ちょっと考古学

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考古学との出会い

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私が地歴同好会に入った理由は、もう一つあります。そのちょっと前に楠元君が

生徒会にクラブ昇格の申請をして、生徒会幹事会で却下され、その責任を感じて

同好会を辞めるという事件がありました。その時の生徒会長で、今NHKでアナ

ウンサーをしている酒井茂樹さんを楠元君はひどく恨んでいました。酒井さんも

とんだ迷惑だったと思います。それでどうしても入れと言うことになりました。

学校の図書館にあった河出書房の『日本考古学講座』を片っ端からよみ、大和

秀雄君が見つけてきた『考古学の基本技術』はみんなで奪い合うようにして、読

み耽りました。また岩波日本史講座にあった「弥生文化論」に感銘を受け、この

人が月の輪古墳発掘の中心的な人だとわかるようになっていました。

生来即物的な私は、理論的なことは苦手で、具体的な行動でしか理解できないので、

同好会の活動も具体的にすることに決めました。それで檀上重光先生の『祖先の

足跡』を読んで、掲げられている遺跡で神戸市周辺部のものを全部自分で歩いて

みることにしました。

ある日曜日、何人かのメンバーと踏査に疲れて、帰路の阪急電車に乗っていたとき

「おーい、西とちがうんか」と声をかけられました。私は驚いて、声の方を見ると

なんと懐かしの道満先生でした。移植ゴテを入れたどろどろのナップサックと泥だ

らけの長靴姿の私たちを見て、「何をしとんねん。」と先生はいぶかしげな顔で訊

ねます。フィールド調査をやっていると答えると、先生は本当に嬉しそうな笑顔に

変わり、頑張ってやるようにと激励してくれました。その後は中学の思い出話や

考古学の話をしました。私にとって嬉しかったことは、先生に励まされただけで

はありません。たった1年しか社会を習っただけで、私のことを覚えていてくれた

からです。

こう言いますと、不思議に思われる方も多いと思います。私の中学は、当時神戸市

でも一二を争うマンモス校でした。団塊の世代の最後の世代である私の学年は、

1000人いて、クラスも18組までありました。1学年に社会科の先生だけで、

4・5人いて、担任でない限り、生徒のことを覚えていないのが普通だったからです。

ある程度の踏査が終了した時点で、もっとみんなが参加して面白いことはないかと考え

ました。新入生も入ってくることだし、ということでちょうど尼崎の田能遺跡の第6次

調査が夏休みに行われることになりました。それで顧問の田中久夫先生に無理を言って、

紹介状を書いてもらい、夏休みは田能遺跡の発掘調査に参加することにしました。

中学での道満先生の歴史の授業は、非常に楽しいものでした。また美術の担任であった

平山富爾先生の授業はユニークそのもので、ほとんど絵を描くことはなく、美術史とし

て、エジプト史やローマ史の講義がほとんどでした。またヒエログリフの基礎を教えて

いただき、当時一般では知られていなかったツタンカーメンやイムホテプなどのことを

教えていただき、エジプト考古学への興味がますます深まっていきました。平山先生は

中学3年時の副担任でもあったので、ますますその影響を受け、考古学を勉強するなら

エジプト考古学かインカ史を勉強してみたいと漠然と思うようになりました。

1965年に高校に入りました。高校1年のクラスでは、まだ1年生なのに微積の問題

を休み時間に楽しそうに解いている井上君、一時期中国に帰っていた穆君など個性的な

人間の集まりでした。その個性的な人間の集まり中に「ちろりん村とクルミの木」のキャ

ラクターのような楠元哲夫君がいました。当時地歴同好会は、同好会で部室もなく、私た

ちの担任の藤原繁先生(地理)が顧問でもあったため、勉強会や会合は私たちの教室が使

われていました。楠元君は地歴同好会に入っており、その中心的な役割を果たしておりま

した。当時の楠元君は寺社仏閣に興味があり、散策会はほとんど京都や奈良などのお寺や

神社をまわるものでした。私は曾野寿彦『発掘』を愛読し、エジプト考古学にますますの

めり込んでいました。また漢文が好きで、鐘ヶ江信光氏のテキストで中国語の勉強をして

いましたので、地歴同好会の活動にはまったく興味がありませんでした。それで同じ同好

会に入っていた岩見昭三君とはツタンカーメン展に片道2時間もかけて京都まで行ったり

していました。そんな中で、尼崎市の田能遺跡の発掘が連日新聞に載るようになりました。

確か11月の終わりの土曜日のある日、岩見昭三君・大月静子さんと一緒に田能遺跡の発掘

現場まで行きました。初めて見る発掘で、いたるところに土器が落ちています。もうそれだけで

感激で、いっぺんに千数百年も前の世界を見ていると考えるだけでショックを受けていました。

現場の中に地歴同好会のもう一人の顧問である田中久夫先生がいたので、岩見君と大月さんが

先生に声をかけました。それで現場の中に入れてもらえることになりました。先生の大学での

後輩の井上正一さんにいろいろと説明を聞きました。井上さん、田中先生と一緒に帰ることに

なり、阪急の園田駅から電車に乗りましたが、私の頭の中は今日見た弥生土器、人骨、木棺な

どが頭の中をぐるぐるめぐり、電車でどんな話しをしたかすら覚えておりません。田能遺跡の

現場を見たことで、日本考古学を勉強すること、そして地歴同好会に入ることを決めました。

敗戦から8年しかたっていない頃、中国山地の山中の小さな古墳で住民をあげての発掘調査が

なされました。その発掘は1953年(昭和28年)8月から12月まで行われ、なんと1万

人近くの人々が参加し、全国の考古学者だけでなく、ほとんどは近隣の住民、学生、高校生、

中学生、小学生でした。この発掘を記録した映画「月の輪古墳」は、後に文部省が推薦するかを

めぐって、国会でも論議され、それによって逆に全国に知られることとなりました。この古墳の

ある飯岡(ゆうか)では、毎年発掘を記念するお祭りが行われ、一昨年は特に発掘50周年とい

うことで、大きな催しが行われました。私もうっかり忘れるところでしたが、恩師の近藤先生か

ら連絡をいただき、参加させて頂き、その後の座談会にまで参加させて頂きました。

私が月の輪古墳のことを知ったのは中学2年生の一番最初の社会の授業でした。1963年の春、

歴史が好きだった私は、中学2年生で最初の社会の授業を楽しみにしておりました。ところが歴史

の授業が始まるのではなく、地図のひきかたの練習をするというのです。初めての社会科の担任の

先生は、まだ若い道満達志先生でした。それで「月の輪古墳の場所を見つけて、指で示せ」という

ことでした。教室内は、みんな初めてのことでパニック状態で、「熊の名前みたい」とか「そんな

場所あれへん」などの声が聞こえていました。それに対して先生は、これほど有名な古墳が載って

いないことはないと大きな声で言いながら、一人一人の示しているのを後から見ながら歩いてきます。

ときどきゴツという鈍い音が聞こえます。間違っている生徒の頭をゴツとやっているようです。私は

なんとか見つけ、ほっとしていました。その後、先生から月の輪古墳の詳しい説明があり、その古墳の

名前と多くの人が参加した月の輪古墳の発掘が深く胸に刻まれました。

この出会いがその後の私の運命を決めようとは、13才の私にはまったくわかりませんでした。

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