一間を学習会用に借り、そこ
で小林行雄『日本考古学概説』の輪読会を毎週するようになりました。大体は参加してい
ましたが、正直面白くなく、あまり熱心には参加しませんでした。
先輩の堤さんが特に面倒を見てくれ、初めて考古学研究室の演習室につれて行ってくれ
たのも堤さんでした。確か日曜日の午後で、演習室にいる専攻生に紹介してくれたりしま
した。その時、丹前を着て眼鏡をかけ、眼光が鋭い人が入ってきました。
その入ってきた人の顔を見て、すぐに近藤先生とわかりました。本でしか、文章でしか
お目にかかったことがありませんでしたが、その文章にぴったりだったからです。
その時は簡単な挨拶をしただけです。
堤さんには、倉敷考古館にも連れて行ってもらい、間壁忠彦先生と葭子先生にも紹介して
頂きました。
また論文「埴輪の起源」の抜刷もいただき、むさぼるように読みました。私には高校時
代と同じように同好会からゼロからやり直さなければならないのか、という暗鬱たる気持
ちがあり、堤さんには個人的にいろいろと連れて行っていただきましたが、同好会にはあ
まり参加せず、ほとんどの日曜日は自分で弁当を作って、一人で古墳や遺跡をまわって、
遺物を採集したり、記録したりしていました。
前期の試験が終わり、テスト休みとなり、大学祭になりました。それで同好会の会報『
きび』に投稿するように言われ、その休みを利用して、高校時代に調べていた保久良神社
のことを書きました。研究室では、近藤先生が私の拙文を読んで「おい、佐原と田辺の論文を批判しているえらい元気のよい1年生が入って来てるぞ!」と笑っていたそうです。
和島先生との出会い
『きび』が出てまもなく、堤さんから連絡があり、和島誠一先生が呼んでいるとの連絡が
あり、先生の研究室まで行きました。見覚えのある笑顔の先生で、いろいろとお話をして
くれたり、質問されたりしました。要はどのような研究をしたいのか、と言うことでした。
私は、畿内の銅鐸が中国から来た銅鏡や銅製品を鋳直したものだという小林説に疑問を持
っているので、それぞれの化学的分析データーを取って、本当にそうなのかを調べてみた
いと思っていますと怖いもの知らずで言いました。
先生は笑顔のままで、いずれ青銅器資料を収集するとしても、これまでの研究状況を見
る必要があります、とおっしゃって京都大学の青銅器分析の本や『周禮』、新しく購入し
た『History of Bronze』などたくさんの本を貸してくれました。これを○○までに読んで、
問題点を整理しておくようにとのことでした。その後は、先生が原田大六を民主科学者協
議会に紹介し、公にデビューするきっかけになったことなどをお話し頂きました。
というのも、当時原田大六の『邪馬台国論争』が出ていて、その中で「友人の和島誠一を
拙宅に招いて、テストしてみた」という件があり、先生とはどのような関係かわからなか
ったからです。よくよく聞くと、原田にとっては先生は原田がメジャーな研究者となる大
恩人であるということがわかりました。一方だけの言い分を聞いてもわからない、また活
字になっているからと言って、信用してはいけないと思ったものです。
この頃先生は、体調が悪く、入退院を繰り返していました。それで飛び飛びで、ご指導を
受けると言うことになりました。『History of Bronze』の重要部分の翻訳と問題点をレポー
トにして出しなさいと言われ、それを出してからまもなく先生は、長期の入院生活を余儀
なくされました。
部室の確保
2年になろうとするころ、当時学園紛争で休止状態のサークルが多く、そのひとつ現代
思想研究会の部屋が空いており、そこを暫定的に借りることができました。武道の方もあ
る程度見通しが立ち、同時にその武道自身に疑問を持つようになっていました。師範の小
池光孝先生には、本当にお世話になり、かわいがってもらいましたが、一端芽生えた疑問
はどうしてもぬぐえません。その分、同好会の方に少しずつ力を入れていくようになりま
した。
考古学研究部誕生
ちょうど新入生が入ってくる季節で、新入生歓迎合宿を造山古墳北側にある三須丘
陵で行い、そこの分布調査をやることにしました。宣伝もかなり力を入れ、土曜日の午後
はほとんど、現思研の部屋に居て、ビラを見て訊ねてくる新入生、他学年の学生に説明を
しました。
その結果、一挙に30名以上の同好会になり、三須丘陵合宿も成功し、合宿後は毎週日曜
日は分布調査を行いました。これによって、ますます会員は増えました。これを背景に
6月に学生会総会で、クラブ昇格の議案を提出し、佐藤君と堤さんと私が出席し、無事ク
ラブ昇格を果たすことが出来ました。そしてこの年の秋には、はれて待望の部室をもらう
ことになりました。
それまで毎週のように行っていた分布調査のデーターを集め、3つの班でやっていたため
、観察の粗密や精度の違いが生じるので、堤さんと二人だけでテスト休みを利用して、す
べてのデーターを再確認する調査を行いました。墳丘と報告されているものは本当にそう
なのか、見落としの墳丘はないのか、などなどです。この二人だけの調査は、本当に楽し
かったものです。人がいない三須丘陵を二人で大声を上げて、国際学連の歌やワルシャワ
労働歌などの革命歌を歌いながらの調査は、今でも懐かしく思い出します。貧乏学生の私
たちは、いつもお腹がすいていました。それでこの分布調査の時も、弁当は持って行って
いるのですが、どうしてもお腹がすきます。そして周りを見渡しますと、綺麗な橙色が
鈴生りです。柿の季節です。われわれは、野生のもので、実が大きくてよく熟れた木を見
つけることにしました。ちょうど手頃な木があり、早速二人でがぶりとかぶりつきました。
その刹那、二人同時にプファーという音と共に吐き出しました。そう、渋柿だったのです。
それで木の根本の周辺をよく見ると、噛んだ痕がある柿がゴロゴロと落ちています。
それからは、柿を見つけてもすぐには食べずに、木の根本をよく見てから実を取るという
ことを覚えました。合宿中には、蝮を食べたり、木の実を食べたり、タラの芽を食べたり、
何が食べられるかを学んだのもこのときでした。
クラブでは、地図のトレースをしたり、土器の実測図を作ったりで、本当に楽しいサーク
ル活動になりました。
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